元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「告白、あるいは完璧な弁護」

2023-07-31 06:13:45 | 映画の感想(か行)
 (英題:CONFESSION)なかなか良くできた韓国製サスペンス劇だ。もっとも、本作は2016年製作のオリオル・パウロ監督によるスペイン映画「インビジブル・ゲスト 悪魔の証明」(私は未見)のリメイクなのだが、それでも最後まで飽きずに見せ切るだけのクォリティは確保されている。登場人物を少数に絞り込んで、それぞれ達者な演技者を振り当てていることもポイントが高い。

 大手IT企業の社長であるユ・ミンホの不倫相手キム・セヒがホテルの一室で殺害された。現場は密室で外部の人間が入り込むことが困難であるため、唯一の関係者であるミンホが疑われ逮捕される。保釈された彼は、山奥の別荘で女性弁護士ヤン・シネと公判の打ち合わせをする場を設ける。再検証を進めるうちに、どうやら事件に先立って起こった交通事故が本件に関係しているらしいことが分かってくるが、目撃者が現れたことによって事態は思わぬ方向へと進んでゆく。



 主な舞台を雪深い山荘(ここも一種の密室)に限定していることは、各キャラクターに逃げ場を与えないという意味で効果的だ。また、伏線は少なからぬ数が張り巡らされているが、事件の再現パートを違う視点から複数挿入することにより、それらの伏線が一応破綻なく機能していることを立証しているあたりも冷静な判断である。どこぞの三流スリラーのように、行き当たりばったりにプロットをデッチ上げる愚を犯してはいないのだ。

 後半の、二転三転する展開は見ものだが、これがあざとく感じないのは、コーエン兄弟の影響を大きく受けたという監督ユン・ジョンソクの手腕によるものだと思う。ミンホ役のソ・ジソブは本国ではよく知られた俳優だが、私は初めて見た。役柄の広さを感じさせるフレキシブルな演技を披露し、人気の高さも頷ける。シネに扮するキム・ユンジンはさすがの安定感。無理筋とも思える役柄を難なくこなしている。

 セヒを演じるナナは、アイドルグループの一員とは思えないほど手堅い仕事ぶり。特に、髪型一つで悪女と清純派を器用に演じ分けるあたりは感心した。また、事件のカギを握る人物に扮するチェ・グァンイルもイイ味を出している。キム・ソンジンのカメラによる、寒色系の澄んだ映像も印象深い。本国では興行収入ランキング初登場一位を記録。各国の映画祭でも好評を博しているとのこと。韓国映画の一種独特の作劇の強引さが苦手でなければ、観て損のない快作と言える。
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「SLAP HAPPY」

2023-07-30 06:44:56 | 映画の感想(英数)
 96年作品。前項「オレンジ・ランプ」の監督である三原光尋は、他にも「風の王国」(92年)や「真夏のビタミン」(93年)などのハートウォーミングな作品を中心に手掛けているが、過去には本作のような胸くそが悪くなるようなシャシンも撮っている。もっとも三原監督はホラー映画の演出も何回か担当しているので、決して心温まるヒューマンドラマ一辺倒の作家ではないのだが、それでもこの映画の根の暗さは異質だ。その意味では興味深い。

 主人公の正男は親元から離れ、昼は予備校に通い、夜はコンビニでバイトしている二浪生。絵に描いたような“陰キャ”で、親しい友人はおらず、次回の受験に成功する見通しも全くない。店ではイヤミな客に暴力を振るわれ、電車の中では痴漢と間違われ、安アパートの一室に帰れば隣のフィリピン人女性の部屋から聞こえる喘ぎ声に悩まされるという、日々これ不愉快な出来事の連続だ。そんな中、正男は店の常連である若い女にほのかな恋心を抱くのだが、彼にはさらなる逆境が待っていた。

 とにかく、一点の救いも無く主人公を追い込んでいく作者の外道ぶりには、呆れつつも感心してしまう。もっとも、正男自身も不幸を呼び込んでしまうような冴えないキャラクターではあるのだが、それでもこの容赦のなさは突出している。ひょっとしたら正男の日常が少しでも明るくなるのではないかというモチーフは散りばめられているが、そのすべてが暗転して裏切られる。

 さらに終盤にはトドメの一発とも言うべき悪意に満ちたハプニングが用意されており、ここまで振り切ってしまうのはアッパレだ。この映画はヨソから持ち込まれた企画ではなく、脚本はもちろん原案も三原自身だ。彼としてはブラックな部分を思いっきり吐き出してしまったという感じだろうが、表現者の持つ二面性が垣間見えて興味深い。

 主演は劇団“南河内万歳一座”の前田晃男だが、実に暗そうで作品のカラーにピッタリだ(笑)。山下さとみに桂雀三郎、前田一知、水谷純子、木下政治、前川優香、田中孝弥など、演劇畑と思われる面々は馴染みは無いが、全員が後ろ向きのオーラ全開でイイ味を出している。三原は本作で96年おおさか映画祭新人監督賞を獲得。劇場映画デビューを果たすきっかけとなった作品だ。
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「オレンジ・ランプ」

2023-07-29 06:03:17 | 映画の感想(あ行)
 多分に啓蒙的な内容であり、劇場で公開するよりも職場の人権研修などで流す方が相応しいと思った。しかしながら、紹介されている事実の数々はとても興味深くて参考になるものばかり。その意味では決して観て損はしない。また、語り口は丁寧で不快になるような部分は無く、各キャストは十分仕事をしている。安心して対峙できる映画である。

 都内の自動車ディーラーに勤める39歳の只野晃一は、近頃よく物忘れをするようになった。ついには仕事上の打ち合わせまで失念するようになり、たまらず医師の診断を受けるが、結果は若年性認知症だった。そんな彼に妻の真央は献身的に接するが、晃一は将来を悲観して落ち込むばかり。しかし、ある出会いをきっかけに2人は何とか前を向くようになる。実際に若年性アルツハイマー型認知症と診断された会社員とその家族を描いた、山国秀幸の実録小説の映画化だ。



 映画は、苦難を乗り越えた只野夫婦がにこやかにマスコミの取材を受けるシーンから始まる。本作が悲しい内容にはならないことを冒頭で明かしているわけで、いくらかでも波乱の展開を期待している向きには物足りないが(笑)、作品の性格上これが正解かと思う。何より、若くして認知症に冒された者たちのサークルが実在し、励まし合いながら共に生きようとする様子が描かれるのは有意義だ。

 そして認知症に対する正しい知識と理解を持ち、地域で手助けする“認知症サポーター”の養成が厚労省主導で展開されていることも初めて知った。その講座を受講した者には柿色のブレスレットが支給され、本作のタイトルはそこに由来している。

 この映画の主人公は随分と恵まれていることは確かだ。夫婦仲は良く、娘二人も素直な性格。晃一は元々敏腕セールスマンであり、同僚や上司の信頼も厚い。地域のフットサルのサークルにも参加し、チームメイトは皆いい奴だ。ただ、斯様な御膳立てはそれほどの瑕疵にはならない。本作の意義は、あくまで認知症に対するフォローの実態を伝えることなのだ。

 三原光尋の演出は丁寧で、ドラマはスムーズに進む。真央に扮する貫地谷しほりの演技はさすがに上手く、物語の核をしっかりキープする。晃一役の和田正人は落ち着いたパフォーマンスを見せ、伊嵜充則に山田雅人、赤間麻里子、赤井英和など脇の面子も万全だ。ただし、過度に白茶けた映像はイマイチ。もっとナチュラルな絵作りをして欲しかった。
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世界水泳を観戦した。

2023-07-28 06:09:16 | その他
 7月14日から福岡市博多区沖浜町にあるコンサートホール・コンベンションセンター、マリンメッセ福岡で開催された第20回世界水泳選手権大会に足を運んでみた。ただし、正直言って個人的にはこの競技にはあまり興味は無い。しかし、スポーツ好きの嫁御が先行してチケットをゲットしたので、付き合った次第だ(苦笑)。



 もっとも、観られたのは午前中おこなわれた予選だけである。夕刻から実施される決勝は別チケットになるらしく、予選終了後は観客は“入れ替え”になるとか。座席は指定できず、どのポジションになるかは事前には分からない。それでも、入退場する選手の顔が十分拝める位置に腰掛けられたのはラッキーだったかもしれない。池江璃花子や大橋悠依といった、門外漢の私でも名前を知っている選手もちゃんと認識できた。

 ただし、マリンメッセ福岡は市の中心から離れた場所にあり、炎天下に移動するのはかなり堪える。また、大会のスポンサーになっている飲料メーカー以外のドリンクを持ち込もうとすると、無理矢理にラベルを引き剝がされたのには驚いた。まあ、お金を出してくれるところの意向は主催側としても優遇せざるを得ないということか。



 福岡市でこの大会が開かれるのは今回で2回目だ。前回は2001年で、その時は選手と思われる並外れて体格が良い者たちが繁華街をウロウロしていたのを思い出す(今回は会場近辺を除けばそれほど目立たない)。そういえば2001年の大会期間中には市内中央区にあるシティホテルには、大きなロシアの国旗が掲げられていた。選手の宿泊先であることは明らかだったが、今大会ではロシア及びベラルーシは不参加だ。昨今の世界情勢では両国がスポーツの国際大会に出場するのは無理であり、早期の解決が望まれるところである。
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「ザ・フラッシュ」

2023-07-24 06:04:11 | 映画の感想(さ行)
 (原題:THE FLASH )八方破れの建て付けであり、映画の質としてはあまり上等とは言えない。しかし、随所に堪えられないチャームポイントが散りばめられており、決して嫌いにはなれないシャシンだ。特に、無駄に映画ファン歴が長い私のようなオッサンにとっては、観て得をしたような気にもなる。長すぎると思われる2時間を超える尺も、大した欠点ではないと思う。

 ザ・フラッシュことバリー・アレンは、ジャスティス・リーグの一員としてバットマンやワンダーウーマンと共に世界平和のために働いていたが、ある時彼はそのスピードが光速を超えてタイムリープを可能にさせることに気付く。そこで幼いころに何者かに殺害された母と無実の罪を着せられて服役している父を救うため、過去にさかのぼってバリーと両親が健在である世界にたどり着く。ところが、その世界ではかつてスーパーマンが倒したはずのゾッド将軍が地球侵略に乗り出しており、しかもスーパーマンたちは不在でバットマンは引退済。バリーはその世界における“若い頃の自分”や、新ヒロインのスーパーガールらとこの絶対的な危機に立ち向かう。



 まず、タイムトラベル物における“タブー”とも言える“別時代との自分との接触”が大っぴらに行われていることに違和感を抱く。さらに、超能力を会得する前の状態である“もう一人の自分”に、無理矢理にスーパーパワーを付与させようとジタバタするのも愉快になれない。そもそも、タイムリープとメタバースを都合よく混同するのは反則だろう。ゾッド将軍との大々的バトル場面も、意外なほど盛り上がらない。

 だが、楽隠居しているはずのバットマンにマイケル・キートンが扮していることが分かったあたりから、映画的興趣は昂進してくる。序盤の、ベン・アフレック演じるバットマンも悪くはないが、やはりキートン御大は貫禄が違う。さらに、黒髪ショートの超クールなスーパーガールも魅力的だ。扮する長編映画初出演のサッシャ・ガジェは、本年度の新人賞の有力候補である。

 映画のクライマックスになる、複数の時空がランダムに展開するシークエンスは、何と“あの人たち”が大挙して登場。懐かしい面々や、思いがけないメンバーが次々と現れては消える。この部分だけで入場料のモトは取れるだろう。

 アンディ・ムスキエティの演出は取り立てて才気走ったところは無いが、効果的なギャグの挿入(特に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に関するネタは大いにウケた)に関しては非凡なものも感じた。主演のエズラ・ミラーは絶好調だが、プライベートでの素行の悪さは気になるところ。次作があるのかどうかわからないが、ラストの“思いがけないあの人”の御登場で、今後のシリーズの継続にも期待を持たせる。
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「ちひろさん」

2023-07-23 06:03:07 | 映画の感想(た行)

 2023年2月よりNetflixより配信。この主人公像にはまったく共感できないし、そもそも現実感が無い。しかしながら、最後まで退屈させずに見せきったのは、主演女優をはじめとしする各キャストの頑張りと、丁寧な演出の賜物である。積極的に支持できるシャシンではないものの、観て損はさせないだけの中身はある。

 静岡県の海沿いの街にある弁当屋で働く若い女ちひろは、実は元風俗嬢だ。だが、そのことを誰にも隠そうとはしない。完全フラットなスタンスで、周囲の人々に接する。そのため、心に屈託を持つ者たちは彼女のイノセントな有り様に癒されると共に、自分を見つめ直す切っ掛けをも得ることになる。しかし、そんなちひろ自身も幼少時から家族との関係性を築くことが出来ず、彼女なりの孤独を抱えて生きている。

 ハッキリ言ってしまえば、このヒロインの造型は絵空事だ。風俗業にいた者がカタギの仕事に就く場合、自身の前職をカミングアウトすることはまず無い。通常のメンタリティがあれば、自らの“黒歴史”は隠すものだ。ちひろは無垢なようでいて、野垂れ死んだホームレスのおっさんを勝手に“埋葬”するという荒技を平気で披露する(これは刑事案件だろう)。風俗ショップの面接にスーツ姿で現れ、しかも靴は泥だらけだったのは、その前に“ひと仕事”済ませてきたのではないかという疑念さえ生じる。

 現実にちひろみたいな者と接すれば、癒やされるどころか混乱してしまうこと必至だ。だが、今泉力哉の演出はこの浮世離れしたヒロインを上手く実体化させている。それは、周囲の者たちの悩み自体をちひろの存在感により緩和できるレベルの内容に設定しているからだ。また、そのあたりをワザとらしく見せないのも今泉監督の語り口の上手さによる(リアリズムで押し切ろうとすると失敗するだろう)。

 主役の有村架純はノンシャランな妙演で、かなり際どいことをやっても下品に見えないどころか透明感さえ漂ってくる。こういうキャラクターをやらせれば、この年代の女優ではピカイチだと思う。豊嶋花に若葉竜也、佐久間由衣、長澤樹、市川実和子、根岸季衣、平田満、リリー・フランキー、風吹ジュンなど他の多彩な面子にもドラマの空気感を乱さないだけの抑制の利いたパフォーマンスをさせている。“くるり”の岸田繁による音楽と、岩永洋のカメラがとらえたロケ地の静岡県焼津市の風情も的確だ。
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「ぼくたちの哲学教室」

2023-07-22 06:10:15 | 映画の感想(は行)
 (原題:YOUNG PLATO )作者が主張したかったテーマとは、おそらくは全く違う事柄に感心してしまった。鑑賞者の置かれた環境によっては、作品の狙いとは異なるモチーフが強い印象を与えることもあるのだ。ましてやこの映画はドキュメンタリーであり、観客による受け取り方の幅は通常の劇映画よりも広いと思う。

 北アイルランドの政庁所在地ベルファストにあるホーリークロス男子小学校では、哲学が主要科目になっている。担当教諭は校長のケヴィン・マカリービーだ。彼はハードな面構えにスキンヘッドという、とてもカタギの人間には見えない。実際に若い頃はかなりの極道者だったことを匂わせるのだが、こういう人間が生徒に哲学を説くというのは、絵面として確かに面白い。



 また、ベルファストは北アイルランド紛争によりプロテスタントとカトリックの対立が長く続いた土地で、命の大切さに関する“教材”には事欠かない。映画はケヴィンによるこの哲学の授業を、2年にわたって記録している。作者の意図とは裏腹に、義務教育における哲学の授業内容は観る側にそれほど伝わってこない。日本の道徳教育とあまり変わらないようにも思える。ベルファストのシビアな現代史も、土地柄だと言ってしまえばそれまでだ。

 しかし、ケヴィン校長をはじめ教師陣が、長い時間と手間をかけて生徒一人一人に接している様子には少なからず衝撃を受けた。ここで“何だ、教師が生徒に対峙するのは当たり前じゃないか!”というツッコミも入るかもしれないが、その“当たり前”のことが実現していないのが我が国の状況なのだ。

 イギリスにおける教職員の勤務時間は欧米では長い方だが、それでも日本よりは短く、担当業務も少ない。授業準備時間数に至っては日本は最低レベルだ。そもそも、我が国の教育への子供一人あたりの公的支出はOECD加盟国では下位低迷中。改めて日本は教育を蔑ろにしている国であることを痛感する。

 監督はドキュメンタリー作家ナーサ・ニ・キアナンとベルファスト出身の映画編集者デクラン・マッグラだが、彼らが描くこの町の風景はインパクトが大きい。市民の住居は多くが長屋みたいな形態で、壁面には大きな絵が描かれている。これを空撮でとらえたショットは珍しく、ケネス・ブラナー監督の「ベルファスト」(2021年)でも紹介しなかった奇観には思わず目を奪われた。
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ジャニーズ事務所の“功績”について。

2023-07-21 06:15:22 | 音楽ネタ
 山下達郎が自身が所属するプロダクションを契約解除になった音楽プロデューサーの一件について、2023年7月9日オンエアのラジオ番組において、事の発端になったらしいジャニーズ事務所をめぐるスキャンダルを絡めてコメントしたところ“大炎上”の様相を呈したことは記憶に新しいところだ。ただし、山下の“(くだんのプロデューサーの発言は)憶測に基づく一方的な批判だ”とか“そういう方々には私の音楽は不要”とかいった物言いに対しては、すでに各方面から数多くのコメントが発せられているので、ここで私があれこれ言うのは差し控える。

 それよりも私が気になったのは、山下の“数々の才能あるタレントさんを輩出したジャニーさんの功績(中略)ジャニーさんの育てた数多くのタレントさんたちが、戦後の日本で、どれだけの人の心を温め、幸せにし、夢を与えてきたか”という発言だ。ジャニー喜多川にまつわる醜聞は別にしても、果たしてジャニーおよび彼が創設したプロダクションが、そんなに持ち上げられるほどの“功績”を残したのか、大いに疑問だ。



 確かに、ジャニーが手掛けたタレントはシングル1位獲得が47組、ヒットチャートのトップに上り詰めたナンバーは439作品という、ギネス世界記録になるほどの実績をあげている。しかし、あくまでそれはビジネス的な成功であり、日本のポップス界全体のレベルを押し上げたわけではない。ジャニーズ事務所は、既存の作曲家などの“現場担当者”たちを、自分たちが売り出したい歌手のスタイルに合わせて起用しただけだ。決して事務所側から何か新しい音楽のスタイルを提案したわけではない。

 加えて、ジャニーズのタレントで人様に聴かせられるような歌唱力を持った者は、どの程度いたのだろうか。中には歌が下手なことをネタにされていた者もいたようだが(笑)、男性アイドルに歌のうまさを期待する方が間違っているというような風潮を作り出したのは、この事務所の姿勢にも原因があったと思わざるを得ない。もちろん、世界進出なんてもってのほか。国内市場でペイできるような体制に甘んじていた間に、KーPOP勢に先を越されてしまった。

 また、山下の“ジャニーズのタレントたちが、戦後の日本で人の心を温め、幸せにしてきた”というセリフに至っては呆れるしかない。まるで戦後の芸能界でジャニーズの一派だけがアイドル的人気を誇ってきたかのような物言いだ。ジャニーズ以前にも、そしてジャニーズ以外にも男性アイドルは存在している。それにジャニーズ事務所は“数々の才能あるタレントさんを輩出した”どころか、不要な忖度や圧力じみたものを振り撒いて他の勢力を駆逐したという見方もあり、だからこそ公正取引委員会から注意勧告を受けている。

 いろいろ書いたが、ジャニーズ事務所およびその“商法”が持て囃されるという構図が、我が国の歌謡界の水準を如実にあらわしていると思う。話は歌謡界に限らず、毒にも薬にもならないシャシンが客を集めている映画界も含め、この“ジャニーズ事務所的なるもの”が罷り通る状況がすなわち日本のエンタテインメントの平均的レベルだということだろう。

 なお、山下は“オレの意見に賛同しない者はオレの音楽は聴かなくていい”というスタンスらしいが、あいにく私は山下の音楽はここ30年ばかり積極的に聴いていないし今さら聴く気も無い。まあ、ベスト盤だけは所有しているのだが(苦笑)、長らくCD棚の奥に放置されたままだ。
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「To Leslie トゥ・レスリー」

2023-07-17 06:15:08 | 映画の感想(英数)
 (原題:TO LESLIE )多分に“甘い”ところもある筋立てながら、最後まで惹き付けられたのは主人公の突出した造型と、絶妙な周囲のキャラクター配置、そして名人芸的な演出ゆえである。本国では単館上映から始まり、興行成績も大したことがなかった作品だが、この映画を“発掘゜して賞レースを賑わせるまでに押し上げた演技派俳優たちの慧眼を大いに認めたい。

 テキサス州西部の田舎町に住むシングルマザーのレスリーは、数年前に宝くじに当選して大金を手にするものの、その金はすべて酒代に消えて今ではホームレス同然の生活を送っている。とうの昔に家を出た息子のジェームズは、そんな母を見かねて昔の友人ナンシーとダッチのもとへ身を寄せるように手配するが、相変わらず酒を手放せない彼女は周囲とトラブルを起こすばかり。そんな中、レスリーは偶然スウィーニーというモーテルのマネージャーと知り合う。スウィーニーは彼女に仕事と住まいを与え、何とかカタギの生活を送れるように面倒を見る。



 ヒロインのキャラクター造型が絶妙だ。とことん自堕落なアルコール依存症の中年女だが、どこかピュアな部分を持ち合わせており、世間から完全に見捨てられるところまでは行っていない。特に、くだんのモーテルの敷地内にある、元はアイスクリームショップだった店舗の廃墟に執着するというモチーフは効果的。幼少の頃に、彼女はこの店のスイーツを食べている時が一番幸せだった。

 斯様に本当は人生に背を向けていないあたりが、スウィーニー及び(いずれも孤独を抱えている)その仲間たちと意気投合できた理由でもある。彼女が今まで周りの人間と衝突しながらも、不器用ながら確実にコミュニケーションを積み上げてきたことが、終盤の“怒濤の展開”に通じているのだろう。主演のアンドレア・ライズボローの存在感は圧倒的で、ひょっとして“地”ではないかと思うほどレスリーそのものにしか見えない。個人的には本年度の主演女優賞を進呈したいほどだ(笑)。

 オーウェン・ティーグにスティーブン・ルート、アンドレ・ロヨ、ジェームズ・ランドリー・ヘバート、マーク・マロン、そしてアリソン・ジャネイといった脇のキャストも絶妙で、皆地に足が付いたパフォーマンスを見せる。監督のマイケル・モリスはテレビドラマのディレクター出身とのことだが、達者な仕事ぶりだ。ラーキン・サイプルのカメラによる乾いたテキサスの荒野の描写も心に残る。
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「レコード芸術」誌が休刊。

2023-07-16 06:57:35 | 音楽ネタ

 クラシック音楽のCDやレコードの評論誌「レコード芸術」(音楽之友社)が、去る2023年6月20日発売の同年7月号をもって休刊した。同誌の創刊は1952年3月であり、70年あまりの歴史に幕を下したことになる。同社の説明では、休刊の理由は“近年の当該雑誌を取り巻く大きな状況変化、用紙など原材料費の高騰などの要因による”とのことだが、つまりは雑誌というメディア自体が直面した逆風を避けられなかったということだろう。

 実を言えばこの雑誌は私も若い頃に購読していたが、ネットの普及と共に同誌を含めた雑誌全般を買わなくなっていた。かくいう私が述べるのも何だが(汗)、いくら雑誌の売り上げが左前になったといっても、雑誌メディア自体が衰退して良いとは思わない。「レコード芸術」誌についても紙媒体での発刊が難しいならば、Web上での存続という手も考えられたはずだ。しかし、それでもこの“評論誌”という体裁を保つのは困難だったと想像する。

 エンタテインメント部門における“評論誌”の居場所というのが無くなってきたのだと思う。今や音楽はネット経由で(音質面で多くを望まなければ)いくらでも聴ける。リスナーはネット側が勝手に提示してくれるオススメ音源やプレイリストを“つまみ食い”状態で味わえる。その取捨選択の基準になるのはリスナー個人の好みだけ。あとはせいぜいがSNS上に展開される、どこの馬の骨とも分からない者たちの意見ぐらいだろう。

 しかし、だからといって“音楽なんて個々人の好みで勝手に選べばいい”とは言い切れない。特にクラシック音楽については学校教育のカリキュラムにも取り入れられていることでも分かるように、教養の一環として扱われている。音楽鑑賞についても、識者による権威というか、一種のリファレンスが必要であるはずだ。「レコード芸術」誌に載っていたリリースされたディスクに関する詳細なデータや、評論家たちのレビューはその権威を反映するものだった。

 もちろん、リスナーによっては評論家の意見に賛成できないことも多々ある(私もそうだ)。だが、クラシック音楽についての深遠な知識を持った評論家たちの論評、およびそれを掲載した信頼できる媒体があってこそ、聴き手の個人的な意見も存在価値はあり得たのだ。素人同士で個的な好みを吐露し合うだけでは、何ら教養をカバーできない。

 とはいえ、教養に背を向けても良いようなサブスク時代の音楽の聴き方にあっては、「レコード芸術」誌に載っているような玄人のウンチクは余計なものと片付けられても仕方がない。それどころか、すべてがコスパだタイパだと効率のみが優先される風潮にあっては、クラシック音楽の鑑賞自体も非効率なシロモノだと見做されるかもしれない。

 ただし、昨今のアナログレコードの復権が象徴するように、音楽に対してじっくり向き合うリスナーも少なくないのだ。リリース情報の整理や評価、およびその価値判断基準の提示といったリファレンスを伴ったメディアは今後も必要だと思う。「レコード芸術」誌は無くなっても、それに準じた情報発信元の創設を(小規模でも良いので)望みたいところだ。

 あと余談だが、実家の書棚の奥にあった「レコード芸術・別冊 新編 名曲名盤500」(87年版)を、私は今でもクラシックのディスクを購入する際の参考にしている。執筆陣も充実していて、信用するに値する内容だ。同じ趣旨の別冊はその後も何回かリリースされているが、情報量においてはこの古い87年版が一歩リードしていると思う。これからも重宝していくことになるだろう。
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