元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「アマンダと僕」

2019-07-29 06:29:37 | 映画の感想(あ行)

 (原題:AMANDA)薄味の展開が目立ちドラマにすんなりと入っていけない点は気になるが、総体的には悪くないシャシンじゃないかと思う。また、現在のフランスおよびヨーロッパが置かれている社会的状況が少し垣間見える。第31回東京国際映画祭でグランプリと最優秀脚本賞をダブル受賞している。

 パリの下町で便利屋兼“民泊”用アパートの管理人として働く青年ダヴィッドは、時折シングルマザーの姉サンドリーヌとその娘で9歳のアマンダに振り回されながらも、平和な日々を送っていた。また、アパートに滞在することになった若い女レナとも良い仲になる。しかし、ある日突然悲劇が起きる。無差別テロによってサンドリーヌは死亡し、レナも重傷を負う。ダヴィッドは身寄りがなくなったアマンダの世話を引き受けることになるが、若い彼には親代わりとして子供に接することは重荷だった。そんな中、イギリスに住む彼の母親アリソンから誘いを受け、ダヴィッドとアマンダは英国に旅立つ。

 テロの場面は“起こった後”しか映し出されず、しかも描写は淡々としてインパクトは無い。サンドリーヌとレナがどういう状況で災難に遭ったのかも分からない。ハリウッド映画みたいに派手な場面を挿入する必要は無いとは思うが、もう少し説明的な扱い方をして欲しい。

 ダヴィッドのキャラクターはハッキリしない。しかしながら、静かに暮らしていた若者が思いがけない境遇に追いやられると、戸惑って感情が表に出なくなるのかもしれない。アマンダの方も、叔父にどう向き合えば良いのか分からず、立ち竦むばかりだ。

 これが事故や病気で肉親を亡くしていたのなら少しは違うだろうが、テロという理不尽極まりない災厄でこのような状態になったせいで、根底に流れる悲しみはより苦く、やりきれないものなのだ。そんな硬直したシチュエーションが次第に揉みほぐされていくプロセスを、ウィンブルドンでのテニスの試合に重ねて描く終盤の処理は気が利いていると思う。

 ダヴィッドに扮するヴァンサン・ラコストとアマンダ役のイゾール・ミュルトゥリエは好演で、特にミュルトゥリエの存在感は光る。レナを演じるステイシー・マーティンは相変わらず可愛いし、アリソン役として往年の(?)セクシー女優グレタ・スカッキが出ているのも嬉しい。ミカエル・アースの演出にはもうちょっとケレン味が欲しいが、まずは及第点。パリの名所が数多く出てくるあたりも、観光気分を味わえる。
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「マルホランド・ドライブ」

2019-07-28 06:37:17 | 映画の感想(ま行)
 (原題:Mulholland Drive)2001年作品。メチャクチャ面白い。まさに傑作。それまではデイヴィッド・リンチ監督の代表作といえば、何といっても一発目の「イレイザーヘッド」(76年)だと信じて疑わなかったが、この映画はその見解を激しく揺るがしてしまった。観た後はしばらく夢にうなされること請け合いの、劇薬とも言えるシャシンだ。

 車の助手席に座っていたリタは突然運転手の男に襲われ、抵抗しているうちに車は事故を起こす。傷を負って何とか逃げ出した彼女は、高級アパートの一室に忍び込んで身を隠すが、ショックで記憶を失ってしまった。叔母を頼ってハリウッドにやってきた女優志望のベティは、アパートにいたリタを叔母の友人と思い込んでしまう。リタは奇妙な形の青い鍵を持っていたが、何に使うのか分からない。しかしリタは“マルホランド・ドライブ”という言葉だけは頭に残っており、ベティはそれを手掛かりに彼女の記憶を取り戻す手助けをする。



 リンチ監督が97年に撮った「ロスト・ハイウェイ」は“ワケのわからんことを延々と積み重ねた映画”ならば、これは“ワケのわからんことを山積みにして、一回すべてぶち壊し、また別のワケのわからんことを並べ立て、最後にワケのわからんオチ(らしきもの)を付けた映画”である(意味不明?)。

 そして「ロスト~」よりずっと映画ファンの琴線に触れるのは、ハリウッドという魔物を何のドラマツルギー的精査を通さずに不気味なまんまで提示しているせいだろうか。いわばビリー・ワイルダー監督の「サンセット大通り」(1950年)の凶悪なパロディか。

 前半の、夢と希望を抱いてハリウッドに乗り込むヒロインとプロデューサーの陰謀により消されそうになる大部屋女優は紙一重。さらに登場人物のキャラクターが複雑怪奇に入れ替わる幻惑的な後半の展開は、ハリウッドに呑み込まれアイデンティティを喪失した者たちに対するリンチ監督のアイロニーとも言える。しかし、本当はこんな“解釈”などどうでもいい。まずはこの圧倒的な緊張感と不気味さを思う存分楽しむべきだろう。

 ナオミ・ワッツとローラ・エレナ・ハリングのダブル・ヒロインが最高。キレイで、そしてエロい(笑)。異世界を創造するピーター・デミングのカメラ、アンジェロ・バダラメンティの音楽、ジャック・フィスクの美術、全てが禍々しく、そして蠱惑的だ。
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「凪待ち」

2019-07-27 06:50:00 | 映画の感想(な行)

 脚本が練り上げられていない。設定自体に無理があるばかりか、展開には説得力を欠いている。白石和彌監督作品は出来不出来の差が大きいが(ハッキリ言って、不出来であるケースが目立つ ^^;)、今回は気勢が上がらないままに終わったようだ。ただし、元人気アイドルが汚れ役をやったとことは、話題になるとは思う。

 印刷会社に勤める木野本郁男は、競輪場通いに明け暮れる無為な日々を送っていた。そんな生活を一新させるべく、彼は恋人の亜弓の故郷である石巻に居を移す。亜弓の実家には、末期がんで余命幾ばくもないが、それでも漁師として働く父親の勝美がいた。ぶっきらぼうな勝美は、郁男に亜弓との仲を許す気配はない。それでも亜弓と勝美、そして亜弓の娘である美波と一緒に暮らすことにした郁男は、近所の小野寺の口利きで地元の印刷屋に勤務することになった。

 しかし同僚に誘われて競輪のノミ屋に足を運んだことを切っ掛けに、再びギャンブルにのめり込む。そんな中、亜弓と喧嘩した美波が家を飛び出してしまう。郁男は亜弓と共に美波を探し回るが、些細な口論から郁男と別行動を取ることになった亜弓が、何者かに殺害される。

 まず、亜弓がどうして郁男に惚れたのか分からない。周囲と打ち解けそうも無い雰囲気の美波が、郁男に懐いている理由も不明だ。とにかく郁男は救いようのないダメ男で、こんな人間と仲良くなるには余程の事情があるはずだが、映画は何も説明しない。

 そもそも、郁男がギャンブルに溺れた背景が描かれていないし、彼が嬉々として賭け事に走る様子も無い。つまり、主人公のギャンブル依存症は単なる“御題目”に過ぎず、キャラクターとしての中身が無いのだ。

 実を言えば、殺人事件の犯人は消去法で考えるとすぐに察しは付く。しかし、その動機に関しては最後まで明示も暗示もされない。ノミ屋の元締めであるヤクザの親分は勝美と親密な仲のようだが、内実は不明。とにかく、登場人物達のプロフィールが置き去りにされたまま、突発的な出来事ぱかりが積み重なっていくだけのシャシンなのだ。

 主演の香取慎吾は頑張ってはいるようだが、表情も身のこなしもセリフ回しも全てが一本調子で、到底納得出来る演技ではない。西田尚美や吉澤健、リリー・フランキー、若手の恒松祐里など、脇のキャストは決して悪くは無いが、ドラマ自体が要領を得ないため空回りしている印象を受ける。映像面では見るべきものは無く、安川午朗の音楽は今回は不発。ラストに映し出される海底に沈む震災の爪痕も、何やら取って付けたようで観ていて居心地が悪い。
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「フレンチ・コップス」

2019-07-26 06:25:06 | 映画の感想(は行)

 (原題:Les Ripoux)84年作品。初老のダメ刑事のヤクザな言動を追っているだけの映画だが、嫌悪感は無く鑑賞後の印象は爽快ですらある。良好なキャラクター設定と配役、そして気の利いたストーリーさえあれば、多少インモラルな話でも訴求力は高くなるものだと納得した次第だ。

 パリ18分署の刑事ルネ・ボワロンはとうの昔に出世を諦めてはいるが、馬主になって競馬場近くにカフェを開くという夢を持っている。そのために所轄内でワイロ、ピンハネ、タダ食いなどを日々常習して小銭を稼いでいる。自らの悪事のために相棒のピエロを身代わりにして逮捕させた彼のもとに、新しくコンビを組む若い刑事フランソワが着任する。フランソワはマジメで昇格試験勉強中。無軌道なルネのキャラクターとは相容れない。

 そこでルネは金遣いの荒い売春婦のナターシャをフランソワと付き合わせ、フランソワが金に困ってルネの遣り口を真似るように仕向ける。やがて2人は、マフィアの取引現場を急襲して麻薬を横取りする計画を立てる。

 ルネは絵に描いたような悪徳刑事だが、これをフィリップ・ノワレの飄々とした演技で見せられると、何だか憎めないのだ。仕事の甲斐性は無い代わりに、悪知恵はよくはたらき、それなりに要領よく世の中を渡ってゆく。敏腕刑事として腕を振るうのではなく、彼のような極道な生き方もまた立派な選択肢の一つではないかと、納得したくなる(笑)。

 麻薬強奪作戦は成功したかのように見えて、事態はそこまで都合良く展開するはずもなく、窮地に陥ってしまうルネ。そこで最初で最後の“男気”を見せるのもアッパレながら、それに報いるような終盤の扱いも見事だ。クロード・ジディの演出は快調で、適度なギャグを織り交ぜつつも、スムーズにドラマを引っ張ってゆく。

 ノワレは余裕の演技で、フランソワ役のティエリー・レルミットも、堅物から次第に“悪の道”(笑)に踏み込んでいくあたりのキャラクター変化を上手く見せている。ジャン・ジャック・タルベスの撮影は達者だが、何より音楽担当フランシス・レイの流石の仕事ぶりには感心した。85年度のセザール賞で作品、監督、編集の三部門で受賞している。
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「新聞記者」

2019-07-22 06:28:46 | 映画の感想(さ行)
 これはちょっと酷すぎる。どこから突っ込んで良いのか分からないほど、すべてにおいて完全に“間違っている”映画だ。そして、現時点で邦画において時事ネタを扱う際の困難性を改めて痛感した。生半可な知識と浅い考察では、社会派作品を手掛けるのは無理である。

 社会部記者として働く吉岡エリカのもとに、大学新設計画に関する極秘情報が匿名のファクスで届く。さっそく彼女は取材を開始。一方、外務省から内閣情報調査室(内調)に出向している若手官僚の杉原は、職場の露骨な現政権寄りの姿勢に戸惑っていた。そんな中、彼は昔の上司である神崎と久々に会うが、その数日後に神崎は自ら命を絶ってしまう。どうやら神崎は政府の機密を掴んでいたらしい。やがて吉岡は杉原に接触する。

 学校新設計画というのは多分に“モリカケ問題”を意識したモチーフだと思うのだが、あの事案の本質は経済問題である。だからマスコミが真っ先に切り込んでいくべき相手は、当然のことながら主管の文科省、そして財務省、さらには構造改革特区を主導した経済財政諮問会議であるべきだ。内調や外務省とは、直接には関係が無い。

 ところが、作り手達にとって、この問題はキナ臭い外交事案やインテリジェントが暗躍する“国際的陰謀”であるらしいのだ。ラストに明かされる“衝撃の事実”とやらには、心底呆れかえった。斯様なウソ臭い大仰なネタは、今どきジェームズ・ボンド映画でも扱わない。作者達のメンタリティは、冷戦時代あるいは55年体制時で停止しているのではないか。左傾の者達が“こういうあくどい企みが存在するに違いない!”と頭の中だけで合点し、リアリティ不在のまま突っ走ったシャシンと言わざるを得ない。

 ストーリー及びプロットの組み立ては、いちいち指摘するのが面倒になるほど雑である。平板な演出は、過去の作品で才気を見せた藤井道人の仕事とも思えない。

 そして致命的なのはキャスティングであろう。吉岡は日本人の父と韓国人の母の間に生まれたという設定で、演じているのは韓国女優のシム・ウンギョンなのだが、その必然性が微塵も無い。彼女のたどたどしい日本語ばかりが耳に付き、愉快ならざる気分になる(日本の女優にオファーしたが“政治的な色”が付くことを敬遠して断られたという話もあるが、そんなのは言い訳にもならない)。杉原を演じる松坂桃李も終始陰気で精彩が無く、杉原の妻に扮する本田翼に至っては、堂々たる“場違いなラブコメ演技”を披露してくれる(苦笑)。

 確かに現政権の遣り口は決して褒められたものではなく、批判の対象になることは当然である。しかし、本作のようないい加減な姿勢では、屁の突っ張りにもならないのだ。原作は左傾の論客として知られる現役新聞記者だが、こういう現実逃避のイデオロギー的観点でしか物事を捉えられない者達が“社会派作品”の企画を提示している状態では、永遠にハリウッドには追いつけないだろう。現政権にモノ申したいのならば、いくらでも“現実的な”切り口は存在する。それを考察しないのは、作者の怠慢だ。
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「パパは、出張中!」

2019-07-21 06:32:58 | 映画の感想(は行)
 (原題:Otac na sluzbenom putu)85年ユーゴスラビア作品。エミール・クストリッツァ監督の真骨頂であるオフビートな作劇が展開されているが、後の「アンダーグラウンド」(95年)以降の作品に比べれば“普通”の映画に見える。ただし、それだけ広範囲な訴求力が備わっているとの解釈も可能で、幅広く奨められるシャシンと言えよう。

 1950年、サラエボに住む6歳のマリクは、父メーシャ、母セーナ、そして祖父ムザフェルらの愛情に包まれ、楽しい日々を送っていた。ところがある日、メーシャが突然逮捕される。彼の不倫相手であるアンキッツァとのアヴァンチュールの途中、うっかり国家を批判する発言をしてしまったのだ。



 アンキッツァはそのことを人民委員会のジーヨに密告。ジーヨはセーナの兄でもあり、怒ったジーヨはメーシャを地方の鉱山での奉仕労働に追いやる。父が家に帰らないことを不審に思ったマリクは母親に事情を尋ねるが、セーナは“パパは出張中よ”と答えるしかなかった。やがて一家は父親の“流刑先”の近くの町に住むことになったが、僻地とはいえ一家そろって暮らせるのは、マリクにはとって有り難かった。

 とにかくこの父と子のキャラクターが個性的だ。メーシャは平気でヨソの女と懇ろになり、嘘をつき、娼婦も買い、カミさんを泣かせる。しかし仕事はマジメだし、家族を大事にしているし、何があってもへこたれない強さもある。マリクは夢遊病であるというのがケッ作で、たびたび騒動を起こす。特にマリクの叔父の結婚式における顛末は、けっこう笑わせる。

 ただし、このエネルギッシュな群像劇に、シビアな社会状況が影を落としていることは見逃せない。当時はチトー大統領による5ヵ年計画が発動し、ユーゴスラビアはソ連のスターリン主義に対抗しようとしていたが、それでも市民の自由は抑圧され、ストレスの溜まる状況だった。それが暴発したのが91年からのユーゴスラビア紛争で、本作はその前に作られたにも関わらず、何となく不穏な空気を描き出すことに成功している。クストリッツァの演出はテンポが良く、ゾラン・シミャノヴィッチによる野趣に富んだ音楽も効果的だ。第38回カンヌ国際映画祭における大賞受賞作である。
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「ザ・ファブル」

2019-07-20 06:28:28 | 映画の感想(さ行)

 深みは無いが、一応は退屈せずに最後まで観ていられる。空いた時間にフラリと劇場に入り、あまり気分を害さずにヒマを潰すにはもってこいのシャシンだろう。ただ、残酷な場面があるので幾分は観客を選ぶ。そのあたりは注意が必要だ。

 どんな相手も6以内に殺すと言われる謎の殺し屋“ファブル(寓話)”は、裏社会ではその名が轟いていた。いつものように“仕事”を終えた彼に、ボスは無理矢理に“充電期間”を設定する。大阪に居を移し、1年間誰も殺さずに過ごせというのだ。もしもその間に誰かを殺せば、ボスは躊躇なく彼を殺すと釘を刺す。彼は佐藤アキラと名乗り、相棒のヨウコは妹という設定で、生まれて初めて一般人として暮らし始めるのだった。

 しかし身を寄せたのが大阪の暴力団で、組の乗っ取りを図る勢力が暗躍し、親分の弟分で凶暴な性格の男が出所してきたり、さらにはアキラを付け狙う殺し屋コンビが来襲する等、剣呑な雰囲気が払拭されることは無い。ついには世話になった若い女ミサキが悪者どもに攫われてしまう。アキラはヨウコと協力し、誰も殺さずにミサキを救出するべく、敵のアジトに乗り込んでゆく。

 アキラのキャラクターが面白い。極端な猫舌で、売れない関西芸人の持ちネタに大笑いする。そして今まで殺し屋稼業に専念してきたため、言動が一般社会の常識とは妙にズレている。時折柄にもないギャグを飛ばすが、全てハズしているのがおかしい。

 もっとも、アキラの身元を引き受けるのがヤクザというのは無理筋で、しかも内部に火種を抱えている。こういう組織ではトラブルが起こって当然だ。(少なくとも表向きは)ちゃんとしたカタギの後見人を用意すべきであった。また、大阪に赴く際にボスに手渡されるインコが何のプロットにもなっていないのも不満だ。原作(南勝久によるコミック)ではそのあたりが説明されているのかもしれないが、私は読んでいないので分からない。

 主演の岡田准一は健闘していて、アクションシーンも難なくこなす。ただし、出所したばかりの危険人物に扮した柳楽優弥の存在感には負けている。言い換えれば、柳楽が出ていなければ軽佻浮薄な出来に終わっていただろう。木村文乃に佐藤二朗、安田顕、佐藤浩市といった脇の面子も悪くない。

 監督の江口カンの仕事ぶりには殊更才気走ったものは無いが、山本美月に福士蒼汰そして向井理という“大根”が3本も並んだにもかかわらず(笑)ここまで仕上げたのは評価して良いだろう。客の入りは良好なので、続編が作られる可能性は大である。
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「必殺4 恨みはらします」

2019-07-19 06:29:58 | 映画の感想(は行)
 87年松竹作品。映画版の「必殺」シリーズをすべて観ているわけではないが、おそらく本作が一番出来が良いと思われる。さすがテレビシリーズ第一作「必殺仕掛人」の第1話と第2話を手掛けた深作欣二監督だけあって、見せ場の連続で息つく暇もない。また当時の世相(地上げ屋の横行等)を反映したストーリー展開も興味深い。

 中村主水が勤務する町奉行所で、見習い与力の安田小兵衛が町奉行の長尾監物に切りつける事件が発生。主水はうっかり現場に関わってしまい、減給処分の憂き目にあう。後任の奉行には、二枚目だがどこかミステリアスな雰囲気のある奥田右京亮が就任。



 一方、主水の行きつけの居酒屋のある長屋では、旗本愚連隊が乱入して狼藉の限りを尽くしていた。その際に愚連隊の一人が乗っていた馬が暴走し、狼人の弥兵衛が事故死する。弥兵衛の娘のお弓は、仕事人たちに愚連隊の始末を依頼。だが主水は、この事件の裏に大きな陰謀があることを嗅ぎ付ける。

 スローモーションを活かしたオープニングの奉行所の刃傷沙汰から、一気に惹きつけられる。愚連隊の突入と逃げ惑う住民たちをダイナミックにとらえたモブシーン、華麗な殺陣とアイデアに満ちた“仕事”の場面など、ヴィジュアル面で盛り上がるポイントが満載。さらには、長屋の土地をめぐる利権争いや、右京亮の過去にまつわる因縁話といったプロットも上手く機能し、違和感はほとんどない。

 レギュラーの仕事人たちの他にも別の実行グループがいて、敵方にもかなりの遣い手がおり、これらが入り乱れて活劇を繰り広げる様子は壮観だ。人を食ったような決着の付け方にも、笑いながら納得してしまった。深作御大の演出は賑々しくもダイナミックで、血糊は多いのに陰惨さを感じさせず、娯楽映画の王道路線に徹している。

 藤田まことをはじめとする“いつものメンバー”の他にも、真田広之に千葉真一、倍賞美津子、堤大二郎、石橋蓮司、成田三樹夫、笹野高史、蟹江敬三、室田日出男、岸田今日子など、配役はかなり豪華。しかもそれらにオーバーアクトすれすれの芝居をさせて、すべてサマになるという芸当にも唸るばかり。平尾昌晃のお馴染みの音楽、陰影に富んだ石原興によるカメラワークも言うことなしだ。
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「X-MEN:ダーク・フェニックス」

2019-07-15 06:48:05 | 映画の感想(英数)
 (原題:X-MEN:DARK PHOENIX)不遜な言い方になるが、本作の一番のセールスポイントは、このシリーズがこれで終わるということである。MARVEL関係の映画化としては早い時期(第一作は2000年製作)から手掛けられていたにも関わらず、話が複数の時間軸に分裂してまとまりの無いまま進行し、後発のマーベル・シネマティック・ユニバースに比べるとヴォルテージが低い印象を受ける本シリーズがここで“御破算”になるのは、(皮肉な意味ではなく)送り手にとっても観客に対しても結構なことだと思う。

 スペースシャトルの事故で遭難した飛行士たちを救うべく、X-MENのメンバーは宇宙空間に赴くが、そこで謎のエネルギー体に遭遇する。何とかミッションを果たして帰還しようとした瞬間、ジーン・グレイがエネルギー体からの光線を浴びてしまう。



 地上に戻ったジーンは次第に挙動がおかしくなり、他のメンバーと反目する。彼女の中のダークサイド“ダーク・フェニックス”覚醒し、強大なパワーが現出しようとしていたのだ。さらに、そのパワーを手に入れようと企む凶暴なエイリアンが飛来。X-MENは地球の危機を救うため、敵であったマグニートーとも共闘し、ジーンを保護しながらエイリアンの脅威に立ち向かう。

 活劇シーンに関しては、あまり文句は無い。舞台が宇宙にまで広がりスケール感が出てくると共に、スピードもキレ味も及第点だ。少なくとも、サイモン・キンバーグの演出は当シリーズ常連だったブライアン・シンガーよりは達者だと思う。しかしながら、筋書きの方は褒められたものではない。

 そもそも、謎のパワーを手に入れたジーンが、一体何をしたいのか分からない。彼女がX-MENに加入したのはある悲しい出来事が切っ掛けなのだが、そのことに向き合おうとしているかのように見えて、それが新たなパワーとどう関係しているのか不明である。何を聞いても“分からないから静かにして”と言うばかりで、他のメンバーも困惑するばかり。

 エイリアン連中と謎のエネルギー体との関わりも、イマイチ判然としない。そしてエイリアンの目的と生態および弱点も具体的に示されないようでは、いくらアクション場面が派手でも、カタルシスを得られない。ジーン役のソフィー・ターナーの器量がさほどでもないのも不満だ(笑)。

 ジェームズ・マカヴォイにマイケル・ファスベンダー、ジェニファー・ローレンス、ニコラス・ホルト等のレギュラーメンバーは、今回は可も無く不可も無し。敵役のジェシカ・チャステインが多少目立っていた程度だ。ラストは一応決着がついたような感じだが、本作の時代設定が80年代なので、今後何が起こるか分からないし、中途半端な幕切れであることは確かだ。ただし、冒頭にも述べたように、複雑化したストーリーラインをここで打ち切るという、一種の爽快感はある。その意味では、存在価値はあるだろう。
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「さよならジョージア」

2019-07-14 06:22:16 | 映画の感想(さ行)
 (原題:The Night the Lights Went Out in Georgia)81年作品。味わいのあるヒューマンドラマだ。何よりロードムービーで、しかも音楽を絡めているので、よっぽどの不手際が無い限り、ある程度のレベルは約束されたようなものだ。演出も演技も大きな破綻は無く、最後まで安心して観ていられる。

 カントリー歌手のトラヴィスは以前は売れっ子だったが、酒と女遊びにおぼれて身を持ち崩し、今ではマネージャー担当の妹アマンダと共に場末のドサ廻りに明け暮れる毎日だ。ある田舎町で酔っ払ってベンチに寝ていたトラヴィスを、乱暴者のセス副保安官が逮捕してしまった。一方、アマンダも未成年で無免許運転した件で巡査のコンラッドに検挙され、彼に監視される身となる。保釈金を払うために、トラヴィスはナイトクラブで働くことになったが、そこで常連客のメロディと知り合い、仲良くなる。だが、メロディはセスの元カノだった。逆恨みしたセスは、トラヴィスを消そうとする。

 冒頭の、女とモーテルでよろしくやっているところへ亭主が現れ、危機一髪のトラヴィスがアマンダの運転するキャンピングカーに救われるドタバタ劇からして“掴み”はオッケー。カントリー&ウエスタンのメッカであるテネシー州ナッシュビルを目標にジョージア州を旅する兄と、まだ未成年なのにしっかり者の妹、そして愛犬によるユーモラスな展開が続き、飽きさせない。

 だが、コミカルな中にも次第に悲劇が忍び込んでゆくあたりが、けっこう巧みだ。後半の暗転の後に、希望を持たせるようなラストが続き、鑑賞後の印象は格別だ。ロナルド・F・マックスウェルの演出は弛緩したところが無く、最後まで観る者を引っ張ってゆく。

 トラヴィスに扮するデニス・クエイドは調子のいいダメ男を飄々と演じているが、それより本作ではアマンダ役のクリスティ・マクニコルが光っている。彼女は当時ジョディ・フォスターと並んで最も将来を嘱望された若手の有望株で、この映画でも実に達者なパフォーマンスを披露している。また、2曲ほど彼女自身が歌うシーンがあるが、本職顔負けの上手さだ。メンタル面の問題により、早々と引退してしまったのが実に惜しまれる。それから、コンラッドを演じるマーク・ハミルも良い味を出している。デイヴィッド・シャイアの音楽、ビル・バトラーによる撮影も悪くない。
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