元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ニュースの真相」

2016-09-17 06:51:08 | 映画の感想(な行)

 (原題:TRUTH )マスコミのあり方を問うた映画としては、今年(2016年)オスカーを受賞した「スポットライト 世紀のスクープ」よりも面白い。ジャーナリストを手放しで称賛するようなものではなく、かといってマスコミの欺瞞を暴くものでもない、冷静なスタンスで対象を見つめる作り手の真摯な姿勢が印象的な作品である。

 ジョージ・W・ブッシュ米大統領が再選を目指していた2004年、米国の大手放送メディアの一つであるCBSのプロデューサーであるメアリー・メイプスは、ベテランの人気ジャーナリストのダン・ラザーが司会を務める報道番組で、ブッシュの軍歴が詐称されていた疑いがあるというスクープを取り上げ、センセーションを巻き起こす。

 ところが、CBS側が掴んだ“決定的証拠”を保守派勢力から“偽造ではないか”と指摘されたことから状況は一転。放送局は世間からバッシングを浴びるが、この問題に対処するためCBSの幹部は内部調査委員会を設置。リサーチを開始すると共に、番組スタッフを召還して事情を聞くことにする。メアリーやダンは何とか自説が正しいことを証明しようと各関係者を取材し直すが、結果は捗々しいものではなかった。経営陣からの喚問の日を間近に控え、メアリーは弁護士を雇って事態の打開を図ろうとする。メアリー・メイプス自身の手記の映画化だ。

 ブッシュのこのスキャンダルがいまだ明るみに出ていないことから分かるように、本作はジャーナリズムの敗北を描いている。ならばマスコミの報道の仕方を指弾した作品なのかというと、そうではない。誰でもミスはする。大切なのは、それに対する当事者の姿勢だ。

 メアリー達は、保守派勢力の主張を覆そうと必死になって反論の材料を集めようとする。しかし、どれも決定的なモチーフとはなり得ない。逆に、自らの対処の甘さを痛感することになる。また、本来は政治家のスキャンダルと政策の是非こそが報道の核心であるはずが、いつの間にか“誰が言った(or言わない)”という末梢的な次元に議論が追いやられてしまうマスコミ業界の不条理をも焙り出すことになる。

 メアリーとダンは事が終わった後、キッチリと責任を取る。特にダンは長年アンカーマンを務め、局の看板でもあっただけに決断するには懊悩もあったことだろう。しかしながら、華々しいスクープをモノにすることだけがマスコミ人の役目ではない。状況に応じて引き際を見極めることも、重要なことなのだ。そのことを真面目に取り上げた本作の“手柄”は、決して小さいものではない。

 これがデビュー作となるジェームズ・ヴァンダービルトの演出は派手さは無いが堅実で、対象を的確に追っていく真面目なスタンスが見て取れる。主演のケイト・ブランシェットとロバート・レッドフォードの演技は申し分ない。特にリベラル派のレッドフォードが一敗地に塗れたジャーナリズムを扱う作品に出たことは、感慨深いものがある。明らかな間違いを指摘されても謝罪どころか反省もしない、どこぞの国の大手マスコミの体質を考える上でも、観て損のない映画だと言える。
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「君の名は。」

2016-09-16 06:28:15 | 映画の感想(か行)
 基本的に、中高生までを対象にした映画であろう。大人が観て楽しめるものだとは、とても思えない。とにかく筋書きがいい加減で、物語の体を成していないのだ。作者の新海誠には脚本の書き方を一から勉強し直せと言いたい。

 岐阜県の飛騨地区にある糸守町に小学生の妹と祖母の3人で暮らす女子高生・宮水三葉(声:上白石萌音)は、浮かない日々を過ごしていた。地域の神事に参加しなければならないし、町長である父の選挙運動のしがらみで余計なプレッシャーがのし掛かってくる。彼女はいつかこの小さな町を飛び出し、東京に行くことを切望していた。ある日、三葉は自分が男の子になる夢を見る。どうやら東京に住んでいる同じ年の高校生になりきっているようで、彼女は戸惑いながらも夢の中の出来事を楽しむのだった。

 一方、東京で暮らす男子高校生・立花瀧(声:神木隆之介)は近頃ヘンな夢をよく見る。自分が見知らぬ山奥の町で女子高生になっているのだ。ランダムで入れ替わる身体と生活に驚きつつも、2人は何とかその現実を少しずつ受け入れようとする。折しも千年に一度という彗星の接近を間近に控え、やがて三葉と瀧は事態は単なる2人だけの問題ではないことに気付いてゆく。

 大林宣彦監督の「転校生」(82年)をはじめとして、こういう“入れ替わりネタ”を扱った作品は少なくないが、設定に関する説得力ではこの映画は及第点には達していない。そもそも、何が切っ掛けでこのシチュエーションにおける“入れ替わり”が始まったのか、全く示されていない。

 さらに、主人公2人が“二重生活”を送るうちに互いを憎からず思うようになるのだが、そのプロセスが描かれていない。何となく“そういう感じ”になったことが提示されるのみで、切迫したパッションや愛情表現は皆無だ。だいたい、この異様な事態に対して、相手を好きになることよりもプロフィールなどを探る方が優先されるべきではないのか。

 映画が進むと三葉と瀧の属する時制が異なることが明らかになるのだが、どうしてそうなのかまるで不明。もちろん“合理的(科学的)な説明”などは要らないが、架空のハナシにおいてもそれなりの筋を通してもらわないと観る側は面食らうばかりだ。すべてを“時間軸は交差している”とか“組紐と口噛酒がメタファーだ”とか何とかという抽象的な物言いで片付けてもらっては困る。

 後半、瀧は三葉の住む町を探しに飛騨に出かけていくのだが、場所が突き止められずに右往左往する。しかし、これもオカシイ。過去に大きな災害があった地点であることは分かっているのに、見つけられないはずが無いのだ。さらに、糸守町は遠い過去にも同じような災禍に見舞われているのだという。地球上で千年(あるいはそれ以上)に一回しか無いような災害が、どうして同じ場所で起こるのか。明らかに無理筋・噴飯物の設定で、呆れるしかない。

 終盤の展開に至っては、三葉の友人が簡単に爆発物を持ち出したり、三葉が父親に対して受け入れられる見込みの薄い説得を試みたりと、強引すぎるプロットの釣瓶打ちである。題名通り、2人はよく相手の名前を忘れてしまって“君の名は?”と問いかけるのだが、その“忘れるタイミング”には何の根拠も無く、御都合主義の極みである。その要領の悪さをカバーするかのように、山のような“説明的セリフ”が挿入されるものの、何のフォローにもなっていない。

 ただし、映像は見事だ。ここだけ見ていると、不出来なシナリオのことを一時は失念してしまうほどに(笑)、目覚ましい美しさを誇っている。まあ、言い換えれば“映像のみのシャシンだ”ということにもなるが・・・・。冒頭で“中高生向け”と書いてしまったが、少しでも物事を筋道立てて考えることに長けた中高生ならば、本作の不備を容易に指摘することも出来るだろう。

 なお、全編に渡ってRADWIMPSとかいうバンドの楽曲がひっきりなしに流れるが、これがヒドい。自己陶酔的なフレーズの羅列としか思えない歌詞と、工夫の無いメロディ。第一、画面と全然合っていない。送り手の音楽に対するセンスを疑うような扱いであり、大いに盛り下がった。
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「ゴーストバスターズ」

2016-09-12 06:20:38 | 映画の感想(か行)

 (原題:GHOSTBUSTERS)製作意図が分からない映画だ。各国でヒットはしている。しかし、映画会社(ソニー・ピクチャーズ)は多額の宣伝費を投入しているため、いまだ採算が取れていないという。ならばPRの費用を抑えればペイできたのかというと、それも難しい。この手の映画はカネを使って興行的ムーヴメントを起こさなければ成功は覚束ない。黙っていても客が入るような内容や出来ではないことは確かなのだ。

 そもそも、84年に公開された“元ネタ”自体が大した映画ではない。当時としては優れたSFXと、ノリの良いテーマ曲。そしてビル・マーレイにダン・エイクロイド、ハロルド・ライミスといった個人芸で笑わせてくれる人気キャストを配し、一種の社会的現象にまで押し上げることが出来た。しかしながら、中身は酒を一杯引っかけて観るのが相応しいほどのレベルに終わっている。呆れたことに、今回リブートされた作品はこの“元ネタ”とほぼ同じことをやっているに過ぎないのだ。何を考えてプロデュースしたのか、理解不能である。

 コロンビア大学の物理学者エリンは、若い頃に悪友のアビーと共同で執筆した幽霊研究本が、いつの間にか電子書籍として出回っているのを発見する。憤慨した彼女はアビーの勤める街外れの三流大学に向かうが、成り行きでアビーとその相棒ジリアンと共に巷で話題になっている幽霊屋敷に乗り込むことになる。そこで噂通り幽霊と遭遇した3人は興奮するが、いらぬ騒動を起こした責任を取らされてそれぞれ勤務先を解雇されてしまう。そこで彼女たちは、地下鉄職員のパティと事務担当のケヴィンを加えて超常現象の調査会社を立ち上げる。

 前回と違う点は主要登場人物が女性になっていることだが、それ以外はあまり変わらない。締まりの無い話がダラダラと続き、笑えないギャグが漫然と並べられ、フワフワした幽霊どもが画面を横切るばかり。しかも、クリステン・ウィグにメリッサ・マッカーシー、ケイト・マッキノンといった本作のキャストは“元ネタ”の面子に比べれば実力も知名度も落ちる。

 まあ、クリス・ヘムズワース扮するケヴィンの造型こそ新味があるが、あまりにも馬鹿っぽいので観ていて途中で面倒くさくなってくる。男性的視点が偏向する現実社会を皮肉っているの何だのという評価があるものの、この体たらくはそんなことを論じる次元にも到達していない。

 映像処理は前回のタッチを踏襲しており、あれから約30年経っているのだから斬新なアイデアを投入してもバチは当たらないはずだが、この点についても全く工夫が足りない。ポール・フェイグの演出は凡庸そのもので、盛り上がる箇所はどこにも見当たらない。エンドクレジットの後には何やら続編の前振りみたいな映像が挿入されても、期待する向きはそれほど多くはないだろう。フォール・アウト・ボーイによるお馴染みのテーマ曲も、心なしか虚しく響く。
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「AMY エイミー」

2016-09-11 06:12:55 | 映画の感想(英数)

 (原題:AMY )退屈な内容だった。しかし、別の者が製作を担当したら“退屈ではない内容”に仕上げることが出来たのかというと、それも違う。誰がどう撮っても、現時点では“この程度”のものになるだろう。要するに、時期的には映画化して成果を上げるようなネタではないということだ。

 2011年7月23日に27歳の若さでこの世を去ったイギリスの歌手エイミー・ワインハウスの生涯を追ったドキュメンタリーで、監督は「アイルトン・セナ 音速の彼方へ」(2010年)などのアシフ・カパディア。第88回アカデミー賞で長編ドキュメンタリー賞を受賞している。

 ワインハウスはミドルセックス州エンフィールド出身で、2003年にアルバム「フランク」をリリースしてデビュー。英国内で67万枚を超えるヒットとなる。2006年発売のセカンドアルバム「バック・トゥ・ブラック」は全世界で千二百万枚以上を売り上げ、2008年の第50回グラミー賞では5部門を受賞するなど、人気は絶頂を極める。しかし、薬物中毒やアルコール依存症などで私生活はボロボロ。更正施設を出たり入ったりしているうちに、ロンドンの自宅で死んでいるのを発見される。

 映画は彼女の生前の映像、そして家族や友人のコメントと共に、子供時代から時系列に沿って展開されていく。何の工夫もケレンもなく、ただ事実が淡々と並べられているだけだ。確かに彼女の短い人生は波瀾万丈だったのかもしれない。だが、若くして逝去した有名ミュージシャンは、これまで少なからず存在している。それらと比べて、ワインハウスの功績はどうなのかという議論もあろう。

 つまり、彼女はつい数年前まで生きていた人間であり、評価が確定するまでにはまだ長い時間が掛かるのだ。彼女のミュージック・シーンにおける立ち位置がある程度決まらなければ、それをドキュメンタリーとして取り上げても、作家性や恣意的なテーマの挿入などが入り込む余地はあまりない。今の時点では、このような“事実の羅列”に終わってしまうのも当然だと言える。

 個人的な感想を述べさせてもらうと、ワインハウスの音楽性はあまり好きではない。英国のシンガー・ソングライターには現在でも有能な人材がけっこういて、もし彼女が今でも生きていたとしても、生前のようにトップを走り続けた可能性はそんなに大きくはないと思う。

 ただ、彼女がソウル系ポップのスタイルで一世を風靡するのではなく、好きだったジャズの道に邁進していたらそんなに“生き急ぐ”ことも無かったのではと想像する。大規模なスタジアム・コンサートは出来なくても、ライヴハウスでコアなジャズファン相手に歌声を披露していたら、マイペースで長く活動が出来たのではないか。劇中でトニー・ベネットと会って嬉しそうにしている彼女の姿を見ていると、余計そう思う。
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「X-MEN:アポカリプス」

2016-09-10 06:11:55 | 映画の感想(英数)

 (原題:X-MEN:APOCALYPSE)結局“プロフェッサーXがハゲている理由”を説明しているだけの映画だ(大笑)。それ以外は何もない、もう見事にスッカラカンの作品で、このシリーズに特に強い想い入れのある者を別にすれば、観る価値は微塵もないと断言できる。

 1983年、終末思想にかぶれたカルト集団のひとつが、古代エジプトで封印されたはずの世界最初のミュータントであるエン・サバー・ヌール(別名アポカリプス)を甦らせてしまう。彼はこの世界を一度“リセット”して、自分に都合のいい状態に作り替えようとする。そのために有力なミュータント4人をスカウトするが、その中に妻子を失ったばかりのマグニートーも含まれていた。一方、危険を察したプロフェッサーXはマグニートーに接触を試みるが、逆にアポカリプス側に誘拐されてしまう。X-MENの精鋭たちはリーダーを奪還すべく敵のアジトに向かい、大々的なバトルが勃発する。

 前作「フューチャー&パスト」(2014年)で混乱していた本シリーズの時制が一応修正され、新たなスタートラインに立ったと思ったのだが、性懲りも無く過去の出来事をほじくり出して再び迷走させるとは一体どういう了見か。プロフェッサーXの髪が無くなった過程が、まるまる映画一本費やすほど重大なネタなのだろうか(爆)。まったく、いい加減にして欲しい。

 それでも本作がそこそこ面白ければ文句は出ないのだが、これが落第点しか付けられない。だいたい、最強のミュータントという触れ込みで登場するアポカリプスの“能力”が不明である。せいぜい人間を地面や壁にめり込ませることぐらいしか示されないが、この程度では恐るるに足りない。派手な破壊活動はマグニートーが一手に引き受けており、確かにアポカリプスはその切っ掛けを演出したのかもしれないが、どう見たって二線級のキャラだ。

 X-MENの他のメンバーも大勢バタバタと出てくる割には統制が取れておらず、各個人が勝手に得意技(?)を出しているうちに何となく話が終わってしまったという、まるで気勢の上がらない展開に終始している。果てはウルヴァリンが意味も無く出てくるに及び、マジメにやる気があるのかと疑いたくなった。

 ブライアン・シンガーの演出は相変わらずキレもコクも無い。バトルシーンは段取りが悪く、全く盛り上がらない。ならば視覚効果は凄いのかというと、これが“どこかで観たような映像”ばかりで脱力してしまった。ジェームズ・マカヴォイやマイケル・ファスベンダー、ジェニファー・ローレンスといった常連の演技は可も無く不可も無し。残りの面子は印象にも残らない。

 製作陣はいつまでB・シンガーに監督をやらせるつもりのだろうか。「ファースト・ジェネレーション」(2011年)のマシュー・ヴォーンをはじめ、相応しい人材はいくらでもいると思うのだが・・・・。同じマーヴェル・コミック作品ならば、「アベンジャーズ」一派の方が(いくつか失敗作はあるものの)期待を持たせてくれる。
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「ストリート・オーケストラ」

2016-09-09 06:10:11 | 映画の感想(さ行)

 (原題:THE VIOLIN TEACHER)演出と脚本のクォリティが著しく低く、盛り上がりそうな題材を全然活かしていない。予告編を観た限りではとても面白そうで、なおかつオリンピックが開かれていたブラジルが舞台ということでタイムリーな番組だと思ったのだが、実物に接してみると“この程度”だったというのは落胆が大きい。配給会社も輸入する作品を選んでほしいものだ。

 ヴァイオリニストのラエルチは腕は確かなのだが、極端にプレッシャーに弱く、サンパウロ交響楽団の最終審査に落ちてしまう。それでも家賃は払わねばならず、田舎にいる両親を安心させるためにも定職に就かなければならない。公共機関の紹介により、彼はスラム街の学校で音楽講師を務めることになる。その学校では一応学生オーケストラはあるのだが、教室には屋根もなく、生徒は意欲的なサムエルを除いて問題児ばかり。メンバーの中には楽譜が読めない者も目立つ始末で、早くもラエルチは窮地に陥る。

 ある夜、帰宅途中のラエルチはチンピラに絡まれるが、突然ヴァイオリンの演奏を披露して相手を黙らせる。この一件を聞いた生徒たちは彼に一目置くようになり、練習に熱心に取り組むようになる。しかし、彼らを取り巻く過酷な環境は、そう簡単に音楽活動に集中することを許さなかった。

 主人公と生徒達との交流が作劇のメインになると予想したが、ラエルチ自身の事柄について上映時間が多く割かれていたのには面食らった。もちろんそれが面白ければ文句は無いのだが、これが退屈極まりない。とにかく、描き方が表面的なのだ。

 主人公がここ一番の踏ん張りがきかないタイプだということは分かるが、肝心の音楽の才能に関しては描写不足。子供の頃には“神童”と呼ばれたらしいが、回想シーンにはそれらしい様子はない。だいたい、チンピラから因縁を付けられる場面にも演奏する時間はほんの一瞬しか割り当てられていないのだから呆れる。

 教師の力量が見極められないのならば、生徒の扱いにも気合が入らないのも当然。深く関わった生徒は2人しかおらず、あとは“その他大勢”扱いだ。劇中で流れる音楽は単なるBGMの域を出ず。それもブツ切りで興趣の欠片も無い。作者が音楽の何たるかを全然理解していないことが丸見えだ。

 実話の映画化らしいが、“本当にあったことだから納得しろ”と言わんばかりの横柄さが散見され、中盤から面倒臭くなってきた。ラストの処理に至っては説明不足も甚だしく、まるで作劇を放り出したような醜態である。

 セルジオ・マシャードの演出はメリハリが無く、モタモタしたドラマ運びに終始。主演のラザロ・ハーモスは本国ではかなり名の知られた俳優らしいが、本作に関してはまるで精彩を欠く仕事ぶりだ。彩度の低い、やたら暗い画面にも脱力。観なくても良い映画である。
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「シン・ゴジラ」

2016-09-05 06:23:00 | 映画の感想(さ行)

 世評通り、楽しめる映画だった。もちろん、完璧な出来かと問われれば答えに窮する。巷間で取り沙汰されている“ある重大な欠点”(笑)の他にも、細かく見ていけば辻褄の合わない点も散見されよう。しかしながら、これらの瑕疵を差し引いても本作の存在感は屹立している。本年度の日本映画を代表する快作だと断言したい。

 東京湾で大量の水蒸気が噴出する等の異常事態が発生。政府は原因を海底火山か熱水噴出孔の発生だと断定するが、内閣官房副長官の矢口は巨大生物の存在を想定する。矢口の説は政府閣僚から一蹴されるものの、間もなく巨大生物が多摩川河口から上陸。少なからぬ被害が発生するが、巨大生物は数時間で海へと戻った。次なる襲来に備え、矢口を責任者に据えたプロジェクトチームが発足。巨大生物をゴジラと名付けて対策を練る。やがて前回の倍近い大きさとなったゴジラが、鎌倉市に再上陸して東京都心に向かって歩き始める。果たして、矢口と政府首脳はこの難局を乗り切ることが出来るのか・・・・という話だ。

 何より、過去のゴジラ映画に対する“関連性”を完全に断ち切り、仕切り直した形で素材を扱っていることがポイントが高い。昭和29年の第一作の再映画化という見方も出来るが、ゴジラを“人類の脅威そのもの”として明確に設定し、その上で新たなドラマをフリーハンドで構築しようとしている、その姿勢が潔い。

 さらに、感傷や色恋沙汰等のウェットなテイストを極力排除し、有事に対するメソッドを着々と煮詰めていくという、ドラスティックな展開が実に気持ち良い。最初は及び腰だった政府も、厳しい現実を前にして各構成員がそれぞれの立場を最大限活かして職務を全うしようとするが、その“集団としてのパワー”がゴジラを追い詰める原動力になっていることが如実に示される。惹句にもある通り、これは“ゴジラ対日本”の図式を高いインパクトを伴って描出したものだと言える。

 監督は樋口真嗣だが、総指揮の庵野秀明の力量が前面に出ていると思う(樋口だけでは、これだけの仕事は無理だろう ^^;)。展開に淀みがなく、観る者を最後まで引っ張っていく。矢口役の長谷川博己をはじめ、驚くほど大勢の多彩なキャストが動員されているが、約一名を除いて立派に仕事をこなしている。

 で、その“約一名”の存在こそが前述の“重大な欠点”そのものなのだが、言うまでもなくそれは米国大統領特使を演じる石原さとみだ。何かの冗談ではないかと思うほど自己陶酔型の大芝居を披露している。しかも、アメリカ政府の人間という設定ながら話す言葉の怪しいこと(爆)。日本政府のスタッフに扮する竹野内豊の方が、遙かにサマになる英語を話している。もうちょっと何とかならなかったのだろうか。

 映像面ではバトルシーンは万全ながら、ゴジラの造形は上出来とは言いがたい。CGをハリウッドあたりに“外注”した方が上質のものに仕上がっただろう。ただし、この拙さが不気味さを倍加しているという見方も出来るので、一概に欠点とは言えない。とにかく、観て良かったと思える娯楽作であった。大ヒットしており、続編も考えられるが、その際は十分に練り上げて欲しい。
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最近購入したCD(その33)。

2016-09-04 06:26:37 | 音楽ネタ
 デンマークのコペンハーゲンにあるヒッピー自治区出身の4人組ソウルポップ・バンド、ルーカス・グラハムのメジャーデビュー作(アルバム・タイトルはバンド名と同じ)は、実に聴き応えがある。昨今、新鋭ミュージシャンはEDM系が目立つようだが、正直言ってその手のサウンドは好きではない。対してこのルーカス・グラハムは、伝統的ソウルポップのメソッドを踏襲し、なおかつアレンジ等にはアップ・トゥ・デイトな手法が採用されており、広範囲にアピールできる内容だ。

 バンドのフロントマンでヴォーカル担当であるL・グラハムは、一見すると童顔で垢抜けない野郎だが(笑)、その伸びやかな歌声とリズム感で聴く者を惹き付ける。曲のクォリティも高く、先行シングルの「セブン・イヤーズ」は哀愁を帯びたメロディと泣かせる歌詞が素晴らしい。全体にわたって“捨て曲”がひとつもなく、どこから聴いても満足度が高い。



 分かりやすい曲展開で妙に斜に構えたところもなく、ポップスファンでこのスタイルが嫌いな者はあまりいないのではないだろうか。すでに本国をはじめアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアなどで高いセールスを記録しているが、それも頷ける。また、何よりデンマークという今まで音楽シーンでは注目されなかった地域から出てきたというのも面白い。今後の活躍に期待が持てよう。

 ウエストコーストで活動するドイツ出身ピアニストのマーカス・バーガーを中心としたピアノトリオ、L.A.セッションズが2010年に録音したアルバム「アクシデンタル・ツーリスツ」は、私好みのクール&スイートな展開で大いに楽しめた。曲はオリジナルが中心だが、聴く者に対して媚びたところのない寒色系のメロディ・ラインながら、決して独り善がりのパフォーマンスに陥らず、しっかりとエンタテインメント性が確保されている。



 また、緩急に合わせた曲順が巧みだ。バーガーのピアノは繊細だが、弱々しさとは無縁。時にパワフルかつ鋭角的に切れ込み、スリリングな側面も見せる。随所に見せる甘やかなタッチは高評価。それから、清澄なピアノのサウンドを的確にサポートするボブ・マグナッソンのベースとジョー・ラバーバラのドラムスも要チェックだ。

 音質は“中の上”といったところで、特に優れているわけではない。しかし、限られたレンジの中でバランス良く音像が並べられているという印象で、聴いていて不満に思える箇所も無い。余談だが、アルバムタイトルからはどうしてもローレンス・カスダン監督の映画(85年)を思い出してしまう。何かインスピレーションでも受けたのだろうか。



 エリック・サティのピアノ曲といえば19世紀末のフランス音楽の代表作だが、気が付けば私はこの音楽ソフトを所有していなかった。昔、高橋アキが弾いた曲集のアナログレコードを持っていたのだが、いつの間にやら処分してしまったらしい。惜しいことをした。そこで、今回久々にサティのディスクを買ってみた。モスクワ出身の若手ピアニスト、オルガ・シェプスによるものだ。2016年録音の新譜である。

 彼女の演奏に接するのは初めてだが、かなりの実力者であることが分かる。解釈としては向こう受けを狙ったケレンは感じられないオーソドックスなものだが、飽きずに楽しく聴ける。何より音色が磨かれて丸みを帯び、決して刺激的な音を出さないのが良い。リズムの取り方も堂に入ったもので、存分に“歌心”を発揮していると言えよう。もちろん、それらは確かなテクニックに裏打ちされている。

 ボーナス・トラックとして、カナダ出身のピアニスト兼作曲家のチリー・ゴンザレスの作品「ジェントル・スレット」が収録されているが、これがまた流麗な曲調で存分に聴かせてくれる。録音はホールトーンの多い人工的な音場が特徴だが、音像そのものはキレイだ。長時間鳴らしていても、ストレスは感じない。それどころか、サティの楽曲のイメージに合っていると思う。
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「花芯」

2016-09-03 06:07:11 | 映画の感想(か行)

 主演女優がダメだ。しかも、その“ダメさ加減”が周囲に伝染してしまい、映画自体が空中分解している。題材とキャストの整合性と、それを上手くまとめるはずの監督の手腕が製作サイドでまったく留意されていない、失敗作の典型みたいなシャシンである。

 主人公の古川園子は、終戦の翌年に脳梗塞で倒れた父親の前で会社員の雨宮と結婚した。元より親が勝手に決めた縁談で、園子には結婚相手に対する恋愛感情は無かった。それでも2人の間には長男が生まれ、しばらくは平穏な日々が続く。やがて雨宮は京都に転勤になり、園子と息子も東京を離れる。そこで出会ったのが夫の上司である越智だった。

 越智は中年に達していたが独身で、大家の年増女と懇ろな関係にあった。そんな男に園子は生まれて初めての胸のときめきを覚えてしまう。そもそも彼女は結婚前から奔放な性格で男関係は派手だったが、実は本当の恋をしたことが無く、それ故に越智との情事にのめり込む。当然のことながら雨宮との仲は破綻し、家族はもちろん、実家との縁も切れることになるのだが、園子は意に介さない。その無軌道ぶりは、越智との関係が終わってからも続く。瀬戸内寂聴が昭和32年に発表した同名小説の映画化である。

 園子に扮する村川絵梨のパフォーマンスは、話にならないほど低劣。セリフは棒読みで表情は硬く、身体の動きも鈍い。濡れ場こそ大々的にフィーチャーされているが全然エロくないし、もちろん背徳的な美学なんか望むべくもない。脇には林遣都や安藤政信、落合モトキ、毬谷友子、藤本泉、奥野瑛太などの悪くない面子が揃っているものの、全員が村川の大根芝居に合わせているようで全く覇気が無い。

 このあたりを何とかしなければならなかった監督の安藤尋は、何とも煮え切らない仕事に終始。演出のテンポが悪く、しかも平板。文芸作品だから重々しいタッチに仕上げなければならないという思い込みでもあるのか、淀んだ空気が全編に漂っている。まさに、重厚さと重苦しさを取り違えているような体たらくだ。作品の主題も明確化されておらず、出来の良くない大時代なメロドラマを無理矢理見せられているような不快感だけが残った。

 関係ないが、村川はNHKの朝の連続テレビドラマで知られるようになった女優ながら、その後の歩みは順調では無い。一説によると、あのドラマシリーズ出身の女優で明暗を分けているのは、それまでの演技経験の多寡であるという。なるほど、順調にキャリアを伸ばしている女優は朝ドラ以前にもそれなりの下積みがある者ばかりだ。対して村川はそれが不足していた。有名になった時点での基礎固めは、後々大きく影響が出てくるということだろう。近年はNHKもそれに気付いたのか、経験の浅い新人を主役に据えることは無くなったようである。
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「赤い航路」

2016-09-02 06:20:00 | 映画の感想(あ行)
 (原題:BITTER MOON )92年作品。監督はロマン・ポランスキーで、本作は演出のほかに脚本と製作も担当している。いかにも彼らしいニューロティックなドラマで、一般に言われているような“80,90年代はスランプにあった”という定説が怪しいことを示すものである。

 地中海をイスタンブールに向かう豪華客船の船上に、ナイジェル(ヒュー・グラント)とフィオナ(クリスティン・スコット・トーマス)の若夫婦がいた。一見幸せそうに見える2人だが、すでに倦怠期が忍び寄ってきている。ナイジェルは車椅子の男オスカー(ピーター・コヨーテ)と知り合う。パリ在住の作家であるオスカーは、ナイジェルに妻ミミ(「フランティック」のエマニュエル・セニエ、ポランスキー夫人でもある)との関係を聞かれるともなしに語り出す。



 パリの街角でのまだ幼さの残るミミとの出会いから、情熱に燃えた日々。だが、幸せな時はあっという間に過ぎ、倦怠に抵抗するために、変態的セックスにのめり込んでいったこと。背徳の香りがする2人の性生活に嫌悪感を覚えながらも、毎夜語られるオスカーの話に引き込まれて行くナイジェルであったが・・・・。

 映画の設定および扇情的なポスターから、とてもエッチでねっとりした映画ではないかという私の期待(?)は完全にハズれた。たしかにからみのシーンはひんぱんにあらわれるが、エロティシズムが希薄。そのかわりに、追いつめられてしまった男女の心のきしみが聞こえるような殺伐とした雰囲気が残る。ここでのセックスは愛の営みでもなければ快楽でもない、すでに中身のない、アブノーマルな苦行と化している。ここまで来てしまうと、もう自嘲的に笑うしかない。ブラック・ユーモア的ギャグが効果的に挿入されているのもそのせいだろう。

 純粋な愛も時が経てば欲望の虜となり、さらには精神的・肉体的な残酷性へと容易に変貌していく、という諦観にも似た作者の思いが伝わって来るようだ。全編カメラは船の中から出ることはない。14週間に及んだ船上の撮影が出演者に与えた精神的緊張感もかなりのものだったろう。この一種閉所恐怖症的な不安感はポランスキーの最も得意とするところである。

 ヴァンゲリスの音楽も効果的ながら、ショッキングなラストは忘れられない印象を残す。
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