元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「風が吹くまま」

2018-08-31 06:35:11 | 映画の感想(か行)

 (英題:THE WIND WILL CARRY US)99年イラン作品。数々の傑作・秀作をモノにした巨匠アッバス・キアロスタミ監督の、唯一の凡作である。題材に目新しさは無く、キャストの扱い方も平板。ストーリーは面白くも何ともない。キアロスタミ得意のドキュメンタリー的手法も、段取りを間違えると空振りに終わる。

 TVディレクターのベーザード率いるロケ隊は、テヘランの北700キロにある山村にやってくる。目的は、そこで行われる珍しい葬儀の取材である。ところが、亡くなるはずだったおばあさんが回復。一行は予定の日程を終えるまで、村でやることも無く過ごす羽目になる。そんな中、知り合いになった穴掘り人夫が生き埋めになるという事故が発生。偶然に現場に居合わせたベーザードは、村人達に助けを求める。

 人の生死が俎上にのせられているのは、前作「桜桃の味」(97年)の繰り返しで新味に乏しい。しかも、今回はエピソードにひねりが足りない分、間延びした印象しか受けない。特に前半の、起伏のまるでない展開は、観客に居眠りしろと言わんばかりの芸のなさ。

 ベーザードの元には幾度となく上司からの問い合わせの電話が入るのだが、電波の入りが良くないため、そのたびに村で一番高い墓のある丘まで行かなければならない。一応はギャグのつもりなのだろうが、繰り出すタイミングが悪くて少しも笑えない。終盤になってようやくドラマが動き出すという感じだが、それまでの持って行き方に工夫が無いので“時すでに遅し”である。

 ただし、映像は冴え冴えと美しい。ベーザードが亀やフンコロガシの行動を観察するシーンも面白い。またイラン映画特有の“子供の扱い方”には、やっぱり感心してしまう。その意味では“観る価値は全然なし”とは言えない。だが、これがキアロスタミの映画かと思うと、採点が辛くなるのは仕方がないだろう。

 主演のベーザード・ドーラニーは本来は撮影スタッフであり、プロの俳優ではない。だが、この“素人起用”も不発だ。誰がやってもいい役だし、そもそもディレクターと撮影係では立場も役割も違うわけで、本人性を前面に出しても効果は上がらない。なお、なぜか同年のヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を獲得。その事実も納得できない(笑)。
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「ミッション:インポッシブル フォールアウト」

2018-08-27 06:23:02 | 映画の感想(ま行)

 (原題:MISSION:IMPOSSIBLE FALLOUT)前作より落ちる。前々作と比べれば、もっと落ちる。何より、脚本が上等ではない。題材自体がマンネリで、それを凝ったストーリーで粉飾しようとしているが、結局は話がまとまらずに終わる。このシリーズ最長の2時間27分という上映時間を費やしていながら、この体たらくだ。

 3つのプルトニウムが何者かに強奪されるという事件が発生。イーサン・ハントとIMFが事態の収拾に乗り出し、何とかプルトニウムを金銭取引によって回収する手筈を整える。しかし、そこに別のグループが乱入してプルトニウムを奪われてしまう。この事件の裏には、前回で壊滅させたはずの“シンジケート”の親玉が暗躍しており、手掛かりはジョン・ラークという正体不明の男の名前と、彼が接触するホワイト・ウィドウと名乗る怪しい女の存在だけ。

 イーサン達は、プルトニウムを取り戻して世界同時核テロを阻止するという新たなミッションを受ける。だが、IMFをイマイチ信用していないCIA当局は、任務に手練れのエージェントであるウォーカーを同行させることを要求。傲慢な彼にイーサンは辟易するが、何とかミッションを成功させるために行動を共にする。

 核兵器の材料が悪者の手に落ち、爆発までのタイムリミットが設定されていて・・・・という話は、今さら珍しくもない。IMFが孤立して、イーサン自身にも嫌疑が掛かる・・・・というモチーフも、過去に採用済のネタだ。かくも新味の無いメインプロットを観る者を退屈させずに最後まで引っ張るには、細部を精査して筋書きを練り上げなければならないが、これが全く評価出来ない。

 序盤の、プルトニウムが3個入ったケースをめぐる攻防戦は、もう呆れるほどあっさりと敵に出し抜かれてしまう。加えて、展開される銃撃戦もやたら画面が暗くて誰が誰だか分からない。しかも、この“暗くて何が何だか分からない”という展開が後半にもリプライズされる。男子トイレでの格闘場面は段取りが悪すぎてシラケるし、柱や壁が身体がぶつかっただけで簡単に破壊されるシーンはギャグとしか思えない。

 IMFと“シンジケート”との抗争であるはずが、なぜか仲介役の組織が出てきて、話を混乱させる。ラークと“シンジケート”のボスであるレーンの目的がハッキリしないし、それぞれの陣営がレーンの身柄の確保に固執する意味も、あまり無いように思える。そもそも、最初にプルトニウム奪った連中の正体さえ分からないのだ。さらに終盤の、イーサンの元女房が登場するくだりは必要ないだろう。

 確かに主演のトム・クルーズは頑張っている。スタント無しで危険なアクションに挑む姿勢は大したものだ。だが、個々の活劇シーンには新しいアイデアは無い。トム御大には敢闘賞は贈られても、技能賞には縁が無いだろう。

 ヘンリー・カヴィルやサイモン・ペッグ、レベッカ・ファーガソン、アレック・ボールドウィンといった脇のキャストも精彩を欠く。強いて印象的なキャストを挙げれば、ホワイト・ウィドウ役のヴァネッサ・カービーぐらいだ。監督は前回と同じクリストファー・マッカリーだが、本作では全然ピリッとしない。次回作がもしもあるのならば、もっとしっかりした脚本を用意して、タイトに仕上げて欲しいものだ。
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「マイセン幻影」

2018-08-26 06:13:56 | 映画の感想(ま行)
 (原題:UTZ )92年イギリス=イタリア合作。少しでも収集癖のある者にとって、この映画の主人公の生き方と内面に魅せられるだろう。かくいう私も、子供の頃には切手やコインを集めたし、今でも“映画の鑑賞歴”という事物を着実にコレクトしている(笑)。だから、私は劇中の登場人物ほどマニアックではないものの、モノに執着する人間の心情には共感してしまう。

 80年、プラハのオークション会場で、ニューヨークの古美術商マリウスはマイセン焼の人形のコレクターである初老の男、カスパー・ウッツと知り合う。2人は再会を約束してその場は別れるが、ウッツには秘密があった。彼の膨大なコレクションには、すべて国立博物館のラベルが貼られていたのだ。



 旧体制下のチェコスロヴァキアで、彼は社会主義政権に楯突きながら粛々と祖国の伝統工芸品を保管することに腐心していた。やがてマリウスはウッツが危篤状態になったことを知り、プラハを訪れる。だが、大量にあったはずのウッツ保有のマイセン焼はどこかに消えていた。イギリスの作家ブルース・チャトウィンの小説の映画化だ。

 とにかく、劇中で紹介されるマイセン焼の逸品の数々に見入ってしまう。そして、その美しさに心を奪われつつも、孤独な人生を歩み、そのコレクションの素晴らしさを共有出来る仲間に恵まれないまま世を去らねばならないウッツの境遇には、実に感じ入るものがある。

 見事な美術品も、抑圧的な社会に対して孤高を保った日々も、いずれ失われてゆく。その無常観は心に染みた。ジョルジュ・シュルイツァーの演出は映像構築に粘り強さを見せるが、どうにも展開がぎこちなく、味わいに欠ける。ラストの扱いも、もう少しドラマティックであってもいい。

 だが、主演のアーミン・ミューラー・スタールの仕事ぶりは確かなものだ(92年のベルリン国際映画祭で主演賞を獲得している)。ウッツの身の回りの世話をするメイド役のブレンダ・フリッカーも妙演だし、風変わりな科学者に扮するポール・スコフィールドは儲け役である。マリウス役のピーター・リガートも悪くない。

 関係ない話だが、陶器といえば、以前は佐賀県有田町で開催される陶器市に何度も足を運んだものだ。もっとも行った理由は親戚筋の付き添いであり、陶磁器に対してそれほどの興味は無いのだが、中にはそんな私でも目を見張ってしまう見事な商品に出会うこともある。こういう美しいグッズに囲まれた生活というのも、けっこうオツなものだと思ってしまった。
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「2重螺旋の恋人」

2018-08-25 06:34:18 | 映画の感想(英数)

 (原題:L'AMANT DOUBLE)フランソワ・オゾン監督としては珍しく、ホラー映画の方向に振った姿勢が見受けられるが、残念ながらサマになっていない。彼のスタイリッシュな映像スタイルと、スノッブな演出タッチでは、観客を怖がらせようとしても中途半端に終わる。企画の段階で、何やらボタンを掛け違ったような印象だ。

 若い女クロエは、原因不明の腹痛に悩まされていた。心因性ではないかという内科医の指摘を受け、精神分析医ポールのカウンセリングを受けることになるが、すぐに症状が軽減される。そして2人は恋に落ち、一緒に暮らし始める。ある日、クロエは街でポールに瓜二つの男を見かける。彼の名はルイで、どうやらポールの双子の兄らしい。しかも、職業も同じ精神分析医だ。

 ポールからルイのことを聞かされていなかったクロエは、興味を抱いてルイの診察室に足を運ぶが、ルイは優しく温厚なポールとは違い、乱暴で傲慢な男だった。だが、彼女はそんなルイにも惹かれていく。アメリカの女性作家ジョイス・キャロル・オーツの短編小説の映画化だ。

 双子というモチーフを採用した怪異譚としてはデイヴィッド・クローネンバーグ監督の「戦慄の絆」(88年)が思い出されるが、本作はあれには遠く及ばない。理由は明らかで、ドラマの焦点を双子の側ではなく、それに関わるヒロインに向けているからだ。姿形が一緒の人間が存在していることの根源的な不可思議さに言及されておらず、ここではただの“ネタ”としか扱われていない。

 ならば不条理な状況に追い込まれて次第に常軌を逸してゆくクロエの描き方が迫真的だったのかというと、これも不十分。アンジェイ・ズラウスキー監督の「ポゼッション」(81年)におけるイザベル・アジャーニの怪演ぐらいの域に持っていかなければ説得力は無いが、演じるマリーヌ・ヴァクトが元々モデルであるせいか、どこか小綺麗で表層的だ。実はクロエ自身にも双子のモチーフは内在するのだが、これが牽強付会に過ぎてシラケてしまう。

 オゾンの演出はクロエの立ち振る舞いや、大道具・小道具(特に鏡を多用したトリッキーな仕掛け)の使い方にファッショナブルなテイストを感じるが、タッチが一本調子なので途中で眠気を催してしまった。取って付けたようなグロ描写も、クローネンバーグやデイヴィッド・リンチ等と比べるのもおこがましい。

 モデルとしても知られるヴァクトの容姿は美しく、本人も頑張っているのだが、突き抜けるような求心力は不足している。相手役のジェレミー・レニエは、まあ“無難にやり遂げた”というレベルだ。ただ、クロエの母に扮したジャクリーン・ビセットはさすがの存在感を示していた。
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「硝子の塔」

2018-08-24 06:29:35 | 映画の感想(か行)
 (原題:SLIVER)93年作品。早い話が、92年に製作されて大きな話題を呼んだ「氷の微笑」の“柳の下の二匹目のドジョウ”を狙った映画である。もちろん、別に二番煎じがダメだというキマリは無く、良く出来ていれば文句は出ないのだが、どうもこれが芳しくない結果に終わったようだ。

 ニューヨークの出版社で働く女性編集者のカーリーは、7年間の不毛な結婚生活を終わらせたばかり。気分を変えるため、マンハッタンのガラス張りの超高層マンションに引っ越す。だが、そこの住人である大学教授のホールから、このマンションで若い女が不審死を遂げたことを聞かされる。不安を抱いたカーリーだが、それでも作家のジャックや、ゲームデザイナーのジークといった住人と知り合い、気分を紛らわせる。



 特にハンサムなジーグは彼女の好みのタイプで、すぐに懇ろな仲になるが、そんな折にまたマンション内で死亡事故が発生する。実はジーグはこのビルのオーナーであり、秘密のモニター室では全戸の中身が監視されていた。彼女はジークの覗き趣味に不安を感じるが、ある日ジャックが一連の事件の容疑者として逮捕されてしまう。アイラ・レヴィンの同名小説の映画化だ。

 ストーリーは取り立てて優れたものではない。だいたい、一介の編集者が超高級マンションに簡単に入居出来るはずがない(笑)。出てくるキャラクターは、マザコンのサイコ野郎だったり、性的なトラウマを抱いた怪しい男だったり、訳知り顔の大学教員だったりと、いかにも“それらしい”顔ぶれが芸も無く並んでいる。ラストに至っては、何やら観客に予想させる余地も無くバタバタと幕が下りるのみだ。

 しかし、主演が「氷の微笑」に続いて登板するシャロン・ストーンであることは、やはり冒頭で述べたように製作意図が丸分かりなのだ。カメラは彼女のボディを舐め回すように動き、悩殺的な入浴シーンもバッチリと挿入されている。つまりはストーンを主役にお色気路線で“「氷の微笑」の夢をもう一度”ということなのだろう。

 だが、監督のフィリップ・ノイスはどう見ても「氷の微笑」のポール・ヴァーホーヴェンのような筋金入りの変態ではなく、結果として平板な演出に終始。ウィリアム・ボールドウィンやトム・ベレンジャー、マーティン・ランドーといった濃い顔ぶれも、生かし切れていない。音楽にハワード・ショア、撮影にヴィルモス・ジグモンドという大物を起用しているのに、もったいない話である。
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「カメラを止めるな!」

2018-08-20 06:30:28 | 映画の感想(か行)

 とても楽しく観ることが出来た。序盤はよくあるゾンビ物のルーティンを踏襲しているように見えて、全編ワンカットの撮影に執着していることや、劇中の監督の常軌を逸した言動などで、独自性を大いにアピール。その後に描かれる“本編”のドラマは、畳み掛ける調子で全く弛緩した部分が無い。そして観終わって強く印象付けられるのは、作り手達の映画に対する熱い想いである。

 とある自主映画のスタッフとキャストが、ゾンビ映画を撮影するため、携帯電話も通じないほどの山奥にある廃墟にやってくる。低予算とはいえ監督は本気で、俳優の演技に満足せず、42テイクを重ねてもOKを出さない。すると、なぜかそこに本物のゾンビが現れ、撮影隊に襲いかかる。あたりは修羅場になるが、監督は“カメラはそのまま!”と言い放ち、水を得た魚のように活き活きと撮影を続行するのだった。

 これ以上ストーリーを紹介するのはネタバレになってしまうので差し控えるが、あえて言えば本作と近い構造を持っていたのが、三谷幸喜監督の「ラヂオの時間」(97年)だろう。もっともあれはラジオドラマに題材を求めており、今回の映画製作の話とは違うのだが、仕掛け自体は共通している。だが、ぬるいギャグと行き当たりばったりの展開に終始した三谷作品に比べて、この映画はこころざしもヴォルテージもはるかに高い。まさに快作だ。

 題材こそB級ホラーだが、監督の上田慎一郎の手による脚本は実にウェルメイドである。序盤から中盤に掛けて散りばめられた伏線が、終盤にすべて回収されていくというプロセスには、まさに映画的快感が横溢している。

 加えて演技陣も素晴らしい。低予算なので名のある俳優は出ていないが、全員大健闘だ。特に、監督役の濱津隆之とスタッフの一人を演じるしゅはまはるみの演技は、オーバーアクト一歩手前ながら目覚ましい求心力を発揮している。

 件のワンシーン・ワンカットで撮られたゾンビ映画の映像処理も上手くいっている。往年の名映画監督である牧野省三は“1スジ(脚本)、2ヌケ(技術)、3ドウサ(演技)”を映画作りの三大原則としていたが、この映画にはそのすべてが高いレベルで揃っている。

 本作は当初東京都内のミニシアター2館で公開されていたが、その後着々と上映館を増やし続け、やがて全国で100館以上の映画館での上映が実現している。これはひとえに、口コミの威力だろう。しかもそこには“ネタバレ厳禁”という魅力的なモチーフが付与されている。実に幸運なシチュエーションでヒットしたわけだが、上田監督の力量は確かだ。今後は次々と仕事のオファーが来ると予想するが、堅実なスタンスを崩さずに、面白い映画を作り続けて欲しい。
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「永遠と一日」

2018-08-19 06:25:02 | 映画の感想(あ行)
 (英題:Eternity and a Day)98年ギリシア=フランス=イタリア合作。北ギリシアの港町のテサロニキに住む詩人のアレクサンドレは、重い病を抱えて翌日に入院することになった。おそらく帰っては来られないことを自覚し、彼は実質的な人生最後の一日を迎える。彼はまず3年前に世を去った妻のアンナが遺した手紙を届けるために、娘カテリナが住む町に赴く。そして彼はアルバニアから来た難民の少年と出会う。アレクサンドレは少年を送り帰そうと国境までやって来るが、彼は国境の向こうには行こうとしない。2人の一日限りの旅はまだ続く。

 「シテール島への船出」(84年)以降のテオ・アンゲロプロス監督作は、世評の高さとは裏腹にその求心力は低下する一方であった。特に「ユリシーズの瞳」(95年)にいたっては、自分一人だけを高みに置いたような“お客様的視点”が全編を覆い、愉快ならざる気分になったものだ。しかし、この作品は違った。



 もはや「アレキサンダー大王」(80年)以前のような、歴史の当事者たる切迫したスタンスは望むべくもないが、その代わりに作劇のベクトルをひたすら主人公の内面に向かわせ、より普遍的な共感を呼ぶ作品に仕上げている。しかも、不必要に上映時間を延ばさず(アンゲロプロス作品としては短めの124分だ)、文字通りストーリーを1日に限定し、テーマも「家族」「愛情」「郷愁」etc.といった誰でも分かるものにしている。この方向性は成功だ。

 余命いくばくもない老作家と難民孤児のロード・ムービーという図式も実に明快(設定だけならハリウッド映画でもありそうだ)。迫った死期と過去への悔恨、しかしそれでもそれらを引き受けて新たな“一日”に踏み出していく主人公の決意には感動した。いつもの暗うつなギリシアの曇り空とは別に、抜けるような青い空と地中海が登場する回想シーンが素晴らしいコントラストを生む(それぞれ違うカメラマンが担当している)。エレニ・カラインドロウによる音楽も美しい。

 主演のブルーノ・ガンツは、彼のフィルモグラフィの中でも最上の仕事ぶりを見せる。イザベル・ルノーやアキレアス・スケヴィス、イザベル・ルノーといった他のキャストも万全。第51回カンヌ国際映画祭におけるパルム・ドール獲得作だが、それも頷けるほどのヴォルテージの高さだ。
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「スターリンの葬送狂騒曲」

2018-08-18 06:10:00 | 映画の感想(さ行)

 (原題:THE DEATH OF STALIN )ブラックコメディとしては良く出来ており、客席からは何度も笑いが起こった。もちろん、歴史的背景等をある程度知らなければ個々のネタはピンと来ないし、出演者の大半が“非・ロシア人”であることの違和感もある。だが、それらの減点要素を勘案しても、本作の面白さは無視できないレベルだと思う。

 1953年、ソビエト連邦の最高権力者スターリンは脳梗塞で危篤に陥り、後継者を指名することなく息を引き取った。そこで色めき立ったのが側近たちだ。彼らは大掛かりな国葬の準備を進める一方、虎視眈々と次期元首の座を狙っている。主要メンバーはスターリンの腹心だったマレンコフ、党第一書記のフルシチョフ、秘密警察の親分であるベリヤ、そして軍最高司令官のジューコフだ。互いに罠を仕掛け合い、嘘や裏切りなどは日常茶飯事。やがて、最後に笑う者と詰め腹を切らされる者との“区分け”が形成されてゆく。ファビアン・ニュリとティエリ・ロバンによるフランス製コミックの映画化だ。

 ベリヤ達は、それまで粛正のリストに従って反逆者(と思われる者)を次々と始末してきたが、そんな恐怖政治の有り様が日常茶飯事になり、誰も常識的に疑問を差し挟まなくなっている状況は、怖いと同時に滑稽ですらある。

 スターリンという“親玉”がいなくなっても、皆がまず現体制を維持することを考えてしまう可笑しさ。事態の収拾に当たった現場の者達が口封じのために容赦なく消されていく一方、スターリンのために医者を呼ぼうにもマトモな医者はすでに処刑されており、ヤブ医者しか残っていないという話は強烈だ。

 さらに、横暴の限りを尽くしたスターリンの葬儀に、一般国民が大挙して押しかけた事実には絶句するしか無い。結局、この国は独裁でなければ運営出来ないのだという真相が浮かび上がり、何とも言えない気持ちになる。また、本作が“西側”で作られたのも、昨今の排外主義の跳梁跋扈とは無関係ではあるまい。

 アーマンド・イアヌッチの演出はテンポが良く、ギャグの繰り出し方にも抜かりが無い。キャストは概ね好演だが、フルシチョフを演じるスティーヴ・ブシェミとベリヤに扮するサイモン・ラッセル・ビールとの“腹に一物ある狸オヤジ対決”は見ものである(笑)。ジェフリー・タンバーやマイケル・ペイリンといった脇の面子も良いのだが、反骨的な態度を隠さないピアニスト役のオルガ・キュリレンコがほぼ唯一のロシア系で儲け役だ。

 時代背景を再現したセットや美術は大したもので、ロケも当地で行っている部分もあるのだが、ロシア政府は国内での上映を禁止した。そのことがまた本作の製作意図とリンクしているようで、興味深い。
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「メッセンジャー」

2018-08-17 06:52:47 | 映画の感想(ま行)
 99年東宝作品。面白い。馬場康夫の演出は前作「波の数だけ抱きしめて」(91年)に比べて格段の進歩を見せ、ドラマが終盤に近づくにつれてグイグイ盛り上げていく。キャストも皆好調で。往年の東宝純正映画の明朗活発さがよみがえったという感じだ。“自転車便”という題材も良い。

 イタリアの高級ファッションブランド“エンリコ・ダンドロ”のプレスを担当をしている尚実は、不景気など関係ない派手な生活を送っていた。ところが“エンリコ・ダンドロ”が突然倒産。路頭に迷うことになった彼女は、さらに車を運転中に自転車便のスタッフを撥ねてしまう。賠償金など払えない尚実は、ケガをして離脱したその社員の代わりに自転車便の会社で働くことになる。



 慣れない肉体労働にヘトヘトになる尚実だが、顧客に感謝されたことを切っ掛けに、仕事に対して前向きになっていく。一方、大手商社の契約を取ろうとした自転車便会社は、居合わせたバイク便の細川とどちらが早く配達できるかを競うことになる。そして、見事勝利した彼らは商社の仕事を一括して受注することになったが、バイク便の会社はリターンマッチを申し込んでくる。

 ヒロインの尚実は、バブルの幻影を引きずって軽佻浮薄な日々を送っているものの、その脆弱な生活基盤が崩れてしまうと、途端に厳しい現実に直面する。新たに得た“地道に汗水垂らして働く仕事”によって、やっとアイデンティティが確立される。言うまでもなく、馬場が率いるホイチョイ・プロダクションズの仕事の根幹には、80年代末のバブル時代との距離感が大きな割合を占めている。

 バブル期に作られたそれまでの3作品は、いかにも時代に阿ったスタンスが鼻について好きになれなかったが、90年代末に撮られた本作においては、彼らなりの“バブルに対する決着の付け方(バブルは、しょせんバブルでしかない)”が見て取れる。その基本姿勢が形成されるのに、前作から8年もかかったと思えば何となく納得出来る。そして次作「バブルへGO!! タイムマシンはドラム式」(2007年)では、それが一層顕著になる。

 多くの登場人物が自転車に乗ったままであるせいか、ドラマはスピーディーで飽きさせない。悪辣な方法によって主人公達を妨害するバイク便会社に立ち向かい、あの手この手でライバルを出し抜いていくプロセスは、実に痛快だ。

 主演の飯島直子は絶好調。相手役の草なぎ剛もスポーティな感じでとても良い。京野ことみや矢部浩之、別所哲也、田中要次などの脇の面子も達者だ。そして加山雄三が“若大将そのまんま”で出てくるのには笑った。本間勇輔による音楽と久保田利伸の主題歌も効果的で、これはこの時期の日本映画を代表する痛快編だと言える。
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「私の人生なのに」

2018-08-13 06:35:46 | 映画の感想(わ行)

 設定だけ見れば典型的な“お涙頂戴の難病もの”のようだが、内容はとても丁寧に撮られた佳作だ。作品のクォリティはもとより、観ていて人生の在り方について考えさせるほどの求心力を持ち合わせている。観て損は無い。

 体育大学に籍を置き、新体操のエースとして期待されていた瑞穂は、ある日練習中に倒れてしまう。病院に担ぎ込まれた彼女は、脊髄梗塞と診断され、下半身がマヒ。車椅子での生活を余儀なくされる。絶望に打ちひしがれる瑞穂だったが、両親や友人達、指導教官らの励ましを受け、何とか落ち着きを取り戻そうとする。

 ある日、瑞穂は幼馴染みの淳之介と再会する。彼は中学生の頃に北海道に転校していたが、親とは理不尽な別れを強いられ、ストリートミュージシャンとして生きている。瑞穂の窮状を知った淳之介は、この町に舞い戻ってきたのだ。彼は瑞穂に一緒に音楽をやろうと持ちかける。最初は戸惑う彼女だが、彼の熱意に次第に心を動かされる。東きゆうと清智英による同名ライトノベルの映画化だ。

 災難に遭ったヒロインは、それでも恵まれた環境にいることは間違いない。両親とも良く出来た人物で、決して金に困っているような家庭でもない。友人達は協力的で、学校の教員も何かと世話を焼いてくれる。だが、このシチュエーションは御都合主義には見えない。それは、一方でシビアな淳之介の境遇を配置していて、作劇のバランスが取られているからだ。

 彼の父親は不動産取引に失敗して、妻には逃げられた挙げ句に、自分は行方をくらます。家族も住む場所もない彼にあるのは歌だけだ。ここには、不幸は誰にでも襲いかかってくるものだという作者の達観が見て取れる。そして、そこから再出発できる可能性も、また確固として万遍なく存在していることも描いている。

 瑞穂と同じようなハンディを負った女性が“誰でも人生の最後にはすべてを失って終わってしまう。私たちの場合は、その一部を失う時期が早かっただけだ”と言うが、これは心に染みた。また、淳之介の“たとえ身体は不自由でも、歌には自由がある”というセリフも良い。音楽の何たるかを的確に表現している。

 原桂之介の演出は正攻法に見えて、瑞穂と淳之介が並んで歩くシーンを手持ちカメラの長回しで粘り強く捉えるなど、随所に思い切った施策を取り入れているのは見上げたものだ。

 そして、何といっても本作を引っ張るのは主演の知英の大健闘である。セリフ回しはまだ拙い箇所もあるが、表情の豊かさには感服するしか無い。これだけ喜怒哀楽を無理なく表現出来る人材は、同じ二十代の日本の女優陣を見渡してもあまり見当たらない。加えて、冒頭の新体操の場面や車椅子を自在に扱うくだりを見ても、身体能力の高さが存分に印象付けられる。コンスタントに演技の仕事が入っているのも納得できる。

 相手役の稲葉友はこちらも逸材で、ピュアでナイーヴな持ち味が光る。落合モトキや高橋洋、赤間麻里子などの脇の面子の仕事も的確だ。
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