小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

空手のパンチ、キックの原理

2009-12-31 19:48:56 | Weblog
昨日、空手の突き、と蹴り、の事を少し書いたが、もう少し書いておこう。空手の突き、や蹴りは、曲げた膝や肘を伸ばす動作なのである。ではなぜ、それが出来ないか。人間は誰しも日常生活に必要な動作は出来る。これを当たり前と思ってしまっていて、そんなのはスポーツでも何でもなく、運動神経など必要のない、誰にだって出来る動作だと思っている人もいる。しかし、それは誤りである。幼児から成長するにつれ、訓練して身につけた動作なのである。例などいくらでもある。日本人にとって箸を使う事は誰にでも出来るが、アメリカ人は箸は使えないから、使えるようになるためには大人になってから練習しなくてはならない。また誰にでも利き手があるから、利き手で、書いたり、箸を使ったりする事は出来るが、利き手でない方の手で字を書くことは極めて困難であり、相当の練習をしなくては出来るようにならない。運動にも難度の高いのと簡単なのがある。これは差別なんて低次元の話ではなく、区別である。車の運転は簡単である。老人でも運転できる。なぜ車の運転が簡単かというと、車というものは人間の日常の動作だけで操作できるように配慮して作られているからである。では空手の突き、や、蹴りの場合。人間は肘や膝を伸ばすという運動は日常生活の中でいくらでもある。むしろ、肘や膝を伸ばさなかったら一日たりとも生活できない。しかしである。日常で肘を伸ばす運動(つまり手を動かす運動)というのはそのほとんどが物を目で見ながら何か物をつかむ、という動作なのである。そのためには、たとえ早くつかむにせよ、目的物に的確に手を伸ばすという調節された手の運動が必要なのである。そのため、目的物にまで手が届かなかったり、目的物を越えて遠くに手が行き過ぎたりしないように、絶えず伸筋と屈筋の両方が働いている動作をしているのである。だから人間はスポーツでも目的物に向かって手を伸ばす、伸筋と屈筋の両方を働かす運動は出来やすいのである。これは足の運動でも同じである。しかし空手の突き、や、蹴りの場合、突く時は伸筋だけを働かせているのであるから、空突き、や、空蹴りでは、反復練習によって、肘や膝を伸ばす時に同時に働いてしまっている屈筋を働かせないようにする、という訓練をしているのである。

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大晦日

2009-12-31 11:04:41 | Weblog
もう今年も今日が最後である。今年書いた小説は、

「女体盛り温泉旅行」(2月10日)
「女教師」(2月18日)
「精神科クリニック」(4月13日)
「真夏の死」(4月24日)
「義母と義妹」(5月27日)
「父となりて」(6月23日)
「再婚」(9月4日)
「ビタ・セクシャリス」(11月10日)
「携帯SM小説」(11月19日)
「テニス小説」(11月22日)

の10作とエッセイ
「自由学園の同窓会」(11月8日)
である。まあまあか。来年も頑張るぞ。

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さっそく挑戦者あらわる

2009-12-31 04:35:18 | Weblog
昨日(12月30日)の「カラテ通信教育」を書いたら、さっそく腕に自慢の空手家がやってきた。
敵「このハッタリ野郎。何が狂犬にご注意をだ。てめえに勝負をいどむ。手前なんざ10分であの世行きよ」
と言って敵は、あはは、とせせら笑った。擦り切れた黒帯に金筋が何本も入っている。
私「よくぞいらっしゃいました。まずは紅茶でもいかがですか?」
私は穏やかに聞いた。
敵「わっはははは。やっぱりハッタリだけの腰抜けじゃねえか。これをやるからお前の書斎に大事に飾っておけ」
そう言って敵は私に額縁を渡した。それにはこう書かれてあった。
「東亜病夫」(アジアの弱者)
私「いや。飾るわけにはいきませんな。男の名誉にかけて。では、戦いを始めましょうか」
敵「うわっははは。万が一オレが負けたら、その紙を食べてやるぜ」
私はおもむろに立ち上がった。
私「では、はじめましょうか。チキンゲーム。ロシアンルーレット。どちらがいいですか」
敵「(たじろいで)な、なに」
私は敵をにらみつけた。
私「チキンゲームかロシアンルーレットのどっちがいいかって聞いてんだよ」
私は強気で言った。
敵「・・・」
私「さあ。どっちだ」
敵「・・・」
私「このハンチク野郎。命が惜しけりゃ男なんざやるんじゃねえ」
そう言って私は金筋のたくさん入った空手家をぶん殴った。私は額縁のガラスを柱にぶつけて叩き割った。そして、中の紙を破いて男に突きつけた。私は男の口をこじ開けて紙切れを男の口に捻り込んだ。
私「食え。約束通り、ちゃんと紙を食え。この次はガラスだぞ」
男は咽喉を詰まらせながら、情けない顔つきで紙を食べた。男は食べおわると焦って逃げようとした。
私「待て。俺の言う事をよく聞け。・・・いいか。一度しか言わんぞ」
敵は唖然として黙っている。
私「俺達は・・・弱者じゃない」


(私の格言)
「命が惜しけりゃ男はやめな」

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アホなスポーツ指導者

2009-12-31 02:35:31 | Weblog
テニススクールのコーチは、気持ちのいいグランドストロークのラリーが続いていると、わざと打ちにくい所へ打ってくる。これは、「難しい事が出来るようにさせるしごきが上達に一番、有効」という程度の理解しかないからである。勿論、それも、限りなくゼロに近いが、多少は効果があるだろう。しかし。グランドストロークではもっと大切な上達の要素がある。それはリズムと反復によるフォームの完成である。テニスにおけるラリーは単調な(私は単調どころか気持ちいいのだが)空手の空突きの訓練に相当するのである。それをわざわざ壊すのだから、あきれる。自分は、ほとんど毎日、朝から晩までテニス、テニスで明け暮れているから体力がありあまっているので、一種のコーチングハイになっているのだろう。そもそも日本のテニススクールでは、ここでも有無を言わせぬ口答え、自己主張などもってのほかだから、自分は休んで生徒にボールを集めさせ、コーチは殿様気分になってしまっているから、指導の仕方の研究など生まれてこようはずがない。一年間、全く同じ事を喋ってるのを見てるとアホに見えてくる。勿論、日本人気質から、あらゆる事において生徒は師に絶対服従しなくてはならない。勿論、私も心の内ではコーチをバカにしつつも、うわべは、素直な生徒を装っている。そうしないと趣味の世界でも仲間はずれにされてしまうからである。

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ブルース・リーも指導者としてはいい加減である

2009-12-31 00:28:39 | Weblog
ブルース・リーは本などでは非常に本質的で深い事を書いている。人格も謙虚でしっかりしていて隙がない。
しかし教え方にはちょっと問題がある。生徒の立場に立ってものを見れていない。ブルース・リーは、よく、「水のようになれ」と教えているが、水のようになるとは、はたしてどういう事を意味するのか、しっかりと理解できたり説明できる生徒がいるだろうか。別にリーは気取ったり神秘めかしたりしてるようには見受けられない。では私が説明しておこう。「水のようになる」とは、戦う時、「頭であれこれ考えないで、体の反射で戦う」という事である。別にこれは、難しい事ではなく、どんなスポーツでも基本の出来ている人は、試合の時、体の反射で戦っている。スポーツでは当たり前の事である。しかし徒手空拳の格闘となるとちょっと話が違ってくる。格闘では、何か自分が、ある戦い方を身につけていると、かえって、精神がそれに束縛されて、それが手枷足枷になってしまう事が起こるからである。だからこそブルース・リーは格闘において起こりかねない危険を強調して、「水のようになれ」と言っているのである。

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カラテ通信教育

2009-12-30 21:48:44 | Weblog
時たま行く体育館に、ある空手組織のチラシがあった。「気軽に見学または体験してみて下さい」とあったので行ってみた。実に実に久しぶりである。平安の型は、初段と二段と五段は覚えているが、三段と四段は忘れてしまった。私が空手が出来るので、どうやって身につけたの?と聞いてきた。私は二週間ほど松涛館流の道場に通って、あとは一人で訓練したと答えた。それでも彼らは信じられないようだった。「通信教育を受けたの?」と聞いてきた。私は思わず噴き出してしまった。「通信教育。あんなもん、やってる流派はパーですよ」と私は笑って答えた。彼らは黙っていた。私は空手の通信教育など、やってる組織は人格的におかしいと思っているし、通信教育で空手を身につけようと思っている人は、そもそも才能がないと思っている。もっとも私は空手の通信教育というものを知らないので、どんな物なのか知らないが、いついつまでに前蹴りだの上げ受けだのの形を身につけよ、とか、そんなもんだろうと思う。通信教育をやってる方はわかっているだろうが、おそらく脱落率50%は確実に越していると私は確信している。実際の脱落率は80~90%くらいだろう。要するに、そんなものやってる組織は、脱落率を知ってる上で、高い教材を売りつけて儲け、生徒が脱落して、はい、それまーでよ、でおわりだろう。そんなのはインチキ商売である。
空手は通信教育なんかじゃ学べない。10回でいい。みっちり道場に通って先生のパンチとキックを頭に焼きつけて、(というより、頭に焼きついてしまうのだが)外してはならない突きや蹴りの原則を頭に叩き込んだら、あとはもう一人で訓練すれば空手など身につけられる。そのあとも道場に通うのは気合いを入れるためである。私は他のスポーツでも独学で何でも身につけてきた。本を読み、ビデオを見て、実際にやって。むしろ、世には指導力の無いアホなコーチが多いから、私にとっては、そんなもの足手まといになるだけである。勿論これは全てのスポーツに言える事ではない。フィギアスケート、体操、など高度な運動では独学で身につけるのは困難な面がある。またカンフーの発剄などは、空手より相当高度な技術と見受けられるので、これも独学で身につける事は難しいだろう。しかし少なくとも空手ていどのものは、独学でも十分に身につけられる。
では、私がそれを教えよう。
パンチはちょっと上手い教え方が思いつかない。あえて言うなら、高校野球の応援団のような空突きをしてはいけないという事である。右の突きも左の突きも胸の前方の同じ所の一点を突く。これが一番大切な事である。
キックは割りと教えやすい。
蹴りは、前蹴りにせよ、回し蹴りにせよ、横蹴りにせよ、まず踵が尻に着くまで膝を完全に曲げる。そして蹴る。(つまり膝を伸ばす)蹴って止める。そしてまた踵を尻に着けるまで膝を完全に曲げる。そして降ろす。これだけでいい。これが空手の蹴りの原則である。
空手で大切なのは、地面を蹴る反動の力を使って蹴ってはならない、ということなのである。
ちなみに、チラシにはホームページが書いてなかったから、当然、ホームページなど、その組織にはないと思っていた。(あったら普通、書くものである)しかし、会の名前をネットで検索したら、しっかりホームページがあった。しかも何とカラテの通信教育を熱心にやっているのである。入会金五千円、教材3万円だとさ。会長も来ていたが、指導力ゼロ、人格ゼロである。

私が最初に習った松涛館流の道場は平塚にあった。とっくの昔になくなっているが、人格がしっかりした先生だったので少し遠いがそこにした。それまでに3~4つの道場は見学した。が、特に武道では人格も指導力もゼロな指導者が多い。空手を身につけようと思う人はアホな指導者に潰されないよう、人格のしっかりした指導者の組織を探すことが大切である。

こういう傲慢な事を書くと腕で示せ、と戦いを挑まれるかもしれない。私は別にかまわんよ。ただ命の惜しい人は気をつけた方がいいですよ。なぜって私は肉体が凶器である以上に精神が狂気だからね。狂犬に素手で戦いを挑む覚悟をちゃんとしておかないと後で後悔しますよ。

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耐える

2009-12-30 20:48:51 | Weblog
辛い時、苦しい時、一人で悩みを抱え込んでしまうのはよくない。人に話すなり、同じ苦しみを持っている人を探したり、自分の辛い思いを文に書いて表現したりする事はいい事だ。苦しみが軽減されるからだ。むしろ、それはしなくてはならない事だ。
しかしである。そればっかりしていて、それが習慣になってしまうと忍耐力がなくなってしまう。苦しい時には、黙って耐える事も必要である。それは忍耐力を強くする。少なくとも私はそうしている。そして、そういう事は他人にアドバイスすることは出来ない。そういう事は自分が自覚するしか他に方法がないのである。

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ブルース・リーのキックとフルコンタクト系の空手の蹴りの違い

2009-12-30 15:03:59 | Weblog
ブルース・リーのキックとフルコンタクト系の空手の蹴りの違い。
これが分かる人がいるだろうか。ちょっと才能のある人なら分かるだろう。日本のフルコンタクト系の空手は、ルールを決めて一対一で戦うスポーツである。掴み、や倒し、などしてはならない技がある。そして、スポーツというものは、ルールが決まると、それに最も合理的な体の動かし方が完成されるのである。それは全てのスポーツで言える。フルコンタクト系の場合、パンチとキックのコンビネーションの洗練さ、が大切なのであり、蹴る時も防御を保ち、いつでもパンチを打てるように構えているのである。そして、相手と接近したショートの間合いであり、お互い間近に向き合った状態からのパンチ、キックの応酬になる。つまり蹴る時も相手のキックに対する自分の手のガードを忘れず、蹴りつつも、すぐパンチを打てるような構えなのである。一方、ブルース・リーのパンチやキックは、と言えば。ブルース・リーが想定しているのは、ルールのある試合ではない。武術、(つまりはストリートファイト)だからである。一切のルールがないのである。相手は柔道家かもしれないし(ドラゴン怒りの鉄拳での戦いは、敵は日本の柔道家)、そもそも敵は一人ではない。しかも、敵は武器をも持っているかもしれない。こういう事を想定しているから、殴る時は、ボクサーのように殴る事のみに専念している。同様に、蹴る時は思い切り蹴る事のみに専念している。手のガードは無い。映画を見てもわかるが、ブルース・リーは蹴る時は、どんな蹴りでも手を大きく開いている。つまりパンチとキックは独立しているのである。ブルース・リーは殴る時はボクサーであり、蹴る時はテコンドーファイターとなっているのである。一方、ルールを決めたフルコンタクト系のスポーツ空手の試合では、パンチとキックと受けのコンビネーションを絶えず意識している事が、勝つためには大切だから、絶えずガードをした構えであり、蹴りつつガードし、敵のキックをガードしつつ、直ぐキックし返すという、ガードとパンチとキックが一体化した体の動かし方となるのである。

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インフルエンザ

2009-12-29 20:17:38 | Weblog
三日くらい前から熱が出始めた。点滴をするとよくなるので、茅ヶ崎徳洲会病院に夜中、行く。
私 「点滴して下さい」
医者「点滴する必要はありません。点滴すると副作用もありますし・・・」
私はねばった。
私 「そこをどうか。過敏性腸という病気も持ってますので便が出ないんです」
医者「水分とれてれば大丈夫です」
医者はどうしても点滴してくれない。やむを得ず私は最後の切り札を使った。
私 「あまり言いたくないんですが私も一応、医者なんで・・・」
医者「わかりました。では点滴しましょう」

今日、検査したらインフルエンザだった。タミフルとダーゼンとムコダインとPAとクラビットを処方される。かかりつけの医院には、点滴して下さい、の一言で、してくれる。

徳洲会ももうダメだね。自分が病気になったことの無い健康そのものの人だと医者はダメである。

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ブルース・リーのヌンチャク

2009-12-28 00:13:57 | Weblog
ブルース・リーのヌンチャクは他の武術家のヌンチャクと違う。まず二本の棍をつなぐ、紐の部分が長い。そういうヌンチャクだと、ヌンチャクが鞭のようになってくる。日本のヌンチャクは、つなぎの長さが短い。このヌンチャクの方が、初心者でも使える。そして、威力も強い。つなぎの長さが長くなると、ヌンチャクの使い方が難しくなる。ただ、武器の長さが長くなるから、その点は有利である。そして、第二は、ブルース・リーは、ヌンチャクと体が別のものではなく、ヌンチャクと体が一体となっている、ということである。ヌンチャクは初心者でも使える。しかし、それは、体をどっしりと構え、手の力でヌンチャクを振り回している。しかし、ブルース・リーは、ヌンチャクと体が一体化しているのである。ヌンチャク術の美しさは、速さではない。器用さでもない。美しさは体とヌンチャクの一体化である。ブルース・リーはヌンチャクと体が一体化しているから、ああいう見事なヌンチャクさばきが出来るのである。

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言語と思考力

2009-12-27 00:30:49 | Weblog
自由学園の英語の先生は、ハーバード大学出だった。人格が大物と皆が尊敬してたが、私は、いくつかおかしな点を感じていた。6年の時、昼食で、何か生徒に好きな事を話させる、ということをやっていた。ある時、話す人がいなかった。たまたま私を見て、「喘息について話してくれない」と言ってきた。私は笑って断わったが、腹の中では、無神経なヤツだと思っていた。喘息持ちにとって、喘息というものが、どんなに劣等感を感じていることか、わからないのか。4.5kmのマラソンも出来ず、3000m級の登山も出来ない。サッカーやラグビーなどの激しい運動もダメである。自分の恥を語ってくれ、などと要求するデリカシーのなさ。また変な主張を持っていた。それは。「人間は言葉でものを考えるから、言葉を正しく使える人が頭がいい」という主張である。これを何度も主張していた。これには二つの誤りがある。一つは、人間は、言葉によらない、言葉以前の思考をする、という事である。たとえばスポーツでは、言葉にして、あれこれ考えてなどいる時間はない。しかしスポーツをする時、人は考えている。スポーツでは瞬間的な反射でものを考えているのである。本田宗一郎は自らが語るほど読書が嫌いな人だった。ショパン、その他、全ての作曲家の即興演奏にしたって、そうである。直観力やインスピレーションは、言葉によらない思考である。もう一つは。じっくりものを考える時には、人間は言葉にして考えることも、もちろんある。しかし。言語とは。話す。聞く。読む。書く。の四つがある。このうち師は、話す、ことだけに重点を置いていた。これは誤りである。言語能力と頭の良さ、という事を考えるなら、読む、書く、能力こそが一番、大切なのである。私がお世話になった医者の先生で、たいへんな吃音の先生がいたが、先生は頭の回転は速い。また、私は作家にしても口下手な人ほど、文章がうまい、ケースが非常に多いと思っている。というのは、口が達者な人は、上手く話せるから話す事で満足できてしまい、文章は力が入らなくなる可能性があると思うからだ。その点、話下手な人は、上手く話せない。しかし自分の気持ちを表現したいという欲求は皆と同様、強く持っている。だから、そのエネルギーを文章にぶち込むため、文章が上手くなるのである。人間は何かの機能が低下すると、別の機能が発達する。盲人では位置感覚、聴覚、嗅覚、が健常者より発達しているのは誰もが認めるところである。運動が苦手な生徒は勉強で見返してやろうと、勉強に力を入れる。

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一過性記憶喪失

2009-12-26 00:27:57 | Weblog
天才と、何とやらは紙一重という諺があるが、それを逆にとって、何とやらという性格が自分に少しでも、あることを、自分が天才の資質がある証明のように誇る傾向の人がいる。私は、それが嫌いである。一番の理由は、本当の患者は地獄の苦しみの中でのたうちまわっているのに、それを、面白半分に使う点である。だから私は、そんな事、無考えに誇ったりしない。ただ、私には、いくつかの脳が失調状態におちいる時がある。それを大げさでもなく、過少でもなく書いておこう。最近は無いが、私は、子供の頃から、一過性記憶喪失になることがあった。一年に一度か二度くらいだった。ある時、時と所をかまわず、ふっと自分が誰なのか、ここは何処なのか、わからなくなってしまうのである。ただ言葉や概念はわかる。だから、ちょうど漫画とかにあるような、いわゆる記憶喪失である。そうなると、当然、物凄い恐怖感に襲われる。「オレは一体、誰なのだ」名前も、年齢も、何処に住んでいるかも、全てわからなくなってしまうのである。そのため、必死に自分が誰なのか、思い出そうと必死になって、色々と自分を知る手がかりを探し出す。子供の頃は、「オレはクリスチャンだ」というのが、手がかりになった。親に言ったら、「それは立派だ」と笑っていた。もちろん私はクリスチャンではないが、宗教という感覚的な概念は、思い出せるのである。そこから、だんだん、芋づる式に、名前や年齢、住所、どこの学校の生徒か、などが、思い出されてくるのである。そして、10分~20分くらいで完全に自分のidentityにたどりつける。現実に戻れるのである。そうすると、ほっとする。大学の時にも、それはあった。しかし、わからない自分から、わかる自分にもどると、自分が自分であることが、嬉しい場合と、嬉しくない場合があった。子供の頃は、ただ自分に戻った安心感だけで、ほっとするだけだった。しかし大学の時は、「ああ。オレは過敏性腸症候群があるんだ。この病気を持って生きていかなくてはならないんだ」と気づくと、がっかりした。さて、最近は起こらないが、今、起こったら、私は、喜ぶか、失望するか。それはわからない。これは精神医学にも書いてある一過性記憶喪失である。自殺した漫画家の山田花子さんも、これがあった。

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強がる

2009-12-25 09:27:42 | Weblog
強がる。強がる、という事は悪い徳のように言われている。しかし、強がるということは、良い事なのである。葉隠れ、では、はっきりと強がること、つまり、外見の強さの徳を説いている。謙虚さは大切だが、自分は弱い、自分は弱い、と思ったり、言ったりしていると本当に弱くなってしまうからだ。これは、強さ、だけではなく、知識でも言える。知らない、知らない、というクセをつけてしまうと、一見、謙虚で正直な人のように見えるが、つまりは、逃げるクセをつけてしまっているのである。だから、知ったかぶり、という事も、その事をちゃんと、とらえていれは、いい事なのである。自分の頭の中にある知識を駆使して、知らない事でも、考えて言ってみる、さらには、いい加減な事を言った後、恥の感覚のある人なら、ちゃんと本で事実を調べるだろう。そして、こういう事は、印象に残るので、忘れない。同様にハッタリもいい事である。ハッタリをはる事で自分で自分に逃げ道をなくす状況に追い込むからである。謙虚さの美徳にとりつかれてしまう人は、消極的になってしまい、何事からも、逃げる習慣がついてしまう。そうすると能力が伸びない。梶原一騎を、編集者の間では、ハッタリ屋と、悪口を言う人もいた。しかし、それは違う。明日のジョーで、少年院での青山との戦いで、良いハッタリの事をしっかり表現している。そもそも梶原一騎は、IQが高かった。そして、人間は背伸びしなくては成長しない。のである。

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クリスマスイブ

2009-12-24 17:31:04 | Weblog
テニスをする。今日はグランドストロークが多く気持ちよかった。10万円分の金をドルに替える。旅行代理店の人が、10万円くらい持ってった方がいいと言ったので。だが、旅行では、一日おにぎり一個しか食わない予定なので、論理的には、金はかからないはずだ。また、金は最小限しか使わない。ボロボロの服を着てって路上で乞食をしようかとも考えた。また高級レストランの残飯でもあされなのものか。とも思う。旅行に金をかけるのは勿体ない。そもそも、寒くて筆が滞りがちなので、温かい所なら、小説がはかどるんじゃないか、というのが旅の目的だから、体調が良かったら毎日ホテルで小説を書こうかと思っている。別に特に見たい所があるわけではない。そして、何でもいいから何か行動すると小説のヒントが思いつくのである。単なる遊びのための旅行ではない。今日はクリスマスイブである。

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卒業式

2009-12-24 00:13:54 | Weblog
復学してからの奈良医大のクラスは、大嫌いだった。まさしく私は、彼らから下種の勘繰りをされた。生徒からも先生からも。無口だと悪い事を考えてる人間だと彼らは私を見ていた。卒業して、せいせいした。私は彼らを友達だと思っていた。先生は尊敬していた。卒業した直後に親に書いた長い手紙があるので、一切手を加えないで、それを、そのままアップしようかと思う。私の思いが、はっきり分かるから。謝恩会にも私一人だけが出なかったが、それは過敏性腸症候群の腹痛のためである。卒業式の時も、腹が痛くて痛くて仕方がなかった。過去問がないから成績が悪い。成績が悪いから莫迦とみなされ、学生課の職員も、教授も、生徒も私を莫迦と見ていた。浅野浩二は私のペンネームで、本名は、真ん中くらいである。卒業式の時の態度も、みな、全然なってない。みな、卒業証書を受け取るまではいいが、その後、卒業証書の両端を片手でつまんで、ぶらさげて持っている。そしてトボトボ覇気のない猫背で降りてくる。
卒業証書は、受けとるまでだけではなく、受け取った後も大切なのである。卒業証書は受け取ったら、大切な物として、折り曲げず、板を持つように、立てて脇に持ち、形を変えず、表を自分の方に向けて、片手で下をささえ、片手で上を押さえて運ばなくてはならない。そして背筋を伸ばして、顎を引き、行進のように堂々と歩くべきである。それが出来ている生徒は百人中たった一人しかいなかった。もちろん、その生徒とは私である。

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