クラブ・マナーズニュース

マナーズを巣立たれたみなさま、縁者のみなさまとつながっていたい!そんな私が月3回「0」の付く日にブログをアップします!

娘と孫からの学び

2022年08月30日 | 楽しいお話し

 明日、9月1日になると、孫は生後4か月を迎えます。
今は、寝転んで遊んでいると、すぐに横向きになり、足を一生懸命に動かして元に戻る・・・ということを繰り返していて、まだ寝返りには至っていません。
 娘家族は、我が家から来るまで30分のところに住んでいて、私は予防接種や何やと特別なことがあると、出産した病院がうちから近いところなので、運転手として出かけていきます 田舎の一軒家ではあるまいし、電車の便も良いところ。何だかんだ言って「手伝い」を頼んでくれるのは、きっと娘の私への気遣いなのだ、と感謝しています

 私は、孫が生まれてからまもなくの5月10日のブログで、こんなことを書いていました。
 「実際に生まれてみると、確かにかわいいです 淡々と自己分析をする必要もないのですが、笑、きっとそれは「我が子の様々な瞬間」と重なるから・・・なのかもしれない、と思っています」
 でもね、こういう思いは、あれからすぐに消えました 我が子は我が子、孫は孫。何と言うのでしょうか、息子や娘の赤ちゃんの時の姿を重ねたり、自分の子育てを思い出したりする暇がない、というのか、次から次への「む?それ何?」とか、「へえ、そんなものがあるんだあ」とか、そういう新手のもの、新手の方法、etc.etc,
 いやー、じつに娘の子育て、娘の考え、娘の取り組み、等々が興味深いのです 時代が変わったのですね、という言い方をしてしまえばそれまでですが、昭和の子育てでは考えられないことばかり、です。
 息子が生まれた当時、私は「アメリカかぶれ」でしたのでね ホームステイ先のお母さんが送ってくれるものや、手紙に書いてきてくれる当時最新の子育て方法などに興味津々。「スナグリ」という抱っこ紐もその一つだったのですが、赤ちゃん息子には不評で、泣いて使えないのですぐに止めましたが 
 まあ今は世界は狭く、近所にアメリカ人、イギリス人、フランス人、ドイツ人、デンマーク人、等々の子育て仲間がいるが如く、あっという間にインターネットで何でも調べられますし、その国の「便利な子育てグッズ」が紹介され、アマゾンに頼めば翌日に自宅に到着 
 そのグッズの使い方が取扱説明書ではわかりにくくとも、こちらもインターネットの動画で、先輩ママ達が解説付でアップ 最初のうちは「ほー」とか「すごいねえ」とか言っていましたが、そのうちに相槌のほうが間に合わないくらい、あまたのものが飛び出します。
 どんなことも知ったり、調べたりするのが大好きな娘は、子育てグッズや、子育て方法を嬉々として学び、その中の興味を持ったもののいくつかを実践。私は、娘のところに行くと、孫の様子を見るのはもちろん楽しみですが、それと同じくらい、娘からの新たな情報や、それに対する考え方など、聞いて、知ることが楽しくてなりません

 私はよくいろいろなところに「本来、学びとはワクワク、ウキウキとする楽しいもの」という一文を書きます。これは、「ペーパー学習に躍起になり、また間違ったとか、なかなか理解できないとかで一喜一憂するのではなく、子どもの身の回りのすべてから、親も一緒に感じ、学ぶ姿勢を育てて欲しい」という切なる思いで書いている文章です。
 けれど、この「本来、学びとはワクワク、ウキウキとする楽しいもの」という思いを幼い頃から子ども達に持ってもらうことは、30歳を過ぎても、60歳を過ぎても、色あせず、人となりの中に根付いていく・・・

 昨日は、娘は「そろそろ離乳食のことを考えようと思っているのよね」と話していました。きっと、世界中の「???!!!」も含めて調べて、楽しむのでしょう。
 私も、そのお裾分けで、新しい子育てを学べることを、今から楽しみにしています

 

 

 

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私の「朝一番」

2022年08月21日 | 楽しいお話し

 目が覚め、一日の最初にすることは、お仏壇へのおまいり、です。お水を備え、お花の水を換えて、チンチン!と手を合わせる・・・
 夫が長男、私は一人っ子、ということから、4人の親達が逝った今は、我が家には両親達のお位牌が祀られています。壁掛けタイプのオープンスペースのお仏壇。ウォールナットの寄せ木仕立てになったこのお仏壇(ついでに言うと、両親達のお位牌はそれぞれ、とっても素敵なモダンなお位牌なのです)は、私達夫婦の自慢でもあります、ふふふ
 そのチンチンが終わった後の私の「朝一番」は、上高地のライブ映像を観ること、なんですね。「観る」というよりは、ずっと家事の間も、夫婦での朝食の間も、その上高地の河童橋のたもとに設置された定点カメラからのライブ配信映像をつけっぱなし
 オリンピックのために、と古くなっていたテレビを買い替えようとした時、お店の方の「お客様、騙されたと思って、これにお決めください絶対に後悔はさせません」という強い強い薦めで、大型の4Kテレビにしたのですが、確かに正解でした
 岳沢の景色、梓川の流れ、すべてが「そこにあるかのように」「そこに居るかのように」感じられるのは、まるで窓の外を見ている様に感じる完璧な映像のおかげなのでしょう
 定点カメラの存在を知っている人がいて、たまにこちらに向いて手を振る人がいます。まさにライブ映像なので、そういう人達に向かって、私まで手を振りかえしたい気分になります。

 上高地は、私にとって「特別な場所」です。
山好きの私の両親は、山岳会に所属していました。今になって思えば、祖母や叔父、叔母と一緒に暮らしていたので、「山に行く」ということが、夫婦や親子だけの時間になった、という意味もあったのかもしれません。今さら「本当はそうだったのお?」などと、両親に確認することは出来ませんが
 私は、小学校1年生から、両親と一緒に北アルプスを歩きましたゴールデンウィークや夏休みは山小屋やテント泊のアルプスへ。月に2,3回は、日曜日に親子で近くの金剛山や大和葛城山に行き、足慣らしをしていました。
 穂高連峰や槍ヶ岳へは、上高地が登山口。当時から観光客も大勢いましたが、登山をする人のベースとなる場所でね・・・小学生の頃の私の密かな夢は「上高地に普通の格好で行ってみたい」というものでした
 今でこそ、モンベルのような「おしゃれな登山用品」がありますが、あの頃の登山は「苦行的な要素の高い、おしゃれとは無縁の趣味」でした。
 私は、母とお揃いのウールの長袖シャツに、ニッカポッカ。山用のハイソックスにごっつい茶色の革の重い登山靴 おしゃれな様子はどこにもありません
 動物園にも、水族館にも、遊園地に行った記憶もなし。まあでも、そのかわり、普通の小学生が見られないような、3000m級の山々から見える大展望を見ていたのですから、本当はすごい経験をさせてもらった、ということに感謝です

 中学2年生の時、一人っ子の私をとてもかわいがってくれた、両親の山岳会に所属していた優しくてカッコいいおにいさんがゴールデンウィークの春の山行で遭難。滑落死されました。私はそれで、山を止めました。
 折に触れ、よく書いている様に、私の父は暴君で、決して父に逆らう事も、自分の思いを伝えることも許されませんでしたが、さすがにその時は、父はダメだとは言いませんでした。「お父さん、私、もう山に行きたくないねん。山、止めたい。」と言った時、父は良いとも悪いとも何も言わず、ただ無言。それ以降、まもなく、不幸にも若年性のパーキンソン病を患った父は、止む無く趣味の登山からの遠ざかりました。

 昭和40年代・・・当時の山岳会や家族での山行は、実際に目の前にある素晴らしい景色を愛でたり、美しく珍しい高山植物の話をする、という類のものではなく、ただただ、黙々と歩く、というものでした。小学校5年生の春、北穂高への途中、雪崩に遭遇し、もう死ぬんだな・・・と思ったこともありました
 でも、不思議ですね。そんな、ちっとも楽しい思い出のない登山でしたが、上高地だけは好きな場所でしたねえ
 20年ほど前、子ども達も学校の合宿等で夏休みには家を空けることが多くなりました。その頃、ダイビングのインストラクターのライセンスも持っている完全な海派の夫が、突然「上高地に行ってみたいなあ。山のことは、ちっとも知らんし・・・山も楽しそうだと思うようになったわ」と言い出し、急遽、山行を計画。そして上高地へ。
 夫にとっての初めての山行、長壁山、蝶が岳で、すっかり山に魅せられた夫。もともと、ランニングで脚力のあった夫は、あっと言う間に山派にもなり・・・でも、その後、息子の心臓病の罹病や何やかやで、山行も中断。

 コロナ禍にあり、昨年、「密にならない場所」ということで、本当に久しぶりに上高地へ・・・また、夫婦で山にも行くことになりそうです。とは言え、すでに60代も半ばの私達夫婦ですからね。無理をせず、ボチボチ

 上高地・・・大好きなところ、です。
今は、子どもの頃の夢だった「普通の格好で上高地へ」も実現できます。今では、オシャレでカラフルな山の装いですからね、何ら「普通の格好」とは違いはありません

 今も、パソコンに向かう私の横には「上高地」です

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忘れない、ということ

2022年08月12日 | その他

 10日にアップできませんでした ごめんなさい
今週末、13日の土曜日、教室は「お盆休み」休講です。とは言え、何も言わずに「10日の回」のアップをしなかったら??? わずかの方かもしれませんが、「あれ?どうしたのかな?」と心配させてしまいます 以前、一度そういう勝手なことをして、大層、ご心配をさせてしまったのです 
 今はこんなご時世ですからねえ・・・私が勝手にブログをお休みしてしまうと「もしかしたら、コロナに感染?自宅療養?」などと気をもませてしまいますね。本当に失礼しました
 コロナでも何でもありません。元気にしています

 今日、8月12日は、37年前、羽田発大阪行きの日航のジャンボ機が御巣鷹山に墜落した日、です。朝から、各局のニュースで繰り返しそのニュースが流れていました。37年にもなるのですよね・・・
 もう今では、「ジャンボ機」と言ってもピンと来ない方も多いことでしょう。
まだまだ世界中がノリノリ、イケイケの時代の1980年代 大型のジェット機「ジャンボ」と呼ばれた飛行機が、大量の燃料を使い、世界中の空を飛び回っていた時代でした。

 私は、あの凄惨なニュースの一報を、実家のリビングのテレビ、流れてくるニュース速報で目にしました。午後7時過ぎのことでした。
 「日本航空、羽田発、大阪空港行きの飛行機が、レーダーから消えた」と。
 まもなく、実家の電話に、私の高校時代の友人から電話が入りました。
 「おばさん、まどかは東京から帰って来ていますか?帰省するのは、今日じゃありませんでしたか?私、11日って言われたのか、12日って言われたのか、はっきりと覚えていないくて
 もちろん、電話から友人の声が聞こえたのではありません。
母が受話器を持って、電話が置かれていた廊下から私の方を見ながら、何度も何度も頭を下げ、私の友人に応えてくれていたので、私は容易に話の内容を察することができたのでした。
 「ありがとうね、Mちゃんうんうん、もう帰ってきてるよ、東京からあの子達、昨日東京から帰ってきたんよ、今日とちゃうちゃう、昨日、昨日。そう、うんうん、そう、もうここにいてる ありがとうね、心配させて。ありがとう、ありがとう
 電話の最後のほうは、話しているうちに感極まったのか、母は泣いていました

 私と主人、そして生後約4か月の息子と3人、前日の8月11日、日航123便で大阪に帰省しました。
 「私達の帰省が、もし昨日ではなく、今日だったとしたら」父も、母も、もちろん主人も私も、ニュースを食い入るように見ながら、ずっとそう考えていました。身体が冷たくなり、テレビの前から動くことが出来ませんでした・・・
 しかし、「ああ、昨日で良かった良かった」などと、私達は一度も言いませんでした。そんな思いにはなれなかった
 「東京からの帰省」「日本航空の大阪行きの便」等々、あまりにも身近な事すぎて、自分達は実家のリビングに座っているのに、とても不思議な、心ザワザワする感覚とでも言うのでしょうか。ずっと身体はこわばり、言葉が出ませんでした。

 十分に余裕を持って羽田空港に着いた私と、生後4か月の息子。私達はすぐに授乳室に行き、息子はミルクを飲みました。羽田から大阪へはたった50分程度の短いフライトです。とは言え、まだまだ小さな赤ちゃんの息子が泣いたり、むずかったりしたら、他の乗客に迷惑をかけてしまう・・・新幹線のように車両を歩くわけにもいかず・・・そう思うと、私はとても緊張していたのでした。
 当時の羽田空港は、まだ現在のターミナルではありませんでした。今は、羽田沖を埋め立てた、広い土地に建設された近代的なターミナルビルの空港になりましたが、あの頃はとっても狭く、いつもごった返している息の詰まるような場所でした。授乳室も狭くて、そこにはたくさんの母子がいたものです。

 その後、会社から羽田に着いた主人と合流し、私達3人は、他の大勢の乗客達とジャンボ機に搭乗。普段はビジネス客がほとんどの大阪便ですが、この日はたくさんの帰省や旅行の家族達でいっぱいでした。
 刻々と入ってくるニュースを見ながら、父も母も何も言いませんでした。
私と主人も何も話さず、すやすや眠る息子を抱っこして、前日の羽田空港でのこと、機内でのこと、空港に迎えに来てくれていた両親と顔を合わせた時のことなど、ずっと思い出していました・・・

 主人の大学時代の友人が、この事故で亡くなりました。
お子様は、息子とほぼ同じ年齢。ご子息は、息子同様、37歳になっていらっしゃるのですね。すでに、ご自身が「パパ」になっていらっしゃるかもしれません。
 私達は毎年、このニュースを眺めながら、お父様を亡くされ、お父様のお顔も知らない彼が、お母様のもとでどんなふうに成長されているのか?と静かに考えたものでした。

 様々な出来事を「忘れない」というのは、なかなか難しいことかもしれません。
どんなに大きな出来事であっても、時間という不思議な薬によって、その当事者ではない限り、痛みは引いていくものなのだ、ということを、みなが密かに知っています
 それでも・・・たとえわずかな時間であったとしても、「思い出し、考え、語り、祈り、忘れないでいよう」とすることに大きな意味がある、と思っています

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