キュヴェ タカ/cuvee taka 「酔哲湘南日記」

新鮮な山海の恵みを肴に酒を吞み、読書、映画・音楽鑑賞、散歩と湘南スローライフを愉しんでいる。 

ドイルとモンテーニュ

2020年08月24日 | Weblog
2006年に刊行が始まった光文社文庫の「新訳シャーロック・ホームズ全集全9巻」は、僕の机の左側の本棚のガラス戸付きの棚に大切に収納されているが、最初に出た「シャーロックホームズの冒険」を途中まで読んだだけで、そのままになっている。
日暮雅通の新訳で文庫とはいえ洒落たカバーデザインで、大変気に入っていて、隠居したらゆっくり安楽椅子で葉巻をくゆらせ、スコッチの古酒を舐めながら読もうと思っていたのだが、隠居しても結構忙しく、安楽椅子が未だないし、タバコを止めてしまったので葉巻が吸えない、しかも大切に取っておいたスコッチの古酒を全部飲んでしまったから、思い描いた隠居生活とは大いに違っている。

もう一つ、隠居の楽しみとして買って置いた本に、2005年から刊行が始まった白水社の宮下志朗訳「モンテーニュ エセー全7巻」があり、これも同じ棚に大切に収納してある。
最後の7巻が出たのが2016年だから、11年かけて訳し上げた労作だ。
これも同じようなシチュエーションで読もうと楽しみにしていたが、飲む酒はコニャックの古酒でなければならない。
モンテーニュならボルドーが妥当じゃないかという方がいらっしゃると思うが、食事にはいいが読書の友としてはやっぱりハードリカーがいいと思う。
多分、モンテーニュも読書の際には、自分のシャトーのワインではなく、コニャックを舐めていたのではないか。
幸い、シャトーボーロン・エキストラがまだ5本残っているはずで、ゆっくりと時間をかけて読んでも、これだけあれば7巻まで持ちそうだ。

こんな楽しみが残っていると思うだけで、豊かな気持ちになれるが、実際に読み始めたらすごく愉しいだろうなあ、早くその日がくればいいが、何時になることやら。

昨夜、音楽を聴きながら眠ってしまい、2時前に目を覚まし気温を見たら、最近は寝たままネットで調べられるから便利だが、26℃だったので、窓を開けて扇風機を点けた。
目が覚めてしまったのでYouTubeで何かいいのがないかと探して聞いていたが、また眠ってしまったようで、次に目が覚めたのが4時だった。
6時まで再びYouTubeでクリーンネットワークに関する番組を拾って聴いたが、これに関してはずっと前から渡邊哲也がその重要性を解説していて、いまさらという論評が多かった。
だが問題は、日本の政治家と財界が、まだその本当の意味を理解していないことだろう。
村社会は農村の旧弊だと思っている人がいるかもしれないが、偏差値エリートが作る政界や財界がまさに村社会で、外のまっとうな意見を聴こうとせず、村の中だけに通用する論理に従って安心しているわけだ。
エリートというのは本来自身の蓄財や栄達を捨てて、国民のために尽くす使命を持っていたが、偏差値をエリートの基準にしてから、カネと地位がその目的となってしまった。
こうなりゃあ、エリートに期待できないから、優秀な変人奇人に期待するしかないが、幸いなことにこの系譜の人達は一定数必ずいて、しかも無私でその能力を提供してくれるから、その場を提供すればいいだけだ。
ところが偏差値エリートは、この段になっても嫉妬と既得権益を守ろうとして妨害するだろうなあ。

6時過ぎに起きて朝飯を作って食べた。
出汁が引いてあったので、豆腐と若芽の味噌汁を作り、ピーマンの卵炒めを作り、胡瓜と茄子を糠床から出して、昨夜長男が食べるはずだった鮪と鯛の刺身が残っていたので食べた。
刺し身は炊き立ての飯と一緒に喰うのが一番美味いと思うが、夜は飯を喰わないので、朝食べるほうがいい。

日曜日の朝、昔の「新日本紀行」をやっていて、最後に少しだけ同じ場所の今の状況を映すが、4、50年前と今の比較が出来て凄くいいんだなあ。
当時高校生だった子が、オジイサンになって出てきたり、当時あった風習が無くなってしまったり、産業も変化も激しい。
中学、高校生時代の頃の日本の雰囲気が感じられ、東北のなまりが聞けたり、当時の生活が観られたりでとにかく面白い。
観る気にならない詰まらない番組ばかりやってないで、何故これをBSで良いからゴールデンタイムにやってくれないのかと思う。
当時の老人に言わせれば、昔の良いものが無くなったと嘆いていたのだろうが、まだまだ戦前から続く優れたものが残っていて、それをじっくりと観たい。

2階に上がってブログをアップしたり、調べ物をしながら、昨夜に引き続き松原みきを聴く。
シングルアルバムを編集した人がいて、6時間半のプログラムになっているが、これをかけておけばほぼすべての楽曲が聴ける。
この子はデヴュー曲の「STAY WITH ME」が最大のヒットでその後大きなヒットに恵まれなかったが、どの曲も凄く丁寧に歌っていて、任意のアルバムの一つの曲を聴いていても聴きごたえがある。
ラジオで、自分の曲を聴いていると、ここはこう歌ったほうが良かったとか、常にそういったことを考えながら聴くので楽しめない、と話していたが、細部に至るまで物凄く丁寧に歌っている。
自分の天職に、このくらい気を使って仕事をしたいものだと思う。

昼まで野坂昭如の「僕の遺産」を読んだ。
週刊文春に連載された1996年から99年までのコラム180本から坪内祐三が50本に編集したものだ。
高校生の頃心身の直木賞作家として盛んに小説を出していた頃で、「エロ事師たち」や「骨餓身峠死人葛」などを好んで読んでいたが、その後、長い間遠ざかっていた。
時々書店で新刊が出ているのを見たり、古書店で見かけると買うこともあったが、直ぐに読むこともなかった。
2016年にこの文庫が出て、その時買って置いたのを、数か月前に読みだし途中で止まっていたが、昨日読みだして読了した。
政治的な発言もあり、最近経済や政治社会に関する本を読んでチョット勉強したので、事実関係や論理的に杜撰なところがあり気になるところもあったが、若い頃から慣れ親しんだ野坂節を大いに堪能した。
時代としては、かつての漫才の相方青島幸雄が東京都知事をやり、小渕さんが首相だった時代で、ああ、そんな事あったなあと懐かしくもあった。

中島みゆきを大音響で聴いていたので、妻が「昼が出来たよー」と叫んでいるのが聴こえず、不機嫌にさせてしまった。
台所へ行ったら、僕の前には、ピーマンが嫌なので、ミニトマト、玉葱、ハム、チーズのピザが置いてあったが、各人自分のピザを食べていた。
次男と妻のは同じもので、ハム、チーズ、ミニトマト、ピーマン。
いくら何でも同じ味のピザを1枚食べるのでは飽きる、何だよ3種類を分けて食べるんじゃないのかと文句を言った。
折角、自家製のヒコ鰯の塩漬け作ったのに使わないの? オリーブや大葉も使わないの? 融通が利かないんだね、と嫌味を言ったら更に不機嫌になったなあ。
しかし、ヒコ鰯を捌くのって凄く面倒くさいし、朝早く「磯っ子」に大葉を買いに行くのも大変で、その点は大いに評価してるんだけど、用意した素材を何時使うんだろう、不思議なやつだ。
取り敢えずオリーブ漬けを出して、次男とピザの交換をし、味に多少のヴァリエーションをつけて食べ、食後にカステラとチーズ味のポテチをアールグレイを飲みながら食べた。

午後は釣り道具を引っ張り出してきてサーフトローリングの準備をした。
多少日差しが和らぎ、いよいよソーダ鰹がやってくるシーズンだ。
ワカシが釣れても、あまり好きじゃないから食べないが、ソーダ鰹は、釣れたてを刺身にすると鰹より美味いし、塩漬けにして焼いて食べると実に美味。
結局、雨が降り、その後日差しが出て出足を削がれて釣りにはいかず、音楽を聴きながら昼寝をした。

5時過ぎに次男がやってきて散歩の誘いを受けたので出かけた。
梅沢から海に降りてみたが、今日も波が小さくて釣り日和だった。
サーフトローリングをやっている人がいたので聞いてみたが釣れてなかった。
この人は椅子とJBLのBluetoothスピカーを持って来ていて、晩夏の夕暮れを愉しんでいる感じだったけどね。
昨日も見かけたが女性がサーフトローリングをやっていた。
投げて単純に曳くこの釣法は忍耐強い女性に合っているのかもしれない、餌付けなくていいしね。

次男とは市五郎下で別れ、大磯まで走ってゆくのを見送り、僕はそこから引き返して風呂に入り晩飯を作った。
妻が体調が悪いのかその気にならないだけなのか、晩飯を作るのを放棄したので、僕が作ることになったのだ。
茄子のオリーブオイル焼、胡瓜と茄子の糠漬け、ミニトマト、ラムの網焼き、バタピー、アサヒのノンアルコールビール。
ジョギングから帰って来た次男と二人で食べた。
厚切りのラムが美味かった。

10時まで2階で音楽を聴いて遊んでから、雪風の乗り込んだ少年兵二人の番組を観た。
お一人は母に生きて帰って来いと言われ、もう一人は国のために死ぬつもりでいた。
大和と一緒に海上特攻に行き、生きて帰るつもりでいた人は、突っ込んでくるグラマンに対して機銃掃射した時に、最初怖かったがパイロットの顔が見えて殺意に変わった。
死ぬつもりでいた人は、特攻で死ぬのは怖くなかったが、苦しまないで死にたいとだけ思った。
最後の攻撃も壊滅状態になり、作戦中止命令が出て命拾いしたが、沈没した大和の乗員を収容するときに、生きて帰ろうとした人は、片腕でロープに掴まった兵の脚を持つ兵隊を叩き落とし、その死体が浮かんできて背中の白いシャツが目玉のように膨らんだのを生涯忘れることが出来ないという。
死ぬつもりでいた人は、戦友を背負ってロープまでたどり着いた兵が、そこで気が抜けて沈んでしまい、背負われた兵はその兵を足蹴にしてもがき、結局二人ともおぼれて死んでいったのを見たが、何ともできなかった。
大和3,000人の将兵のうち、雪風が拾い上げたのは100人だった。
雪風は幸運艦で最後まで沈まず、戦後に引き上げ船となり、その後は中国に引き渡されて1965年まで軍艦として働いた。
このお二人は昭和2年生まれで、国際法で兵になれるのは15歳からであったが、国内法を制定して尋常高等小学校を出て14歳で海軍少年兵に志願させた第一期生だ。
半年の訓練を受け実戦に配備されたようだ。
昭和3年生まれの父はこの制度の第二期だったのかもしれない。
予科練丙の試験を受けたとのことで、船には乗らず、通信兵として航空隊を移動している。
分かっているのは最後の方で、相良村にあった人吉航空隊から、鹿屋基地に移動になり、終戦時はその分隊の牛根の水上機基地にいた。
最初は三重の航空隊に行ったとも聞いたが、あまり話さなかったのは、神奈川県出身というだけで酷く殴られたとのことで、最初の頃は殴られっぱなしで思い出したくなかったのだろう。

戦争は悲惨だが、戦わずして他国に隷属するのはもっと悲惨だ。
明治維新の頃からのアメリカと日本の関係を追ってくると良く分かる事だが、力の差があるのが分かったうえで知恵を絞り、決して引き下がらないことでしか誇りをもって生きる道はないという事だ。

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