小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

日焼け

2010-07-18 21:11:29 | Weblog
昨日、プールに行って泳ぐ。コパトーンを塗らずに、体を焼いていたら、アパートに帰ってから、痛くて、痛くて、今日は海に行けなかった。試験的な高速道路の無料化をやってたが、3百円なので、全然、得したとは思わない。ああいう道路は、無料化しても意味がない。3百円、得するから利用しよう、などと思う人はいない。

この記事をはてなブックマークに追加

真似

2010-07-16 06:30:32 | Weblog
何か、宝くじのCMで、石橋貴明の真似をしているような人がいた。全然、面白くない。石橋貴明のちょっと傲慢な喋り方は、彼の性格からきている。自然体である。そして、それが彼の魅力である。かなり前に、木梨憲武の真似をしているようなのもいた。これも面白くない。学ぶ、は、「まねぶ」であり、つまり、真似をすることから始める。しかし、学問とお笑いでは違う。お笑いでは自分のキャラクターを研ぎ澄まして、それを表現しきった者が面白い。自分の本質にないものを真似ようとすると、逆効果である。「あ。あいつ。真似してる」と人に嫌われかねない。ただ真似が全て悪いわけではない。松田優作を知って、その後、原田芳雄を知ったら、何だか、原田芳雄は、松田優作そっくりで、松田優作の真似をしているのではないか、と思った。しかし事実は逆だった。松田優作が原田芳雄にぞっこん惚れ込んで、彼の喋り方の真似をしたのだと知った。しかし、だからといって、松田優作にオリジナリティーが無いかというと、それは全くの逆で、彼の個性は本物である。これは。つまり、原田芳雄は、松田優作が求めていたものであって、松田優作は自分の個性をより洗練させることが出来たからである。しかし原田芳雄がいなくても、松田優作は、優れた表現者だから、かわりはなかったのではないか、とも思う。大切なのは、自分の個性に無いものを真似ても失敗になるだけであり、自分の個性にあり、それをより研ぎ澄ませるようなものを自己表現の手段として取り入れることである。

この記事をはてなブックマークに追加

中川翔子のブルース・リー

2010-07-16 01:35:16 | Weblog
You-Tubeで中川翔子、主演、監督の「しょこたん怒りの鉄拳」を見つけた。ブルース・リーは、男だけでなく女の子のファンも結構いる。しかし女の子なら、マリア・イーとか、ノラ、ミャオになりたい、と思ってもよさそうなものとも思うが、自分がブルース・リーになりたいと思ってる女の子はめずらしい。ように思う。死亡遊戯の黄色のトラックスーツまで祖父に頼んで、四着も買ってもらったというのは、相当のマニアである。ヌンチャクを舐めるクセまで真似している。ブルース・リーは、ヌンチャクとか、自分の血を舐める変なクセがある。しょこたんの、「怒りの鉄拳」でのお気に入りの場面は、ラストの真剣を持った鈴木とヌンチャクを持ったブルース・リーの一対一の戦いだそうだ。あれで、リーはヌンチャクを戦いの後半で捨てているが、それは、怒りが高まったためでなく、鈴木が真剣を落してしまったからからである。素手の相手には、武器を使わず、素手で戦うという男らしさをリーは表現しているのである。鈴木の道場に殴りこみをかけ、門下生全員を相手にした時には、相手が素手でも、リーはヌンチャクを使ったが、これは数からして卑怯ではない。門下生全員がやられた後、メガネをかけた太った師範代と一対一の戦いになった時には、リーはヌンチャクを捨てて、対等な素手どうしの条件で戦っている。武術的に言えば、これはおかしい。有利な武器があったら、それで相手を威嚇して、降参させればいい。あるいは、逃げるかである。武術という観点からすれば、戦わずに勝つのが一番である。相手も自分も傷つかない。卑怯ではあるが。しかし、ああいうスポーツマンシップは、入れないと映画をつくれない。そうしないと主人公が卑怯者になってしまう。「怒りの鉄拳」のラストもお気に入りのシーンのようだが、あれは、蹴るためにジャンプした状態である。しかし、「怒りの鉄拳」のラストは、警官の発砲音が聞こえた時点で、もうリーは死ぬとわかっている。威嚇射撃でもあるまい。それにしても、警官の発砲は危険である。流れ弾で後ろに控えているノラ・ミャオ達に当たる危険がある。私が、「ドラゴン怒りの鉄拳」で一番好きなシーンは、「東亜病夫」の紙を門下生二人に食わせ、「オレの言う事をよく聞け。いいか。一度しか言わんぞ。オレ達は・・・弱者じゃない」と言って去っていく場面である。私は物真似はしてみたいとは思うが、他の人間になりたいとは思わない。私は、私というものを極めたい。人間は意志によって自分をいくらでも高められる。

この記事をはてなブックマークに追加

新陳代謝

2010-07-09 23:39:40 | Weblog
水泳をすると髭が伸びる。風呂に入って体を洗うと爪が伸びる。家に一日中いるより、外で過ごす方が、爪が伸びる。これは、そうした方が新陳代謝が活発になるからである。明らかに目で見て実感する。
夏でも、冷え性の人はいる。私もそうである。冷え性には、足を冷やさない、半身浴をして足を温める、といい。
新陳代謝が悪いのは、於血といって、体の細部への血行が悪いからである。

この記事をはてなブックマークに追加

健康診断

2010-07-09 22:34:15 | Weblog
健康診断のアルバイトをした。血圧は、どうしても緊張しているせいか、高めに出る人が非常に多い。VSD(心室中隔欠損症)の人が結構いるのよね。聴診すると、収縮時に左室から右室へ流れる心雑音が、きれいに聞こえる。肺から左室にもどってきたきれいな血液をまた肺に送る無駄なだけで、チアノーゼは起こらない。非チアノーゼ的心疾患である。治すには、穴をパッチで塞げばいいのだが、口で言うのは簡単だが、それをするには、開胸手術して、人口心肺装置に血を送る、大きな手術をしなくてはならない。開胸すると、大きな手術跡も残る。これが結構、大きなデメリットである。だから、日常生活で問題がなければ、心臓に余計な穴が開いていても、手術はしない方が多い。

この記事をはてなブックマークに追加

テニスは体操形スポーツ

2010-07-09 22:04:07 | Weblog
スポーツには、大きく二つのタイプがある。それは、体操形スポーツと、空手形スポーツである。その意味。体操では、実に多くの技がある。前宙。バク転。バク宙。その他、あれこれ。体操では、一つの技、たとえば前宙だけ練習して、前宙が出来るようになっても、バク転は、何ら上手くはならない。バク転には、バク転、独自の運動要素があるから、バク転が出来るようになるには、バク転の練習をしなくてはならない。これは、全ての技でいえる事である。しかし。空手の場合。空手も、実に色々な技がある。突き、蹴り、挙げ受け、手刀受け、鉄槌、抜き手、等等。しかし、空手は力の出し方の原理が同じだから、一つの技の練習は他の技の練習にもなっているのである。そして、上手くなる時は、全ての技が一気に上手くなる。空手の上級者で、たとえば、挙げ受けだけ出来ない人というのは、いないのである。突きの練習も、蹴りの練習の要素になっているのである。これは水泳でも同じで、クロールの練習だけしていても、首と体の筋肉の固定が出来るようになると、クロールが出来るようになる。しかし、それは背泳ぎと同じ筋肉の固定なので、クロールが出来るようになると、練習しなくても背泳ぎも出来るようになるのである。さて。では、テニスは、どちらかというと。体操形スポーツの面がある。フォアハンドストロークをいくら練習して、上手くなっても、バックハンドストロークも、上手くなってくれる、ということはない。バックハンドには、バックハンド独特の運動要素があり、それを練習して身につけなくてはならない。また、ストロークとボレーも違う。ボレーにはボレー独特の運動要素があり、ストロークをいくら練習して、上手くなってもボレーも上手くなるということはない。

この記事をはてなブックマークに追加

バカげた参院選挙

2010-07-08 23:22:33 | Weblog
今週の日曜に参議院選挙がある。日本の政治は、つくつぐバカげている。日本がやらなければならない事。それはもう基本的なものでは大筋は決まっている。消費税の引き上げ。法人税の引き下げ。累積赤字の返還。アメリカとの良好な軍事的外交。年金、高齢化社会、社会保障、少子高齢化、対策。靖国問題。アジアとの外交。地方の活性。地方の自治。政官財癒着の切り離し。天下りの廃止。フリーター問題。等等。
政権がコロコロ変わるから、徹底してやれないのである。大切なのは、日本という国家が潰れないようにすることである。日本の政治は一致団結しようという気が無い。自民党に愛想をつかし、今度は民主党が落ち目なのを見て、政権とれるチャンスとばかり、小党乱立し、他党の批判のみしている。政治家は行動家ではなく、評論家になっている。これでは本当に日本が危ない。日本を救いたいという気持ちはあるが。所詮、政治家は、日本より、自分が議員という、高給の、安定した、そして名誉欲、権力欲が得られる公務員に就職したい、という、そして、他人の手ではなく、自分の手で日本を、なおしたい、いじくりたい、という自分の利益を、日本の問題より優先してしまっている。この場に及んでも。この気持ちがあるかぎり、彼らは本当に日本を憂いているとは、いえない。選挙で自分が当選したい、自分が男になりたい、という気持ちが一番なのであるから。二番目が、当選回数を長期に維持したいという私欲。三番目に、ちょっとだけ、日本を憂う気持ち。
そもそも政治家の選挙公約は、守られたためしがないものである。公約を破ったら、議員辞職という法律でも、つくらなくてはならない。国民受けするためには、消費税は上げない、と言っている党が議席を増やしやすいだろう。
日本の選挙制度を根本から変えなくてはダメである。

この記事をはてなブックマークに追加

テニスは時間との勝負

2010-07-07 22:58:45 | Weblog
テニスは時間との勝負である。当たり前のことだが気づきにくい。それは。テニスのコートは空間的には広い。相手とこちらの距離もかなりある。だから、空間的な距離を考えてしまうと、余裕があるように思ってしまう。確かに、山なりのゆるいボールの場合、相手が打ってから、こちらが打つまでには、十分、時間はある。しかし、相手の打つ球が速い場合や、相手がサービスの場合、相手が打ってから、ボールがこちらに来るまでの時間は一秒もない。つまりテニスとは、時間的には一秒以内で対応するスポーツなのである。その一秒以内に、グリップを決め、ラケットを引き、ボールを打つ打点まで走り、スイングして、打たなくてはならない。この動作を一秒以内にしなくてはならないのである。だから、空間的な距離的には、時間があるように錯覚してしまうが、時計で時間を計ったら、わかるが、テニスとは、一秒以内の動作が要求されるスポーツなのである。では、これに対してどうしたらいいか。ともかく理想的な球でなくても、こちらに来たボールを相手のコートに打ち返さなくては話にならない。そのため、振り遅れないためには、いくつかある運動の動作の何かを犠牲にしなくては、ならないこともある。相手が速いサービスを打つ場合、犠牲に出来る動作はグリップチェンジを省略することだろう。つまりボレーと同じようにグリップチェンジをしないで打つのである。ボレーと同じ薄い握りになるから、ラケット面が上を向いてしまう。バックはこれで問題がない。フォアの場合、薄い握りになってしまう。そこを厚い握りのフラットかドライブで返すためには、手首を強く曲げることによって、面が上を向かないようにするのである。手首を曲げることによって、厚い握りにするのである。これだと、手首に負担がかかるが、これは相手が速いサービスの場合だけである。
テニスては、相手が打った瞬間から、どのように打ち返すかを判断しなくてはならない。たとえば、ベースラインいっぱいの大きな球だったら、ライジングを叩くか、ダッシュして後ろにさがって、腰の位置で、打ち返すかを、相手が打った瞬間に、判断しなくてはならない。

この記事をはてなブックマークに追加

今日から7月

2010-07-01 22:29:17 | Weblog
今日から7月である。いよいよ夏本番ということになるが、6月が熱く、夏至も過ぎてしまって、これからは日も短くなっていく。今日から、海開き、プール開き、である。平塚のたなばた祭りも、今日から4日(日)までである。たなばた祭り、というのだから、七月七日が含まれれているものだと思っていたため、去年はのがしてしまった。まあ、さほど行きたいとも思わないが。
こうして夏が来ると、ウキウキして夏を存分に楽しもうと思っているのは、私の性格が子供だからである。本当に充実して生きている人は、夏になったからといって、ウキウキしたりしない。まあ、今までとは、かなり作風の変わった小説を書きつづけてはいるが。早くそれを仕上げ、もっともっと、小説を書きたいとは思っているが。
今年の夏はよく食べた。デニーズのインドカレーが美味く、西瓜、メロン、グラタン、ドリア、キムチ、などをよく食べる。

この記事をはてなブックマークに追加