元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「日日是好日」

2018-10-29 06:29:15 | 映画の感想(な行)

 説明的なセリフの多さは、通常マイナス評価に繋がるものだが、本作に限ってはそうではない。これは素材の奥深さをセリフがフォローしているという状況が現出しているためで、言葉が先行して映画を引っ張ろうとしているのではないのである。

 考えてみれば、映画のテーマ(及びその扱い方)を評するのも、やはり“言葉”に頼るしかないのだ。それを捨象してしまえば、単なる“何となく良かった(あるいは悪かった)”という低レベルの“感想”に終わってしまう。そんな当たり前すぎる原初的な認識を再確認させる、この映画の玄妙さは侮れない。

 漫然と大学生活を送っていた20歳の典子は、お茶を習うことを奨められる。茶道の師匠で、立ち振る舞いの洗練度が並ではない“武田のおばさん”から何かを学ばせたいという母親からの提案だった。当初は気乗りがしなかった典子だが、大いに興味を示した同い年のいとこの美智子に誘われ、2人は茶道教室に通い出す。

 典子は厳格なプロトコルで構成されたお茶の世界に戸惑ったが、次第にその面白さにハマるようになり、それから20数年にわたり武田先生に師事することになる。その間、彼女は就職も恋愛も経験するが、いずれも思ったような結果に繋がらない。ただ、お茶はいつも彼女の側にあり、考えるヒントを与えてくれるのだった。森下典子のエッセイの映画化だ。

 私は茶道に関しては門外漢だが、それでもこの芸事における膨大なルールと、さらにそれらを超えたところにあるアーティスティックな境地に見入ってしまう。これを平易に表現するには、なるほどセリフを敷き詰めねばならないのは当然だろう。それどころか、本作ではセリフは必要最小限に抑えられているのではないかと思ってしまう。

 “考えるんじゃなく、感じるんだ”という意味の武田先生の言葉(某映画でもお馴染みだが ^^;)が、実にしっくりと収まる作劇。それまで典子が気が付かなかった音や色彩や、四季の移ろい等がヒロインの成長と共に観る者にも伝播していくという構成は、見事と言うしかない。モチーフとして出て来る、フェリーニの「道」の扱いも納得出来る。

 主演の黒木華は殊更メイクなどに凝っていないにも関わらず、ちゃんと長い年月を感じさせる演技を披露しているのには感心する。さすが若手屈指のパフォーマーだ。先生役の樹木希林は、これはもう“神業”に近いのではないか。どう見たって茶道のエキスパートそのものだ。美智子に扮する多部未華子をはじめ、鶴田真由や鶴見辰吾など、脇の仕事ぶりも確かなものである。

 監督の大森立嗣は出来不出来の幅がある作家だが、今回は落ち着いた演出を見せる。槇憲治の撮影、世武裕子の音楽、そして全編を彩る茶道の大道具・小道具の数々。鑑賞後の満足度は高い。
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「顔のない天使」

2018-10-28 07:12:55 | 映画の感想(か行)
 (原題:A MAN WITHOUT A FACE)93年作品。メル・ギブソンの監督デビュー作だが、非凡な演出力はこの頃から片鱗を見せている。設定は平易で、誰が観ても良さが分かるヒューマン・ドラマ。さらに、過去にタッグを組んだピーター・ウィアー監督の影響も感じられるあたりが興味深い。

 1968年。メイン州のリゾート地にやって来たノースタッド家。3人の子供は全て父親が違うという、複雑な事情のある一家だ。長男で12歳のチャックは、家庭に居場所が無い。彼は早めに家を出て、士官学校に入ることを望んでいる。近所に暮らす元教師のジャスティンは、事故で顔半分にやけどを負い、周囲の人間との関係を絶っていた。



 そんなジャスティンと知り合ったチャックは、ジャスティンの人柄と教養の豊かさに感服し、自分の個人教師になってほしいと頼む。最初は断っていたジャスティンだが、チャックの熱意に負けて勉強を見てやることにする。だが、ひょんなことからチャックの父親の死因と、ジャスティンが起こした事故の原因が明らかになり、それが切っ掛けで2人の関係は終わりを告げる。72年に出版されたイザベル・ホランドの同名小説の映画化だ。

 孤独な2人が出会い、気持ちを通わせる筋書き自体、訴求力が高い。そしてギブソンの演出は丁寧で、登場人物の内面をきめ細かく捉える。明らかに本作は、ウィアー監督の「いまを生きる」(89年)と似た構図を持っている。

 あの映画で主人公の教師(ロビン・ウィリアムズ)が主宰する“デッド・ポエッツ・ソサエティ”とは違い、この「顔のない天使」での生徒はチャック一人だが、彼がジャスティンを信頼するようになって相手の顔の傷跡が見えなくなったと言うように、過去のトラウマを乗り越えて文字通り“いまを生きる”ことを選んだ2人の決意には感銘を受ける。ラストの扱いは予想が付くが、それでも観ていて気持ちが良い。

 ジャスティンに扮するのはギブソン自身だが、彼のフィルモグラフィの中では上位に入る好演だ。チャック役のニック・スタール(これが映画デビュー作)も芸達者である。ドナルド・マカルパインのカメラによる映像、そしてジェームズ・ホーナーの音楽も申し分ない。
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「止められるか、俺たちを」

2018-10-27 06:46:10 | 映画の感想(た行)

 思い入れたっぷりに撮られているようだが、私は共感出来なかった。これはいわゆる“世代の違い”に起因するのかもしれない。監督の白石和彌は74年生まれ。団塊ジュニアと呼ばれる年代だが、彼らの親である団塊の世代は、まあいろいろと毀誉褒貶のある(どちらかといえば“毀”と“貶”が多い)人たちだった。特に、新左翼に対するシンパシーについてはしばしば取り沙汰される。

 もちろん団塊ジュニアが親世代の価値観を受け継いでいるとは断定出来ないが、まったく無いとは言い切れないだろう。本作には、団塊世代の特徴だった(と言われる)左傾イデオロギーのモチーフが満載で、団塊世代より下で団塊ジュニアより上の私にとっては、まったくピンと来ない。観ていて疲れたというのが、正直な感想だ。

 1969年春。定職も無くブラブラ暮らしていた21歳の吉積めぐみは、新宿のフーテン仲間の秋山道男に誘われ、映画監督の若松孝二が率いるプロダクションに参加する。そこには当時過激なピンク映画を作り出すことで知られていた若松をはじめ、足立正生や小水一男、高間賢治などの個性的な面子が顔を揃えていた。めぐみは若松プロで助監督として働き始めるが、ワンマンな若松監督の姿勢に閉口しながらも、次第に仕事に慣れていく。だが、秋山の離脱と共に若松プロには政治活動に熱心な若者たちが出入りするようになり、通常の映画製作会社とは違う様相を呈していく。

 まず、主人公であるめぐみがなぜ映画の世界に飛び込んだのか、十分な説明が成されていない。そして、どうして彼女が映画作りに魅了されていくようになったのか、それも表現出来ていない。少なくとも劇中の撮影風景には、一般人を否応なく引き込んでしまうような蠱惑的な吸引力は感じられない。何しろピンク映画にも関わらず、ちっともエロティックではないのだ。

 ここには“エネルギッシュな若松プロだから、その仕事ぶりには魅力があるのは当然だ”あるいは“この時代の若者は、政治に興味を持っていたものだ”といった御題目しかないと思う。めぐみの心境の変化や、終盤の行動の意味も、描写が不十分だ。扮する門脇麦の高い演技力を持ってしても、説得力を欠く。

 足立正生が後日過激派に身を投じたように、若松プロは赤化の一途を辿るように見えるが、このあたりの扱いは肌に合わない。有り体に言えば、愉快ならざるものを感じる。鑑賞後、この映画を観るよりも、若松監督の昔の作品をチェックする方がよっぽどマシなのではないかと思ってしまった。若松役の井浦新をはじめ、山本浩司や岡部尚、大西信満、タモト清嵐といったキャストは熱演だが、作品自体がこの程度なので、評価は出来ない。
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「五福星」

2018-10-26 06:28:57 | 映画の感想(か行)
 (原題:奇諜妙計五福星)83年作品。十代の頃から、観た映画についてノートに題名と概要そして短評を書いていた(まあ、文章力は今も当時からさほど進歩していないのは内心忸怩たる思いだが ^^;)。先日、実家の押し入れを整理していたら、80年代に使っていたノートが出てきて、しばし感慨にふけっていたが(笑)、パラパラとめくっていてふと目に付いたのがこの映画だ。

 あの頃は、ジャッキー・チェンの映画が興行的に重要な扱いを受けていた。本作もジャッキー主演のような雰囲気で宣伝されていたが、実は彼は脇役で、主役と監督はサモ・ハン・キンポーだ。しかしながら、それでも劇場に足を運んだ者を失望させないだけのヴォルテージはあったと思う。



 空き巣で逮捕されたポット(サモ・ハン)は、刑務所でチンケとハンサム、モジャ、マジメの4人と意気投合する。彼らは出所後に清掃会社を立ち上げて忙しい日々を送るが、仕事のわりにあまり儲からない。ある日、5人は大きな屋敷での清掃作業を請け負ったが、そこで開催されていたパーティーに潜り込み、金持ちの出席者に対して営業活動を行おうとする。しかし、それはマフィアの主催するパーティーだった。しかも、マフィアのボスは闇取引のブツである偽札が入ったアタッシュケースをポット達が盗んだと勘違いし、5人は追われる立場に。さらにモジャの妹が人質に取られ、彼らはピンチに陥る。

 サモ・ハンの演出は、今から考えると(いや、当時の水準でも ^^;)かなり泥臭い。出演者全員に大仰な演技をさせ、展開はモタモタしているし、散りばめられたネタもクサくてくどい(笑)。しかし、これは言い換えると“パワーがあって、サービス精神旺盛”ということだ。事実、香港では、公開年の年間ランキング1位の大ヒットとなっている。

 繰り出される垢抜けないギャグも、割り切って見れば楽しめる。特に“伝説”になったチンケによる“透明人間のネタ”には大笑い。演じたリチャード・ンは、これで香港電影金像奨の主演男優賞候補になったというのだからスゴい。ハンサムによる“珍妙なクンフーのポーズのネタ”も楽しめる。アクション場面は優れていて、大々的なカークラッシュ場面をはじめ、刑事役のジャッキーはローラースケートでの妙技で観る者を驚かせる。

 ラストのドンデン返しは強引に過ぎるが、香港映画ということで“笑って済まされる”レベルだ。なお、この映画と当時上映だったのが鈴木則文監督の「コータローまかりとおる!」(84年)だが、こっちの方はほとんど内容を覚えていない。くだんの“映画ノート”にもタイトルしか記されていないし、たぶん大したシャシンではなかったのだろう。
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「菊とギロチン」

2018-10-22 06:33:50 | 映画の感想(か行)

 いまひとつピンと来ない。ひょっとしたら特定のイデオロギーを持ち合わせている人は大絶賛するのかもしれないが、まずは映画を一歩も二歩も“引いて”観てしまう当方にとっては、まとまりの無さばかりが目についてしまう。加えて3時間を超える上映時間は、疲労感を覚えるのには十分過ぎた。

 大正末期。関東大震災後には国民の一部に共産主義思想が広まるなど、不穏な空気が流れていた。思想家の大杉栄が殺されたことに義憤を感じていた政治結社“ギロチン社”の面々は、当局側に追われながらも資本家や官僚に対するテロを画策していた。そんな彼らが流れ着いた田舎町で、女相撲一座“玉岩興行”と関わりを持つことになる。社会から爪弾きにされた女たちが繰り広げる真剣勝負にプロレタリアートの気骨を垣間見た“ギロチン社”の中濱鐵と古田大次郎は、一座と行動を共にする。やがて中濱らは女力士と恋仲になるが、彼らの前には厳しい現実が立ちはだかる。

 監督の瀬々敬久による長編ドラマとしては2010年に撮られた「ヘヴンズ ストーリー」を思い出すが、明確で重大なテーマを提示していたあの映画に比べると、本作の主題は曖昧だ。ハッキリ言って、登場人物たちは一体何をしたいのか、ほとんど伝わってこない。

 政治結社とは名ばかりで、“ギロチン社”の連中は恐喝やカッパライで得た小金を酒や女遊びに使ってしまう。時折思い出したように理想を語るが、それらは非現実的で説得力は無い。肝心のテロも失敗に終わる。

 女相撲の構成員の境遇には同情すべき点はあるが、“ギロチン社”と接触することによって何か根本的な状況の変化が起きるわけでもない。若い力士である花菊の辛い生い立ちや、朝鮮人力士の十勝川が嘗めた辛酸など、それ自体はドラマを喚起させる素材ながら、脇に“ギロチン社”が控えていることもあって取って付けたような印象しか受けない。

 勝手に自警団を結成して主人公たちを苦しめるシベリア帰りの元兵隊たちの扱いは興味深いが、その顛末に思い切った仕掛けは用意されておらず、拍子抜けだ。何やら全体的に、言いたいことは山ほどあるのだが結果が伴わないといった按配で、隔靴掻痒の観を呈している。聞くところによると構想に長い年月を要したらしいが、この“構想○○年!”といった謳い文句の映画に大したものは無いのは定説だろう。

 加えて、画面のブレがひどい手持ちカメラの(意味のない)多用や、聞き取りにくいセリフなど、技巧面でも万全とは言い難い。中濱役の東出昌大は相変わらず演技が一本調子で、木竜麻生や韓英恵などの力士に扮した面子も奮闘はしているがこちらに迫ってくるものはあまり無い。印象に残ったのは座長に扮した渋川清彦ぐらいだ。
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「木と市長と文化会館 または七つの偶然」

2018-10-21 06:02:22 | 映画の感想(か行)

 (原題:L'Arbre, Le Maire et La Mediatheque ou Les Hasards)92年フランス作品。監督はエリック・ロメールだが、「クレールの膝」(70年)や「緑の光線」(86年)などの彼の多くの映画とは違って、若い女の子は登場しない(笑)。だから当然、いつもの“誰それと誰ちゃんがデキてしまってどうしたこうした”というレベルの話も無い(再笑)。しかし、その分ロメールの真の特徴が鮮明にあらわれている。実に興味深い作品だ。

 パリの南西部に位置する地方都市サン=ジュイールの市長ジュリアンは、町の原っぱに図書館と劇場、プール等を備えた総合文化センターを建設することを発案する。しかし市民の受け取り方は冷ややかだ。

 ジュリアンの恋人である小説家のベレニスは懐疑的な姿勢を崩さないし、エコロジー派の急先鋒である小学校教師マルクは、当然のことながら猛反対。ジュリアンにインタビューした女性ジャーナリストのブランディーヌの雑誌記事は、なぜかマルクが中心になった環境特集になる始末。事態は膠着状態になるが、偶然にマルクの娘ゾエとジュリアンの娘ヴェガが友達となったことから、新たな展開を見せる。

 ロメールの映画でもっとも目立つ特質といえば、物語性の欠如である。ドラマを盛り上げようとする大がかりな仕掛けも、凝ったストーリー展開もなし。では何が映画を動かしているかというと、偶然性である。それも普通のドラマツルギーでは考えられない奇妙な偶然によって、映画は唐突に方向転換する。

 しかし、それらは決して自然主義に徹したスタンスを取っていない。偶然性は、すべて綿密に計算されたものである。市長と女性ジャーナリスト、教師とその妻、さらには市長と教師の10歳になる娘etc.登場人物が2人寄ればディベート大会が開催され、いかにも西洋人らしい徹底的な議論の洪水は、本人たちが勝手に繰り広げているように見える。まさに外観はドキュメンタリーだ。だが、これをすべて脚本に書いたロメールの屈折度は相当なものである。

 全編を七つのパートに分け“もし○○が××しなかったら・・・・”というサブタイトルのもとに完全に仕切っているあたりは“偶然性の優位”を強調する作者の茶目っ気さえ感じられる。ラストがいきなりミュージカルになってしまうのも“突発的な偶然”かもしれないが、これには笑った。

 仕組まれた偶然。ノンフィクショナルなフィクション。巧妙に演出された“自然な現実感”。言葉尻だけ捉えればウサン臭さを感じる作風だが、あっけらかんとした屈託のなさと美しい映像、映画の温和なリズムは、それらをカバーするだけではなく、何やらこれが“映画的なユートピア”の一典型ではないかという気がしてくる。

 パスカル・グレゴリーやアリエル・ドンバール、ファブリス・ルキーニといった顔触れは馴染みがないが、皆いい演技をしている。一見の価値はある好編だ。
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「散り椿」

2018-10-20 06:15:50 | 映画の感想(た行)
 木村大作の前回の監督作「春を背負って」(2014年)よりは質の面でいくらかマシだが、やはり評価出来るようなレベルには達していない。改めて感じるのだが、この監督は登場人物の内面が描けない。前々作「劔岳 点の記」(2009年)はビジネスライクな(?)話だったのであまり気にならなかったが、本作のような各キャラクターの心理を掘り下げる必要のある題材には、この監督に適性があるとは思えない。

 江戸・享保年間(18世紀前半)、扇野藩で一刀流道場四天王の一人と謳われた瓜生新兵衛は、藩の不正を訴えたために追放されてしまう。それから8年、彼の妻の篠は、病の床で最期の願いを新兵衛に託す。それは、同じく四天王の一人で新兵衛の友人であった榊原采女を助けてほしいというものであった。



 故郷へ戻った新兵衛は早速采女に接触するが、側用人になっていた采女は、藩政をめぐって家老の石田玄蕃と対立状態にあった。そして、かつての藩の不正も揉み消した裏の勢力は、新兵衛をも亡きものにすべく暗躍する。葉室麟の同名小説の映画化だ。

 新兵衛の屈託は相当なもので、采女も難しい立場で悩んでいる。篠の弟である藤吾は新兵衛に対して複雑な感情を抱いており、篠の妹の里美は新兵衛を密かに慕っている。これら登場人物の心理は、映画として説得力があるように提示されてはいない。ただ、設定通りにキャラクターを配置しただけで、あとはキャストに丸投げだ。

 主演の岡田准一は別にしても、西島秀俊に黒木華、池松壮亮、麻生久美子、緒形直人、石橋蓮司、富司純子、奥田瑛二といった手練れの面々を起用しているだけあって、何とか映画は成立している。しかし、観る者の心を揺さぶるような深い感銘や衝撃は無い。どの描写も表面的だ。



 確かに名カメラマンである木村が演出しているだけあって映像は美しいが、これだけドラマが弱いと絵葉書的に見えてしまう。作劇自体も褒められたものではなく、四天王の関係性や、かつての藩のスキャンダルの描出は不十分。殺陣は頑張っているが、かなり変則的で違和感を覚える。

 肝心の剣戟シーンは段取りが悪くて感心しない(ヘタすれば簡単に主人公はやられている ^^;)。ラストの扱いも、決まっているようで全然決まっていない。あと気になったのは加古隆の音楽で、某映画のテーマにあまりにも似すぎている。台詞回しに難のある小泉堯史の脚本も含めて、製作側はもっとチェック体制を整えるべきであった。
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「ホッファ」

2018-10-19 06:53:45 | 映画の感想(は行)
 (原題:HOFFA )92年作品。個性派俳優のダニー・デヴィートは、何本か演出も手掛けている。その中で私は本作しか観ていないが、監督としても有能であることが強く印象付けられる出来だ。取り上げた題材も興味深い。

 1930年代、インディアナ州の地方都市からデトロイトに出てきたジミー・ホッファは、持ち前の行動力と押しの強さにより、たちまちトラック運転手組合の幹部の座を得る。その言動は過激で、非組合員の勧誘や他の組合との抗争時には躊躇無く暴力に訴えた。また、スト破りを図る経営者側に対抗するため、マフィアとも接近する。



 50年代にはアメリカ北部のトラック運転手をほぼ手中にし、航空業界の組合をも支配した。そして60年代には組合員は150万人を超え、ホッファは既成政党も一目置くほどの権力を得る。だが、司法長官のロバート・ケネディに組合の裏資金を告発され、政府との対決姿勢を強めていく。豪腕で知られた労働組合指導者ホッファの伝記映画だ。

 アメリカの近代史を、労働組合活動の面から捉えるという姿勢は面白い。それは決して褒められるような事実ばかりではなく、どちらかというと“黒歴史”に近い。労働者の利益になるはずの組合が、実は裏社会と密接に結び付いており、単なるポリティカル・フォースの一つとして機能しているに過ぎないという不条理。労働者は経営側だけではなく、マフィアと結託した組合幹部からも良いように扱われる暗澹たる事実を、本作は過不足無く描き出す。

 ただし、見方を変えれば労働運動なんてある種の“パワー”が無ければ成り立たないのであり、マフィアの存在がその一翼を担っているのは当然なのかもしれない。きれい事では政治は動かない。とはいえ、ケネディ兄弟もホッファも結局は時代の流れに押し潰されていく。そのニヒリスティックな状況には嘆息するばかりだ。

 デヴィートの演出は力強く、弛緩した部分が見当たらない。また、架空の人物であるホッファの側近ボビー・チャロを狂言回しとして機能させているあたりも的確だ。主演のジャック・ニコルソンはまさに“横綱相撲”で、このアクの強い人物を堂々と演じきっている。ボビーに扮するデヴィートをはじめ、アーマンド・アサンテやJ・T・ウォルシュ、ジョン・C・ライリーと、脇の面子も渋い。特筆すべきはスティーヴン・H・ブラムによる撮影で、茶系を基調とした透き通るような映像には感服する。
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「1987、ある闘いの真実」

2018-10-15 06:13:38 | 映画の感想(英数)

 (原題:1987)最後まで有無をも言わせず観客を引きずり回す、かなりの力作である。たとえ韓国に対して良い印象を持っていない者が接したとしても、このパワーには圧倒されてしまうだろう。またダークな実録物であると共に、ラブストーリーやサスペンス劇の要素も取り入れ、娯楽作品としても立派に通用していることも嬉しい。

 1987年1月、全斗煥大統領による軍事政権下の韓国。ソウル特別市の南営洞にある対共分室では、左傾分子を徹底的に排除するべく、激しい取り調べが行われていた。そんな中、拷問によってソウル大学の学生が死亡してしまう。警察は隠蔽のため直ちに遺体の火葬を申請するが、違和感を抱いたチェ検事は司法解剖を命じる。

 その結果対共分室の行きすぎた遣り口が明るみになると、政府は取り調べ担当刑事2人の逮捕だけで事件を終わらせようとした。それに気付いた新聞記者や刑務所看守らは、真実を公表するべく立ち上がる。一方、殺された大学生の仲間たちも黙っておらず、激しい抗議デモを敢行。やがて、韓国全土を巻き込む民主化闘争へと発展していく。

 この映画には明確な主人公は存在しない。序盤はチェ検事が中心になってストーリーが進むと思われたが、すぐに物語の焦点は別の者達に次々と移ってゆく。通常このような手法は作劇が散漫になってまとまりに欠けることがあるのだが、これは特定のヒーロー的な個人が義憤に駆られたのではなく、多くの国民がこの一件に対して関心を持ち行動したという意味で、納得できるものである。

 全編に渡って敵役になるのは南営洞のパク所長だが、決して彼を単純な悪者に仕立てていないことも作者の冷静さを感じる。パク所長は実は脱北者で、家族を北朝鮮の治安当局に惨殺され、命からがら逃げてきたのだ。

 だからパク所長にとって北側の息が少しでも掛かっていると思われる者や、共産主義的な考えを持っている者は、すべて敵であり粛清すべき対象でしかない。この同じ民族同士で憎しみ合うという図式に、朝鮮半島の近代史の暗黒部分を如実に反映させている点も、観ていて考えさせられる。

 チャン・ジュナンの演出力は強靭で、全く緩みを見せない。ラストの高揚感など、身震いするほどだ。キム・ウヒョンのカメラによる彩度を押さえた画調も、作品の雰囲気作りに貢献している。パク所長役のキム・ユンソクをはじめ、ハ・ジョンウやユ・ヘジン、キム・テリ、ソル・ギョング、パク・ヘスン、そしてカン・ドンウォンなど、キャストは皆好演。観る価値は大いにある。
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「クイズ・ショウ」

2018-10-14 06:32:53 | 映画の感想(か行)
 (原題:Quiz Show )94年作品。1950年代後半。テレビジョンの発展期に起きた一大スキャンダルを描く実録ドラマ。ロバート・レッドフォードの監督第4作目で、アカデミー賞ノミネートなど、各方面で高い評価を受けた話題作である。

 NBCの人気クイズ番組“21”で8週勝ち抜いていたのは、庶民的なユダヤ人ハーバート・ステンペル(ジョン・タートゥーロ)。だが、視聴率の伸び悩み打開を狙う番組製作側は、垢抜けないステンペルを降ろし、典型的WASPでインテリで毛並みがよくテレビ映りも抜群のチャールズ・ヴァン・ドーレン(レイフ・ファインズ)を新たなチャンピオンとして担ぎ出そうとする。そのためステンペルにはわざと間違った解答をするように強要。ドーレンには事前に正解を教えるという八百長工作を仕掛ける。



 結果は大成功で、ハンサムなエリートのドーレンは一躍“時の人”となる。一方ステンペルはテレビ局側を告発。司法省の立法管理委員会が動き出し、新進気鋭の調査官リチャード・グッドウィン(ロブ・モロウ)が捜査に乗り出す。映画はグッドウィンが事件の顛末を書いたノンフィクションを元に仕上げられている。

 たぶん“クイズ番組のヤラセなんて日常茶飯事。そんなの誰でも知ってるネタだ。今さら暴く意味は無い”といった感想を持つ観客は少なくないはず(特に日本では)。でもそれは違う。いくら能天気なアメリカ映画界だからといって、あのレッドフォードがそんな底の浅いテーマを取り上げるはずがない。

 アホなタレントがバカ騒ぎしようと、愚にもつかないスキャンダルを延々と垂れ流そうと、日本では当局側からのお咎めはない。クイズ番組なんてほとんどがヤラセだ(これに限ってはアメリカも似たようなものだ)。誰でも知ってるネタなのである。

 しかし、いつも目にするテレビが、八百長を前提にしたウサン臭いものであるという不合理さ。全員がそれに気がついていながら、多くの情報や娯楽をテレビから得ている不気味さ。“視聴者が見たいのはクイズそのものではなく、金だけだ”というテレビ局幹部の暴言に、我々は反論一つできないではないか。無意識と無関心とシラケが、テレビという欺瞞を大手を振って歩かせている現実。これを撃つのがこの作品のテーマだ。



 でも、それだけでは説教臭い“良識ドラマ”になってしまう。これを見事に回避したのがキャスティングだ。タートゥーロとファインズは米英を代表するクセ者若手男優。通常ならそれなりの生活を保証されていた主人公二人が、テレビという魔物に取り憑かれて、人生を狂わせていく。

 二人の生活観が周囲の人物たちも含めて非常に丹念に描かれているが、演じる二人の持つ屈折した暗さとニヒリスティックな明るさが、それ以上の切迫した人間の“性(さが)”を感じさせて、深刻なものを観客に伝えてくる。理屈では割り切れない何かが映画全体の不安な空気を助長させてくる。ただ、グッドウィン役のモロウの存在感は弱い。作者(狂言回し)なので一歩引いた描き方をされているためだろうか。

 ユダヤ人とWASP、大企業と下請け(番組製作会社)など、社会の二重構造を強調したり、立法管理委員会の偽善や聴聞会の不自然さに代表されるような体制批判など、ホットなネタが巧妙に仕掛けられているのにも感心した。それにもまして善人が一人も登場せず、安易な正論に流れていないことに作者の冷静さを感じさせる。

 テレビに関する“逆ユートピア”をエンタテインメント性豊かに描いた、シドニー・ルメット監督の「ネットワーク」(76年)と並んで、これは優れた映画だ。奥が深い。ミヒャエル・バルハウスの冷ややかなトーンを効かせる撮影、マーク・アイシャムのジャジーな音楽、見事な時代考証と美術、観る価値十分の秀作である。
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