元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「恋の掟」

2016-02-29 06:32:02 | 映画の感想(か行)

 (原題:VALMONT )89年作品。何度も映画化されているコルデロス・ド・ラクロの古典的文学「危険な関係」だが、本作ではミロシュ・フォアマンがメガホンを取っている。確かにこの監督らしい絢爛豪華な舞台セットは一見の価値があるが、88年のスティーヴン・フリアーズ監督による映画化に堪能してしまった私としては、映画の内容は全くもって物足りない。期待はずれと言ってもいい。

 18世紀フランス。未亡人メルトゥイユ侯爵夫人は、かつての恋人で名うてのプレイボーイ、ヴァルモン子爵と共謀し、自分を裏切った男の婚約者セシルの処女を彼に奪わせようとする。一方ヴァルモンは貞淑な人妻である法院長夫人を狙っており、セシルの方は、音楽教師とのかなわぬ恋に落ちていた。こうして、絡み合った恋愛関係の中で欲望と機略が渦巻き、物語は思わぬ方向へ進んでいく

 思い起こせばフリアーズ版「危険な関係」は、まず配役が素晴らしかった。メルトゥイユ夫人にグレン・クロース、ヴァルモンにジョン・マルコヴィッチ、法院長夫人にミシェール・ファイファー、セシルにユマ・サーマンというキャスティングは、思い出しても鳥肌が立つ。加えて舞台劇を相当意識した実験的で思い切った演出と悲劇的な結末。スゴ味さえ感じさせた秀作であった。

 しかし、今回の「恋の掟」でメルトゥイユ侯爵夫人に扮するのはアネット・ベニング。大の男を翻弄させる性悪女を演じるには、当時の彼女は可愛すぎるし、軽すぎた。ヴァルモン子爵のコリン・ファースにいたってはプレイボーイどころか単なる青二才だし、法院長夫人のメグ・ティリーにしたってふてぶてしい鈍感娘でしかない。キャスティングを間違えているのではないかと思ってしまった。

 しかし、世紀末のデカダンを感じさせたフリアーズ版を追っても二番煎じになることはわかっていたはずで、フォアマン版として違うアプローチを見せていることは確かだ。原作より数十年さかのぼった設定にしており、暗さはなく、喜劇的要素さえある。壮絶な恋愛ドラマよりも、女たちに振り回される若者を描くオペレッタ調の軽妙な作品にしたかったということか。

 でも、その程度では「アマデウス」のフォアマンがわざわざ取り上げる意味もさしてない。あまり深みもなく、映像以外はすぐに忘れてしまう。まあ、アネット・ベニングの“スケスケ浴衣の大股びらき”(なんちゅう表現だ)のシーンだけは十分印象に残ったけど・・・・。
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「最愛の子」

2016-02-28 06:55:00 | 映画の感想(さ行)
 (原題:親愛的 Dearest)間違いなく、本年度アジア映画の収穫だ。理不尽な社会情勢に対する糾弾だけではなく、その中で必死に逆境に立ち向かう登場人物達を正攻法に描き切り、強い感銘を与える。キャストの素晴らしい仕事ぶりも含めて、見逃してはならない秀作だと思う。

 2009年、深センの下町でネットカフェを営むティエンは、離婚した元妻のジュアンと3歳の息子の親権を争い、その結果息子と一緒に住むことを認められた。今ではジュアンは週に一度、息子と会うことができる状況だ。ある日、母親が運転する車を追って通りを走り出した息子は、何者かによって連れ去られる。



 ティエンとジュアンは必死になって息子を探すが、その消息はまったくつかむことができない。それから3年の月日が流れ、両親は安徽省の農村で息子らしい子供を目撃したという情報を得て、警察と共に現地に乗り込む。彼らは掠うように息子を取り戻すが、息子はティエンとジュアンのことを覚えておらず、育ての親であるホンチンを母と呼ぶ。ホンチンはその子が誘拐されてきたとは知らず、死んだ夫がヨソの女に産ませたものだと思い込んでいたのだ。

 とにかく、容赦なく映し出される中国社会の不条理には驚かされる。横行する誘拐と人身売買。その被害者の多くは子供で、政府当局の発表では年間20万人もの子供が誘拐されているらしいが、実際はもっと多いだろう。加えて、一人っ子政策によって子供を失っても次の子を容易に持てない。無断で出産した子供は戸籍が無く、教育も医療も受けることができない。

 そして人を人とも思わぬ風潮が罷り通り、弱みにつけ込んでティエンから金をむしり取ろうとする輩が次から次へと現れる。また、学校もろくに出ておらず語彙も乏しいホンチンをはじめ、都会に住む人々と地方農民との絶望的な格差も浮き彫りにされる。



 ドラマの構成は重層的で、ティエンとジュアン(および新しい夫)の屈折した関係、息子を探すティエンの苦闘、行方不明になった子を持つ親たちの集まりであるNPOのリーダーの煩悶、ホンチンの生い立ちと彼女が助けを求める法曹関係者の家庭環境など、いくつものパートが並んでいるが、それらがすべてドラマティックに展開され飽和感などまったく覚えないのは見事と言うしかない。

 ピーター・チャンの演出は堅牢で、作劇の隅々にまで目を配り、周到にストーリーを盛り上げていく。ホンチン役のヴィッキー・チャオは最高のパフォーマンス。ルックスの良さを封印して、スッピンで垢抜けない農村の女を演じきる。ティエンに扮するホアン・ボー、ジュアン役のハオ・レイなど、出演者すべてが最上の仕事を披露してくれる。

 物語は二転三転し、思いがけない事実が発覚するラストまで弛緩したところがなく進むが、これらが実話に基づいているのには驚愕する。エンドクレジットで紹介される事柄の重さを含めて、観る者に強いインパクトを与えずにはおかない。
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「ソープディッシュ」

2016-02-27 06:38:00 | 映画の感想(さ行)
 (原題:SOAPDISH)91年作品。スペインのペドロ・アルモドヴァル監督作に対するアメリカからの“回答”みたいな映画である。内容もひたすらキッチュで悪意がこもっており、アルモドヴァル作品よりも面白いぐらいだ。何となく平凡な作風が印象付けられるマイケル・ホフマン監督も、今回に限っては随分とハジけている。やれば出来るのだ(笑)。

 かなり前からTV昼メロ番組の主演を張っている女優セレステは、今も絶好調。デイタイムTV賞の主演女優賞を今年もまた獲得した。しかしその後帰宅すると、付き合っていた男は家を出ていた。一方、番組プロデューサーのデイヴィッドは、共演女優のモンタナにゾッコンであり、彼女を主役にすべくセレステ追放の案を練っていた。彼がセレステへの当て付けに元夫で売れない俳優ジェフリーを連れてくると、セレステは番組に起用された駆け出し女優のローリーがジェフリーとの間に出来た娘であることを本番中に暴露。それがニュースで報道されて低迷気味だった番組の人気が再燃。デイヴィッドは複雑な気分になる。



 テレビ局を舞台にしたお笑い編だが、ド派手なタイトル・バックから、いきなり引き込まれる。その色合いとBGMは、もろにアルモドヴァルの「神経衰弱ぎりぎりの女たち」のポップなオープニング・シーンを思い出させる。中身もアルモドヴァル風で、原色ベースの“光り物”とペラペラ感を強調したチープなセットがこれでもかと映し出される。

 キャラクターも全員が悪趣味で一筋縄ではいかない。要するに自分のことしか考えていない。しかしながら、終盤はホームドラマとして筋書きを強制着陸させてしまうのだからアッパレだ。家族の絆とやらを一応は押さえているのがハリウッドらしいが、それがまた中盤までの悪ふざけを中和した形になり、全体としてけっこう面白く思えてしまう。

 主演のサリー・フィールドをはじめケヴィン・クライン、エリザベス・シュー、ウーピー・ゴールドバーグ、キャシー・モリアーティ、キャリー・フィッシャー、ゲイリー・マーシャル、ロバート・ダウニー・Jr.と、配役はかなり豪華。しかも彼らがセルフ・パロディみたいに業界人のゴーマンさを隠しもしないのだから愉快だ。ホフマン監督の演出はテンポが良く、アラン・シルヴェストリの音楽も好調。秀作でも何でも無いお手軽映画ながら、観ている間は楽しい時間を提供してくれる。
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「キャロル」

2016-02-26 06:35:48 | 映画の感想(か行)

 (原題:Carol )確かに“見た目”のクォリティは高く、世間の評判も良いが、私は大した映画だとは思わない。この映画にはラヴ・ストーリーにおける最重要ポイントが存在せず、それ故に鑑賞後の印象は実に希薄だ。第68回カンヌ国際映画祭では観客受けこそ良かったらしいが、結局は女優賞以外の賞を取れなかった理由はそこにあると思う。

 クリスマス・シーズンを迎えた1952年の冬。ジャーナリストを夢見てマンハッタンにやって来た若い女テレーズは、デパートの玩具売り場でアルバイトをしていた。ある日彼女は、デパートに娘へのプレゼントを探しに来たエレガントでミステリアスな中年女キャロルと、ひょんなことから懇意な間柄になる。

 それ以来2人は頻繁に会うようになるが、いつしかテレーズはキャロルに対して好意以上のものを抱くようになる。キャロルは実は夫と離婚訴訟中であり、それは彼女の“性癖”によるものだった。私生活でのゴタゴタを振り払うように、キャロルはテレーズを車での小旅行に誘う。2人にとって忘れられない旅になったが、唐突な形でそれは終わりを告げる。

 本作の最大の欠点は、恋愛映画につきものの熱いパッションが見当たらないことだ。しかも、50年代という同性愛に対して一般的な理解も無い時代にそれを貫徹しようとするには、激しい恋愛衝動と生々しい情念が必要なはずだが、それがまるで感じられないのは本当に困ったものだ。

 恋人との結婚に及び腰で将来に不安を抱いている若い女と、過去の経緯で離婚を迫られている有閑マダムが、何となく知り合って何となく“その性癖”を相手に見出し、何となく懇ろになったという、まるで煮え切らない筋書きが提示されるのみだ。

 前にも書いたが、女性同士の恋愛を描いた映画の最高傑作は、個人的には矢崎仁司監督の「風たちの午後」(80年)だと思っている。あの作品に横溢していた鮮烈な情念には圧倒されたものだが、この「キャロル」はその足元にも及ばない。主人公達の退屈なやり取りの果てに、どうでもいいようなラストが待ち受けている。

 キャロルに扮したケイト・ブランシェットは相変わらずの熱演だが、やればやるほど身勝手でギスギスしたヒロイン像が強調され、とても魅力的だとは思えない。テレーズ役のルーニー・マーラは凄く可愛い(こんなに可愛い女優だとは思っていなかった)。だが、どこか“可愛いだけ”みたいな雰囲気が漂って映画的な魅力に昇華しない。

 ジュディ・ベッカーによる美術、エド・ラックマンの撮影、カーター・バーウェルの音楽および既成曲、いずれも満点。そしてサンディ・パウエルが担当した衣装デザインは、素晴らしいの一言だ。しかしながら、トッド・ヘインズ監督がやはり50年代を扱った「エデンより彼方に」(2002年)と同じく“外観のみOK”という結果になったのには、脱力せざるを得ない。
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民主党は馬鹿の集まりか?

2016-02-23 19:38:35 | 時事ネタ
 去る2月17日、民主党の幹事長の枝野幸男は“消費税率の10%への引き上げについて、軽減税率が導入された場合や衆議院議員の定数削減が実施されない場合には反対する”という考えを示したらしい。また“消費税率の引き上げ前には低所得者対策を十分に行う、それから社会保障の充実、定数削減をセットで行うべきである”とも述べたとか。

 正直、馬鹿としか言いようがない。だいたい、議員の定数削減が消費税率の引き上げ反対の“取引材料”になるほど大それたものだと思っていること自体が噴飯ものだ。じゃあ、議員定数の削減や軽減税率の見送りが実行されれば、民主党は嬉々として消費税率アップに賛同するとでもいうのだろうか(呆)。

 2014年12月の前回総選挙の際の世論調査でも明らかなように、国民が政治に最も期待しているのは景気対策である。議員の定数削減なんかではない。ましてや、昨年(2015年)一時的に盛り上がったような安保法制の是非なんか、多くの国民にとっては“どうでもいい話”なのだ。あくまで大事なのは“目先の金”や“日々の生活”のことである。

 安倍政権は盛んに経済政策での実績をアピールしているようだが、最近の世論調査では常に7割もの人が“景気回復を実感していない”と答えている。ならば、野党第一党としてはこの国民の痛切な思いを汲んで、現政権よりも効果的な景気対策案を打ち出すべきではないのか。低所得者対策や社会保障の充実なんてのは、経済マクロの回復を前提に議論する話であり、それらを先行して論っても“木を見て森を見ない”ような結果にしかならない。

 それにしても、当の枝野が“金利を上げれば景気が良くなる”などという妄言を堂々と披露していることに代表されるように、民主党の連中はことごとく経済音痴である。元首相の野田佳彦に至っては“確実な消費税率アップを求める。今上げなければ、ずっと上げられない。財政の危機は深刻だ”などと、頭がおかしいとしか思えないような寝言を披露する始末だ。

 もちろん、今の安倍政権の経済政策は全然十分なものではないが、民主党の政治家は(代表の岡田克也を筆頭に)経済政策そのものの重要性さえ理解していない。現政権が今でも高い支持率をキープしているのは、曲がりなりにも経済政策(のようなもの)を実行しているからであり、国民は経済政策の何たるかを全然分かっていない野党側に政治を任せるよりも数段マシだと見切っているからだろう。

 民主党が本当に国民生活のことを考えているのならば、議員の定数削減みたいな小ネタを振るのではなく、堂々と“消費税率アップは日本経済に悪影響を及ぼすから、絶対に認められない。それどころか景気が回復するまで5%に戻すべきだ”とか何とか主張しなければならない。

 今のままでは、もしも次の参院選の際に現政権が“消費税率アップをまた延期する”という公約を掲げて衆参ダブル選挙を仕掛けてきた場合、民主党は壊滅的な打撃を受けるだろう(解党もあり得るかもしれない)。まあ、経済のことを知らない馬鹿の集まりが政界から消えるのは良いことだが、与党を監視すべき立場にある野党の第一党が極端に弱体化するのは国民にとって選択肢が無くなることを意味しており、望ましい話ではないだろう。

 いずれにしても、今の日本に国民生活のことを第一義的に考え、なおかつヨソの国の走狗でもない真の意味での保守政党が存在していないことは、実に不幸なことだと思う。
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「ジェイコブス・ラダー」

2016-02-22 06:56:41 | 映画の感想(さ行)
 (原題:JACOB'S LADDER)90年作品。エイドリアン・ライン監督は80年代から90年代初頭まで話題作を連発したが、今世紀に入ってめっきり仕事も減り、長らく開店休業状態に追い込まれていた。やはり、スタイリッシュな“外観のみ”を売り物にする作家は賞味期限が短いのであろう。本作は彼の脂の乗りきっていた時期に撮られており、最後まで飽きさせない求心力は感じられる仕上がりだ。

 ベトナム帰りのジェイコブは、突然ニューヨークの地下鉄の車内でかつての戦場の記憶が蘇り、それ以来彼の日常には奇妙な幻覚が交錯するようになる。恋人のジェジーは“気のせいだろう”と取り合わないが、症状は酷くなるばかりだ。ジェイコブはかかりつけの医師に相談しようとするが、なぜか医師は既に死亡しており、彼のカルテも紛失している。かつての戦友ポールに会うと、彼もまた同じ幻覚に悩まされており、やがてジェイコブと同じ隊だった者たちが全員悪夢を体験していることが明らかになる。そんな彼の前にマイケルという怪しい医者が現われ、原因は当時の軍が開発したラダーと呼ばれる幻覚剤によるもので、ジェイコブの隊はその実験台にされたという事実を告げる。政府当局から口封じのために命を狙われるようになったジェイコブは、友人のルイの助けを得て、必死の脱出を試みる。



 政府の陰謀を巡るサスペンス劇は、実は大して面白くもない。ありがちな素材であり、ありがちな筋書きを追うのみだ。しかしながら、夢と現実とが交差したようなモチーフの波状攻撃は、目を離せない。

 たとえば別れたはずの妻のベッドで目覚めたジェイコブが、ジェジーと同棲している夢を見たと言った途端、それもまた夢であったというようなパターンの繰り返しは、観る側にとって何が映画のメインストーリーなのか分からなくなる。だが、それが決して独りよがりではなく、良くできたマジックのような“上質の幻惑感”を与えてくれるのはさすがだ。

 しかも、重傷を負ったジェイコブが野戦病院に運ばれるという戦時中のエピソードが思わせぶりに挿入されるあたり、作劇上の仕掛けは二重・三重にも及んでいるらしいことは分かるが、あまりにもシビアな真相が内包されていることを暗示させ、なかなかのインパクトを与える。

 最後は“意外な結末”になるが、アメリカにとって何の利益にもならなかったあの戦争を、イギリス人であるライン監督がシニカルに告発しているようで、見終わった後の苦い味わいは格別だ。

 主役のティム・ロビンスは好演。エリザベス・ペーニャやダニー・アイエロ、マット・クレイヴンといった脇の面子も良い。ジェフリー・キンボールのカメラによるクールな画調と、モーリス・ジャールの格調の高い音楽も場を盛り上げる。

 なお、ライン監督が久々に新作を撮るというニュースが流れている。得意のサスペンス編らしいが、どのようなスタイルに仕上がっているのか、少し楽しみだ。
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「猫なんかよんでもこない。」

2016-02-21 06:40:11 | 映画の感想(な行)

 猫の映像以外には、何ら見るべきものがない映画だ。確かに猫好きにはたまらない作品だと思う。しかし、あいにく私は猫には興味はない(ちなみに、犬にも興味はない。要するに動物にはとんと縁が無い ^^;)。だから、いくら猫が可愛い仕草をしても、映画自体の出来の悪さもそれで笑って許すような気にはなれないのだ。

 漫画家の兄と暮らしている主人公のミツオは若いボクサーだが、成績はいまいちパッとしない。ある朝、ジョギングの途中で子猫が2匹捨てられているのを見つける。猫嫌いの彼は無視して帰宅するのだが、外出していた兄が帰ってくると、両手に先ほどの猫を抱えているではないか。しかも、2匹の猫の世話を押し付けられてしまう。そんな中、試合後の健康診断でミツオは網膜剥離の一歩手前であることを知らされる。思わぬ形でボクサー生命を絶たれ、さらに兄が田舎に帰ることになって一人暮らしをするハメになったミツオの、苦難の日々が始まった。

 猫の描写は良く出来ている。圧倒的に可愛い。特にミツオが床に入ると2匹がダッシュで布団に潜り込もうとするあたりは、実に微笑ましい。だが、人間側の描き方のつまらなさは致命的だ。

 主人公の兄が漫画家をやめて実家に戻るのは、結婚するためらしい。しかし、ミツオには事前に何も知らせず、式に招待した形跡も無い。それ以前に、兄の漫画に対する思い入れも示されない。一転して貧乏生活を強いられる主人公だが、全然困窮しているようには見えない。それどころか猫の餌だけはしっかりと購入している。

 ミツオは猫を可愛がっているように見えて、妙に放任主義。果ては獣医の言うことも聞かずに、結果として一匹を死なせてしまう。時間の進行具合が分かりにくく、季節感も掴めない。猫の成長ぶりを見て何となく想像するしかないのだ。

 そもそも、この映画に主に出てくるのはミツオと兄の他は、主人公のバイト先の同僚である若い女とアパートの大家、この4人しかいない。別に“登場人物は多いほど良い”と言うつもりは無いが、魅力に乏しい主人公をカバーするために多彩なキャラクターを脇に配するという方法もあったはずだ。山本透の演出はテンポが悪く緩慢で、キレもコクも無い。主役の風間俊介をはじめ兄に扮するつるの剛士、松岡茉優、市川実和子、いずれも精彩を欠く。特に風間のワザとらしい一人芝居にはウンザリした。

 それにしても、この映画の時代設定は分かりにくい。登場人物達が使っている通信機器を見ると2,30年前のようだが、そのことに準拠した作劇面での工夫があるかといえば、全然見当たらない。何やら企画段階でも“猫の可愛い姿を披露しておけばそれで良し。あとはどうでもいい”といったノリだったことが想像できるような体たらくである。
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「新選組始末記」

2016-02-20 06:30:11 | 映画の感想(さ行)
 昭和38年作品。この頃の大映によるプログラム・ピクチュアの質の高さが如実に感じられる映画だ。当時こういうレベルの作品群に観客は常時接することが出来たのだと思うと、何と映画ファンにとって良い時代だったのかと感心してしまう。

 若い浪人の山崎蒸は新選組の近藤勇に憧れ、恋人志満の反対を押し切って入隊する。だが加入したのも束の間、土方歳三が局長の芹沢鴨を暗殺する事件が勃発。近藤が次の局長の座に就くが、このクーデター騒ぎに山崎は嫌悪感を抱く。同時に土方から目の敵にされ、彼の隊の中での立場が危うくなる。



 やがて山崎は土方から罠をかけられ、粛清の対象になりそうになるが、近藤の取り計らいによって難を逃れる。そんな中、土方は捕えた勤皇浪士から尊皇派の会合が四国屋で行われることを聞き出すが、山崎が掴んだ情報では会合は池田屋で開かれるらしい。山崎の意見を無視して四国屋に全勢力を差し向けるように主張する土方だったが、近藤は山崎を信用し、斬込み隊を二手に分けることにする。かくして新選組は尊皇派との全面衝突に突入する。

 武士道の本質を求めて組に入った山崎が、次第にテロと内ゲバに走っていく周囲の状況に苦悩する様子が生々しく描かれている。まるで戦場のような池田屋事件の場面なども含め、イデオロギーに狂った人間の本質に容赦なく迫った作劇には圧倒されるばかりだ。また、単なる当時の社会情勢の暗喩といった次元を超えて、現代にも通用するインパクトをも獲得している。

 三隅研次の演出はキレが良く、弛緩したところが無い。本多省三によるカメラワークも万全で、アクション場面の段取りと殺陣の素晴らしさは言うまでもなく、存分に楽しませてくれる。山崎役は御馴染みの市川雷蔵だが、ナイーヴな青年像を上手く表現している。近藤に扮する若山富三郎、沖田総司を演じる松本錦四郎、ヒロイン役の藤村志保と、脇の面子も抜かりがない。特に土方役の天知茂は憎々しい快演で、この俳優の実力を大いに見せつけている。

 史実では新選組はやがて壊滅し、山崎も官軍との戦闘で命を落としてしまうが、歴史の大きなうねりは個々人の矜持を簡単に踏みにじっていくものだということを、改めてしみじみと思う。
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「ヤクザと憲法」

2016-02-19 06:38:00 | 映画の感想(や行)
 観る価値は十分にある注目作だ。ヤクザと人権問題に迫ったドキュメンタリー作品という触れ込みだが、それよりもヤクザを取り巻く環境、ひいては我々が住む社会の問題点をあぶり出している点が出色である。そもそもヤクザに“人権”があるのかどうかという、身も蓋も無い極論を軽く粉砕してしまうほどの重量感が、この映画にはある。

 取材対象は、大阪の指定暴力団“二代目東組”傘下にある“二代目清勇会”である。スタッフが組員達と取り交わしたルールは“取材謝礼金は支払わない”“収録テープ等を放送前に見せない”“顔のモザイクは原則しない”というもの。

 製作は戸塚ヨットスクール事件を扱った「平成ジレンマ」、四日市公害問題を扱った「青空どろぼう」など、ドキュメンタリー番組で数々の実績を上げた東海テレビだが、この一歩も引かない姿勢は評価されるべきだし、それ以上にその制約を受け入れた清勇会のスタンスが実に興味深い。つまり昨今は平気で“人権”が蹂躙される風潮がはびこり、本来アウトローであるはずの彼ら自身もそのあおりを食らって、シャレにならないほど追い詰められているということなのだ。

 ヤクザにはマトモな商取引は許されず、部屋も借りられない。ヤクザの子供は保育園から入園を断られる。山口組の顧問弁護士である山之内幸夫も登場し、組員の窮状を訴える。もちろんこれらは暴対法等による締め付けに端を発していることなのだが、では社会から爪弾きにされている彼らを受け入れるところが世の中にあるのかというと、まず存在しないのだ。

 取材先の清勇会のメンバーの中で最も印象的なのは、二十歳そこそこで入った若い組員だ。あまり人付き合いが上手には見えない彼は、おそらくは家庭にも学校にも居場所がなかったのだと思われる。劇中で彼が何か不手際をおこない、兄貴分からヤキを入れられる場面がある。鼻血を出しながら落ち込んでしまう彼だが、その後で年嵩の組員が一緒に食事を取ったりしてフォローする。カタギの世界では傷心の彼に声を掛ける者もいなかったであろうことを考えると、ヤクザ組織の方が彼にとって住み易かったりするのは何とも皮肉だ。

 ディレクターのひじ方宏史は当初定められた“事務所での取材時間は朝から夕方まで”という取り決めを守りつつも、個別の組員に対しては私生活に肉迫したアプローチを敢行して驚かされる。特に何かヤバいものを売買している現場をとらえたシークエンスは、警察沙汰一歩手前の緊張感がみなぎって圧巻だ。

 終盤で清勇会の親分が取材陣の“ヤクザを辞めるという選択肢はないのか”との質問に対して“辞めても他に行くアテなんか無い”と言い放つシーンは痛切だ。確かに反社会的集団は糾弾されても当然だが、彼らを叩くばかりでは根本的な問題は何一つ解決しないのである。はぐれ者にも行き場が用意され、社会の構成員の端くれとして生きられる世の中こそが、あるべき姿だろう。ただでさえ出口の見えない不況も相まって、一面的で例外を認めないような硬直した風潮が罷り通ってしまう昨今である。
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「タクシー・ブルース」

2016-02-15 06:23:26 | 映画の感想(た行)
 (原題:TAXI BLUES)90年ソビエト作品。ペレストロイカが進められていたソ連で作られているが、当時の状況及びその後のロシア社会の予想図を如実に伝えているという意味で、実に興味深い映画だ。政治体制の改革運動が必ずしも人心を良い方向に導かないことを、ヴィヴィッドに描き出している。

 モスクワのタクシー運転手のシュリコフは、ある日客として乗せたユダヤ人のサックス奏者のリョーシャが一文無しであることを知り、怒ってサックスを担保として取り上げる。しかし、リョーシャはそれが原因で失業してしまう。責任を感じたシュリコフは彼に住む場所を提供し、2人の奇妙な共同生活が始まる。そんな折、アメリカから来た有名なミュージシャンに認められたリョーシャは、シュリコフのもとを離れてアメリカツアーに同行。やがて人気者になる。モスクワで凱旋公演をおこなうことになったリョーシャに対し、シュリコフは嫉妬に近い感情を抱く。そしてコンサートが終わった後、2人の関係は退っ引きならない状態へと追い込まれていった。



 言うまでもなく、シュリコフは古い体制のソ連を代表する人物で、リョーシャのキャラクターは改革後の新しいロシアをイメージしている。だが、リョーシャの不遜な振る舞いをみても分かる通り、ペレストロイカ後のロシアがそれより前の時代に比べて決定的に良くなったのかというと、決してそうは言えないのだ。

 鬱屈した雰囲気の共産党の一党独裁から、体制だけは民主化の装いを見せても、国民の心は落ち着きを得られない。何しろシュリコフはヘタに自由なアメリカの文化を目の当たりにした結果、単に暴力衝動を募らせるだけに終わってしまうのだから。このディレンマは現在においても尾を引いており、詰まるところ独裁の担い手が共産党からプーチン一派に変わっただけで、全体主義的な傾向は継続したままだ。

 パーヴェル・ルンギンの演出は粘り強く、タクシーの中や運転手のアパートなどの閉じられた空間おける人間同士の葛藤を容赦なく描ききる。また、時折映し出される(変わりゆく)モスクワの街の風景との対比は見事だ。主演のピョートル・ザイチェンコとピョートル・マモノフの演技も目覚ましい。同年のカンヌ国際映画祭で監督賞を受賞。見逃せない力作である。
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