元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「晩菊」

2020-07-31 06:52:53 | 映画の感想(は行)

 昭和29年東宝作品。原作が林芙美子で監督が成瀬巳喜男という、「めし」(1951年)や「稲妻」(1952年)などに続く鉄板のコンビによるシャシンで、完成度も前2作に負けないほど高い。とにかく、力量のあるキャストと闊達な演出は、今観ても感心してしまう。この頃の日本映画の代表作だ。1954年度のキネマ旬報ベストテンでは、7位にランクインしている。

 かつて売れっ子の芸者だった倉橋きんも、引退後は興味の対象は金だけになっていた。結婚はせず、口の不自由な女中の静子と二人暮しだ。昔の芸者仲間のたまえ、とみ、のぶの3人は近所に住んでいたが、いずれも貧乏暮らしで、きんに金を借りていた。そんな3人にきんは容赦なく取り立てを敢行するのだった。ある日、若い頃にきんと恋仲だった田部から会いたいという手紙を受け取る。有頂天になった彼女はめかし込んで彼と会うのだが、実は田部は単に金を借りに来たのだ。怒ったきんは、今まで持っていた彼の手紙や写真を焼き捨ててしまう。

 とにかく、きんのキャラクター造型が出色だ。本当に彼女は金のことしか考えない。うっかり昔の彼氏に心を動かされるが、それを吹っ切るのも早い。その徹底ぶりは爽快感すら覚える。たまえ達はそれぞれの家庭で問題を抱えているが、きんはそれらとも完全に距離を置く。

 この、開き直ったような人間性を、作者は決して批判も軽視もしていない。それまでの人生で辛い思いをしたであろう彼女にとって、信じられるものは金だけというのも、大いに納得出来る。一方でたまえ達の、それこそ“家庭的”で猥雑な環境も肯定しており、きんとの対比は平易で無理がない。たまえ達ときんの生き方を改めて強調する幕切れも鮮やかだ。

 成瀬の仕事ぶりは万全で、名もなき市井の人々の“日常”をしっかりと描き出す。緻密な人間描写は相変わらずで、何気ない出来事の積み重ねが庶民の希望と達観と諦観を静かに表現しているあたりは流石と言うしかない。主演の杉村春子は絶品。明け透けのようで、その内面にある情感を密かに醸し出すパフォーマンスには舌を巻いた。細川ちか子に望月優子、沢村貞子といった他の女優陣は万全だし、上原謙や加東大介、小泉博などの男優たちも場を盛り上げる。玉井正夫のカメラによる奥深い映像。齋藤一郎の音楽も及第点だ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「その手に触れるまで」

2020-07-27 06:57:53 | 映画の感想(さ行)

 (原題:LE JEUNE AHMED)ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督の視点は、相変わらず厳しい。思春期の危うさだけではなく、欧州全体を巻き込む移民問題や、イスラム原理主義の欺瞞性などのグローバルな課題をも見据え、結果84分の尺にまとめ上げた手腕は大したものだと思う。

 ベルギーに暮らす13歳のアラブ移民の子アメッドは、つい最近までテレビゲームにハマっていたが、近所に住む“導師”と呼ばれるイスラム原理主義を唱える男と知り合いになってからは、イスラム教の聖典コーランに夢中になる。“大人のムスリムは女性を避ける”との教えを盲信し、放課後クラスのイネス先生との握手を拒み、父が出て行った後に酒の量が増えた母親を罵倒する。

 そんなある日、イネス先生は歌を通じてアラビア語を学ぶ授業を提案するが、アメッドは激しく反対する。“聖なる言葉であるアラビア語はコーランで学ぶべきで、歌で学ぼうというのは神に対する冒とくだ”というのだ。そのいきさつを“導師”に話すと、“導師”はイネス先生を“背教者”と名指しすると共に、アメッドにジハードの実行を促す。アメッドはイネス先生のアパートを訪ね、ナイフを振りかざして襲おうとするが失敗。警察に自首し少年院に入れられたアメッドだが、イスラム教を理解し何とか更生させようとする少年院のスタッフの思いとは裏腹に、彼はイネス先生への殺意を捨てきれない。

 本作の設定は先日観た「もみの家」と似ているとも言えるが、やはり宗教の邪な面に触れてしまった若者の社会復帰は難しい。アメッドは少年院が主催する農業奉仕活動に参加し、農場の娘に好かれたりもするが、ジハードに対するの執着は捨てられない。彼は農場の洗面所で歯ブラシを盗み、独房で柄の部分を鋭く尖らせる。このあたりの描写は強烈で、宗教の衣をまとった洗脳システムの恐ろしさを強く印象付けられる。

 また、普段あれほど偉そうなことを言いながら、アメッドが検挙されると速攻で行方をくらましてしまう“導師”の胡散臭さを通して、原理主義の底の浅さを描くのも忘れない。ひょっとするとイスラム教徒からは異論の出る作品なのかもしれないが、ヨーロッパの状況は綺麗事など受け付けないほどに切迫しているのだろう。

 ダルデンヌ兄弟の演出はストイックで力強い。急展開して活劇風のテイストを醸し出す終盤まで、観る者を惹き付ける。アメッド役のイディル・ベン・アディをはじめキャストは馴染みは無いが、それぞれ良い仕事をしている。そして、ラストに流れるシューベルトのピアノソナタが大きな効果を上げている。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「コルチャック先生」

2020-07-26 06:29:32 | 映画の感想(か行)
 (原題:KORCZAK )90年作品。この頃のアンジェイ・ワイダ監督作品としては、出来が良い方だと思う。やはり第二次大戦下のポーランドを舞台にした実録ものを撮らせると、同監督は無類の強さを発揮する。また、脚本担当として(後に映画監督としても地位を確立する)アニエシュカ・ホランドを起用したのも大きい。

 ユダヤ人の小児科医であるヤヌーシュ・コルチャックは、子供たちの健康を守るかたわら、孤児院の責任者として地域に貢献していた。しかし1940年になると、ナチス・ドイツのポーランド侵攻が始まる。ナチスはユダヤ人をポーランド社会から切り離すためゲットーに送り込もうとする。コルチャックは徹底してナチスに反抗し、投獄されるなど辛い目に遭う。



 それでも彼は子供たちを守るため、密輸業者からの闇献金をも受け入れて持ち堪える。だが、やがてユダヤ人の収容所への強制移送が始まる。コルチャックは友人の手助けで国外亡命することもできたが、彼は自分だけ逃げることを潔しとしなかった。ホロコーストの犠牲となった実在のユダヤ人医師の生涯を描く。

 時代背景と主人公の造型を勘案すれば、筋書きは予想が付く。だからどのような“語り口”で映画が進められているのかが焦点になるのだが、それは十分及第点に達している。結局、コルチャックは“子供のための美しい国”に生きたのだ。そこは子供がいるからこその存在価値があり、自分一人が助かっても、それは“生きた”ということにならない。子供たちがいない人生など、死んだも同じなのだ。

 彼にとって“アーリア人に似た子をゲットーから出せばかくまえる”とかいった周囲の助言も、ただの“雑音”にしか感じない。子供の扱い方が上手いホランドの脚本は、このハードな境遇をまるでファンタジーのように演出させる。だからこそ、幻想的とも言えるラストの処理も、まるで違和感が無い。それが却って、時代の残酷さを強調させるのだ。

 ワイダの仕事ぶりは重厚で、スキが見当たらない。一時たりとも目を離せない密度を醸し出しながら、押しつけがましさが無い。主演のヴォイツェフ・プショニャックをはじめ、キャストは皆好演。ロビー・ミュラーのカメラによるモノクロ映像が美しさの限りだ。第43回カンヌ国際映画祭特別表彰受賞。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「もみの家」

2020-07-25 07:00:08 | 映画の感想(ま行)

 いかにも文部科学省選定作品らしい平易で端正な出来で、映画的興趣を呼び込むセンセーショナルなモチーフや観る者の予想を裏切るような思い切った展開は無い。しかし、それが大きな欠点にはなっておらず、随所に共感出来るポイントが存在することや、キャストの頑張り等によって鑑賞後の満足度は決して低くない。

 東京に住む高校生の彩花は心に不安を抱え、半年間も不登校のままだ。心配する母親は、父親の反対を押し切って彩花を富山県の田園地帯にある特別施設“もみの家”に預ける。そこは社会からドロップアウトした若者を受け容れ、復帰を後押しすることを目的に設立され、支配人の佐藤夫婦が何かと入居者をフォローしてくれる。当初はまったく周囲と打ち解けられない彩花だったが、この施設を見守る地域の人々とも知り合うことにより、徐々に“もみの家”の生活にも慣れてくる。そんな中、彼女は地元の祭に踊り手として参加しないかという依頼を受ける。

 ドラマティックな出来事は起こらない。そもそも、彩花が“もみの家”に馴染んでいくプロセスも詳述されていない。それでも、いくつかのエピソードには胸を打たれるものがある。ひとつは“もみの家”のメンバーが総出で行う農作業を指導している淳平の存在だ。

 淳平は彩花に自らの境遇を語る。彼は実は“もみの家”の卒業生でもあり、学生時代に手酷いイジメに遭い、この施設に“避難”したのだ。教師であった彼の父は淳平に“イジメなんか、逃げるが勝ちだ”と言ってのけたという。これは実に的確な指導で、そんな親の理解があったから今の彼があるのだろう。

 そして、何かと“もみの家”の面倒を見てくれるハナエと彩花との関係も印象的。ハナエは独り暮らしの老女で、息子は遠方に住んでいるが、ハナエは迷惑をかけたくないため地元を離れない。彩花は彼女と息子との間柄を快く思わないが、その裏には当人たちしか分からない事情があることを後で知ることになる。人間関係の奥深さを理解することにより、主人公が成長していく様子が上手く表現されている。

 坂本欣弘の演出はケレンを廃した正攻法のもので、希望を持たせるラストまで弛緩せずにドラマを引っ張っている。彩花に扮する南沙良は「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」(2018年)に続く好演。表情の豊かさやしなやかな身のこなしなど、この世代を代表する俳優であることを再認識した。緒形直人に田中美里、渡辺真起子、中田青渚、中村蒼といった共演陣も好調。ハナエを演じた佐々木すみ江はこれが遺作になった。山田笑子と加藤育のカメラによる富山の田園風景は美しい。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「泣きぼくろ」

2020-07-24 06:56:32 | 映画の感想(な行)
 91年作品。工藤栄一監督の、後期の代表作だと思う。日本映画ではそう多くはないロードムービーの形式を取り、しかも旅するのは男ばかり3人。ただ、それぞれの生き方そしてポリシーが自然に出てくるような作劇は捨てがたい。キャストの好演もあり、鑑賞後の印象は決して悪いものではない。

 元暴走族で少年院帰りの水田順公は、カフェバーで働きながら一人暮らし。ある日、刑務所から出所した叔父の順一から、父の順二が急死したことを告げられる。順二の葬式が終わる間際、赤沢という老人が現れる。赤沢は元ボクサーで、同じく若い頃にリングにあがっていた順二と試合をしたことがあるという。



 35年前に行われた国内のタイトルマッチで挑戦者を死なせてしまった赤沢は、試合相手の内妻を受取人に順二と共に保険に入っていたが、その受取人の居所が分からなくなっており、順一と順公が何か知らないかと尋ねてきたのだった。順一たちにも心当たりは無く、そこで3人はその女性を探すべく、その試合がおこなわれた名古屋に向かう。安部譲二の小説の映画化だ。

 10年前に母を亡くし、父もまた突然にいなくなった順公にとって、順一と赤沢という大人との出会いはこれからの人生の指針を示しているとも言える。孤独で捨て鉢になりそうな若者が、他者との触れ合いによって自分を取り戻すという設定は、在り来たりだが観ていて気持ちが良い。

 順一はいい加減な性格が災いしてヤクザの道に足を踏み入れ、長いことクサい飯を食うハメになった。やっとシャバに出た彼にとって、若い甥との再会はこれからやり直す切っ掛けになるはずだ。赤沢は35年も罪の意識に苦しんできた。それがやっと重荷を下ろせるチャンスが来たのだ。旅するうちに、それまでの苦労が徐々に消え去っていく様子がうかがえ、しみじみとした気分になる。

 旅の道中ではいろいろとドタバタ劇があって飽きさせない。そして、その探していた女性の“正体”が分かる終盤の処理は、けっこう感慨深い。山崎努に木村一八、大滝秀治というトリオはそれぞれの持ち味が良く出ている。石田えりに井川比佐志、津村鷹志といった脇の面子も良い。工藤の演出は今回あまり派手さは無いが、淀みなくドラマを進めている。そして主題曲に監督の僚友だった松田優作の楽曲を使っているあたり、何ともセンスが良い。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ランボー ラスト・ブラッド」

2020-07-20 06:55:28 | 映画の感想(ら行)

 (原題:RAMBO:LAST BLOOD)鑑賞前は映画の出来にはほとんど期待しておらず、実際観た後も内容の薄さが印象付けられる結果になったが、観て損したとはまったく思わない。82年に製作された第一作から、私はすべてリアルタイムで観ている。このシリーズがこれで終わりだという事実は、感慨深いものがある。そして、改めて主人公のキャラクターが浮き彫りになった点も認めたい。

 ミャンマーでの死闘を終えて久々に故郷のアリゾナに帰ったジョン・ランボーは、古くからの友人マリアとその孫娘ガブリエラと一緒に、まるで家族のように暮らすようになって約10年が経っていた。だが、高校を卒業したガブリエラは自分を捨てた実の父親がメキシコにいると知り、ランボーとマリアの反対を押し切って一人でメキシコに旅立ってしまう。かつて別れた父には会えたが、相手はガブリエラを今も邪魔者だと思っていた。傷心の彼女は悪友の誘いで危険な地域に踏み込むと、人身売買カルテルに掠われてしまう。ランボーはガブリエラを救出すべく、単身メキシコに乗り込む。

 前回までの敵役は、正式に組織された軍隊であった。だからさすがのランボーも苦戦し、そこから逆襲に転じるプロセスにカタルシスを覚えたものだ。しかし、今回の敵は単なるヤクザ、つまりはアマチュアに近い。元グリーンベレーのランボーの相手としてはまるで力不足である。メキシコまで出向くならば、大手麻薬カルテルの武装組織ぐらい持って来て欲しかった。

 戦いの段取りにしても、敵方はわざわざランボーの仕掛けた罠に面白いようにハマってれるし、そもそも前段階でメキシコの敵のアジトに正面から乗り込んでボコボコにされるあたりも、観ていて脱力する。しかしながら、今まで戦いに明け暮れたランボーの苦悩が上手く表現されている点は認めたい。

 彼は、アリゾナの牧場での平穏な暮らしの中にあっても、家の周囲に地下壕を掘りトラップを仕掛ける。そう、いつ敵が攻めてくるか分からないからだ。今回はたまたまメキシコの犯罪組織とのバトルにおいてそれらは役に立ったが、たとえ彼の残りの人生で戦いが起こらなくても、永遠に武装し続けるのだろう。

 そして彼を助けた女流ジャーリストとの会話で“復讐なくしては先に進めない”とまで断言してしまう。その悲しい性には胸に詰まるものがある。エンディングのタイトルバックでそれまでの戦いがリプライズされるのも効果的だ。エイドリアン・グランバーグの演出は大味だが許容出来るレベル。パス・ベガにアドリアナ・バラーサ、イヴェット・モンレアルといった脇の面子も悪くない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「青春デンデケデケデケ」

2020-07-19 06:29:05 | 映画の感想(さ行)
 92年作品。いかにも大林宣彦監督らしい映像ギミックが満載だが、本作ではそれが鼻に付くということはなく、全編に渡ってビシッと決まっている。音楽を題材としているためか画面展開のノリが良く、特に粒子の粗い映像からクライマックスのコンサート場面での5ミリ撮影に移行する際の開放感は素晴らしい。インサートカットやモノローグの多用も、独特の躍動感を伴っているために、あまり気にならない。

 1965年の春休み、香川県の観音寺市に住む高校入学を目前に控えた僕、ちっくんこと藤原竹良は、ラジオから流れてきたベンチャーズの曲「パイプライン」のギターリフに心を奪われてしまい、高校に入ったらバンドを結成することを決意する。



 集まったのは住職の息子の富士男とギターの得意な清一、ブラスバンド部から強引に引き抜いた巧、そして僕はサイドギターとヴォーカルを担当し、グループ名を“ロッキング・ホースメン”に決めて練習を開始する。彼らはスナックの開店記念パーティで念願のデビューを果たす等、一応の成功を収め、やがてバンド活動も3年生の文化祭の演奏会を最後に終わりを告げる。第105回直木賞を受賞した、芦原すなおの同名小説の映画化だ。

 60年代のエレキブームを題材にはしているが、ノスタルジアは希薄だ。しかも、主人公たちは最初はズブの素人のはずだが、なぜか皆バンド結成当初から上手かったりする。つまりはリアリティは捨象されているのだ。ならばこれは何かといえば、ファンタジーに他ならないだろう。もちろん、凡百のファンタジー映画のようなドラマツルギー無視の御都合主義が目立つわけでは無く、あくまでも“大林印のファンタジー”に音楽ネタを入れ込んだという案配だ。

 バンドの4人組の学生生活には、生々しい思春期の葛藤や苦悩は見られない。ドラマティックな出来事も起こらない。ただフワフワと、夢心地で時が流れてゆくだけだ。しかし、それが面白くないのではない。若い頃はこうであって欲しかったという、年長者の願望があらわれている。それを懐古趣味に走らずにファンタスティックに仕上げられるのは、この監督の特筆だろう。

 林泰文に大森嘉之、浅野忠信、永掘剛敏ら“ロッキング・ホースメン”の面々頑張りに加え、柴山智加、滝沢涼子、岸部一徳、尾美としのり等の脇の面子も的確な仕事を見せる。いつもの“尾道シリーズ”とはまた違う、瀬戸内の風情が映画に花を添える。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ペイン・アンド・グローリー」

2020-07-18 06:13:17 | 映画の感想(は行)
 (原題:DOLORY GLORIA )ペドロ・アルモドヴァル監督作品は「神経衰弱ぎりぎりの女たち」(88年)以外は肌に合わないことは分かっていたが、本作はカンヌ国際映画祭をはじめ世界中の主要アワードを席巻しているため、なかば“義務感”で劇場に足を運んだ次第。結果、やっぱりこの監督の映画は私の守備範囲外であることを認識しただけに終わり、我ながら呆れてしまった(苦笑)。

 映画監督のサルバドールはかつて数々の傑作をモノにした巨匠だが、今では持病の脊椎の痛みが悪化し、製作意欲も減退して無為の日々を送っていた。ある日、32年前に撮影したものの結局は“お蔵入り”になってしまった映画の上映許可依頼が彼のもとに届く。これを機に昔の主演俳優に会うなど、改めて自身の過去のキャリアを振り返るサルバドールだが、いつしか子供の頃の貧しいながらも楽しかった生活や、母との思い出に浸るのだった。



 話自体は圧倒的に(?)面白くない。オッサンの映画監督がかつての仕事仲間と会ったり、過去を思い出すだけだ。しかも、昔の主演俳優がドラッグでキメているのを見て、サルバドールは何となくヤクを始めてしまうという節操の無さ。そしてそのことが何のドラマも生み出さず、主人公はただウロウロするだけという、脱力するような展開が臆面も無く繰り広げられる。

 未公開に終わった映画に対し、サルバドールには何ら強い思い入れは感じられず、上映しようとする側にも、何ら作劇上の工夫が感じられない。ならば子供時代の思い出はどうかといえば、これまたまったく気勢が上がらない。文字通りの“思い出”をダラダラと綴っているだけで、盛り上がる箇所は皆無。あまりの退屈さに終始睡魔との戦いに明け暮れた。

 まあ、中には主人公が同性愛を意識したようなモチーフもあるのだが、別にドラマティックでも何でもなく、微温的に流れるだけだ。ラストの処理は観客の意表を突いたつもりだろうが、もはや“小賢しいギミック”としか思えない。

 主演のアントニオ・バンデラス、ペネロペ・クルス、アシエル・エチェアンディア、レオナルド・スバラーリャといったキャストはまるで精彩に欠ける。特にバンデラスのパフォーマンスは、どうしてこれで第72回カンヌ国際映画祭で主演男優賞を受賞できたのかと思うほど凡庸である。強いて見どころを挙げるとすれば、この監督らしいカラフルな色遣いだろうか。ホセ・ルイス・アルカイネのカメラがとらえた、バレンシアの美しい風景も印象的だ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニッコロ・マキアヴェリ「君主論」

2020-07-17 06:57:21 | 読書感想文

 言うまでもなく政治学の古典で、本当は若い頃に手に取るべき書物なのだが、私が読んだのはつい最近である(笑)。とはいえ、内容は示唆に富んでおり、本当に読んで良かったと思える。また、本書が刊行された中世イタリアの状況や、それまでの歴史をチェック出来るという意味でも有意義だ。

 失脚した官僚であるマキアヴェリが隠遁生活中に書き上げ、1516年にウルビーノ公ロレンツォへの献上文を付して友人のフランチェスコ・ヴェットリに託されている。本当はこの著作にはタイトルが付いていなかったが、ヴェットリには“君主体制に関する本だ”と伝えていたため、後に「君主論」と呼ばれるようになったらしい。

 一般に“マキャヴェリズム”という言葉があるように、徹底して君主にとっての国益や国権の維持といった功利的な視点から書かれており、道徳や倫理などは二の次、三の次として扱われている。それどころか“人間は、恐れている人より、愛情をかけてくれる人を、容赦なく傷つけるものだ”といった極論(しかし、ある意味真実)も散見される。その思い切りの良さは、一種の爽快感を覚えるほどだ。

 最も印象的だったのが、軍事に関する記述である。君主にとって軍備と法律は不可欠なものであり、十分な武力を整備して初めて良い法が成立するとマキアヴェリは説くが、その通りだと思う。また、軍隊は自国軍を中心とすべきで、傭兵だの外国勢力だのに頼るとロクなことにならないとも言う。これは、現代にも通用する言説であろう。

 特に我が国は、防衛を日米安保に丸投げするという前提で国防を語るということが常態化している。近年問題視された集団的自衛権の採用なんてのは、まさに主権を放棄したような暴挙だ。もしも中世ヨーロッパにおいて今の日本のような体制の国があれば、たちまち他国に蹂躙されてしまうだろう。

 それにしても“信義を無視して謀略によって大きな仕事を成し遂げた君主の方が、信義ある君主よりも断然優勢である”という一文は、政治家はもちろん国民も胸に刻むべきだと思う。本来君主にとって“どういう結果を残したか”というのが、一番評価されるべきポイントなのだ。結果を出さずとも“何となく、頑張っているように思える”といった政治家に対する曖昧な印象論が罷り通る現状は、憂慮するしかない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「エジソンズ・ゲーム」

2020-07-13 06:57:39 | 映画の感想(あ行)

 (原題:THE CURRENT WAR )ケレン味たっぷりのカメラワークと、奇を衒ったシークエンスの組み立て方に拒否反応を示す観客も少なくないと思う。プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインの不祥事により、製作過程がギクシャクしたのも関係しているだろう。とはいえ史実を元にした題材は悪くないしキャストも好演。個人的には楽しめた。

 1882年、白熱電球の開発に漕ぎ着けた天才発明家エジソンは、電力網を世界中に広げる野心を持ち始めていた。ところが、裕福な実業家であるウェスティングハウスは、トーマス・エジソンが考案する直流による送電方式より、安価で遠方まで電気を送れる交流の方が優れていると提唱。1886年にはジョージ・ウェスティングハウスは交流送電のデモンストレーションを成功させ、実業界に大きくアピールする。

 エジソンはこれに対抗し、交流方式の危険性を大々的にPR。さらにいくつかの州において、送電電圧を800ボルトに制限する法案を成立させようと画策する。19世紀末にアメリカ初の送電システムを巡って繰り広げられた、いわゆる“電流戦争”を描く。

 監督アルフォンソ・ゴメス=レホンは、まるでミュージック・ビデオのようにイレギュラーなカメラアングルと目まぐるしい小刻みなシークエンスの連続により、キッチュな持ち味を全面展開する。しかし、決して安っぽくならないのは“題材の重さ”に他ならないと思う。どんなに変化球を駆使して描こうが、取り上げられたネタは確実に現在の我々の生活に直結する出来事だ。

 しかも、この刺激的ともいえる手法が、堅苦しくなりがちな伝記ものを良い按配に“通俗的に”仕上げてくれたことは、評価はできると思う。現代のビジネスシーンでも良く見られる、先鋭的な意見と堅実経営に即した穏健な意見との対立を平易に描いているあたりは普遍性の高さが感じられるし、双方のキャラクターも十分に屹立している。また、エジソンとウェスティングハウスだけではなく、それぞれの家族、さらにはニコラ・ステラやJ・P・モルガンといった当時の傑物たちも丁寧に取り上げられている。

 主演のベネディクト・カンバーバッチをはじめマイケル・シャノン、トム・ホランド、タペンス・ミドルトン、キャサリン・ウォーターストーンといった顔ぶれは申し分なく(カンバーバッチとホランドが並ぶと、ほとんど「アベンジャーズ」だ ^^;)、チョン・ジョンフンの撮影、そして当時の風俗を再現した美術スタッフも良い仕事をしている。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする