元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ANNA アナ」

2020-06-29 06:56:36 | 映画の感想(英数)

 (原題:ANNA)リュック・ベッソン監督によるアクション物としては、やっぱり「ニキータ」(90年)や「レオン」(94年)といった全盛期の作品よりは幾分落ちる。ならばダメな映画かというと、決してそうではない。旧作群のインパクトには及ばないということを早々に見切った上で、筋書きの面白さで勝負しようとしている。これは正解だと思う。

 90年のモスクワ。市場で露店の番をしていた大学生のアナは、モデル事務所にスカウトされ、パリのファッション界でデビューする。その存在感でアッという間に売れっ子となるが、実は彼女は、KGBによって生み出された凄腕の殺し屋だった。モデルになったのも、最初から仕組まれていたに過ぎない。早速言い寄ってきた財界の要人を始末したのを皮切りに、次々と“仕事”をこなしてゆく。一方、CIAがソ連に送り込んでいた諜報部員たちがKGBに捕まって皆殺しになる事件が発生していた。CIAエージェントのレナードはソ連情報部の中枢に潜り込むべく、アナに接近する。

 本作は“二重スパイとしてKGB長官の命を狙うヒロイン!”といったような売り出し方をされているようだが、実際はそう単純ではない。アナがKGBに雇われるようになった経緯や、レナードの執念、アナを憎からず思っているKGBエージェントのアレクセイの葛藤などを時制を前後させて描いており、けっこう人間ドラマとして深いところを突いてくる。

 またKGB内での派閥争いの存在を匂わせるが、誰がどっちの陣営に与しているのか最後まで分からないのも高ポイントだ。背景にソ連崩壊前夜のCIAとKGBとの関係性が浮かび上がるのも興味深いモチーフで、フィクションながら実際は斯くの如しだったのだろうという説得力を持つ。

 主演のモデル出身のサッシャ・ルスは、正直あまり好きなルックスではないが(ヒロインの友人を演じるレラ・アボヴァの方が可愛い ^^;)、一年かけてマーシャルアーツを習得しただけあり卓越した体術を見せる。ルーク・エヴァンスとキリアン・マーフィの男性陣も良いのだが、圧巻はKGB幹部に扮するヘレン・ミレンで、さすがの海千山千ぶりを発揮している。リュック・ベッソンの演出は今回は才気走った面は見られないが、けっこう手堅くて破綻が無い。ティエリー・アルボガストのカメラとエリック・セラの音楽も及第点だ。
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カイタックスクエアガーデンがオープン。

2020-06-28 06:56:50 | その他
 去る2020年6月11日に、福岡市中央区警固に新しく建設された複合施設“カイタックスクエアガーデン”がオープンした。本来は4月下旬に営業を開始する予定だったのだが、件のコロナ禍により延期され、このたびやっと開店に漕ぎ着けたものである。地上4階建て、敷地面積約8千平方メートルの規模だ。

 建築ラッシュが続く福岡市中央区天神およびその周辺地域だが、どうしてあえてこの施設を拙ブログに取り上げたのかというと、それは新しい映画館“キノシネマ天神”がテナントとして入っているからだ。89席のシアター3つを擁する、いわば“ミニシアターのシネコン”と呼ぶべき様態で、形式としてはおそらく九州初になる。



 今世紀に入ってから福岡市内のミニシアターが次々と閉館し、残ったのは中央区那の津にあるKBCシネマだけという状態が長らく続いていた。単館系の映画は既存のシネコンが公開を引き受けることもけっこうあるのだが、やはりミニシアター系の作品はそれらしい劇場で観たいものである。今回この新劇場のオープンは、映画好きにとっては実に嬉しい。

 ただし、名前こそ“キノシネマ天神”だが、実際は天神から離れている。西鉄や地下鉄の駅から歩くと、けっこう遠い。もっともKBCシネマだって天神の中心部からは離れている。良い作品を良い設備で見せてくれれば、固定客は付くだろう。しかし問題は“カイタックスクエアガーデン”自体の集客力と持続性だ。

 正直言って、この“カイタックスクエアガーデン”には一般ピープルを継続的に繋ぎ止めるだけの“目玉”に欠けていると思う。今のところ、映画館以外では九州初出店になる“激うまハンバーガー屋”ぐらいしか大きくアピール出来る素材が無い。もちろん、将来は魅力的なテナントが入る可能性はあるが、“新しさ”だけでどれだけ持ち堪えられるか、懸念が残るところである。



 とはいえ、この施設そのものの雰囲気は良い。大きな吹き抜けがあり、緑も豊富。くつろげる空間であることは確かだ。幅広い顧客を狙うより、近所の住民あるいは(大通り沿いにある関係上)通りすがりの客を受け容れる施設としては適切であるとも言えるだろう。今後に期待したい。

 余談だが、この施設のテナントのひとつである家具店は、なかなかセンスが良いと思う。現金取引を思い切って省いている点も、ギャラリー的なムードを醸し出していて好印象だ。なお、この店ではフランスのDEVIALET社のコンパクトなオーディオシステムが展示されている。同社のアンプは専門ディーラーで試聴したことがあるが、とても良い製品だと思った(ただし、かなり高額)。この家具店に置いてあるのはオールインワン型の装置で、決して安くは無いが犯罪的に高くもない。そしてそのデザインは先進的だ。是非とも実際に音を鳴らしてデモしてもらいたいものである。
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「ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語」

2020-06-27 06:43:11 | 映画の感想(さ行)
 (原題:LITTLE WOMEN)以前にも書いたことがあるが、私はエマ・ワトソンが好きではない。ルックスが好みではないのを別にしても(笑)、彼女は表情に乏しく、身体のキレも良くない。欧米の映画で演技に難のある俳優がスクリーンの真ん中に居座ることはめったにないが、ワトソンはそのレア・ケースに該当すると思う。しかしながら、本作では彼女が一番可愛く見えてしまうのだ。もっともそれは彼女が魅力的になったのではなく、周りが酷すぎるからなのである(爆)。

 ルイーザ・メイ・オルコットの有名な原作は若い頃に読んだはずだが、内容はすでに忘却の彼方である。ウィノナ・ライダー主演の94年版も観ているが、これまた中身は覚えていない。要するに、このネタ自体が私には合わないのだろう。



 それは差し置いて、このランダムかつ乱雑に積み上げられた時制はカンベンしてほしい。話の流れが判然としないばかりか、そもそも話自体に興味の持てるモチーフが見当たらない。原作及び過去の映画化作品の好きな観客にとっては全然気にならないのかもしれないが、少しでもストーリーに起伏や意外性を期待する向きには、ほとんど縁の無いシャシンと言って良い。

 さて、エマ・ワトソンはマーチ家の長女メグを演じているが、実質的な主人公の次女ジョゼフィーン(通称ジョー)に扮しているのがシアーシャ・ローナン。これまた御面相が私の好みとは最も遠い位置にある女優で、あの粘着質なセリフ回しと勿体ぶった表情および身のこなしには今回も辟易した。妹2人を演じるフローレンス・ピューとエリザ・スカンレンに至っては、語る価値も無いほど外見の訴求力が低い。これではエマ・ワトソンが無駄に目立ってしまうのも、仕方がない。

 ティモシー・シャラメやメリル・ストリープ、ローラ・ダーン、クリス・クーパーといった普段は出てくるだけで絵になる俳優陣も、この映画においては何とも精彩に欠ける。グレタ・ガーウィグの演出は、大して面白くもないであろう原作を何とか盛り上げようという意図すら感じられず、平板に流れるのみだ。前作「レディ・バード」(2017年)と比べても、質的に落ちる。

 とはいえ、オスカーを獲得したジャクリーヌ・デュランによる衣装デザインは素晴らしい。上手く再現された19世紀アメリカの風俗・文化をバックに、実に良く映えている。ヨリック・ルソーによる撮影、アレクサンドル・デスプラの音楽、いずれも申し分ない。
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「古井戸」

2020-06-26 06:56:18 | 映画の感想(は行)

 (原題:老井)87年作品。地味だが、良い映画だと思う。今や世界第二位のGDPを誇るまでになった中国だが、ほんの約30年前には地方にはこれほどまでに開けていない土地が広がっていたことに驚かされる(ひょっとすると現在も同様なのかもしれない)。そこに生きる人々の哀歓を掬い上げると共に、その現実に何とか対峙しようとする主人公の姿を活写し、鑑賞後の満足感は決して小さくはない。

 山西省太行山の山奥にある“老井”という村は、岩山ばかりで水源が無い。そのため過去何世代にも渡って村人たちは井戸を掘り、総計100箇所以上でトライしてみるが、どこからも水は出なかった。そこに孫旺泉という青年が都会から帰ってくる。故郷の苦境を見かねた彼は、都会で得た知識を活かして井戸を掘ることにする。彼には村に恋人の巧英がいたが、掘削資金を調達するため、援助してもらうことを条件に寡婦の婿になる。作業に取りかかる旺泉だったが、落盤事故が発生して巧英と共に生き埋めになってしまう。

 まず、この村の貧しさに驚く。テレビは白黒だし、精一杯の娯楽といえば、盲目の芸人を呼んで歌を歌わせることぐらいだ。井戸をめぐって隣村との争いもあるが、それもやはり、貧困であるがゆえである。だが、その状態を打破しようとする旺泉の努力も、村の古い因習に跳ね返されてうまく実行に移せない。結局、都会の新しい知識と村の体制とが融和することは無く、対処方法は個人の捨て身の行動によるしかない。この苦々しい現実が観る者を圧倒する。

 主人公は巧英ともう一人、都会的な女性との間で悩む。それも描き方が巧英に肩入れしているように見えるのは、彼女自身の純朴さもさることながら、新しい潮流が簡単に地方の古い環境に適応出来るはずもないという、作者の達観が背後にあるからだろう。呉天明の演出は骨太で力強い。また情感豊かでもある。その持ち味は次作の「變臉 この櫂に手をそえて」(94年)で、さらに大きく発揮されることになる。

 主役を務めるのは、何と後に大物映画監督になる張藝謀だ。本来カメラマンとして雇われたらしいが、面構えが良いので主演に起用されたらしい。本業の撮影の方もなかなかのもので、険しい山々が続く山西省の風景は、厳しくも美しい。巧英役の梁玉瑾も好演だ。第2回東京国際映画祭グランプリ受賞作品。観る価値はある。
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「Fukushima 50」

2020-06-22 06:58:36 | 映画の感想(英数)

 この映画が封切られたのは2020年3月6日だが、私が劇場で観たのは6月上旬である。その間にコロナ禍による緊急事態宣言が発令されて映画館も軒並み休業。5月下旬に宣言が解除され、ようやく映画館も営業を開始したのだが、そうした後に同じく緊急事態宣言というフレーズが飛び交う本作に接すると、そのダメさ加減に脱力するばかりだ。

 2011年3月11日に起きた東日本大震災で制御不能となった福島第一原発の暴走を止めるため、原発内に残って事態の収拾に当たった現場作業員たちの奮闘を描くこの映画、原作は門田隆将によるノンフィクションで、言うまでもなく実録物としての体裁を取っている。にもかかわらず現実と異なるモチーフを平然と出してくるのは、何かの悪い冗談としか思えない。具体的には当時の総理大臣を、現場の足を引っ張る“悪役”として描いていることだ。

 私は首相だった菅直人を政治家としてはほとんど評価していないが、あの未曾有の災害に対しては別に大きな失態は演じていない。このような“事実の加工”は、観る者の印象を(総理だけが悪いという)一定の方向に誘導するものであり、断じて看過できない。なぜなら、あの事件の原因は当時の政権の不手際なんかではないからだ。

 安全対策を無視したまま野放図に原発を増やし続けたそれまでの政府の所業、原子力発電業界の産・官・学の関係者によって構成された特殊なムラ社会的集団の欺瞞性、そんな誤謬が積み重なって危険水域に達し、最後の引き金を引いたのが、くだんの震災だったという話だろう。それをこの映画では終盤の“俺たちは自然を舐めていた”という主人公の一言で胡麻化しているが、まったく話にならない。

 事故前には津波の最大値が15メートル以上になることは判明しており、東北電力の女川原発はその基準で対策を立てていたのでほぼ無事だった。対して東電は何もしなかった結果があの惨状だ。映画はそのことにまったく触れておらず、これでよく“映画だから語れる、真実の物語”などという惹句を平気で提示できるものだ。

 さて、本作に出てくる緊急事態宣言という用語が、コロナ禍を経験した現時点での我が国においては空しく響く。国家的な非常事態を収拾する責任は、この映画に登場するような現場のスタッフにではなく、政府にある。東日本大震災の際の政府は、不十分ながらやるだけのことはやった。ところがコロナ禍に対する現政府の対応はいったい何だ。

 ウイルス蔓延といういわば“天災”が、政府の不手際によって“人災”のレベルに移行してしまっている。ラストに誇らしく表示される“東京オリンピックの聖火リレーは福島から始まる”という一文は、コロナ禍によって大会が(限りなく中止に近い)延期になった現時点で観ると、もはやギャグでしかない。

 若松節朗の演出は、まあ予想していた通り大味で凡庸。登場人物たちは終始喚き散らし、彼らの家族などの“人間模様”は泣かせに走る。かつてのパニック映画と変わらず、いったい何十年前の映画を観ているのかと思った。佐藤浩市や渡辺謙をはじめとする豪華なキャスティングも場違いに思える。とにかく、まったく評価できない映画である。
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「ジャンヌ・モローの思春期」

2020-06-21 06:40:06 | 映画の感想(さ行)
 (原題:L'Adolescente )79年作品。12歳の少女の、成長を等身大に描いた映画だが、そこはフランス映画、しかも監督がジャンヌ・モロー、その“成長”の度合は呆れるほど大きい。しかも、そんなにドラマティックな出来事があるわけではなく、夏休みを淡々と過ごすだけでヒロインの内面を(作為的ではなく)著しく変化させるという筋書きを違和感なく展開させているのは、さすがと言うしかない。

 1939年7月、12歳のマリーは例年通り父ジャンと母エヴァに連れられて、祖母の住むフランス中部の小さな村へやって来た。そこで彼女はパリから来た若くハンサムなユダヤ人医者アレクサンドルを一目で気に入ってしまう。ところが、彼に熱を上げたのはマリーだけではなかった。何とエヴァがアレクサンドルと懇ろな仲になってしまったのだ。



 マリーは両親の関係を修復させると共に、母エヴァと別れたアレクサンドルが自分の方を向いてくれることを期待し、魔女のオーギュスタに頼んで仲直りの媚薬を調合してもらい、両親に飲ませる。そしてバカンスは終わり、時代は戦争へと突入する。

 よろめいてしまう母親は娘にとって問題かと思われるが、どうやらエヴァの浮気癖は元からのようで、マリーの関心事はあくまでアレクサンドルである。親の存在も自身の恋の手練手管の一つにしてしまうのは、子供とはいえ、さすがフランス女だ(笑)。さらに、マリーを可愛がるアンドレのような大人に対しては、彼女はその魂胆と底の浅さを見抜いて、とことん冷たく接するというのも興味深い。

 もちろん大人であるアレクサンドルがマリーを本気で相手にするはずもないのだが、それによってマリーは自分が“発展途上”でしかないことを自覚する。アンリエット・ジェネリックと共に脚本も手掛けたモローの演出は、子供の描写に甘さは見せない。マリーが認識する“発展途上”を年齢のせいにするという安易な設定ではなく、しっかりと“成長”の過程として(残酷さも伴って)受け取る周到さが窺われる。

 ピエール・ゴタールとジルベール・デュアドのカメラによる繊細で美しい映像と、フィリップ・サルドの流麗な音楽が印象に残る。マリー役のレティシア・ショヴォーは達者な子役だが、大物女優のシモーヌ・シニョレをはじめとする大人のキャストが脇をフォローしている。第29回ベルリン国際映画祭出品作品である。
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「COLD WAR あの歌、2つの心」

2020-06-20 06:58:45 | 映画の感想(英数)

 (原題:COLD WAR)2018年作品。世評は高いが、封切り時には見逃してしまった映画である。今回なぜか再上映されたので、劇場に足を運んでみた。感想だが、あまり芳しいものではない。何より、登場人物の内面が描けていない。だから、主人公たちの言動には説得力が無い。88分という短い尺だが、必要以上に長く感じられた。

 第二次世界大戦直後のポーランド。ズーラという若い女が州が後援する音楽舞踊団の公募に募集する。教官のヴィクトルは一目で彼女を気に入り、ただちに入団を許可し、同時に2人の交際がスタート。才能があるズーラはほどなくチームのセンターに上り詰めるが、実は彼女は父親を殺害したために保護観察中の身であった。ヴィクトルはそんな彼女のしがらみを断ち切るため、舞踏団の東ベルリン公演の際にズーラと共に西に亡命する計画を立てるが、落ち合う場所にズーラは現れず、やむなくヴィクトルは一人で国境を越える。

 数年後、パリのジャズクラブで働いていたヴィクトルは、ズーラと再会する。両者には既に別のパートナーがいたが、恋愛感情が消えたわけではなかった。その翌年、ヴィクトルはズーラに会うためにユーゴスラビアでの舞踏団の公演を観に行く。第71回カンヌ国際映画祭で、パヴェル・パヴリコフスキーが監督賞を獲得したラブストーリーだ。

 そもそも、ズーラとヴィクトルが本当に恋愛関係にあったのかどうか分からない。ズーラが東ベルリンで亡命するヴィクトルと行動を共にしなかった理由は“自分に自信がなかったから”らしいが、そんな軽々しい言い訳を口にする彼女を、何とヴィクトルも笑って許してしまう。さらにこの2人は会うたびにそれぞれ交際相手がいて、ウヤムヤのまま何となく別れてしまうというパターンを繰り返す。挙句の果てに取って付けたようなラストが待っているという、まさに脱力してしまうような筋書きだ。

 だいたい、冷戦時代に東側と西側を(プライベートな用事で)頻繁に往復出来るものなのだろうか。劇中、ヴィクトルがポーランドの当局側に拘束されてどこかに移送されるシーンがある。これは絶対に悲惨な目に遭うと思ったら、次のシークエンスでは何事もなかったかのようにシャバで生活しているというくだりには、呆れ果ててしまった。

 パヴリコフスキーの演出はシークエンスごとに大幅に時制を進ませて、その間の出来事を観客に想像させるという作戦を取っているようだが、説明が不足しているため空振りに終わっている。主役のヨアンナ・クーリグとトマシュ・コットは好演。舞踊団のパフォーマンスやズーラの歌唱シーンは本当に素晴らしい。だが、肝心のドラマが不調であるため、何やら浮いて見えてしまう。全編モノクロで撮られているが、それほど効果が上がっていないのも悩ましいところだ。
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「ローカル・ヒーロー 夢に生きた男」

2020-06-19 06:55:02 | 映画の感想(ら行)
 (原題:LOCAL HERO)83年イギリス作品。一見社会派映画のように見えて、実は本来私が苦手としている(笑)ファンタジーものだ。しかし、大仰な仕掛けと御都合主義的なプロットが横溢する一般のファンター映画(←このあたり、筆者の偏見が全面展開している ^^;)とは違い、日常のすぐ隣にあるような非日常といった、トンデモ度合が少ない設定で進められているので、あまり違和感は覚えない。それどころか、このユルさと泰然自若としたテンポは、観る者を惹き付けるのには十分だと思う。

 アメリカの大手石油会社の会長ハッパーは、巨大な石油精製工場をスコットランドの片田舎の漁村ファーネスに建設する計画を思いつく。その交渉役として若手社員のマッキンタイヤを指名。理由は名前がスコットランド系っぽいという理由だけだ。またハッパーは天体観測オタクであり、マッキンタイヤに、土地買収交渉と同時に当地の星空の模様を電話で知らせることも命じた。



 当地では大規模な反対に遭うと思われたが、意外にもファーネスの村民はマッキンタイヤに協力的。しかし、湾の浜辺に住む老人ベンは断固として土地の買収に応じなかった。そんな時、村の上空に信じ難いような大流星群が発生。マッキンタイヤはハッパーにそのことを報告すると、一刻も早く天体観測をしたいハッパーはヘリコプターで駆けつける。

 ファーネスは一見普通の村だが、周囲はいつも霧が立ち込め、村に子供の姿がほとんどない。ベンや海洋学者のマリーナにしても、どこか浮世離れしている。まさに異世界と言っても差し支えない。しかしながら、そこで通常のファンタジー映画のように“剣と魔法がどうのこうの”というパターンには持って行かない。日常を少し離れた、普段は立ち入らない路地に足を踏み入れたような、そんなライト感覚の非日常がマッタリと展開してゆくのだが、これが妙に心地良い。

 ハッパーはこの世界を気に入ってしまい、おそらくはマッキンタイヤも再びこの地を訪れるだろうと予想出来る。監督ビル・フォーサイスは、そんなエコでスローな村の生活を“現代社会に対するアンチテーゼ”みたいな大上段に振りかぶったような扱い方をしない。そこがまた説得力を持つのである。

 ハッパーに扮するのはバート・ランカスターで、さすがにこの名優が出てくると映画の安定感は増してくる。ピーター・リガートにデニス・ローソン、フルトン・マッケイ、ジェニー・シーグローヴといった面子も、派手さはないが良い味を出している。クリス・メンゲスのカメラよるスコットランドの風景は美しい。音楽を担当しているのは意外と映画の仕事も多いダイアー・ストレイツのマーク・ノップラーで、ここでも手堅くスコアを提供している。
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「在りし日の歌」

2020-06-15 06:59:17 | 映画の感想(あ行)

 (原題:地久天長)時制をバラバラにして配置する手法は、あまり好きではない。効果的なポイントで数回実施するのならば許されると思うが、映画の半分以上をそのやり方で押し切っているというのは、愉快ならざる気分になる。3時間を超える長尺だが、時制を正常に展開させればあと30分は削れると思った。とはいえ、キャストは健闘しており、映像も悪くないので観て損したという気にはならない。

 中国北部の都市で国有企業の工場に勤めるヤオジュンとリーユンの夫婦、一人息子のシンシンの3人家族は、同僚のインミンとハイイエンの夫婦、そしてンシンと同じ生年月日の息子ハオの一家と親しく付き合っていた。ところがある日、シンシンが川で溺れて死んでしまう。ショックを受けたヤオジュンとリーユンは、故郷を捨てて南方の町に移り住む。そこで養子を取りシンシンと呼んで育てるが、2人に馴染めない“新しい息子”は、家を出て行ってしまう。80年代から2000年代までの激動の中国社会で、出会いと別れを繰り返して懸命に生きていく夫婦の軌跡を追う大河ドラマだ。

 前述の通り、ランダムに飛ぶ時制は観る者を混乱させる。各シークエンスが時系列的にどのポジションに位置するのか絶えず推量せねばならず、これがけっこうプレッシャーになる。だが、主人公たちが体験する出来事が実にハードであることは十分窺える。

 一人っ子政策のためにシンシンの死後は子供を儲けることが出来ないまま、リーユンは子供を産めない身体になってしまう。社会主義経済が行き詰まり、優秀な労働者として表彰された工員たちも、容赦なくリストラされてゆく。親しい者もいない南部地方の町では、周囲の好奇の目に晒されるばかりだ。さらには、終盤近くになるといくつもの感動ポイントが並べられ、ドラマは盛り上がる。ラストは予想出来るが、それでもグッとくるものがある。

 ワン・シャオシュアイの演出は時制云々を除けば市井の人々の生活を丹念に掬い上げている点で、かなり訴求力が高い。特に家族で饅頭を食べるシーンはホッとする。主役のワン・ジンチュンとヨン・メイの演技は素晴らしく、長い年月を過ごした彼らを最後まで違和感なく表現している(本作品で第69回ベルリン国際映画祭において最優秀男優賞&女優賞を受賞)。チー・シーやアイ・リーヤー、ワン・ユエン、ドゥー・ジャンといった脇の面子も地味だが手堅い。キム・ヒョンソクの撮影、ドン・インダーの音楽、そして時折流れる「蛍の光」のメロディが実に効果的だ。
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「スターダスト・メモリー」

2020-06-14 06:41:51 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Stardust Memories )80年作品。明らかにフェデリコ・フェリーニ監督の「8 1/2」(1963年)を意識した作品ながら、製作当時は先鋭的だったかもしれないが今観ると鼻白むばかりのあの映画より面白い。しかもフェリーニ作品が(こういうネタとしては場違いな)2時間を超える長尺だったのに対し、このウディ・アレンの映画が1時間半にまとめられているのも好印象だ。

 中年男が列車の中で気が付くと、あたりは生気の無い老人ばかり。あわてて彼は列車を降りようとするが、出口が無い。そして列車は霧の中を進み、ゴミの山に到着する・・・・というシーンで、監督兼俳優のサンディ・べーツの新作は終わる。彼は名の知れた作家だが、最近の作品の評価はイマイチだ。なぜなら、サンディは大衆受けする娯楽作から離れて、芸術性を前面に出していこうとしているからだ。

 ニュージャージー州で開かれた映画祭に出席するために会場のスターダスト・ホテルに向かったサンディは、ファンやマスコミの質問に答えながら、付き合ってきた女たちに対する想いに浸っていた。彼の作品に主演したドリーは理想的なパートナーかと思われたが、結局別れた。現在の恋人はフランス人のイゾベルだが、彼女はなんと人妻で、夫を捨てて映画祭の会場に子連れでやって来る始末。ところがサンディは席上で知り合った女性ヴァイオリニストのデイジーが気に入ってしまい、それを見たイゾベルは激怒する。

 どこまでが劇中劇か分からない構成で、アレン扮するサンディの(いつもながらの)インテリぶった態度に閉口する部分もあるが、全編を通して観ればなかなかロマンティックな筋立てで飽きさせない。セリフの面白さは相変わらずで、何回も感心して頷いた(笑)。芸能界の裏側をユーモラスに明かしていくのも興味深く、関係者とのやり取りも皮肉が効いていて見せる。

 現実と虚構が入り混じった展開はフェリーニほど大仰ではなく、ほどほどの線をキープ。それでいて作者の映画に対する愛情が横溢しており、しみじみとした感慨を覚える。終盤は“大仕掛け”が用意されているが、ワザとらしくないのも良い。ゴードン・ウィリスのカメラによる美しいモノクロ映像。ジャズの名曲がバックを彩る。シャーロット・ランプリングにジェシカ・ハーパー、マリー・クリスティーヌ・バローと共演陣も万全。シャロン・ストーンが本作でデビューを飾っているのも見逃せない。
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