元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ライリー・ノース 復讐の女神」

2021-02-28 06:32:15 | 映画の感想(ら行)
 (原題:PEPPERMINT)2018年作品。本国アメリカでは酷評されているらしいが、個人的にはそれほどヒドいとは思わなかった。しかしながら、決して上出来ではない。有り体に言えば、何も考えずヒマつぶしに観るのには丁度良い。展開にモタモタしたところがなく、ストレスを感じないのは取り柄だろう。

 ロスアンジェルスに住む平凡な主婦ライリー・ノースは、ある日突然悲劇に遭遇する。マフィアの金を横取りする話に乗ろうとした夫が、組織の逆恨みを買って幼い娘ともども殺されてしまったのだ。事件を目撃したライリーは警察の捜査に協力するが、起訴された実行犯は無罪放免になる。判事に食ってかかった彼女だが、危うく精神病院に送致されそうになる。隙を見て逃げ出した彼女は、5年間姿を消す。その間に外国で戦闘のスキルを身に付けたライリーは、ロスに舞い戻って復讐を開始するのだった。



 いわば“「ランボー」の女性版”みたいな体裁のシャシンだが、元グリーンベレーで実戦経験も豊富なランボーとは違い、ライリーは普通の主婦に過ぎない。いくら鍛練を積んだといっても、わずか5年で殺人に対する忌避感も消え失せたバトルマシーンに変身するというのは、いくら何でも無理がある。

 しかも、彼女は無駄に強いのだ。悪者どもの放つ銃弾はほとんど当たらないのに、ライリーの射撃は百発百中(笑)。肉弾戦でも負けることは無い。ライリーの確保にFBIが乗り出すとか、警察内に組織への通報者がいるとかいったサブ・プロットも用意されているが、大して効果的ではない。

 斯様に大味な御膳立てながらあまり退屈しないのは、演出の上手さに尽きると思う。監督ピエール・モレルの仕事ぶりは的確で、シークエンスの繋ぎに無理がなく、ドラマが弛緩しない。またアクション場面はよく考えられており、ライリーの大暴れを“そんなバカな!”と突っ込みを入れつつも、楽しんでしまった。ラストに続編の製作を匂わせるあたりは御愛敬だ。

 主演のジェニファー・ガーナーは主人公の年齢設定よりも上にしか見えないが、かなり頑張っている。終盤には、序盤においてライリーが一般人であったことを忘れるほどだ。ジョン・オーティスやジョン・ギャラガー・Jr、フアン・パブロ・ラバといった脇の面子は可も無く不可も無しだが、サイモン・フラングレンの音楽とデイヴィッド・ランゼンバーグによるカメラワークは万全だ。
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「アリ地獄天国」

2021-02-27 06:19:25 | 映画の感想(あ行)
 とても面白くて考えさせられる、ドキュメンタリー映画の逸品である。扱っている題材はタイムリーかつ重大で、観ていて胸に迫るものがあるが、本作の“登場人物”たちの存在感が屹立しており、劇映画のような興趣をもたらす。限られた場所での上映ではあるが、鑑賞後の満足度は高い。

 主人公は30歳代の会社員。彼は学校を卒業して数年間SEとして働いていたが、あまり労働条件が良くないと感じ、一念発起して某有名運送会社に転職する。現場作業からキャリアを積み、営業系の管理職のポストを得る。長時間労働を強いられてはいたが、本人は“まあ、こんなものだろう”と達観していたところ、ある日勤務中に会社の車を運転していた際に事故を起こしてしまう。



 ところが会社側はすべての損害賠償を当人に押し付けてきた。納得出来ない彼は、会社に抗議すると共に個人加盟の労働組合(ユニオン)に加入する。すると彼はシュレッダー係への配転を命じられ、給料は半減、ついに懲戒解雇にまで追い込まれてしまう。運悪くブラック企業に再就職してしまった主人公の苦闘を描く、土屋トカチ監督作だ。

 何ごともノンシャランに構えていた主人公が過酷な現実に直面し、逆境に身悶えしながらも成長していく姿は、ビルドゥングスロマンの典型である。まず驚くのが、主人公は個人加盟の労組の門を叩くまで、自身が置かれていた環境がいかに理不尽であるかを認識していなかった点だ。人間、無自覚に生きていると周囲から型に嵌められて、いいように扱われるものなのだろう。世にはびこるブラック企業も、従業員のこうした視野の狭さにつけ込んで搾取を繰り返す。

 主人公は労組で仲間を得て、ついには会社のビルの前で抗議演説をするまで行動的になってゆく。対して醜悪なのは、会社の幹部連中だ。彼らの風体と口の利き方は、とてもカタギの人間には見えない。こんな奴らが大会社の経営者として舵取りをおこなっているのかと思うと苦々しい気分にはなるが、反面、映画の悪役としてはこれほど相応しいキャラクターはいないのだ。つまり本作は、最初は弱かった主人公が、仲間と一緒に奮起して悪者をやっつけるという、娯楽映画の王道を歩んでいる。

 また、映画のアクセントとして監督の土屋の体験談も大きな成果を上げている。土屋の親友は、職場のイジメに耐えられず自ら命を絶ってしまう。土屋は結局、彼を助けられなかったのだ。だからこそ、このネタに対して全身全霊で取り組んでいる。その気迫が画面に横溢している。

 それにしても、この会社のオフィスは大して広くはないが、一日に出されるシュレッダー屑の量は凄まじいものがある。どれだけ紙を無駄にした非効率な仕事をしているのだろうか。いずれにしても、個人的には今後この会社に引っ越しなどを依頼することは絶対に無いだろう。
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「ホワイト・ヘルメット シリア民間防衛隊」

2021-02-26 06:47:01 | 映画の感想(は行)
 (原題:THE WHITE HELMETS )2016年9月よりNetflixにて配信。上映時間が約40分のイギリス製のドキュメンタリーだが、扱っている題材といい、描き出される生々しい真実の姿といい、恐ろしくヴォルテージの高い作劇が施されている。第89回米アカデミー賞にて短編ドキュメンタリー賞を獲得。まさに必見の作品だ。

 内戦が絶えないシリアで、人命救助に携わる民間のボランティア団体が存在する。ノーベル平和賞の候補にもなった、通称“ホワイト・ヘルメット(民間防衛隊)”だ。彼らの前歴はさまざまで、中にはかつてISに加入していた者もいる。だが、祖国シリアを何とかしたいという想いは同じで、そのために命がけの活動に身を投じる。



 その実状は過酷の一言で、爆撃やテロで破壊されたスポットにいち早く駆けつけ、生存者を探す。もちろん、現場では生きている者よりも死体に遭遇するケースが多い。それでも彼らは活動をやめない。瓦礫の山を前に、徒手空拳で立ち向かう。

 戦禍は一般市民だけではなく“ホワイト・ヘルメット”のメンバーにも及び、つい先ほどまで談笑していた隊員が、次の瞬間には吹き飛ばされているといったショッキングな場面も描かれる。事実、2013年から130名もの救助隊員が犠牲になっている。だがその間に5万8千人の命を救っており、改めて彼らの働きには頭が下がる。そして、彼らの面構えの何と清々しいこと。悟りきったような透徹した表情が、観る者の心を打つ。

 さらに、彼らが訓練のために訪れるトルコでは戦火の無い平和な光景が見られ、国境一つ隔てるだけでこれほどまで環境が違うことに驚かされると共に、戦争の不条理を感じずにはいられない。オーランド・ボン・アインシーデルの演出は力強く、一点の曇りも無い。フランクリン・ダウの撮影と、パトリック・ジョンソンの音楽も言うことなしだ。
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「キル・チーム」

2021-02-22 06:23:57 | 映画の感想(か行)

 (原題:THE KILL TEAM )戦地における犯罪を取り上げた映画は過去にいくつも存在していたし、題材としては目新しいものではない。しかし、無論これを“ありふれたネタ”として片付けてはならない。人間誰しも非日常の境遇に放り込まれると、常軌を逸してしまうのだ。何度描いても、描き尽くせない深刻な問題を提示する。ましてや本作で展開されるのは、つい最近の出来事だ。求心力は高い。

 2010年、愛国心に燃えて陸軍に志願し、アフガニスタンに渡ったアンドリュー二等兵だったが、着任早々上官が地雷で吹き飛ばされてしまう。代わりに着任したディークス軍曹は華々しい戦果を挙げてはいるが、内実は地元の民間人に言い掛かりを付けて次々と始末するという異常性格者だった。

 当初アンドリューはディークスのプロに徹した部下への指導法に感心するが、彼が無実の非戦闘員に罪を着せるためのロシア製武器を密かに多数隠し持っていることを知るに及び、大いに動揺する。しかし、小隊の他のメンバーはディークスに心酔し、平気で違法行為をおこなうようになる。やがてアンドリューは部隊で孤立し、命の危険を意識するようになる。実際に起こった戦争犯罪をベースにしたドラマだ。

 映画の時制では2001年のアメリカ同時多発テロ事件から時間が経っているのだが、やっぱりアフガン国内の“テロ組織”を駆逐することが絶対的正義だという風潮が米国民の間で確実に存在していたことに、愉快ならざる気分になる。主人公があえて入隊したのも、そんな背景があったからだ。

 しかし、実際には戦場は全て“地獄”であり、正義だの悪だのというお題目は一切通用しない。そんな中、ディークスのように自身の勝手な正義感でレイシズムに走ると、戦争犯罪にしか行きつかないのだ。しかし、そんな極論を信じてしまう小隊のメンバーが存在するように、単純二元論は小難しい理屈を無視できる心地よさをもたらし、ことさら戦地においては“便利”なスキームなのだ。さらに、現地民に対しては容赦しないディークスが、一方で良き家庭人としての顔を持っていることも問題の根深さを表現している。

 脚本も担当したダン・クラウスの演出は派手さはないが、人物描写には手抜きが無い。特に、デュークスがアンドリューの忠誠心を疑うようになるくだりには、説得力がある。おそらく予算があまり掛けられておらず、ロケ地も中東近辺ではないと思われるが、あまり違和感はない。1時間半ほどの短い尺ながら、見応えはある。
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「地獄少女」

2021-02-21 06:53:55 | 映画の感想(さ行)
 2019年作品。密かに贔屓にしている(笑)若手女優、玉城ティナが主役というので観てみたが、まさに箸にも棒にもかからない出来で大いに盛り下がった。何のために作ったのか、どういう層をターゲットにしているのか、まるで不明。プロデューサーは一体何をやっていたのか、これも不明。これだけ存在価値が見出せないシャシンも珍しいだろう。

 殺したいほど憎んでいる人間を地獄に送ってくれるという、“地獄通信”というサイトがあることが都市伝説で語られていた。深夜0時にそこにアクセスし、死んで欲しい人間の名前を入力すると、地獄少女が現れて赤い紐で結ばれた藁人形を渡される。依頼者がその紐をほどけば契約成立だ。しかし、依頼した者もいずれ死ぬときは地獄行きになるという。

 女子高生の市川美保は、大好きなロックミュージシャンの魔鬼のライブで痴漢に遭うが、居合わせた南條遥に救われる。美保は奔放な遥を気に入るが、遥は魔鬼のコーラスのオーディションに合格したときから様子がおかしくなり、それが魔鬼の仕業だと知った美保は彼に殺意を抱く。一方、ジャーナリストの工藤は“地獄通信”について調べていたが、偶然に美保と接触する。TV用オリジナルテレビアニメの実写映画化だ。

 とにかく、マトモなメンタリティを持った人間が存在せず、観ていて感情移入する相手がいないのには閉口する。美保も遥も平気で暴力を振るう性格破綻者だし、その他“地獄通信”に関わる者にも正常な人間は見当たらない。呪った本人も地獄行きになることが事前に説明されているにも関わらず、あえて破滅の道を選ぶという心理を分かりやすく説明するには、本作のような御膳立てでは無理だ。

 そもそも、地獄少女を演じるお目当ての玉城は“主人公”でさえなく、ただの狂言回しである。もっと脚本と演出を練り上げて、彼女を“依頼する側”に配置して次第に正気を無くしていくという設定にすれば、盛り上がったかもしれない。監督の白石晃士の仕事ぶりは精彩を欠き、映像もチープである。

 美保に扮するのは最近売り出し中の森七菜だが、本作では低調なパフォーマンスに終始。仁村紗和に大場美奈、片岡礼子、波岡一喜、橋本マナミ、そして麿赤兒といった他のキャストは機能していない。魔鬼のバンドのサウンドも大したことがなく、劇中での人気も疑わしいものがある。
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「羊飼いと風船」

2021-02-20 06:26:20 | 映画の感想(は行)
 (英題:BALLOON )大して面白くもない。有り体に言えば退屈だ。もっとも、取り上げられた題材といくつかのモチーフには興味を惹かれる。だが、それらの扱い方には工夫が足りず、芸も無いまま上映時間が過ぎていく。ラスト近くになってようやくドラマが動き出すが、序盤から物語を大きく展開させた方が求心力は増したはずだ。

 チベットの大草原で牧畜を営む老父と息子夫婦、そしてその子供3人の家族は、貧しいながらも穏やかに暮らしていた。だが、中国当局の“一人っ子政策”の影響がこの集落にも及んでくる。そんな時、子供たちの叔母で母親の妹が訪ねてくる。彼女はある事情で出家して仏門に入っているのだが、昔付き合っていた男が地元の中学校の教師をしており、彼から著書を渡される。やがて母親は4人目の子供を妊娠するが、当局側の通達や家計の事情などで生むことを躊躇する。チベット出身のペマ・ツェテン監督作だ。



 中国の近代化路線とチベットの伝統とは、本来相容れないものだ。当然“一人っ子政策”などは容認出来ない。しかし、政府の高圧的な姿勢は民族性などお構いなしだ。とはいえ、そのあたりの確執が如実に描かれるのはラスト近くで、映画の大半はどうでもいい描写で占められる。特に住民の暮らしや羊の種付けといった場面が、カメラ横移動の長廻しでメリハリも無く映されるのには閉口した。母親の妹と中学校教諭との関係性も、まるでハッキリしない。

 ならば映像はどうかといえば、確かに見渡す限り広がる大草原は見応えがあるが、そこまで美しくは撮られていない。ペマ・ツェテンの演出は冗長で、中盤過ぎまでの起伏の無さには観ていて眠気を覚える。もちろん、舞台がチベットとはいえ中国映画なので、中国当局の少数民族に対する仕打ちをあからさまに描けない事情はあるのだろう。ただ、それならそうで効果的な暗喩を多数挿入させるとか、もうちょっと観る側の集中力を途切れさせないやり方があったはずだ。

 ソナム・ワンモにジンパ、ヤンシクツォといったキャストは馴染みは無いが、地元の人間らしい面構えはしている。だが、演技指導が不十分なのか目立ったパフォーマンスは見当たらない。2019年の東京フィルメックスのコンペティション部門で高評価だったというが、正直そこまでのシャシンとは思えない。
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「デンジャー・ゾーン」

2021-02-19 06:35:16 | 映画の感想(た行)

 (原題:OUTSIDE THE WIRE)2021年1月よりNetflixにて配信。外観は面白そうなアクション仕立ての近未来SFなのだが、中身は本当につまらない。ストーリーはもちろん、演出のテンポやキャラクター設定、そしてキャストの仕事ぶりに至るまで、褒めるべき点を見つけるのが難しい。もっとも一箇所だけ少し興味を惹かれた部分はあるが、そのことをもって作品の評価が上がるわけでもない。

 2036年、東欧では激しい内戦が巻き起こっていた。平和維持活動に従事するため、アメリカ海兵隊は無法地帯に駐留していた。ドローンのパイロットであるハープ中尉は、味方がやられているのを見かねて独断で空爆を敢行。結果として多くの兵の命を救うが、上層部に逆らったことで倫理委員会からハープは厳しく叱責されてしまう。結果として彼は別の遊撃隊に飛ばされるが、新しい上官のリオ大尉は何とアンドロイドだった。2人は反乱軍の首魁で、核ミサイルの奪取を狙うヴィクトル・コバルを追い詰めるため、最前線を奔走する。

 最新AIを搭載しているはずのリオ大尉だが、あまり頭がキレるようには見えず、最後までその行動規範は合理的ではない。ハープとのやり取りは、黒人のアンチャン同士の言い合いとしか思えない。敵への対処も行き当たりばったりで、とにかく近未来らしくロボット兵士も登場させていながら、ロクに活躍もさせていないのには閉口した。

 背景こそ東欧の風景が広がっているが、出てくる人員の数が異常に少なく、戦闘シーンがスカスカだ。リオ大尉は機械人間らしい腕っ節の強さを見せはするが、「ターミネーター」シリーズなどには遠く及ばない。2人がたどり着いた国境近くのロシアの核地下サイロは、守備兵を含めてスタッフがほとんどおらず、兵器や設備のメンテナンスは誰がやっているのだろうと心配になるほどだ。

 ミカエル・ハフストローム監督の仕事は気合いが入っておらず、各シークエンスの繋ぎに難がある。アンソニー・マッキーをはじめダムソン・イドリス、エンゾ・シレンティ、エミリー・ビーチャムといった配役には魅力が無く、感情移入できるる相手がいないのには困った。あと、冒頭に述べた“少し興味を惹かれた部分”というのは、劇中で“この事態を招いたのはアメリカだ”と断言していることだ。したがって、単純な米軍バンザイ映画になっていないところは認めて良い。ただもちろん、それだけで映画のクォリティが上がることはないが。
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「カプリコン・1」

2021-02-15 06:17:03 | 映画の感想(か行)
 (原題:Capricorn One )77年作品。現時点で観れば映像面でいろいろと古臭いところもあるのだが、それでも本作の秀抜なアイデアとテンポの良い演出、そして各キャラクターの濃さなど、評価出来る部分が多いサスペンス・アクション編だ。また、本国アメリカより約半年も早く日本で封切られている点も興味深い(今では考えられない話だろう)。

 今まさにNASAによる世界初の有人火星探査船カプリコン1号が打ち上げられようとしていたとき、カウントダウンの数分前に3人の乗組員密かに船内から連れ出され、沙漠の真ん中にある無人基地へ連行される。実はこのロケットには不備があり、そのままでは目的を達成出来ないことが判明していたのだ。ところが実施直前に中止になると今後は予算が配分されなくなる恐れがあるので、火星探査を“やらせ”で誤魔化すことにしたのだという。



 3人は仕方なく、基地内で行われたニセの火星探査映像の撮影に参加することになる。しかし、本物のカプリコン1号は大気圏再突入の際に燃えつきてしまう。それを知った3人は自分たちが“生きていてはいけない人間”であることを察知し、基地から脱出する。一方、新聞記者のコールフィールドは、NASAに勤める友人から、この計画に不審な点があると告げられる。彼は独自に取材を始めたのだが、正体不明の“妨害”に遭い、あやうく命を落としそうになる。

 序盤こそSF映画のエクステリアを有しているが、すぐにスリラーものの様相を呈し、後半には活劇編になる。さらに、宇宙ロケットでのやり取りからからカーアクション、終盤には複葉機のスカイ・チェイスまで出てくる。このように多彩なモチーフが網羅されており、一粒で二度どころか三度も四度も美味しい思いが出来るという、まさに娯楽作品の“お徳用”みたいなシャシンだ(笑)。

 製作当初はNASAは協力的だったが、内容を知ってから映画会社に“三下り半”を突き付けたという逸話があるが、それもうなずけるストーリーだ。折しもアポロ計画は70年代前半に終了し、80年代のスペースシャトル計画にはまだ間があるという空白の時期に作られただけに、当局側への皮肉が効いている。

 脚本も担当した監督のピーター・ハイアムズは、この頃は脂が乗りきっており、畳み掛けるようなドラマ運びと思い切ったアクション演出で観る者を最後まで引っ張ってくれる。エリオット・グールドにジェームズ・ブローリン、サム・ウォーターストン、O・J・シンプソン(!)と、キャストも万全。特にカレン・ブラックとテリー・サバラスは儲け役だ。ビル・バトラーのカメラにジェリー・ゴールドスミスの効果的な音楽、幕切れも鮮やかで鑑賞後の満足度は高い。
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「ヤクザと家族 The Family」

2021-02-14 06:55:22 | 映画の感想(や行)
 前半は、そこそこ楽しめる。だが後半は完全に腰砕け。全体として、要領を得ない映画になってしまった。有名原作に頼らないオリジナル脚本である点は認めるが、現時点でヤクザものを撮る必然性を、もっと煮詰める必要がある。舞台設定や時代背景にも、かなり問題がある。

 99年、静岡県の地方都市。覚醒剤がらみのトラブルで父親を失った山本賢治は、その日暮らしの荒んだ生活を送っていた。そんなある時、彼は地元の暴力団である柴咲組の組長、柴咲博の命を救う。これが切っ掛けになり、賢治は柴咲組に入る。2005年、無鉄砲だが侠気のある賢治は組の顔役にまで上り詰めていた。また、由香という恋人も出来た。しかし、対立する組織との抗争が再発した際、幹部の身代わりになって服役することになる。

 ここまでが前半で、後半は14年後の2019年、賢治が出所するところから始まる。組に復帰したものの、組員の多くは去り、残っているのは老幹部だけ。おまけに組長の柴咲は病気で余命幾ばくもない。賢治は昔の仲間のツテを頼って、由香を探すことにする。

 前半部は昔のヤクザ映画(70年代の実録路線)にも取り上げられたようなネタと筋書きで、新しさは希薄だが、いわばこのジャンルの定番という感じで“安心”して観ていられた。しかし、後半部はいただけない。そこで描かれるのは、法律や条令で締め上げられて思うような活動が出来なくなったヤクザ組織や、代わりに台頭してきた半グレ集団、そしてSNSの普及による弊害で当事者が苦しめられるという、いわば誰でも考えつくようなモチーフばかりなのだ。しかも、その扱いは通り一遍で何の捻りも無い。

 さらによく考えてみると、映画の序盤の時制である99年には、いわゆる暴対法はすでに存在していた(92年施行)。この時点ですでに往年のヤクザ映画とは勝手が違うはずなのに、大昔の“ヤクザは任侠道で男を磨き”などというスローガンを性懲りも無く披露している。舞台が一地方都市の縄張り争いだというのも、いかにも大時代的だ。

 要するに、後半部での主人公および柴咲組の逆境は、ヤクザである自分たちが呼び込んだにも関わらず、本作はそれを“社会のせいだ”と言い募っているに過ぎない。どうしてもそれを主張したいのならば、賢治がヤクザにならざるを得なかった社会的状況の方をテンション上げて描くべきではなかったか。

 藤井道人の演出は個々の描写には力はあるものの、全体として作劇がまとめきれていない。さらに、前半と後半とではスクリーンサイズが違うのだが、効果が上がっているとは思えない。主演の綾野剛をはじめ、舘ひろしに尾野真千子、北村有起哉、市原隼人、磯村勇斗、寺島しのぶら各キャストは熱演だが、映画の内容が斯くの如しなので評価は出来ない。
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「名も無き世界のエンドロール」

2021-02-13 06:58:36 | 映画の感想(な行)
 かなり“薄口”の内容で、評価できない。お手軽なテレビドラマのような印象を受ける。キャラクターの造型に深みが無いので、いくら凝った筋書きを狙おうとも、映画は上滑りするばかり。また、そのプロット自体が弱体気味で、惹句にある“ラスト20分の真実”というのも大したことがない。

 複雑な家庭環境で育った幼なじみのキダとマコトが通う小学校に、転校生の女の子ヨッチがやってくる。彼女も両親がおらず、似たような境遇のキダたちと仲良くなる。時は経ち、高校を卒業して地元の板金工場で働くようになったキダとマコトの職場に、売れっ子モデルのリサが車の修理を依頼する。

 それからしばらくしてマコトは仕事を辞めて行方をくらまし、やがて工場も閉鎖。キダは社長の紹介で怪しげなエージェントに勤めつつマコトを探すが、再会したマコトは新しい“身分”を手に入れ、名の知れた実業家になっていた。彼は今ではリサと付き合っており、プロポーズする際の“サプライズ”を仕掛けるために、マコトに協力を依頼する。第25回小説すばる新人賞を受賞した、行成薫の同名小説の映画化である。

 映画は現在のキダとマコトの姿と、子供の頃から高校時代までの主人公たちを交互に描く。過去のパートで中心的に描かれるヨッチが、現代のパートにはいない。また、高慢ちきで鼻持ちならないリサに、なぜかマコトは御執心である。以上2点から考えると、勘のいい観客ならば物語の全容が容易に掴めるはずだ。こんな状態で“ラスト20分”にわざわざ“種明かし”をしてもらっても、観ている側は鼻白むばかり。

 しかも、それに続くラストの処理は、何とも気勢の上がらないものだ。成りあがったマコトの佇まいや、キダの仕事ぶりなどは、かなり安直である。特にキダの“勤務先”の描写は書き割りのようで、とても裏社会に通じているような凄味は窺えず、観ていて脱力する。トップモデルだというリサに至っては、華やかさも存在感も無く困惑するばかりだ。

 佐藤祐市の演出はピリッとせず、奇をてらって“映像派”を狙ったようなシーンも、ハズレばかり。主演の岩田剛典と新田真剣佑、そして山田杏奈に中村アン、いずれも凡庸で特筆すべきものは無い。石丸謙二郎に大友康平、柄本明といったベテラン勢も、することがなく手持無沙汰の様子だ。近藤龍人による撮影も佐藤直紀の音楽も印象に残らず、エンディングに流れるナンバーは実につまらない。そして極めつけは、エンドタイトル後の“続きはネット配信で”みたいな表示だ。何かの茶番としか思えず、気分を害して劇場を出た。
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