元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「つる 鶴」

2018-11-30 06:29:23 | 映画の感想(た行)
 88年東宝作品。吉永小百合の映画出演100本記念作品として上映されたが、正直、どうしてこのような企画が通ったのか分からない。出来の方も、さほど芳しいものではない。

 もっとも、監督の市川崑はこの前年に「竹取物語」を撮ってヒットさせており、映画会社としては“むかし話の第二弾”(?)として、ある程度の興収が見込めると踏んだのだのかもしれない。だが、古典文学と民話では違うアプローチが要求されるだろうし、加えて主演に吉永を持ってこなければならない立場上、当初から無理筋の話だったのかもしれない。

 民話「鶴の恩返し」の映画化で、今さらこのネタをスクリーン上で展開する必然性があったのかどうかはともかく、作劇面では工夫が足りない。その最たるものは、つるの夫となる貧しい百姓・大寿の造型だ。明らかにコメディ方面に振られたキャラクター設定で、静謐な雰囲気の創出を狙った美術や演出テンポと合っていない。演じる野田秀樹はよくやっていたと思うが、彼が頑張れば頑張るほど違和感は増すばかり。これは脚本とキャスティングの不備かと思う。

 主演の吉永は美しく撮られていたとは思うが、もとより演技力に難のある女優なので、彼女が画面の真ん中に陣取るたびに白々としたムードが漂ってしまう。さらに致命的なのは、機を織る鶴の描写が呆れかえるほど稚拙なことだ。ただのハリボテではどうにもならない。いくらCGが普及していない時代の映画とはいえ、特撮映画を数多く手掛けていた東宝の作品とも思えない。

 樹木希林に川谷拓三、横山道代、菅原文太、岸田今日子、常田富士男といった豪華な面子を並べているのに、大して働かせていないのもマイナスだ。ただ、上映時間が1時間半ほどである点は良かった。この調子で2時間以上も引っ張っていれば、観ているのも苦痛になっていたところだ。

 私はこの映画を封切り当時に観ているのだが、映画本編よりも驚いたことがある。それは何と、劇場の天井にミラーボールが備え付けられており、場内が暗くなって映画が始まる前に起動し、劇場中に小さな光がハデに反射したことだ。どうやら鶴の羽根が舞い踊る様子を表現したかったらしいが、こういう“小細工”に頼らざるを得ないほど、映画会社は本作の興行的な難しさに(完成後に)気付いたということだろうか。なお、谷川賢作による音楽は良かった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「華氏119」

2018-11-26 06:34:03 | 映画の感想(か行)

 (原題:FAHRENHEIT 11/9 )これまでも挑発的な作品を世に問いかけてきたマイケル・ムーア監督だが、本作はいつにも増して切迫した空気が横溢し、かなり見応えがある。それだけ現状が危うくなってきているのだ。今回のターゲットは主にトランプ大統領ではあるが、決して“トランプは悪、民主党は善”といった単純な二者択一の図式は示されていない。ムーアが告発するのは、世の中を覆う“薄甘いファシズム”の台頭である。トランプの所業に対する批判は、そのトリガーに過ぎない。

 劇中、トランプとヒトラーをシンクロさせる映像が出てくるが、これは明らかに図式的な捉え方である。しかし、全編を通して観てみるとその“ありがちな方法”が説得力を持つことに慄然とするのだ。ムーア自身が「キャピタリズム マネーは踊る」(2009年)で指摘したように、世にはびこる新自由主義は富の集中と格差の拡大を生む。それに起因する国民の不満を誤魔化すには、別に“敵”を作るのが一番だ。ヒトラーの場合それがユダヤ人等だったのに対し、トランプは不法移民やマイノリティである。

 つまり“あいつらが悪い。あいつらをやっつければ何とかなる”というデマゴーグを流布し、ワンフレーズ・ポリティクスで有権者の判断能力を奪う。何しろ今までその言動が批判され、先の中間選挙でも少なくない批判票が投じられているにも関わらず、トランプ政権は盤石なのだ。

 ならば対する民主党はどうかといえば、これもヒドいものだ。特に、劇中で描かれるオバマ前大統領のヘタレぶりには反吐が出る。ヒラリー・クリントンが大統領候補に選ばれた経緯というのも、デタラメ極まりないものとして描かれる。

 ムーアの地元であるミシガン州フリントで起こった公害問題の扱いは、与野党の立場は関係なく現代のアメリカ社会が持つ病理をえぐり出して圧巻。さらに、頻発する銃乱射事件に対して立ち上がった人々の戦いも、鮮明に取り上げられる。これらの事実は日本では報道されない。もちろん、本作で描かれていることが全て真実であると断言は出来ない。それでも、この重いメッセージ性は観る者を圧倒する。まさに、映画が持つ表現力と告発力を駆使した仕事と言うべぎだろう。

 この映画で描かれていることは、我々としても決して他人事ではない。現政権は“国民ファースト”ではなく、明らかな“財界ファースト”。対外的には“敵”、国内では“イベント”を設定し、有権者の目をそちらに向けさせている。対する野党は揃いも揃って無能の輩ばかり。この閉塞感が打開される日は、果たして来るのだろうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「飛ぶ夢をしばらく見ない」

2018-11-25 06:35:00 | 映画の感想(た行)
 90年松竹作品。デイヴィッド・フィンチャー監督の「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」(2008年)に似た設定の映画だが、出来はこちらの方が幾分マシである。だが、決して優れた映画ではなく、どちらかというと凡作の部類だろう。いずれにしろ、この“若返りネタ”(?)というのは用意周到に段取りを整えないと、サマにならないということを実感した次第。

 中年サラリーマンの田浦修司は、心労で飛び降り自殺未遂を起こし、負傷したまま入院していた。ある日、都合により一夜だけ他の患者との同室を頼まれる。相手は女で、互いの顔が見えない2人は、言葉だけのセックスをしてしまう。翌朝、田浦は相手の顔を見るが、女が白髪の老人だったことにショックを受ける。



 退院後、田浦はまたその女・睦子と会う機会を得るが、何と彼女は40代にしか見えない。田浦は睦子とホテルで一夜を過ごすが、翌朝彼女は消えていた。3か月後、田浦の前に現れた睦子は、20代になっていた。運命的なものを感じた田浦は、家庭を捨てて睦子と同棲生活に入る。だが、ある男の警察への密告により2人は引き離されることになる。山田太一による同名小説の映画化だ。

 睦子に扮した石田えりが公開当時に“ヒロインは、ただの病気だ”という意味のコメントを述べていたように記憶するが、主演女優自ら主人公の境遇を“病気”と片付けてしまうのは、本作のモチーフが“その程度”のことにしか扱われていないことを意味する。要するにこの映画、急速に若返ってしまう“病気”に冒された女と付き合う中年男の姿を通じて、身も蓋もないオッサンの願望を表現しているに過ぎないのだろう。

 事実、後半すでに十代に到達した睦子と向き合う田浦の姿には、明らかなロリコン臭が漂う(笑)。演じる細川俊之も好色演技(?)に専念しているようで、あまり広くアピールしてくるものが感じられない。もはやストーリーを進める余地は無いとばかりに打ち切られたラストには、タメ息しか出ない。

 須川栄三の演出は可もなく不可も無し。姫田真佐久による撮影、津島利章の音楽、共に大したことはない。加賀まりこや笹野高史、岡本麗といった他の面子も精彩を欠く。それでも、この映画が1時間40分ほどである点は、「ベンジャミン・バトン」よりも評価できる。何しろあの映画は本作より1時間も長かったのだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「教誨師」

2018-11-24 06:32:26 | 映画の感想(か行)

 いまいちピンと来ない。なぜなら、明らかにディテールの積み上げが必要である題材を取り上げたにも関わらず、それが十分ではないことだ。さらに言えば、余計なケレンが多すぎる。こういうネタは、(力技の変化球がサマになる監督を除けば)正攻法の描き方こそが相応しいはずだ。

 教誨師とは、受刑者の心を救済すると共に、彼らが改心できるよう導く者で、矯正施設における教誨には一般教誨と宗教教誨がある。主人公の佐伯保はプロテスタントの聖職者で、独房で孤独に過ごす死刑囚の話し相手を務めている。彼が受け持つのは6人で、なかなか言葉を発しない者や、罪を他人のせいにする者、一方的にしゃべり続ける者など、かなり多彩だ。穏やかに見える佐伯だが、彼は受刑者たちを本当に教え諭しているのかどうか絶えず疑問を持っている。そんな中、ある受刑者に死刑執行命令が下される。

 佐伯が教誨の途中で、犯罪の背景を相手の口から初めて聞くようなシーンが多々ある。さらには、明らかに死刑判決が不当であるかのような供述が飛び出し、佐伯は驚いたりする。しかし、これはおかしい。当然のことながら、教誨師は接見する前に死刑囚の犯行内容や動機などはある程度管理側と情報共有されているはずだ(そうでなければ、執行される者の名を事前に知らされたりしない)。

 また、6人の中にはホームレスの老人も交じっているが、彼がいかにして死刑に値するような犯罪をやらかしたのか想像できない(たとえ犯行に及んでも、心神耗弱状態を疑われるケースとも思われる)。よく見ると受刑者はバラエティに富んではいるが、それぞれ特定のタイプを代表したかのような造型で意外性には乏しい。そのため、映画は受刑者たちの内面には食い込んでいかないのだ。

 ならば佐伯はどうかというと、これまた聖職に就いた動機がハッキリしない。第一、やがて死んでゆく者たちに対し、彼はどのようにして“心の救済”をもたらすのかも具体的に示されていない。佐伯は十代の頃に辛い体験をしているが、これは“為にする”ようなモチーフで思いのほかインパクトに欠ける。加えて、後半には安手のホラー映画みたいな描写が目立ち、観ているこちらは盛り下がるばかり。ラストの、受刑者からのメッセージも意味がよく分からない。

 佐伯に扮する大杉漣がエグゼクティヴプロデューサーを務め、最後の主演作となったドラマだが、アクティヴに動き回る役ならばともかく、“受け”の演技に終始するような主人公像に彼は合っているとは思えない。玉置玲央や烏丸せつこ、五頭岳夫、小川登、古舘寛治、光石研といったキャストは皆好演だが、作品の方向性に説得力が無いと感じるので評価は差し控えたい。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「刑事エデン 追跡者」

2018-11-23 06:29:55 | 映画の感想(か行)
 (原題:A STRANGER AMONG US )92年作品。ストーリー展開よりも、舞台設定の方に興味を覚える。ニューヨーク市警の女刑事エミリー・エデンは、ユダヤ教ハシド派のコミュニティで起きた殺人事件を担当することになる。そこで彼女は、指導者の息子で熱血漢のアリエルと知り合い、憎からず思うようになる。だが、文化の違いは2人の間に高い壁を作る。潜入捜査を始めたエデンは、容疑者としてヤクザのバルデサリ兄弟を逮捕するが、誤認に終わる。やがて彼女自身が犯人のターゲットになっていく。



 本作を観てまず思い出すのが、ピーター・ウェアー監督の「刑事ジョン・ブック 目撃者」(85年)である。あの映画では主人公がアーミッシュと呼ばれるカトリック保守派のコミュニティに入り込むが、その設定はこの映画と似ており、邦題もそのあたりを考慮して付けられたのだと思う。もっとも、筋書きはあまり褒められたものではない。さんざん引っ張った挙げ句、暗示も伏線も提示されないまま唐突に登場する犯人には目が点になるばかり。

 しかしながら、劇中で紹介されるユダヤ人コミュニティの有様は面白い。男女とも服装は規定されており、生活様式は禁欲的で、アリエルはテレビも映画も見たことはなく、部外者から金品は絶対に受け取らない。そして彼は、ユダヤ教司祭の娘と一度も会ったこともないまま結婚しようとしている。このような場所がニューヨークの真ん中に存在すること自体、驚きだ。

 ただ、映画はそんな日本人とは縁のない世界を実に平易に紹介しているあたりは好感が持てる。エデンのキャラクター設定もよく考えられており、元警官である父親との断絶や、それでも自分の意思で刑事の道を選んだパワフルなヒロイン像が上手く表現されている(それにしても“エデン”という名前は意味深だ)。演じるメラニー・グリフィスは敢闘賞ものだ。

 エリック・サルやミア・サーラ、トレイシー・ポランといった脇のキャストも良い。シドニー・ルメット監督作品としては物足りない出来だが、観る価値はひとまずありそうだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ヴェノム」

2018-11-19 06:43:00 | 映画の感想(あ行)

 (原題:VENOM )予告編やクリーチャー・デザイン等で強く印象付けられる“ホラー風味”は、ほとんど無い。それどころかコメディ・タッチで、愛嬌の良さも感じさせる。もちろん、その路線に専念して成果を上げていれば申し分ないのだが、これが万全ではない。聞けば本国での評価は芳しいものではないらしいが、それも頷ける内容だ。

 若き大富豪ドレイクが率いるライフ財団の打ち上げた宇宙探査機が、地球に帰還する際に墜落。財団は乗せられていた複数の地球外生命体を回収してサンフランシスコの本部に持ち帰るが、一体だけがその場を抜け出す。突撃取材で知られるジャーナリストのエディ・ブロックは、怪しげな実験を行っているとの噂のあるライフ財団へ赴く。だが、潜入した研究所で彼は被験者と接触。それにより“シンビオート”と呼ばれるエイリアンに寄生されてしまう。

 この生命体はヴェノムと名乗り、エディと一体化。ヴェノムを取り戻そうとする財団の破壊工作員たちと、エディ&ヴェノムは激しいバトルを繰り広げる。一方、探索機の不時着時に解き放たれた“シンビオート”の親玉はドレイクと合体し、エイリアンを大量に地球に呼び寄せるため、財団のロケットを乗っ取ろうとする。

 「スパイダーマン」シリーズに登場する悪役を主人公にしたスピンオフ作品だが、このヴェノムの造型はかなりのインパクトがある。見るからに凶暴そうでグロテスク。当然、派手なスプラッタ場面が連続するものと思わせるが、実はそうでもない。それどころかテッドとの掛け合いは面白く、一種のバディ・ムービーのような興趣を呼び込む。

 しかしながら、脚本の詰めは甘い。ヴェノムがどうしてテディと意気投合するのか分からないし、そもそもライフ財団がどういう地位を占めているか不明である。“シンビオート”に憑り付かれて死んでしまう者とそうでない者が存在するが、その区分けは不明瞭。さらに、エイリアンの一体は理由も分からず途中で活動を停止する始末。エンドクレジットの途中に挿入されるシークエンスは意味が分からず、最後のスパイダーマンのCGアニメは明らかに不要だ。

 それでも、監督のルーベン・フライシャーはアクション場面に関しては健闘している。特に、サンフランシスコ市街地でのカーチェイスは「ブリット」や「ダーティハリー」といった当地を舞台にした過去の映画を思い起こさせる。主演のトム・ハーディは頑張っているが、相手役のミシェル・ウィリアムズは服装が若作りで、観ていて戸惑ってしまった(笑)。なお、続編が作られるかどうかは、現時点では分からないとか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「客途秋恨」

2018-11-18 06:30:06 | 映画の感想(か行)
 (原題:客途秋恨)90年香港=台湾合作。興味深い映画だと思う。監督アン・ホイの自伝的作品だが、彼女自身が多様なルーツを持ち合わせており、民族や国籍などのアイデンティティにどう対峙するかという、グローバルかつセンシティヴな課題に向き合っているあたりがポイントが高い。

 1973年、ロンドンに留学していたヒューエンは、妹の婚礼に立ち会うために故郷の香港に舞い戻る。母親の葵子は娘の結婚にとても喜んでいたが、実はヒューエンは長らく母とうまくいってなかった。葵子は日本人で、かつて解放軍の通訳だった夫と結婚してマカオに移り住んだのだ。しかし、旦那は仕事で不在がちで、しかも日本人に対する周囲の視線は冷たいものだった。



 幼かったヒューエンにはそんな母の事情を推しはかる余裕はなく、親子の仲は悪くなるばかり。成長したヒューエンが家を出たのは、そのためだった。妹の結婚式が終わった後、葵子は里帰りしたいと言い出す。一人で行かせるのを心配したヒューエンは、母親に同行して大分県の別府・由布院を訪れる。

 葵子は慣れない異国の地で苦労し、娘のヒューエンはヨーロッパで異邦人としての孤独を味わっている。彼女の祖父母は広州に住んでおり、病床の祖父を見舞ったヒューエンは香港と中国本土との差異を実感する。そして何より、彼らのホームグラウンドであるはずの香港やマカオも、中国と西欧との十字路なのである。

 また本作に台湾資本が入っていることも重要で、言うまでもなく中国と台湾は微妙な関係にある。複数の文化に翻弄され続ける登場人物達だが、それでも時が流れれば分かり合える契機が生じ、決して悲観することはない。

 アン・ホイの演出は丁寧で、派手さは無いがきめ細かく各キャラクターの内面をすくい取る。主演のマギー・チャンと葵子に扮するルー・シャオフェンは好演。レイ・チーホンやティエン・ファンといった脇のキャストも万全だ。

 加地健太郎と逸見慶子の日本人キャストの演技、および日本ロケの場面は違和感はあまり無い。しかし、久大本線を走る列車に“JR”の表記があったのには苦笑してしまった(73年当時はまだ国鉄は民営化されていない)。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「LBJ ケネディの意志を継いだ男」

2018-11-17 06:26:16 | 映画の感想(英数)

 (原題:LBJ )題材は興味深く、筋書きは正攻法で各キャストの仕事ぶりも確かだ。ロブ・ライナー監督は久々に演出に気合いが入っており、観る価値はあると思う。しかし、もっと突っ込んで描いてもらいたかったネタは他にもあり、その意味では不満を感じてしまった。

 1954年に上院議員に再選されたリンドン・ベインズ・ジョンソンは、多数党院内総務となり本会議と委員会を巧みに運営し多くの法案を成立させるために活動してきた。党内の地位を固めた彼だったが、60年の大統領予備選挙では大統領候補としてジョン・F・ケネディが選出され、ケネディはそのまま大統領になる。落胆するジョンソンだったが、ケネディは彼に副大統領のポストを用意した。

 だが、副大統領は“お飾り”の役職で、実質的に国政にはタッチ出来ないことを知るに及び、彼の屈託は大きくなるばかり。しかし63年11月22日、ダラスでケネディは暗殺され、ジョンソンは大統領に昇格する。ケネディの遺志を継いで公民権法を成立させようとするジョンソンだが、ロバート・F・ケネディ司法長官や、派閥のボスであるリチャード・ラッセル上院議員との調整に苦労することになる。

 この第36代アメリカ合衆国大統領を主人公にした映画は珍しい。少なくとも、前任のケネディを取り上げた映画が少なからず存在するのに比べ、スクリーン上では影が薄いのは確かだ。中にはオリヴァー・ストーン監督の「JFK」(91年)のように、彼がケネディ狙撃事件の黒幕だったかのように扱う映画もある。

 しかし本作では、粗野で力業に頼りがちだがケネディの意向を実行に移した功績のある人物として描かれる。恥ずかしながら私はジョンソンがテキサス州出身だったことを本作で知ったのだが、支持基盤が保守的な南部であったにも関わらず、リベラルな法案を通したことは驚いた。

 ウッディ・ハレルソン演じるジョンソンは、アクは強いが繊細な内面を持っていた味のあるキャラクター像を上手く表現している。またジェニファー・ジェイソン・リー扮する夫人のレディ・バードとの絶妙なコンビネーションは、なるほど実際は斯くの如しだったのだろうという説得力を持つ。

 しかしながら、彼は公民権法を成立させた一方で、北ベトナムへの爆撃を開始した張本人でもある。もちろん、彼の地への介入は前政権からの既成事実であったが、ジョンソンが軍事行動に踏み切った経緯を織り込んでも良かった。それに公民権法の他にもいろいろと社会政策に取り組んでいたが、そのあたりの言及も欲しかった。バリー・マーコウィッツのカメラによる映像と、マーク・シェイマンの音楽は万全。アメリカの現代史の一端を知る意味では観ても良い作品だ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ハモンハモン」

2018-11-16 06:35:01 | 映画の感想(は行)
 (原題:JAMON JAMON )92年スペイン作品。何だかよく分からない映画である。各キャラクターが勝手気ままに動き回り、当初設定されていたはずの人間関係が無効になったまま、それぞれ必然性があるとは思えないポジションに到達して終わる。一応コメディなのだろうが、笑うというより呆気にとられる感じだ。

 スペインの小さな田舎町。男性用下着メーカーの工場で働くシルヴィアは、社長の息子ホセ・ルイスと付き合っている。だが、ホセはシルヴィアの母で娼婦のカルメンとも懇ろな関係で、しかもシルヴィアはそのことを知っている。やがてホセはシルヴィアが自分の子を宿していることを知り、彼女との結婚を決める。



 しかしホセの母コンチータは、夫のマヌエルが昔カルメンと関係していたことを今も恨んでおり、ホセとシルヴィアの交際を許さない。さらにコンチータは、2人を別れさせるためにラウルという青年を雇ってシルヴィアを誘惑させる。すると優柔不断なホセの態度に嫌気がさしてきたシルヴィアは、ラウルを愛するようになる。6人の男女の複雑なアヴァンチュールを描くビガス・ルナ監督作。

 この節操の無い展開は、当時の映画雑誌に“スペイン特有の、聖母マリア信仰に由来する母親像と、伝統的な男性優位主義との両立による”と説明されていたと思うが、そう言われてもピンと来ない。だが、キャストの存在感だけは特筆出来る。

 シルヴィア役のペネロペ・クルスは、これがデビュー作だった。この頃は十代で、可愛さとセクシーさが絶妙にマッチした逸材ぶりを見せつける。ラウルに扮するのはハビエル・バルデムで、アクの強い二枚目として闊達なパフォーマンスを見せる。この2人は後年結婚するのだが、何だかそれを予感させるような佇まいだ。アンナ・ガリエナにジョルディ・モリャ、ステファニア・サンドレッリ、ファン・ディエゴといった他の面子も実に濃い。

 そして、重要な小道具になるハム工場にぶらさがる豚の足(ハモンはスペイン語でハムの意味)が、いかにも肉食系の登場人物達のメンタリティを象徴する。第49回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を獲得しているが、どういう基準で選ばれたのかちょっと理解出来ない。ニコラ・ピオヴァーニの音楽と、ホセ・ルイス・アルカイネによる撮影は及第点に達している。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「500ページの夢の束」

2018-11-12 06:26:32 | 映画の感想(英数)

 (原題:PLEASE STAND BY )味わいのある佳編で、鑑賞後の印象も悪くない。特に「スター・トレック」シリーズに思い入れのある者なら、堪えられない魅力を感じるだろう。また、主演女優の奮闘も目覚ましい。

 サンフランシスコのグループホームで暮らす21歳のウェンディは、自閉症のため上手く社会に溶け込めない。だが、彼女は「スター・トレック」に関しては驚くほど深遠な知識を持ち、毎日TVシリーズを隈無くチェックしていた。ある日、「スター・トレック」の脚本コンテストが開催されることを知った彼女は、渾身の大作を書き上げる。ところが、根を詰めすぎて完成したときには締切は目前だった。郵送では間に合わないと思った彼女は、唯一の肉親である姉やホームのスタッフには内緒で、愛犬ピートと一緒にハリウッドを目指して数百キロの旅に出る。

 ヒロインの境遇を、「スター・トレック」の登場人物であるミスター・スポックに投影しているあたりは上手い。スポックはヴァルカン人と地球人とのハーフで、当初は自らのアイデンティティを確立できずにいたが、カーク船長やドクター・マッコイらとの交流を経て、人間的に成長してゆく。

 同様にウェンディも、さまざまな外部の者と接触することによって人生に一歩踏み出すことになる。そのプロセスをロード・ムービーの形式で綴っていくのだから、まさに設定としては万全だ。自閉症に関する扱いもかなり入念に仕込まれているようで、この分野に詳しくない多くの観客(私も含む)も納得させるだけのディテールの積み上げには感心する。

 筋書きは山あり谷ありで、果たして主人公は締切前に目的地に到達できるのかどうか、そして終盤にはこの脚本を書き上げた“本当の理由”が明かされるなど、最後まで飽きさせない。そして、ウェンディと「スター・トレック」マニアの警官との掛け合いには大いに笑わせてもらった。

 監督のベン・リューインは自身も幼少期にポリオを患い、ハンデを負ったまま生きてきたという。それだけに主人公に対する思い入れは大きいのだろう。その丁寧な仕事ぶりには好感が持てる。主演のダコタ・ファニングは好演で、もはや“元有名子役”という肩書は不要なほど繊細で達者なパフォーマンスを見せる。トニ・コレットやアリス・イヴといった脇の面子も良い。そして何といってもウェンディと行動を共にするチワワ犬のピートが儲け役だ。犬好きにはたまらないだろう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする