元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ミッション:インポッシブル ローグ・ネイション」

2015-09-15 06:26:48 | 映画の感想(ま行)

 (原題:Mission:Impossible Rogue Nation )前作「ゴースト・プロトコル」に比べれば出来は落ちるが、これはこれで楽しめるシャシンだ。少なくとも、今年(2015年)の夏興行の作品の中ではマシな部類に属する。カネ取って劇場で見せるのならば、このぐらいのレベルはクリアしてもらいたい。

 正体不明の多国籍スパイ集団“シンジケート”をターゲットにして世界中を駆けずり回っていたIMFエージェントのイーサン・ハントは、ロンドンにある味方との連絡ポイントにおいて不覚を取り、敵に捕まってしまう。そのアジトで彼の前に現れたのは、3年前に死んだはずのエージェントと、ミステリアスな女。拷問が開始されようとしたとき、その女はなぜかハントを助け、脱出の手引きをした後に姿を消す。

 一方その頃、CIA長官アラン・ハンリーの主張によってIMFは解体させられ、その従業者はCIAの配下に置かれることになった。しかも、過去に数々の騒動を引き起こしていたハントは、CIAによって国際指名手配を受けてしまう。ハントは捜査当局から身を隠しながら、IMFで懇意だったメンバー数人と共に独自に“シンジケート”に関して情報収集をおこなうが、やがて“シンジケート”とは、殉職したと思われていた各国のスパイ達を集めて作られた犯罪組織であることが分かってくる。

 IMFが組織的活動を停止させられ、ハント及びその仲間が追われる身となるという設定は前作の焼き直しであるばかりではなく、過去のいくつかのスパイ映画でも見たようなモチーフだ。各アクションシーンにおいては「ゴースト・プロトコル」の方がアイデアが豊富だったような気がするし、終盤の決着の付け方もいささか拍子抜けだ。

 しかし、それでも本作が興味深いのは、主人公達と敵方、そしてCIAとの間にMI6が絡んでくるところだ。アメリカに対するイギリスの立場が如実に窺われるだけではなく、当然ながら「007」シリーズをあからさまに牽制しているあたりは面白い。クリストファー・マッカリーの演出は「アウトロー」(2012年)の頃よりも手慣れてきた感じで、離陸する軍用機のドア外部にハントが張り付くという冒頭の場面をはじめ、ウィーン国立歌劇場での敵味方の駆け引きや、モロッコの山中でのバイクによるチェイスシーン等、見せ場をそつなくこなしている。

 主演のトム・クルーズの演技は相変わらずだが(笑)、IMF長官を演じるジェレミー・レナーをはじめサイモン・ペッグ、レベッカ・ファーガソン、アレック・ボールドウィンといった脇の面子がしっかりとフォローしている。ヒットしているとのことで次回作も企画されているが、おそらくトム御大の身体が動く限りこのシリーズは続くのだろう。
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「出逢い」

2015-09-14 06:26:33 | 映画の感想(た行)
 (原題:The Electric Horseman )79年作品。後にロバート・レッドフォードが監督・製作・主演した「モンタナの風に抱かれて」(98年)に通じる映画で、彼の筋金入りのエコロジストぶりと動物愛護の精神が横溢しているのが興味深い。また、本作自体も優れた出来だと思う。

 シェリー・バートンの小説を「グラン・ブルー」などのロバート・ガーランドらが脚色したものだ。かつてロデオの世界チャンピオンに5回も輝いたサニー・スチールは、今は現役を引退してCMタレントとしての日々を送っていた。生活に困らないだけの収入は得ていたが、企業の意向に左右されるだけで彼としては張り合いが無く、自己嫌悪に陥って酒に溺れることが多くなった。



 そんなある日、雇い主の大企業が購入したサラブレッドの名馬ライジング・スターにまたがってステージの上から愛想を振りまくという仕事が入る。ところがこの馬が麻薬漬けにされているのを見て怒りを覚えたサニーは、ライジング・スターに乗ったまま夜の町に消えてしまう。1200万ドルを投じて手に入れた馬が失踪したという事件は世間を騒がせるが、女性記者ハリーは独自の人脈を通じてサニーに接触することに成功。彼が馬を自然に返すためにこの行為に及んだことを聞き出し、そのニュースが公開されると世間はサニーに味方するようになる。だが、他のマスコミと警察の手は着々と2人に及びつつあった。

 サニーとハリーとの関係は“最初の互いの印象は最悪だったが、いつの間にか憎からず思うようになってくる”というスクリューボール・コメディのルーティンを踏襲していて微笑ましいし、シドニー・ポラックの演出はテンポ良く、中だるみもなく2人と警察などとの追跡劇をスムーズに展開させていく。意表を突いたラストの処理も納得出来た。

 ハリーを演じるのはジェーン・フォンダで、レッドフォードとのアヴァンチュールは当時としては大スターの共演であり、観ていて楽しい。サニーのマネージャーに扮するウィリー・ネルソンや、別居中の妻を演じるヴァレリー・ペリンも良い味を出している。

 原題の“エレクトリック・ホースマン”とは、主人公がに豆電球つきのカウボーイ衣裳を着てショーに出演していることから来ている。いくらウケ狙いのイベント用とはいえ、昔は世界を制した男がピエロを演じているのは侘しいものがあり、やはり一芸ばかりに秀でている者は“応用が利かない”ということであろう。なお、デーヴ・グルーシンの音楽は見事だ。
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「映画 みんな!エスパーだよ!」

2015-09-13 06:37:50 | 映画の感想(あ行)

 立て続けに公開される園子温監督作だが、これはその中では一番つまらない。手抜きばかりが目に付き、明らかにスタッフが仕事に身が入っていないような出来映えである。製作する上でそれなりの努力した挙げ句に失敗するのならばまだ許せるが、最初から“やっつけ仕事”で済まそうとしているその魂胆が気に入らない。

 愛知県の東三河地区に住む鴨川嘉郎(染谷将太)は、運命の出会いを夢見ながらもつい目先のエロいことに気を取られてしまうヘタレな高校生である。ある日目覚めると、突然人の心の声が聞こえるようになっていた。また、女友達の美由紀をはじめ数人が特殊能力を発動させるようになったことが判明する。

 超能力研究者の浅見教授は、嘉郎ら超能力に目覚めたエスパーたちを招集。悪のエスパー達による迫り来る世界的危機を阻止するために、彼らの団結が必要であることを強調する。しかしながら、相変わらず嘉郎たちはエロいことにしか興味を示さない。果たしてこれで世界の危機を救えるのだろうか。

 SF仕立ての脱力コメディではあるが、だからといっていい加減に作って良いということにはならない。ふざけるときは徹底的に真面目に(?)やるべきだ。

 冒頭に嘉郎が夢想する“運命の人”との出会いのシーンが流れるが、これが何の捻りも無いまま劇中で何度もリフレインされるのにはゲンナリした。敵の勢力は実質的に一人であり、これが全人類に影響を与えるパワーを持っているというふれ込みながら、いまだ愛知県の片隅でくすぶっている理由がイマイチよく分からない。

 だいたい、主人公の“生前の記憶”が事件解決の決め手になるような設定になっているのならば、他のエスパーの存在感は限りなく薄くなってしまうではないか。この“生前の記憶”とやらが明かされる終盤になってくると、ドラマは一気に停滞。工夫も何も無い説明的シークエンスが漫然と展開されるだけで、観ている側は眠くなってくる。

 園子温の演出は撮影の際に酒でも入っていたのではないかと思えるほど低調。ドラマにリズム感も無ければ出てくるギャグもすべて不発。もっとも、同監督の“趣味”である若い女のパンツの跳梁跋扈だけは今回はパワーアップ。美由紀役の池田エライザや嘉郎が恋心を抱く紗英に扮する真野恵里菜をはじめ、みんな盛大にパンツを見せまくる。しかし見せ方が一本調子なので、中盤からは飽きてしまう。

 他の出演者はあまり印象に残らず、強いて挙げればスゴイ身体の担任教師役の清水あいりと変態エスパーの冨手麻妙ぐらい。なお板野友美がチョイ役で出てくるのだが、セリフが棒読みの上にコイツだけがパンツを見せていない(爆)。これだからAKB一派は嫌いだ(笑)。
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中勘助「銀の匙」

2015-09-12 06:37:37 | 読書感想文
 とても感銘を受けた。別にドラマティックなストーリーが展開されるわけでもなく、強烈なキャラクターの持ち主が出てくるわけでもない。ただ作者の子供時代を淡々と綴っているだけなのだが、内容と文体がすこぶるレベルが高く、読み手の心を掴んで離さない。夏目漱石の門下であった中勘助の著作を読むのはこれが初めてだが、明治44年から大正2年にかけて彼が20代だった頃に書かれているのを知るに及び、その才能の大きさにはびっくりさせられる。

 主人公が古い茶箪笥の引き出しから小さな銀の匙を見つけたことから、幼年期の伯母との愛情に包まれた日々を回想していく。注目すべきは、子供なりに感受性を育んでいくその過程が、まるで子供の目から見たような次元で語られていることだ。



 文章こそ大人のものだが、中身はまさに子供がリアルタイムで体験していることを“そのまま”記述している。大人が勝手に話を脚色したり、大人の価値観によって物事が論じられている様子が微塵もない。考えてみればこれは凄いことだ。しかも、大きな屈託もなくスクスクと育っていたせいか主人公の内面に暗さやヒネた部分が少なく、身の回りで起こったことを素直に受け入れているあたりは感服する。特に何気ない自然の風景や友人たちとの遊びの中に、大きなセンス・オブ・ワンダーを見出していく主人公の感性には驚かされる。

 ただし、彼がこれだけ瑞々しいセンシビリティを持ち合わせていたのは、通り一遍の硬直した道徳論や“男子ならばこうあらねばならない”といった当時の風潮から距離を置いていたからだということは押さえておきたい。

 人間誰しも長じてからの処世術や損得勘定によって、子供時代を都合良く“粉飾”してしまいがちだ。結果、自分達がかつて子供であったことも忘れて、お為ごかしの建前論に縋り付いてしまう。教育問題を深刻化させているものは、案外こういうところにあるのではないか。

 擬音語や擬態語の扱い方には卓越したものがあり、また当時の社会風俗も興味深く取り上げられている。中勘助の他の小説は多くが入手困難になっているが、機会があればまた手にしたいものだ。
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「ボヴァリー夫人とパン屋」

2015-09-11 06:36:06 | 映画の感想(は行)

 (原題:Gemma Bovery)オヤジの屈折したスケベ心と、それよりも屈折した現実の出来事が鮮やかな対比を成す、良質の艶笑小噺だ。こういうのを作らせると、フランス映画は無頼の強さを発揮する。観てよかったと思える佳編だ。

 フランス西部ノルマンディーの小さな村でパン屋を営むマルタンの趣味は読書。中でもギュスターヴ・フローベールの「ボヴァリー夫人」が大好きで、繰り返し読み続けている。ある日、彼の店の向かいにイギリス人の若い夫婦が越してきた。何と彼らの名前はチャーリーとジェマで、名字がボヴァリーだという。小説の登場人物と同じ名前だという偶然に驚いたマルタンは、夫人のジェマから目が離せなくなってしまう。

 真実の愛にめぐり会えずに身を持ち崩して破滅する小説の中のボヴァリー夫人と同様、ジェマはチャーリーとの生活に満たされず、元カレや近所の若い二枚目野郎との間でよろめいてばかりいる。マルタンは小説と現実を重ねあわせて妄想をふくらませ、ついには思わぬ行動に出るのだった。絵本作家ポージー・シモンによるグラフィックノベルの映画化である。

 どんなに逆立ちしたって小説の中のプロットが現実化するはずがないが、それを分かってはいながら下世話な期待にワクワクしてしまうマルタンの懲りないオヤジぶりが愉快だ。しかも、現実はフィクションと一致することは無いが、そんなに掛け離れてもいない。虚構との間で綱渡り的に人生を歩んでみるのも、一興ではないか。ましてや“事実は小説より奇なり”という諺もある通り、時として現実はフィクションを超えることもあるのだから尚更である。また、フランスとイギリスの国民性の違いを皮肉っているところも笑わせる。

 脚本も手掛けたアンヌ・フォンテーヌの演出力は確かなものがあり、冒頭で事の次第を語った後に時制を遡るという手法が採用されているが、これを“結末を先に明かした”という構図に見せかけて、終盤で一捻りする手際の良さには感心する。ラストの扱いも絶品だ。

 主演のファブリス・ルキーニは煮ても焼いても食えない性格のオッサンを好演しており、パン作りのシーンも実に達者にこなす。ジェマ役のジェマ・アータートンは“可愛くてスタイルが良くて巨乳(しかも、尻が軽い)”という、オヤジにとっては理想的な(大笑)ヒロイン像をうまく表現している。ジェイソン・フレミングやエルザ・ジルベルスタイン、ニール・シュナイダーなどの脇の面子も良い。そして、マルタンとジェマが飼っている犬が絶妙のコメディ・リリーフを担当している。
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「イヤー・オブ・ザ・ガン」

2015-09-10 06:22:26 | 映画の感想(あ行)
 (原題:YEAR OF THE GUN )91年アメリカ作品。ジョン・フランケンハイマー監督の硬派な作風が活かされた快作で、また同監督が女性を的確に描けることを証明しているあたりが興味深い。

 テロが横行し、政情不安のただ中にあった78年のイタリア。ローマに赴任したアメリカ人新聞記者のデイヴィッドは、リーダーの釈放を要求してテロを起こしていた赤い旅団に興味を持ち、それをモチーフにした小説を書き始める。ある日、彼はパーティーの席上で同じく赤い旅団に興味を抱いているアメリカ人カメラマンのアリソンと出会う。デイヴィッドは彼女に小説の原稿を渡すが、やがてその内容とよく似た事件が発生。これがきっかけとなり、2人は赤い旅団から狙われる羽目になってしまう。マイケル・ミューショーの同名小説の映画化だ。



 率直に言って、ストーリーの輪郭はハッキリしない。だが、本作ではそれが欠点になっていないのだ。そもそも、テロリズムというのは実行している本人達にとっては“敵”は明確なのかもしれないが、一般ピープルから見れば得体の知れない暴力的事象でしかない。その不穏な“空気感”のようなものをジリジリと描出しているあたりは、この映画の手柄と言えるだろう。

 また、優柔不断なインテリと現場で戦うジャーナリストを対比していることも興味深い。もちろん、その気弱なインテリはデイヴィッドの方で、昔は学生運動に身を投じたが、今では一歩も二歩も退いた形で対象を見つめることしか出来ない。あまつさえ、事件をネタにした小説を上梓してウケを狙おうとする始末。

 対してアリソンは紛争地で何度も危機一髪の状態に直面しながら、それでもカメラを手放さない。彼女は“しょせん報道なんか大した力は持っていない”と呟きつつも、ジャーナズムのプロたらんとする気概を全面に漲らせている。しかも、演じるシャロン・ストーンの颯爽とした姿によって、それが実に魅力的に捉えられている。アンドリュー・マッカーシー扮するデイヴィッドが、30歳そこそこにして中年太りの兆候があらわれているのとは対照的だ(笑)。

 フランケンハイマーの演出は骨太で、緊張感を途切れさせずに観る者を最後まで引っ張っていく。ビル・コンティのキレの良い音楽、ブラスコ・ジュラートのカメラによる寒色系を活かした映像など、各スタッフも良い働きを見せている。
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「お盆の弟」

2015-09-07 06:31:18 | 映画の感想(あ行)

 モノクロ映像にした理由が分からない。どう見ても本作の中に“白黒じゃないと描けない画面”が存在するとは思えないし、それどころか色彩を消したことによってロケ地の魅力がスポイルされているように思う。しかも、このモノクロ画像は全体的にのっぺりとして奥行きが無く、少しも美しくはないのだ。このあたりは作者のセンスを疑いたい。だが、そのことを除けば、これは哀愁とユーモアが漂う上質の人間ドラマだと断言したい。

 主人公のタカシの職業は一応映画監督ということになっているが、5年前に作品を1本撮っただけで、その後はこれといった仕事をしていない。今はガンの治療を終えた兄の世話をするという名目で、妻子を東京に置いて群馬県の実家に兄と二人で暮らしているが、カミさんは甲斐性の無いタカシと別れたがっている。

 地元には脚本作りを手伝ってくれる藤村という親友がいて、その藤村の誘いで出席した飲み会でタカシは涼子を紹介される。藤村は彼女にタカシを独身だと説明していたが、タカシは涼子を一目見るなり、彼女こそ中年になってもいまだ独り者の兄にピッタリの人だと確信する。しかし、困ったことに彼女はタカシの方に好意を持ってしまう。

 年齢を重ね(他人より遅れて)ようやく“青春時代の終わり”に向かい合うことになった中年男たちのペーソスが、しみじみと伝わってくる。タカシは5年前に作った映画がそこそこ評判が良かったため、それから仕事に有り付けないにも関わらず、未だに演出家としてのプライドを捨てられない。兄は趣味の音楽を続けながら独身貴族を決め込むが、出会いも無いままいつの間にか病を得て老け込んでしまう。藤村はシナリオライター志望だったらしいが、気が付けば実家の安食堂を切り盛りするしかない身だ。

 そんな冴えない男どもが、藤村に思いがけず交際相手を出来たのをきっかけに、徐々に人間関係を広げていく様子を無理なく描くあたりは説得力がある。監督は群馬県出身の大崎章で、彼にとっては9年ぶりの新作だ。前作「キャッチボール屋」は観ていないが、おそらくはこの9年間に一皮むけたスキルを身に付けたと思われるような達者な仕事運びである。

 主演の渋川清彦と藤村を演じた岡田浩暉も群馬生まれで、彼らが方言で怒鳴り合う様子は虚飾を廃した“素”の個性が横溢しているようで面白い。何とかそれぞれの居場所を見つけ出したような登場人物たちが、改めて自分の人生を歩み始めることを暗示させる幕切れは気持ちが良い。

 兄に扮する光石研、涼子役の河井青葉、タカシの妻を演じる渡辺真起子、いずれも好演だ。関係ないが、主人公の家の居間にあるセパレート型ステレオに接続されていたCDプレーヤーは、MARANTZが90年代前半に発売していたCD-72である。この頃の同社の製品はデザインが良かった(今は最低だけどね ^^;)。
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「浮草」

2015-09-06 06:43:30 | 映画の感想(あ行)
 昭和34年作品。小津安二郎監督が珍しく大映で撮った映画で、そのためか所謂“小津スタイル”とは違う展開を見せ、いささか面食らう。まあ悪くない映画であることは確かなのだが、スンナリと腑に落ちないところがあって評価は難しい。

 志摩半島の西南端にある小さな港町に、今年も総勢15人からなる嵐駒十郎一座がやってきた。座長の駒十郎とすみ子は実質的な夫婦関係にあったが、この土地には駒十郎が若い頃に一緒だったお芳が住んでおり、駒十郎は彼女とその息子である清に会うためにこの町でたびたび公演をおこなうのだ。



 駒十郎は清に自分が親であると明かしておらず、伯父だと言い聞かせていた。郵便局に勤めて気質の生活を送っている清に、ドサ回りの芸人風情が父として名乗り出る資格は無いと思っている。お芳と清に駒十郎が親しく接することに嫉妬したすみ子は、妹分の加代をそそのかして清を誘惑させ、せめてもの腹いせにしようとした。最初は清をからかうつもりだった加代だが、やがて本当の恋仲になってしまう。そんな中、一座の番頭役が収益金をすべて奪って雲隠れする。駒十郎は一座を解散する以外には手がなくなった。

 昭和9年に松竹蒲田撮影所で製作した「浮草物語」を、監督自らがリメイクした作品である。登場人物の内面をあまり表に出さずに、それぞれの屈託をスタイリッシュに描出するという、いつもの松竹大船調の小津監督の形式はここでは見当たらない。皆が感情を剥き出しにして、本音をぶつけ合う。中には暴力体質を隠そうともしない者も存在するほどだ。

 実の親であると言い出せない主人公や、ジェラシーでよからぬことを考える愛人といった大時代的なモチーフも含めて、これは大映ドラマの典型であるとも思える。カメラワークこそ小津作品らしいが、舞台になっているのが都会でも北鎌倉の住宅地でもなく海沿いの田舎町なので、どこかサマになっていないような気もする。

 中盤以降のストーリーはかなりドラマティックで、終盤は泣かせるような筋書きになっていくのだが、それ自体は良いとしてもこういうネタならばもっと他に相応しい監督がいたのではないかと思う。

 駒十郎を演じる二代目の中村鴈治郎をはじめ、京マチ子や杉村春子、浦辺粂子、笠智衆といった達者なキャストが顔を揃え、若尾文子と川口浩との共演は青春ドラマみたいな雰囲気を醸し出すのだが、内容がかくの如しでは諸手を挙げて褒め上げる気にはならない。なお、宮川一夫の撮影はさすがで、特に鶏頭が土砂降りの中に映える構図などは唸らされる。
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「ラブ&マーシー 終わらないメロディー」

2015-09-03 06:36:32 | 映画の感想(ら行)

 (原題:Love & Mercy )中身が薄い。主人公の屈託も、音楽に対するポリシーも、各時代との関連性も、何一つ深く掘り下げられていない。ただすべて表面的に流れていくだけだ。何のために製作されたのか、よく分からない映画である。

 60年代に数々のヒット曲を放ち、一世を風靡したアメリカ西海岸のバンド「ザ・ビーチ・ボーイズ」。その楽曲の多くを手掛けていたのが、中心メンバーであるブライアン・ウィルソンである。バンドの快進撃の中にあって彼はそれまでのサウンドに飽き足らずに新たな展開を模索するが、そのプレッシャーと周囲からの多大な期待に耐えられず、アルコールとドラッグに依存してしまう。

 それから20年あまりが経った80年代、低迷の中にあったブライアンは偶然立ち寄ったカーディーラーで、運命の出会いを果たす。その相手は聡明な女性メリンダだった。彼女こそ自分を理解し支えてくれると確信した彼に、再び音楽に向き合う意欲がわいてくる。

 有名ミュージシャンを題材にした映画ということで、全編に楽曲が鳴り響いてドラマとシンクロしていくのだろうと予想したら違った。それどころか、音楽の扱い方は呆れるほど手が抜かれている。ならば他に何があるのかというと、これが見事なほど何もない。60年代には脚光を浴び、80年代になったら落ちぶれたが、好いた女と出会って立ち直ったという、捻りも工夫も無い“お話”が漫然と提示されるのみ。

 そもそもブライアン・ウィルソンというのは、ビートルズのメンバーでさえライバル視した天才だ。常人が及びもつかないその異能ぶりを全面展開させないで、いったい何のための映画化か。

 映画の中では60年代と80年代とが交互に描かれるが、この2つのパートは互いに連携が取れているとは言い難い。それは、両者の間に存在する70年代という時期をスッ飛ばしているからだろう。彼が堕落していった様子を丹念に取り上げないから、全体として要領を得ない出来になったとも思える。また、ブライアンの内面に大きな影響を与えていたと思われる父親の描き方も通り一遍だし、兄弟との関係もスルーしている。

 主人公の若い頃を演じるポール・ダノ、中年期を演じるジョン・キューザック、共に精彩に欠ける。メリンダに扮するエリザベス・バンクスも魅力なし。ビル・ポーラッドの演出は凡庸で、コクもキレも無い。このような映画をわざわざ劇場で観るよりも、自宅でビーチ・ボーイズの楽曲でも聴いていた方が数段マシだろう。それにしても「グッド・ヴァイブレーション」は名曲だ。これを作った人間は(良い意味で)常軌を逸している。映画でもそのレコーディング風景が紹介されているが、残念ながらまるで物足りない。
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カセットデッキを購入した。

2015-09-02 06:27:35 | プア・オーディオへの招待
 前にメインシステムのCDプレーヤーが“寿命”に達して更改したことを書いたが、同じ頃に今度はカセットデッキが動かなくなった。古い機種なのでメーカーも修理を受け付けておらず、買い替えるしかない。しかしながら、新たなCDプレーヤーの導入の際よりもさらに困った事態が起こった。何しろ今やカセットデッキは市場にほとんど存在しないのだ(笑)。

 まあ、PCオーディオが普及している昨今、前時代のテープメディアをオーディオシステムの主要ソースにしているユーザーなんかまずいないだろうし、デッキ自体が無くなっていったのは当然だろう。ところが少なからぬ数のカセットテープを保有している身としては、デッキは必要だ。もちろんテープの内容をデジタルデータに変換して保存するという方法もあるのだが、そんな面倒臭いことはしたくないというのが本音である。



 カセットデッキをリリースしているメーカーは、今や(私の知る限り)TEACしかない。シングルドライブに関してはAD-RW950というモデルしか存在せず、必然的にこれを買うしかなかったのだが、私は同型機種であるTASCAMCC-222MKIVを選んだ。TASCAMはTEACの業務用ブランドである。前に使っていたデッキがシルバー仕上げだったので今回はブラックパネルで気分転換(?)を図る意味もあったし、何より業務用ラックマウント仕様の外観は味がある。

 結線して音を出してみたが、そこそこ聴ける音だったのには安心した。もとより音質に大きな期待はしていない。とにかく聴ければ良いのだ。ノイズリダクションは付いていないし、メタルテープの録音モードにも対応していないが、文句は言うまい。何しろこの機種しか選択肢は無いのだから。



 実を言えばCC-222MKIVはカセットデッキ専用機ではない。CDプレーヤーも兼ねている。当然のことながら、これ一台でCDからカセットテープにコピーすることが可能で、そのための機能は豊富だ。またアナログプレーヤーを繋ぐためのフォノ端子が付いていて、ヘッドフォン端子も完備している。さらに言えば、カセットテープの走行はワンウェイではなくオートリバースである。

 斯様に驚くほどの多機能だが、当面はカセットテープの再生にしか使わないのが何とも勿体ない気がする。まあ、それも仕方が無い。

 もちろん、CDプレーヤーとしては非力だ。安物の音しか出てこない。しかし、デジタル出力を同時期に購入した単体DACであるNmodeのX-DU1に繋げてみると、大幅に音質がアップした。別に保有しているプレーヤーのONKYOのC-7000Rに比べれば当然落ちるが、悪くはない音だ。やはりDACの重要性は無視出来ない。

 カセットデッキは経年劣化が大きい。このCC-222MKIVがいつまで動いてくれるのか分からないが、思い入れのある手持ちのテープを鳴らすために、これからも働いて欲しい。
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