元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「この国の空」

2015-08-31 06:24:01 | 映画の感想(か行)

 要領を得ない出来で、良い印象は受けない。高井有一による原作は読んでいないが、以前田中慎弥の小説「共喰い」を低レベルの脚色によって失敗作に終わらせた荒井晴彦は、ここでも似たような過ちを犯しているようだ。

 大戦も終わりに近付いた昭和20年の夏。杉並に住む19歳の里子は父を早くに病気で亡くし、役所に勤めながら母親との二人だけの暮らしを支えていた。隣家には妻子を疎開させた銀行員の市毛が暮らしており、里子は彼の身の回りの世話もしている。空襲が頻発し、いつ死んでもおかしくない状況が続き、彼女は“男を知らないまま命が尽きてしまうのではないか”という焦燥感を覚え、勢いで市毛と一線を越えてしまう。やがて8月15日を迎え平和が訪れるが、里子の懊悩はそれから始まる。

 作者の視線が戦争及び、それに翻弄される国民の苦難に向いていないのが不満だ。もちろん、それらしいモチーフは並べられている。疎開や招集で周りの者が次々といなくなり、里子と母親は食料調達にも難儀するようになる。さらには家を焼け出されてきた伯母も転がり込み、屈託は募るばかりだ。しかし、どれも通り一遍の描き方しかされていない。

 そのことを強調するのが登場人物のセリフ回しである。まるで昭和30年代の映画に出てくる、金持ちの令嬢みたいな芝居がかった物言いだ。これが何か効果があったのかというと、全然ない。ハッキリ言ってしまえば“戦時中の市民の暮らしなど、どうでもいい”と主張しているように思える。だいたい、母親と伯母との折り合いの悪さの実相さえ示していないのだから、あとは推して知るべしだ。

 では作者の興味はどこにあったのかというと、ラストのモノローグが全てを語っている。つまりは戦争が終わってからの“イデオロギー闘争”だ。ここでは“女性の(物言う)権利”が俎上に載せられているようだが、いずれにしても戦争の惨禍そのものを軽視しているような雰囲気は拭えない。おそらくは全共闘時代にも通じるネタ振りをしたつもりなのだろう。これだから荒井のような団塊世代は始末が悪い。

 里子と市毛との絡みの場面は恐ろしく下手。荒井は前の監督作「身も心も」ではオジさんとオバさんとのラブシーンでは達者なところを見せたが、若い女優相手では勝手が違うようだ。しかも里子の身体は戦時中とは思えない“健康優良児”そのもので(笑)、演じる二階堂ふみの実力をもってしても違和感が残ってしまう。市毛役の長谷川博己は園子温監督作等での彼とは打って変わった煮え切らない演技。母親の工藤夕貴も伯母の富田靖子も“トシ取ったなぁ”と思わせるばかりで、大した仕事はしていない。

 特殊効果の安っぽさは低予算なので仕方がないのかもしれないが、もうちょっと見せ方があったはずだ。結局、本作で興味深かったのは映画そのものではなく、監督から“付けわき毛”を強要されて二階堂が拒んだの何だのという“関係ない話”であったというのは脱力せざるをえない(爆)。
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「ホワイトナイツ 白夜」

2015-08-30 06:44:36 | 映画の感想(は行)

 (原題:White Night )85年アメリカ作品。テイラー・ハックフォード監督作の中では「愛と青春の旅立ち」(82年)に次ぐ出来だ。キャストの頑張りはもちろん、冷戦末期にあった当時の世界情勢を振り返る意味でも興味深い内容である。

 ロンドンから東京に向う旅客機が、シベリアのとある空港に不時着。乗り合わせていた世界的なバレエダンサーのニコライは、8年前にソ連からアメリカに亡命して祖国では犯罪者扱いになっていた。収容された病院のベッドで意識を取り戻した彼は、KGBに身柄を確保されてしまう。

 ニコライを監視するチャイコ大佐は、新装オープンされるキロフ劇場に彼を出演させようと考え、その説得役として黒人タップダンサーのレイモンドを任命する。レイモンドは以前アメリカ人であったが、アメリカの国策に反対してニコライとは逆にソ連に亡命していた。だが、亡命当時は何かとチヤホヤされた彼も、今ではほとんど仕事も無く“飼い殺し”の状態だ。反目し合う2人だが、やがてダンサー同士意気投合してニコライはダンスをすることを了解。同時に、西側への再脱出を密かに画策することになる。

 後半の逃避行の段取りや展開には無理があるものの、ダンスを重要なモチーフに採用しているメリットは大きく、観ていて引き込まれてしまう。主演の2人を演じるのはミハイル・バリシニコフとグレゴリー・ハインズで、言うまでもなくその道のエキスパートだ。

 同じように芸術に生きる者として、以心伝心で考えていることが理解し合えるプロセスに無理がない。2人で踊るシーンは特に素晴らしく、攻めの姿勢をキープするカメラワークがスリル満点の構図を演出する。イザベラ・ロッセリーニやヘレン・ミレン、ジェラルディン・ペイジといった脇の面子も申し分ない。

 もしもこの時期より10年ぐらい前の“冷戦構造の真っ直中”が舞台ならば、最初から重苦しい雰囲気でストーリーも気勢の上がらないものになったと思われるし、それ以前に東側の様子など少しも顧みられなかったはずだ。しかしベルリンの壁の崩壊を4年後に控えた本作の製作時には、微妙に“何かが変わるかもしれない”という空気が流れていたのかもしれない。ハックフォードの演出は堅実で、冗長な部分は見受けられない。ライオネル・リッチーによる主題歌「セイ・ユー・セイ・ミー」はアカデミー賞主題歌賞を受賞したが、確かに名曲だと思う。
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「日本のいちばん長い日」

2015-08-29 06:44:50 | 映画の感想(な行)

 原田眞人監督の代表作「金融腐蝕列島 呪縛」(99年)と似たスタイルの映画だ。つまり、必要以上にカメラは登場人物に“没入”せず、各シークエンスはリズミカルに繋がれるといった手法が採用されている。一見ドライに思えるが、決して内容をデジタル的に割り切って無造作に提示しているのではない。背景を理詰めに説明することにより、主題の重要さをより強調することに貢献している。この意味では成功だろう。

 昭和20年7月。戦況が悪化する中、日本は連合軍からポツダム宣言を突きつけられる。政府内では連日、降伏するか本土決戦に踏み込むかの閣議が行われるが結論は出ない。そういう状態の中で8月には広島と長崎に原爆が投下され、さらにソ連も参戦してくるに及び、状況はますます悪化する。4月に総理大臣に就任した鈴木貫太郎は戦争を終結させるべく天皇の“御聖断”を仰ぐ。

 一方で陸軍大臣の阿南惟幾は軍部と政府との板挟みになり葛藤するも、何とか事態を打開しようと奔走する。そんな動きに逆らうように、一億玉砕を主張する畑中健二少佐ら陸軍の若手将校たちは、クーデターを起こして本土決戦に突入させようと画策していた。原作は半藤一利によるノンフィクションで、昭和42年の岡本喜八監督版(私は未見)に続いて二度目の映画化になる。

 何より良かったのは、話が分かりやすいということだ。映画を作る上では当たり前のことのように聞こえるが、これが案外難しい。一人のキャラクター、あるいは一つのエピソードに必要以上に拘泥してしまい、ストーリーの全貌がハッキリしなくなることも多々あると思う。対してこの作品は、前述のように作劇における情緒性を廃してまずはプロットを積み上げることに専念している。

 こうして見通しが良くなった映画自体のコンテンツから浮き上がってきたものは、終戦時におけるギリギリのパワープレイである。戦争は始めるよりも終わらせる方がはるかに難しいと言われるが、ほんの少しのタイミングのズレや、当事者達の決断の逡巡がもしも発生していたら、今の日本は無かったということが改めて強く印象付けられる。それを浮き彫りにする演出は、実にサスペンスフルで飽きさせない。

 阿南陸相役の役所広司、鈴木首相に扮する山崎努、内閣書記官長の迫水久常役の堤真一、畑中少佐を演じる松坂桃李など、キャストは皆好演。中でも本木雅弘が演じる昭和天皇は、この時代における天皇の存在感と地位を的確に示していて出色だ。柴主高秀のカメラによる彩度を落とした映像も味わい深く、見応えのある歴史ドラマと言えよう。
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「ぼんち」

2015-08-28 06:15:56 | 映画の感想(は行)
 昭和34年作品。別に深い内容があるシャシンではないが、ノリまくる演出と豪華キャストの揃い踏みで楽しく鑑賞できる。ベストセラー作家山崎豊子の原作を得て、贅沢なスタッフを集めて製作された文芸大作。当時の大映の絶大な力が垣間見える。

 昭和初期、船場の老舗の足袋問屋河内屋の一人息子である喜久治は、祖母と母の強引な勧めによって砂糖問屋の娘・弘子を嫁にもらう。だが、嫁と姑とのソリが合わず、早々に離縁。結婚に嫌気がさした喜久治は、新町の花街に入り浸るようになる。芸者のぽん太をはじめ、次々に妾を作って子供をこさえた彼だが、そんな時に父が死に、喜久治は五代目の河内屋の若旦那におさまった。



 世の中は日中戦争を契機に不景気の一途を辿り、やがて大阪の町も空襲にさらされるようになる。戦争が終わった頃には、蔵一つを残し河内屋の財産はほとんど消失。そこに祖母と母および付き合っていた女達が大挙して押しかける。喜久治は金庫に残っていた金を出して等分にし、彼女達に分け与えるのであった。昭和30年代に入り、下町で慎ましく暮らすようになった50歳代の喜久治だが、放蕩を“卒業”しても商売に対する夢を忘れず、世話になった人々への義理立ても欠かさない、今でも根っからの“ボンボン”であった。

 周囲からのプレッシャーも軽くかわし、世の中をヒョイヒョイと渡っていく喜久治のキャラクター設定が出色だ。パッと見た感じでは“女性陣に翻弄されているダメ男”の話のように思われるが、実はそんな彼に夢中になって適当にあしらわれているのは彼女達の方だ。

 いくら徒党を組んで明け透けにしゃべりまくっても、そんな境遇に陥ったのはうっかり喜久治に惚れてしまった自己責任。女性優位のように見せかけて、シッカリと男の映画にしているあたり、市川崑監督のクセ者ぶりがよく現れている。主演の市川雷蔵は本作では絶好調。絵に描いたような軟派な二枚目ながら、軽佻浮薄な生き方にも筋を通す好漢を味のあるパフォーマンスで見せきっている。

 ぽん太役の若尾文子をはじめ、越路吹雪、草笛光子、中村玉緒、京マチ子と、主役の周りに配置された顔ぶれは超デラックス。そして、山田五十鈴と毛利菊枝の母&祖母はまるでモンスターだ(笑)。宮川一夫のカメラや芥川也寸志の音楽も言うことなしで、市川監督のこの頃のフィルモグラフィの中では間違いなく上位にランクされる快作だ。
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「ジュラシック・ワールド」

2015-08-24 06:25:30 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Jurassic World)第一作のようなインパクトを求めるのは間違いだ。あれは“誰もやらなかったこと”を最初にやったから評価が高かったのであって、あらゆるメディアに恐竜のCGが氾濫している昨今、映像だけで驚かせるのは無理がある。だからそのあたりを割り切って“怪獣映画”にしてしまったことは潔いと思う。脚本は万全とは言えないが、随分とヒドい大作映画ばかりが揃った今回のサマーシーズンの娯楽作の中ではマシな方だろう。

 “ジュラシック・パーク”の惨劇から22年が経ち、イスラ・ヌブラル島は大手デベロッパーのマスラニ社に買い取られ、新たな大規模アミューズメントパーク“ジュラシックワールド”がオープン。世界中から毎日2万人もの観光客が訪れる人気スポットとして成功を収めていた。だが、絶えず目玉商品を打ち出さないと経営は安定しないという懸念から、経営陣にとっては心の休まる日は無い。遂には禁じ手の遺伝子操作によって、新種のハイブリッド恐竜インドミナス・レックスを生み出すに至る。

 一方、運営責任者のクレアはパークに甥のザックとグレイを招くが、忙しくて彼らに構うヒマもない。彼女は2人の世話をアシスタントに任せ、インドミナス・レックスの飼育に関してヴェロキラプトル(ラプトル)の調教師であるオーウェンとの打ち合わせに専念していた。そんな中、インドミナスが飼育エリアから脱走する。高い知能と特殊能力を持つこの新型恐竜に、パーク側は対応できない。やがて全島を巻き込んでのパニックに発展する。

 厳重に監視していなければならない新種の恐竜に易々と“脱獄”を許してしまうパーク側の体制は噴飯物だし、そもそも責任者のクレア自身が持ち場を放り出して元カレのオーウェンとよろしくやっていること自体が言語道断だ。ザックとグレイの両親が離婚寸前だの何だのというパートも不要。2人がジャングルの中を逃げ回っていたら、いつの間にか昔の“ジュラシック・パーク”の施設に辿り着いていたという筋書きも唐突に過ぎる。

 しかしながら、往年の東宝特撮映画を思わせる怪獣同士の肉弾戦を迫力ある映像で見せられると、多少の瑕疵は許してやろうかと思ったのも事実。特にインドミナスとラプトルが“会話”によって意思疎通を図る場面は、かつての東宝の「怪獣大戦争」や「怪獣総進撃」あたりのワンシーンを思い出してニヤリとしてしまった。

 クリス・プラットとブライス・ダラス・ハワード、ヴィンセント・ドノフリオ以外は馴染みの無いキャストばかりだが、俳優に対するギャラを積み上げるよりも、その分を特殊効果に振り分けた方が良いとの判断だろう。コリン・トレヴォロウの演出は特筆される箇所は無いが、大きな破綻も見当たらず、及第点には達している。本国ではヒットしており、続編製作は間違いのないところ。特に評判が悪くなければ、次作も観に行きたい。
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「催眠」

2015-08-23 06:36:25 | 映画の感想(さ行)
 99年作品。殊更持ち上げるような作品ではないが、少なくとも観ている間は退屈しない。ヒマ潰しにテレビ画面で眺めるのには適当なシャシンだろう。松岡圭祐の同名小説の映画化だが、内容は大きく異なっており、まったくの別物だと思って良い。

 都内で“奇妙な自殺”が相次いで起こる。いずれも不自然極まりないな死に方をしており、しかも皆一様に“ミドリの猿”というナゾの言葉を最後に残していた。他殺の可能性を探る警視庁の櫻井刑事は、心理学の専門家である嵯峨に捜査への協力を依頼する。そんな中、嵯峨は偶然に“ミドリの猿”というフレーズを呟く若い女をテレビ番組で見かける。



 その女・由香と面会した嵯峨は、彼女が解離性同一性障害に罹患しており、水井という怪しげな催眠術師に術をかけられて見せ物にされていたことを突き止める。警察は水井が事件の黒幕であると断定して彼を追うが、その間にも犠牲者は増えるばかり。だが、真相は別のところにあった。

 嵯峨は“多重人格専門カウンセラー”という設定だが、そんなものは(少なくとも)日本には存在しないと思う。もっとバックグラウンドを描き込まないと、説得力に欠ける。さらに彼が催眠に詳しいわりには、ウサン臭い催眠術師の術にあっさりかかってしまうのには笑うしかない。それに、たまたま“ミドリの猿”なる言葉をテレビで聞いただけで、強引に事件と結び付けようとする主人公たちの姿勢もホメられたものではない。

 しかし、テンポの良い演出とキャストのパフォーマンスによって、そういうこともあまり気にならなくなってくる。落合正幸の演出は「パラサイト・イヴ」(97年)の頃よりもかなり進歩しており、作劇を淀みなく進めている。

 嵯峨役の稲垣吾郎は頭が良さそうで実は抜けているキャラクターを楽しそうに演じているし、由香に扮する菅野美穂は「エコエコアザラク」(95年)でのキレっぷりを彷彿とさせる怪演だ。場違いなほどマジメくさった宇津井健をはじめ、升毅や大杉漣、四方堂亘、でんでん等、一癖ありそうな顔ぶれは楽しい。ほしのあきと木村多江がチョイ役で出ているのも思わぬ発見だ(笑)。
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「みんなの学校」

2015-08-22 06:23:11 | 映画の感想(ま行)
 ドキュメンタリー映画としては力作であり、扱われているテーマも重要性が高いとは思うが、いまひとつ求心力に欠ける出来だ。アプローチの仕方および題材に対する視点が、本来映画として盛り上がるべきポイントを微妙に外しているように感じる。その背景には“(世間的には)文句を付けてはいけないタイプの映画なのだ”という認識が横たわっていることも考えられ、何とも釈然としない気分になる。

 大阪市住吉区にある大阪市立大空小学校は、独自の取り組みを実施して注目されている学校だ。ここには発達障害児をはじめ特別支援の対象となる児童を多く抱え、しかも一般児童と同じ教室で学ばせている。そんな中で“不登校ゼロ”というスローガンを掲げ、教師陣は精一杯取り組んでいるという。関西テレビが製作し、文化庁芸術祭大賞など数々の賞を獲得したテレビドキュメンタリーを劇場版として再編集した作品で、監督は同局のディレクターである真鍋俊永。



 確かに“不登校ゼロ”を目指す学校当局の努力には頭が下がるものがある。そのためには。教職員、保護者、地域の大人たちだけでなく、子供同士も一緒になって(タイトル通りの)“みんながつくる、みんなの学校”を作り上げていかなければならない。しかしスクリーン上で積極的に動き回るのは、担任教師や保護者ではなく、なぜか校長先生(女性)なのだ。

 なるほど映画を観ている限り、彼女の働きは目覚ましいものがある。そして、問題児一人一人も校長を慕っているようで、いかにここでは彼女の存在が大きいかが強調される。だがちょっと待ってほしい。校長はあくまで管理職で、学校という事業所の統括責任者なのだ。いくらヤンチャな児童が転入して騒ぎを起こそうとも、話が一足飛びに校長に行くはずがない。まず対応すべきは担任教師である。

 けれどもここでは、それがほとんど描かれていない。まるで校長が一括して問題児の相手をしているような印象を受ける。これでは、観る者には“いつか校長がいなくなれば、この学校の努力も水泡に帰すのではないか”という危惧を抱かせてしまう。



 本当は現場教師や、問題児と同じクラスで学ぶ一般生徒にも相当な屈託や戸惑いがあるはずだ。そちらの方を地道に描いた方が成果が大きかったとは思うが、たまたま校長先生という“キャラの立った”人物を見出したおかげで、カメラはそっちばかりを追ってしまった。この学校の“売り物”であるはずの地域社会との関わりについてもあまり言及されておらず、保護者の登場シーンも少ない。

 元のテレビ版にはもっといろいろなことが紹介されていたのかもしれないが、単なる“校長先生奮闘記”になってしまった映画版では、せっかくのテーマが色褪せてしまう。それにしても、児童を教師が男子も女子も“さん”付けで呼ぶのには違和感を持った。今の学校の現場ではそれが普通なのかもしれないが、私のような古い人間にはどうも相容れない。
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「真夏の夜の夢」

2015-08-21 06:21:10 | 映画の感想(ま行)
 (原題:A Midsummer Night's Dream )何度も映画化されているウィリアム・シェイクスピアの古典喜劇だが、ここで取り上げるのは99年にアメリカで製作されたもの。原作での舞台はギリシアであったが、本作では19世紀のイタリアに変更されている。そのため明るく楽天的な雰囲気が付与されたのは良いのだが、出来としてはパッとしない。要するに凡作だ。

 トスカーナに住む若い娘ハーミアは、親が決めた結婚相手のディミトリアスが気に入らず、交際中のライサンダーと駆け落ちする。一方でディミトリアスにはヘレナという女友達がいるが、ヘレナは彼を熱烈に愛していた。その様子を見た妖精王オベロンは、何とか彼女の思い実現させてやろうと、手下の妖精パックに媚薬を使って2人の仲を取り持つように命じる。ところが、オベロンがついでに仲の悪い女王タイタニアを困らせてやろうと考えたことから、事態は思わぬ方向に動き出す。



 ルチアーナ・アリジによる美術セットと、ガブリエラ・ペスクッチの衣装デザインは素晴らしい。オベロン役のルパート・エヴェレットをはじめ、スタンリー・トゥッチ、ミシェル・ファイファー、クリスチャン・ベイル、デイヴィッド・ストラザーン、ソフィー・マルソーとキャストはかなり豪華。中でも、パックによってロバに変身させられる大根役者のボトムを演じるケヴィン・クラインの名人芸には唸った。

 しかしながら、映画そのものは退屈。原因は脚色と演出が気合い入っていないためで、要するに“ここが見せ場だ!”というドラマのツボがない。漫然と原作通りのネタを追っているだけである。マイケル・ホフマン監督の仕事ぶりは凡庸で、「恋の闇 愛の光」(95年)や「素晴らしき日」(97年)といった旧作と比べると、かなり落ちる。

 なお、メンデルスゾーンのおなじみの音楽が結婚行進曲を除いて大々的にフィーチャーされていないのも不満。かわりになぜか(イタリアが舞台だからということで)ヴェルディの「乾杯の歌」がしつこく使われているけど、ほとんど効果があがっていない。
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「共犯」

2015-08-20 07:10:26 | 映画の感想(か行)

 (原題:共犯 Partners in Crime)以前観た「ソロモンの偽証」と似たような設定の台湾製ドラマだが、こっちの方が面白い。しかもあの映画みたいに無駄に合計4時間も引っ張ることなく、1時間半でキッチリとまとめている点も見上げたものだ。多少プロットに納得出来ない箇所があっても、けっこう満足して劇場を後に出来る。

 男子高校生のホアン、リン、イエは、通学途中で同じ学校に在籍する女生徒シャーの死体を見つける。アパートの自室から飛び降り自殺したらしい。それまでほとんど面識のなかった3人だが、成り行き上シャーの死因を共同で調べることになる。彼女の部屋に勝手に忍び込んだ彼らが見つけたものは、同じクラスの女生徒チュウに責任があることを暗示したようなメモだった。3人はチュウに対して“仕返し”をしようと企み、彼女を学校の裏にある沼のほとりに誘い出すが、これが後に取り返しの付かない事態に繋がることになる。

 冒頭、沼の底に沈む男子生徒と日記帳が映し出され、映画はそれに至るプロセスを、時制を戻して展開する。要するにハッピーエンドに終わらないことが早々に明かされるわけだが、それが決して作品の興趣を削ぐことが無いのは作品のコンセプトがしっかり煮詰められているからだ。

 ストーリーの中で自ら命を絶った者は、身を切られるような孤独に苛まれていたが、そのことが事件の真相を調べる生徒達の内面と共鳴するあたりが興味深い。つまりは、自殺に至る心の闇は日常生活のすぐ隣に潜んでいて、機会さえあれば前面に出てきて本人を呑み込んでしまうという、慄然とする構図を明確に提示しているのだ。また、岩井俊二監督の「リリイ・シュシュのすべて」にも通じる目に見えない思春期の不安と苛立ちを描き出している点も評価出来よう。

 監督は「光にふれる」のチャン・ロンジーだが、ここでもスタイリッシュな映像派ぶりを発揮。いくぶん演出過多の面もあり、終盤には唐突な場面が出てきて戸惑う箇所もあるが、全体的に目覚ましい求心力を獲得している。男子生徒に扮するウー・チエンホー、チェン・カイユアン、トン・ユィカイの3人は皆好演。特にクセ者ぶりを発揮するウーは要チェックだ。

 ヤオ・アイニン、ウェン・チェンリン、サニー・ホンの女性陣も申し分なく、少なくとも「ソロモンの偽証」のようにブスな女子が画面の真ん中に居座るようなことがないのは有り難い(笑)。flumpoolが中国語で歌うエンディング・テーマ曲だけは違和感を覚えるが、ともあれ観て損は無い青春ミステリーの佳編と言えよう。
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CDプレーヤーの更改とDACの導入(その2)。

2015-08-19 06:30:08 | プア・オーディオへの招待
 先日購入したCDプレーヤーのONKYOのC-7000RとDACのNmodeのX-DU1は、同軸デジタルケーブルと光ケーブルの両方で接続が出来るが、まずは同軸ケーブルで繋いでみた。ケーブルはBeldenの1695Aである。ピュア・オーディオ用に同軸ケーブルを調達するのは初めてで、何を選んだら良いのか分からなかったのだが、まあ定評のあるBeldenならば間違いないだろうと踏んでの導入である。

 実際に音を出してみると、CDプレーヤーからアンプへのアナログ接続時の音とはまるで次元の違う展開を見せる。情報量や解像度は明らかにアップし、音場はかなり広がる。特に印象的であるのは奥行きの表現で、聴感上では倍になったかと思うような、目覚ましい向上が見られた。



 次に光ケーブルを試してみる。ケーブルの銘柄はAUDIOTRAKのGlass Black II plusである。別にこのケーブルの選択に対して精査したわけではないが、グラスファイバー製としては価格が手ごろだったので購入したまでだ(笑)。

 出てくる音はやっぱり世評通り、光ケーブルは同軸ケーブルに比べると音像のピントが甘くなり、質感は若干落ちる。だが、それでも単体DACを介さないプレーヤーからのアナログ接続よりもクォリティは上だ。

 結果としてC-7000RとX-DU1の導入によって、前に使っていたCDプレーヤーであるTEACのVRDS-25xからのグレードアップを達成することが出来たと思う。それどころか、定価30万円程度のSACD兼用機よりも(従来型のCD再生に関しては)高音質ではないかと予想する。



 X-DU1はヘッドフォン端子こそ付いていないが、見た目や操作フィーリングについては質感が高く、シッカリした作りのメイド・イン・ジャパンで、所有欲も満たすと思う。まだパソコンには接続していないが、PCオーディオにも応用すると興味深い結果になることが想像出来る。またプリアンプとして単体のメインアンプにも接続可能で、セパレートアンプのような形式に発展させる方法もある。

 CDプレーヤーの製品数が少なくなって、オーディオ好きとしては嘆かわしい事態が進行しているが、そこそこ質の良い安価なCDプレーヤーと良質なDACとを併用することは、一種の解決策に成り得ると思う。また単体DACはPCとの連動等も楽しめ、使い道は幅広い。昔のように、重厚長大で高価なCDプレーヤーを買い求めること以外の選択肢も出てきたというのは、案外面白い局面に入ったのかもしれない。

(この項おわり)
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