元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「37セカンズ」

2020-02-29 06:29:31 | 映画の感想(英数)

 御都合主義的なモチーフや無理筋の展開が目立つが、それでもこの映画を評価したい。斬新な主題と、キャスト(特に主演)の目を見張る働きにより、大きな求心力を獲得している。また、これが長編第一作になる新鋭監督の素質と将来性をも感じさせる。第69回ベルリン国際映画祭にて、パノラマ部門の観客賞及び国際アートシアター連盟賞を受賞。

 23歳の貴田ユマは、生まれた時に37秒間呼吸が止まっていたことが原因で脳性まひになり、車椅子生活を送っている。両親は離婚しており、母親との二人暮らしだ。母親の恭子は熱心にユマの面倒を見ているのだが、明らかに過保護で娘に自由な行動をさせない。

 ユマは漫画家である友人のSAYAKAのアシスタント(という名のゴーストライター)をしてわずかな収入を得ているが、そんな境遇に満足できず、ある日自作の漫画を出版社に持ち込む。だが、編集長は“いい作品を手掛けるには、人生経験(主に異性関係)を積まないとダメだ”と一蹴。そこでユマは、初めて母親の庇護から離れて自分の思い通りに振る舞うことを決意する。

 ユマの父親はどうして出て行ったのか分からず、また主人公が性格の悪そうなSAYAKAの下働きに甘んじている理由も不明。ユマは歓楽街で舞という頼りになる年上の女と出会うのだが、その経緯が不自然。さらに後半は自らの家族の秘密を探るために、ユマは長い旅に出るのだが、唐突な展開であることは否めない。

 しかしながら、主演女優の存在感はそれらの欠点を忘れさせるほど大きい。ユマに扮する佳山明はこれが映画初出演だが、彼女は本物の身障者だ。その、自らをさらけ出したような捨て身の熱演には圧倒させる。序盤の、母親と入浴するシーンには驚かされたが、続く歓楽街に単身乗り込むシークエンスや、不自由な身体をものともせずに遠くへ旅に出かけるくだりには感心するしかない。

 そして、本作は“ハンデを持った女性の性欲”を正面から取り上げた初めての作品かもしれない。今までベン・リューイン監督の「セッションズ」(2012年)や松本准平監督の「パーフェクト・レボリューション」(2017年)のように“身障者の男性の性欲”にスポットを当てた作品は存在したが、女性は珍しい。しかも本作ではセンセーショナルに扱わず、セックスを主人公が外界に接する媒体として機能させている。脚本も担当したHIKARI監督も女流であることも大きいと思うが、これは慧眼と言えよう。

 母親に扮する神野三鈴と舞を演じる渡辺真起子のパフォーマンスも素晴らしく、ドラマを絵空事にさせないことに貢献している。板谷由夏や大東駿介、萩原みのり、芋生悠といった脇のキャストも万全だ。感動的なラストも含めて、観た後の満足感は大きい。江崎朋生とスティーヴン・ブラハットによる撮影、アスカ・マツミヤの音楽も及第点だが、CHAIによる挿入曲が最高だ。
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天神ビッグバン

2020-02-28 06:29:37 | その他

 福岡市中央区天神の商業施設、天神ビブレが今年(2020年)2月11日をもって閉館した。実質的にビブレと同じロケーションであった天神コアも同年3月末で店じまいである。隣の福岡ビルは2019年に閉鎖され、今は解体工事中だ。これらの動きは、天神地区の再開発プロジェクト“天神ビッグバン”の一巻である。

 この施策は2024年までに民間ビル30棟を建て替え、延べ床面積を現在の1.7倍、雇用を2.4倍に引き上げることを予定しているという。経済波及効果は年あたり8,500億円にものぼるらしい。まあ、実際にそれだけの数字になるかどうかは分からないが、地方都市では珍しい大規模な事業であることは間違いない。

 面白いのは、同地区のデパートなどの競合施設が、垂れ幕で惜別の言葉を伝えたこと。間もなく閉店する天神コア側も“ありがとう、大好きなまち「天神」”とのメッセージを返している。これを見て、ネット上では賞賛の声があがっているらしいが、確かに他の地域では見られない現象だろう。

 だが、近年は博多駅エリアが台頭していることもあり、各店舗は天神地区自体の集客を狙わなければやっていけないことも関係している。他店舗の足を引っ張っているヒマは無いというのが実情か。しかしながら、理由はどうあれ、商業施設同士のエール交換は決して悪くない施策だと思う。

 ただし、福岡ビルと天神コアなどの跡地に新しいビルが建つのは4年後だ。その間に天神の買い物客の動員が落ちないようにするのは並大抵のことではない。各商業施設は頑張って欲しい。

 あと、残念なのは今回の“天神ビッグバン”には映画館の新設が網羅されていないことだ。天神東宝が閉館してから数年経つが、いまだに新規開館の話を聞かないのは寂しい。5月の連休前には“キノシネマ天神”がオープンするが、名前に“天神”と付いてはいるものの、場所は天神地区ではなく隣接する警固地区で、西鉄福岡駅や地下鉄天神駅から離れている。映画好きが多い土地柄なので、何とかして欲しかったというのが本音である。
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「前田建設ファンタジー営業部」

2020-02-24 06:27:38 | 映画の感想(ま行)

 いかにも英勉監督作品らしい狂騒的なライトコメディだが、その中に無視できない重要なモチーフが織り込まれており、ドラマに厚みを持たせている。もっとも、作者はそれに気付いているかどうかは定かではない(笑)。とにかく、やたら大袈裟なこの監督の作風に一度慣れてしまえば(慣れない場合はお気の毒さまだ ^^;)、あとはラストまで引っ張ってくれる。

 2003年、大手ゼネコンの前田建設の広報グループ長である浅川は、ある日部下に対してとんでもないことを言い出す。何と、TVアニメ「マジンガーZ」に出てくる地下格納庫を建設してほしいとの依頼を、光子力研究所の所長である弓教授から受けたというのだ。もちろん、実際に作るわけではないが、フィクション世界の構造物を現在の技術で建設したらどうなるかを検証する、企業ホームページ上の企画だ。

 言い換えれば、実際の施工以外のことを全てやるということである。設計から資材調達計画、綿密な工程積み上げを経て、見積書提出までを“本気で”おこなう。若手社員の土井航はこの話に面食らうが、関係各署にリサーチする間に、次第にこの大きな架空プロジェクトにのめり込んでゆく。実在する企業のブログの映画化だ。

 小木博明扮するグループ長の大仰な言動にはドン引きする面もあるが、土井をはじめとするスタッフの奮闘には見ていて盛り上がる。ゼネコンにおける広報担当なんてのは、設計施工や営業などのメインのセクションに比べると“窓際”扱いされても仕方がない。実際、土井も何となく大学を出て何となく入社し、何となく日々の定型業務をこなしていただけ。他のメンバーもヨソの部署から飛ばされた風采の上がらない面子ばかり。

 そんな奴らが、目的意識に目覚めて奮闘する。いわばスポ根もののルーティンを踏襲しているわけで、違和感は覚えない。本作のハイライトは、各メンバーが工程のエキスパート(他企業も含む)と知り合うことにより、仕事の重要性を再認識するところだ。関係企業の協力による工程や成果物の紹介は、登場人物の内面を変化させるに十分な説得力を持つ。

 そして冒頭に述べた“重要なモチーフ”とは、現在この企業ノウハウや設備が活かされていないことを暗示していることである。本作は2003年の話だが、それから“コンクリートから人へ”などという内容空疎なスローガンを掲げた政党が政権を取って、その後の政権も緊縮財政策で公共投資を縮小させた挙句、建設業は左前になってしまった。本作はそのような構図を暗示させていたたまれない気持ちになる。何とかしてこの緊縮トレンドを抜け出してほしいものだ。

 土井を演じる高杉真宙をはじめ、岸井ゆきの、鶴見辰吾、六角精児、町田啓太、上地雄輔と、キャストは皆頑張っている。ゲストとして永井豪が顔を出しているのも嬉しい。そしてラストの処理は(文字通りマンガ的だが)けっこうウケた。
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「わが青春のフロレンス」

2020-02-23 06:29:51 | 映画の感想(わ行)
 (原題:Metello )70年イタリア作品。20世紀初頭のフィレンツェ(フロレンス)を舞台に、労働運動に身を投じた青年の、波乱万丈の日々を描いた社会派ドラマ。・・・・というのは表向きで、実相は苦労しながらも世の中を都合よく渡ってゆくプレイボーイ野郎の痛快一代記だ(笑)。当時はアイドル的な人気を集めていた歌手のマッシモ・ラニエリが主役で、彼の色男ぶりがとことん強調される作劇も微笑ましい。

 幼い頃に両親を亡くし、田舎に預けられて育ったメテロは17歳の時、養父母の元を離れて生まれ故郷のフィレンツェに戻ってきた。父の古い友人ベットの紹介で煉瓦工の仕事を始めるが、ベットは実はアナキストで、メテロは社会主義思想を彼から教え込まれる。メテロはやがて仕事上で知り合った未亡人のヴィオラと仲良くなる。彼は真剣に彼女と一緒になることを考え始めたものの、徴兵され3年あまり軍で過ごすことになる。



 兵役を終えてフィレンツェに帰った彼をヴィオラは迎えるが、彼女はすでにメテロの手の届かない立場に置かれていた。仕事に戻った彼の周囲では組合運動が激化し、会社側との間に衝突が繰り返されていた。事故で死んだベテラン社員の葬式に出席したメテロは、その娘エルシリアと出会い、心を奪われる。交際を経て彼女と結婚したメテロだが、やがてアパートの隣に住む人妻イディナと懇ろな中になる。

 20世紀はじめに芸術の都から工業都市へ変わりつつあるフィレンツェで、労働者として階級意識に目覚め、立ちはだかる資本家に戦いを挑む主人公の姿を“真面目に”追っていればそこそこ重量感のある歴史劇になったはずだが、どうにもメテロは下半身がだらしがない。ドラマはそんな彼の所業をネガティヴに扱うどころか、都合のいい時に都合のいい女が助けてくれるという、文字通り御都合主義の権化みたいな展開を大っぴらに提示する。

 ただし、それが全然欠点にはなっておらず、ヘタすると重苦しくなりがちな題材を、いい按配で“中和”してくれるという、怪我の功名みたいな様相を呈しており、けっこう楽しめる。マウロ・ボロニーニの演出は取り立てて上手いとは思えないが、主人公のキャラクターと丁寧な時代描写に助けられてボロを出さない。

 M・ラニエリは快演で、ヘヴィな境遇にあってもノンシャランにトラブルを回避してゆくメテロをうまく表現している。エルシリアに扮するオッタヴィア・ピッコロ、イディナ役のティナ・オーモン、ヴィオラを演じるルチア・ボゼーと女優陣はすべて美しく、この頃のイタリア女優の層の厚さを感じさせる。エンニオ・グァルニエリのカメラがとらえたフィレンツェの奥行きのある町並みは、作品に格調高さを与えている。そしてエンニオ・モリコーネによる映画音楽史上に残る名スコアが全編に渡って鳴り響き、鑑賞後の印象は決して悪いものではない。
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「AI崩壊」

2020-02-22 06:55:30 | 映画の感想(英数)

 一見すると安っぽい活劇で、脚本にも難がある。だいたい、コンピューターが反乱を起こすというネタ自体が古めかしい。しかし、ここで扱われている主題はタイムリーでシリアスだ。言い換えれば、このテーマが今日性を獲得してしまう世相の方が問題なのだ。その意味では、観て損は無い。

 2030年の日本。成長が見込めなくなった国家を救うべく、天才科学者の桐生は医療AI“のぞみ”を開発する。それは全国民の個人情報や健康を管理する、社会基盤の一つとして確立してゆく。ところがある日、突然“のぞみ”が暴走を始める。生きる価値のない人間を勝手に選別し、容赦なく命を奪ってゆく。しかも、桐生の娘が“のぞみ”のサーバー室に閉じ込められるという事故が発生。

 一刻の猶予も無い状況の中で、警察庁の特命捜査官の桜庭は、この危機を招いたのは桐生であると断定。身に覚えのない容疑をかけられた桐生は逃亡を図るが、警察側は自前のAIシステム“百目”を駆使して桐生を追い詰める。一方、警視庁との連絡役として捜査現場に派遣された捜査一課のベテラン刑事合田と新人の奥瀬は、桐生を犯人だと決めつけるには証拠不足ではないかとの疑念を抱く。

 国民の個人情報を管理する“のぞみ”は、当局側ではなくHOPE社という民間企業が運営しているという不思議。桐生の逃避行は難なく街中をすり抜けたり、真冬の海に飛び込んでも平気で、かつてのAI開発のラボはそのまま放置してあるといった具合に、随分と都合良く描かれる。“のぞみ”の心臓部分の造型は“どこかで見たようなもの”であるし、事態の解決策も何やらハッキリとしない。

 普通ならば失敗作と断じるところだが、この事件を引き起こした犯人側の思考形態は実に興味深い。それは、行き過ぎた新自由主義である。加えて優生学と選民思想が入り交じり、一種のカルトの次元にまで入り込んでいる。すなわち、経済的弱者をすべて排除すれば“効率的な”世界が生まれるというものだ。もちろん、福祉やマクロ経済政策なんてのは“弱者を延命させる”という理由で全て否定。いくら困窮する者が増えても“自己責任”の名目で切り捨てる。

 ハッキリ言って、そんなのは“中二病”みたいな世迷いごとに過ぎないのだが、困ったことにその“中二病”が20年以上も世の中に蔓延っているのが日本の現状である。監督の入江悠はそんな社会派のスタンスを取る、今の邦画界では数少ない作家の一人だと思う。その手腕はいささか荒削りだが、軸がぶれないのは頼もしく感じる。これからもコンスタントに作品を手掛けて欲しい。

 桐生を演じる大沢たかおは相変わらず表情が乏しく、桜庭に扮する岩田剛典も演技が硬いのだが、三浦友和や賀来賢人、広瀬アリス、高嶋政宏、玉城ティナといった脇の面子が何とかカバーしている。AI(歌手の方ね ^^;)によるエンディング・テーマ曲も悪くない。
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日本フィルのコンサートに行ってきた。

2020-02-21 06:58:00 | 音楽ネタ
 去る2月16日(日)に福岡市中央区天神にある福岡シンフォニーホールで開催された、日本フィルハーモニー交響楽団の公演に聴きに行った。曲目はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲と、ブラームスの交響曲第一番である。指揮はロシア出身のアレクサンドル・ラザレフ、ヴァイオリン独奏は堀米ゆず子だ。

 気が付いてみると、この両曲は私が子供の頃からレコード(およびCD)で親しんでいたナンバーながら、一度も生演奏で聴いていない(大笑)。これは丁度良い機会だと思って足を運んだ次第だ。



 堀米はかなりのベテランなので期待したが、席がステージから遠かったせいか、音の線が細い印象を受けた。それでもテクニックは確かなもので、時折ハッとするような魅力を見せる。ラザレフの指揮も闊達なのだが、残念ながらオーケストラの技量が付いていけず、ところどころでモタモタした展開になる(特にリズム運び)。ただし、アンコールで堀米が披露したバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタからの2曲は、艶やかな音色で目覚ましい美しさを見せた。

 ブラームスの方は素晴らしかった。ラザレフの指揮はノリが良く、速めのテンポでグイグイと攻めてくる。かといって決して必要以上に前のめりにならず、荒さも見せない。終楽章のラストでは観客の方を向いて盛り上げてくるというサービスぶり。なお。彼は指揮棒を持たないが、それだけ身体全体で表現してくる。見ていて絵になる指揮者だ。

 アンコールのバッハのG線上のアリアまで存分に楽しんだが、観客の年齢層がえらく高いのは面白くない。まあ、私もオッサンなので偉そうなことは言えないが、私が若い頃に鑑賞したクラシックのコンサートは平均年齢がもっと低かったと思う。業界のPR不足か、あるいは今の若い衆はカネが無いのか、いずれにしろ現状はあまり良い傾向ではないと思う。

 それから、会場ロビーでは演奏者のCD類を販売していたが、その中にSACDが並べられていたのは気になった。その旨の表示も係員からの説明も無いようだ。まあ、CD層も再生可能なハイブリッド・ディスクなのかもしれないが、ひょっとしたら購入したものの再生不可になって困るユーザーが出てくるかもしれないかと、いらぬ心配をしてしまう(^^;)。
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「男と女 人生最良の日々」

2020-02-17 06:38:23 | 映画の感想(あ行)
 (原題:LES PLUS BELLES ANNÈES D'UNE VIE)ひたすら退屈な映画だった。何のために作った映画なのか不明だし、観る側もどこに感情移入して良いのか分からない。救いは上映時間が1時間半と短いこと。もしも2時間以上も引っ張っていたなら、確実に途中で寝ていた。

 かつてレーシング・ドライバーとして活躍していたジャン・ルイも、老境に達した今では養護施設で無為な日々を送るのみだ。認知症を患っており、さらに元来天才肌の性格ゆえ、ホームでは他の入居者たちと打ち解けることは無い。心配した息子のアントワーヌは、昔ジャン・ルイが愛したアンヌを探しだし、父親に会わせることにする。現在でも溌剌と生きるアンヌに久々に再会したジャン・ルイだが、彼女を前にしても相手が誰だか分からない。それでも何度か顔を合わせるうちに、出会った頃の思い出が2人の脳裏に浮かぶ。



 恋愛映画の傑作である「男と女」(1966年)の続編だ。もっとも、その間に「男と女Ⅱ」(86年)という作品があるのだが、私は観ていないし粗筋をチェックしても今回の映画とは直接には繋がっていないようなので、あえて無視する。

 アンヌとジャン・ルイは五十数年ぶりに会うのだが、すでに彼の方は前後不覚になりつつある。いくら彼女が元気でも、これ以上話が進展する余地は無い。せいぜいドライブに出掛けるぐらいだ。しかしながら、このくだりが彼らの“夢の中の話”というオチが付いており、あまり興味を惹かれるネタではない。

 作り手はそれでは場が保たないと思ったのか、66年製作の前回のシーンを大々的に挿入するという作戦に出る。だが、それは前作の優位性を再確認するばかりで、何ら本作自体のクォリティに反映されるものではない。どうせなら、思い切ってアントワーヌとアンヌの娘フランソワーズとの“新たな男と女のストーリー”を始めた方がずっと良かったと思う。

 結局、本作の見どころは、前作からの主役ジャン=ルイ・トランティニャンとアヌーク・エーメ、そして監督のクロード・ルルーシュが健在であることが確認出来たことだろう。特にアヌーク・エーメは今でも色っぽく、さすがフランス女優(?)だと感心させられた。劇中にはあのフランシス・レイの名スコアも流れていたが、映画音楽史上に残る仕事を成したこの作曲家も、2018年には世を去っている。月日の流れを感じてしまう。
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「チャンプ」

2020-02-16 06:36:20 | 映画の感想(た行)
 (原題:The Champ )79年作品。映画を“泣けるか、泣けないか”という基準で評価する世の多くの善男善女の皆さんにとっては、本作は最上級の称賛を受けるべきシャシンだろう。しかしながら、結果的にファンの記憶に残る映画になったのかというと、断言は出来ない。瞬間風速的に観客の涙腺を直撃しようとも、長期的に見ればモノを言うのは映画の質とヴォルテージだ。同じくボクシングを題材にした映画として、この作品の3年前に作られた「ロッキー」と比べてみれば、それは明白だと思う。

 かつてボクシングの世界チャンピオンとして名声を得たビリーも、今は落ちぶれて酒とバクチに溺れる日々を送っている。とっくの昔に妻には逃げられたが、一緒に住む8歳の息子TJだけは、父を“チャンプ”と呼んで慕うのだった。ある日、ビリーは別れた妻のアニーと再会する。彼女はファッションデザイナーとして成功しており、そんなアニーを見たビリーは惨めな気分になるのだった。ビリーはTJにアニーと暮らすように言うのだが、TJは父親の元を離れない。ビリーは息子のため、37歳という年齢ながらもう一度リングに上がることを決意し、厳しいトレーニングを開始する。



 前半には親子の情愛、後半のボクシングの激闘、そしてラストの愁嘆場と、メインの素材を切り分けて提示する手際の良い作劇が印象的。そもそも、監督がフランコ・ゼフィレッリだ。どう考えても駄作にはなりそうもない。何よりTJに扮する子役のリッキー・シュローダーが手が付けられないほどの名演で、彼を見ているだけで入場料のモトは取れる。

 だが、観終わってみればこれは“よく出来たメロドラマ”の域を出ないのだ。対して「ロッキー」はどうだったかといえば、低予算で無名のキャストが中心ながら、創意工夫により目を見張る求心力を達成していた。そして斜に構えたようなアメリカン・ニューシネマの終焉を告げるような、明るくポジティヴな空気が充満していた。また、舞台になったフィラデルフィアの下町情緒を丹念に描写し、主人公が恵まれない人々のヒーローになる構図をも作り上げている。

 つまり「ロッキー」には映画の中身だけではなく、製作の過程自体に骨太なストーリーが組み込まれていたのだ。そのあたりが「チャンプ」には欠けている。だいたい、この映画は1931年に公開された同名映画のリメイクだ。製作当時の今日性を描出できるようなネタではなかったということだろう。

 ビリー役のジョン・ヴォイト、アニーに扮するフェイ・ダナウェイ、共に好演。フレッド・コーネカンプのカメラによる映像は深みがあり、デイヴ・グルーシンの音楽も満点だ。とはいえ、ウェルメイドなドラマという括りから一歩も出ない本作の立ち位置は、依然そのままである。
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「ロマンスドール」

2020-02-15 06:24:50 | 映画の感想(ら行)
 小綺麗に、肌触り良く仕上げられているが、ドラマにあまり深みは無い。それでも最後まで観ていられたのは、キャストの頑張りに尽きる。ただし、その“頑張っていたキャスト”が主役ではなく脇役の方であったのには違和感を覚えた。そもそも、こういうネタを取り上げるには、この監督で良かったのかという疑問もある。もっとアクの強い演出家が担当すれば、盛り上がったのではないだろうか。

 美大を卒業した北村哲雄は、先輩の紹介でラブドールの制作工場で働き始める。よりアピール度の高い製品を開発するには、生身の女性のバストから“型取り”をすべきだと考えた哲雄とベテラン職人の金次は、美術モデルの園子に“医療用製品のため”と偽って目的を果たすことに成功する。



 ところが哲雄は園子に一目惚れしてしまい、交際が始まる。やがて2人は結婚するが、哲雄は“本職”を妻に告げられないまま数年が過ぎた。哲雄は仕事に没頭するあまり、次第に夫婦仲は冷え切っていく。園子は家出騒動を引き起こした後、抱えていた秘密を夫に打ち明ける。

 冒頭、いきなり2人の“別れ”が描かれ、それから映画は10年前に遡るのだが、最初から結末を開示する意味があったとは思えない。それはドラマ的興趣を削ぐことにならないか。そもそも最初に園子が何も知らずに工場を訪れることは考えにくく、夫の“本業”も知らないまま何年も過ごすというのはあり得ない。さらに言えば、結婚後は当たり前のように専業主婦に落ち着いてしまうのも釈然としない。子供を作ることを話し合う場面も無く、これでは実体感のないママゴトみたいな夫婦生活と言わざるを得ない。

 ラブドールの製作現場では、多かれ少なかれセクシャルなイメージが付きまとうはずだが、意外なほど希薄だ。確かに工業製品の一つには違いないのだが、商品の“用途”の描写に関して及び腰である必要はない。タナダユキの演出はソフトなタッチだが、言い換えれば素材の捉え方が甘いということだ。主人公たちのラブシーンも撮り方がライト感覚で、切迫したものが無い。もっとエゲツない描写を得意とする監督が手掛けたならば、それらしく仕上げられたと思う。

 主演の高橋一生と蒼井優は良くやっていたとは思うが、ドラマの求心力が小さいのであまり成果が上がっていない。反面、金次に扮するきたろうと社長役のピエール瀧は好印象。この2人を主役にして本作の“前日談”を作った方が、より面白かったかもしれない。また浜野謙太に三浦透子、大倉孝二、渡辺えりなど、脇の面子の方が主役よりも目立っている。

 余談だが、劇中でラブドールの“歴史”みたいなものが紹介されていたのは興味深かった。特に素材のシリコンは比重が人体より少し大きいので、小ぶりに作る必要があるというのは面白い。まあ、個人的にはラブドールを購入する予定は無いのだが(大笑)、世の中には知らないことがまたまだあるものだと、大いに感じ入った次第だ。
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韓国映画のオスカー獲得と日本映画の現状。

2020-02-14 06:24:36 | 映画周辺のネタ
 去る2月10日(日本時間)に発表された第92回米アカデミー賞で、韓国映画「パラサイト 半地下の家族」が4冠を達成した。私は国際長編映画賞と脚本賞は獲得すると思っていたが、まさか作品賞にまで輝くとは予想外だった。それも外国語映画では初の栄誉。オスカーの歴史を変えたとも言える快挙だ。対して日本映画は(得意のアニメーションをはじめ)ノミネートもされていなかった。

 そしてカズ・ヒロ(旧名:辻一弘)がメーキャップ・ヘアスタイリング賞を受賞したことも話題になった。彼は2018年に同賞を得ているが、それから国籍を日本からアメリカに移しており、米国人としては初のオスカー獲得になる。授賞式後の会見で日本について問われると“文化が嫌になってしまった。日本で夢をかなえるのが難しい”と辛口のコメントを残している。

 以上2つの事実は、一面では日本映画の退潮を示している。つまり、かつて高水準を誇っていた邦画は、今や韓国映画にも後れを取り、人材も育てられなくなったということだ。カズ・ヒロの言う“文化”とは、もちろん日本の伝統文化のことではなく、映画を取り巻く環境すなわち企業・業界文化のことである。優秀な者がそれに見合った待遇を与えられず、業界内の数々のしがらみや忖度に縛られ、満足するような結果を得られないことを批判しているのだろう。

 日本にも優れた映画人は少なからず存在する。だが、彼らの作る映画はたいてい注目されない。シネコンのスクリーンで目立っているのは、アイドルやテレビタレントを起用した愚にも付かない“壁ドン映画”や、年寄り向けの腑抜けたドラマ、そして粗製濫造気味のアニメばかりだ。ちなみに、2020年3月に発表される第43回日本アカデミー賞では、「翔んで埼玉」みたいなお手軽ムービーが最多ノミネートだという。まさに暗澹たる状況だ。

 韓国映画は国家が支援しているから有利だという話があるが、それだけではここまで隆盛にはならない(むしろ、国の援助が足枷になる場合だってあるだろう)。積極的な映画製作をバックアップしているのは、映画業界の“攻め”の姿勢と、それに応える観客の意識の高さではないかと思う。彼の国では“面白いものを作れば客を呼べる”という、至極当たり前の構図が成立していると想像する。ならば面白い映画を作るにはどうすれば良いか・・・・そこから“逆算”して製作の段取りを整える姿勢が韓国映画界にはあるのだろう。

 もちろん、何をもって“面白い”かは議論が分かれるところだ。観客の好みは千差万別。“面白さ”の定義は明確ではない。しかし、多様的な“面白さ”を狙ってフレキシブルに人材や資本を投入することは可能だ。韓国ではそれが出来ていると思う(まあ、内実はよく知らないので断言はしないが ^^;)

 対して日本では、どう考えても観客が喜びそうもないシャシンが罷り通っている・・・・と思ったら、それらは一部の“固定客”を掴んで採算が取れているのだという。だが、限られた層ばかりにベクトルが向いていると、いずれは縮小均衡に陥って消滅してしまう。反対に、多様性を備えた意欲的な企画が次々と通れば、多くの観客は興味を持ってくれる。

 日本映画が低空飛行を続ける原因はいろいろある。ブロック・ブッキング制の放置やテレビ局等の不用意な介入、文化庁が行なう助成金の運用体制の不備、そして何より長引く経済マクロの低迷で消費者の財布のひもは固くなる一方だ。しかしながら、手を拱いているばかりでは進展しない。とりあえずは映画ファン自身が問題意識を持つことが大事だろう。何より“もっと面白い日本映画を観たい”と心の底から願い続けたいものだ。
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