元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「さよなら子供たち」

2019-06-30 06:13:55 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Au Revoir Les Enfants )87年フランス作品。本編はルイ・マル監督の自伝的作品である。そして同監督のフィルモグラフィの中でも1,2を争う出来映えで、第44回ヴェネツィア国際映画祭金賞やセザール賞、ルイ・デリュック賞などに輝いている。

 1944年、ナチス占領時代のフランスでカトリックの寄宿学校に籍を置いている12歳のジュリアン・カンタンは、新学期に転入生ジャン・ボネと出会う。ボネは聡明であったが、ジュリアンには彼のどうにも打ち解けない様子が気にかかる。実はボネはユダヤ人で、両親とは長い間音信不通の状態が続いていたのだ。それでもジュリアンはボネを何度も遊びに誘い、距離を縮めていく。

 そして父母参観の日に、ジュリアンはボネを食事に招待する。ユダヤ人に対する偏見は無いジュリアンの家族に好感を抱くボネだが、そんな楽しい日々は長くは続かなかった。クビになったことを逆恨みした職員の一人が、ユダヤ人生徒が在籍していることをゲシュタポに密告。学校は閉鎖され、ボネや校長先生は連行されてしまう。

 ジュリアンは親しい人々が過酷な運命に振り回される状況を前にしても、何もできなかった。それから長じて表現者となり、やっとボネ達に対する挽歌とも思える作品に結実させた。語り口はとても抑制され、ユーモアを感じさせる箇所もあるのだが、占領時代の空気は鮮やかに再現され、内に秘めた戦争への怒りは純化されている。

 突然友情が失われて以後約40年間、この映画の構想を抱き続けたマルの心情を慮れば、実に感慨深いものがある。また、主人公の名はジュリアンだが、言うまでもなくマルの出世作「死刑台のエレベーター」(1957年)の主人公の名と一緒である。あの映画のジュリアンも、インドシナ戦争に従軍して精神的なトラウマを負っていた。キャラクターは違うが、2人のジュリアンは共に戦争の悲劇を目の当たりにしているのだ。

 主役のガスパール・マネッスとラファエル・フェジトの演技は素晴らしく、レナート・ベルタのカメラによる清涼な映像は心に残る。そしてシューベルトやサン=サーンスのクラシック曲が抜群の効果を上げている。
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「町田くんの世界」

2019-06-29 06:31:12 | 映画の感想(ま行)

 石井裕也監督にとってラブコメ映画は守備範囲外であることを、如実に示した一作。とにかく、全編に漂う違和感が観る者がストーリーに入り込むことを拒絶しているかのようだ。製作側はいったいどういう基準でこの演出家を起用したのか、全く分からない。

 高校生の町田一は、見た目が地味なら運動も勉強も苦手で、何も取り柄がなさそうに見える。しかし、彼は並外れた“善人”であった。困っている人がいれば、躊躇なく手を差し伸べる。そしてその強すぎる優しさが周囲の者に影響を与えてしまうが、本人はそのことを自覚している様子は無い。そんな彼の前に現れたのが、長らく学校を休んでいた猪原奈々だった。町田一は彼女を一目見るなり、今まで味わったことの無い感情が湧き上がってくる。その感情の正体を探るため、彼は無我夢中で奮闘し始める。別冊マーガレットに連載された安藤ゆきの同名コミック(もちろん私は未読 ^^;)の映画化だ。

 汚れの無い聖人君子みたいな主人公像を映画の中で作り上げるには、並大抵のことではないと思う。しかし、作者は何を勘違いしたのか、全く演技経験の無い新人を起用することが、イノセントなキャラクターの創造に繋がると合点してしまったようだ。ここは逆に、十分な演技力を備えたキャストを持ってくるべきだった。よく知られた若手タレントが“色が付いている”ということで無理ならば、演劇畑から見付け出すという方法もあったのではないか。

 演じる細田佳央太は頑張っていたとは思うが、ここでは主人公は純情無垢ではなくただのアホにしか見えない。相手役の関水渚の演技も同様で、不機嫌で怒鳴ってばかりの付き合いきれない女生徒に過ぎず、感情移入が出来ない。何より、どうしてこの2人が惹かれ合うようになったのか、よく分からないのが辛い。

 ドラマ運びは全体的に散漫だが、いくら映画が進んでも改善する兆しは見えず、終盤近くになると何とファンタジーになってしまったのには呆れてしまった。石井監督にはこういう“絵空事”はまるで似合わない。リアリティを見据えていないと、この監督の良さは出ないのだ。

 加えて岩田剛典や高畑充希、前田敦子といった高校生を演じるには年齢の高すぎる連中が出ていたり、かと思えば池松壮亮や戸田恵梨香、佐藤浩市などが本筋とはさほど関係の無いキャラクターに扮していたりと、キャスティングのチグハグ感が強い。ただしよく考えると、AKB系列(前田)とEXILE系列(岩田)を押さえているということは、一応昨今のラブコメの体裁は整えているとは思う(笑)。ロケ地は主に栃木県だが、あまり効果は上がっていない。平井堅による主題歌は良かった。
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「ラウンド・ミッドナイト」

2019-06-28 06:28:46 | 映画の感想(ら行)

 (原題:Round Midnight)86年作品。まさに、ジャズ・ファンのイメージする本物の“ジャズ映画”である。これは当時現役のミュージシャンが主人公を演じていたという事実だけではなく、話の設定や雰囲気がもろにジャズなのだ。バド・パウエルとフランシス・ポードラの関係をモチーフにしたといいながら、デクスター・ゴードン演じるデイル・ターナーはまさにファンの理想とするキャラクターである。

 1959年のパリ。アメリカの著名なテナーサックス奏者デイル・ターナーのライブがブルーノートで行われていた。その音を、クラブの外で雨にうたれながら身じろぎもせず聴いていたのが、貧しいグラフィック・デザイナーのフランシス・ボリエだった。やがてデイルとフランシスは知り合い、意気投合する。フランシスはデイルを家に引き取り、面倒を見ることにした。

 しかしデイルは酒癖が悪く、たびたび酔っ払うと行方をくらましてしまう。それでもフランシスはこの伝説のミュージシャンの世話をすることに充実感を覚えていた。しかし、デイルがニューヨークヘ帰る日が来た。フランシスは一度はデイルに付いていくのだが、アメリカでのシビアな生活は彼を打ちのめす。

 デイルの造型が絶品だ。演奏のためならば全ての生活を犠牲にしてきた男。その引き替えに身も心もボロボロである。しかしながら、そんな破滅的な人間が何とも言えないロマンティシズムを醸し出す。彼がジャズの似合うパリやニューヨークをさすらう様子は、突出した存在感を現出させる。

 この誰も到達し得ない境地にある男には、いくらジャズ好きであるとはいえ、フランシスのような一般人は対等に付き合えない。デイルにとっては、フランシスとの生活は一時の休息に過ぎなかったのだ。この切なさ、やるせなさは辛いものがあるが、それもまた確固とした“現実”なのだ。しかし監督ベルトラン・タヴェルニエは、その“現実”を情感を込めて描き込む。孤高の存在との断絶さえも、掛け替えのない芸術との邂逅であると言い切っているようだ。

 ゴードンをはじめ、ハービー・ハンコックやビリー・ヒギンズ、フレディ・ハバード、ボビー・ハッチャーソンといった大物達が顔を揃える演奏シーンは圧巻。ブルーノ・ディ・カイゼルの叙情的とも言えるカメラワークも素晴らしい。
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「居眠り磐音」

2019-06-24 06:32:17 | 映画の感想(あ行)
 観終わって、今後作られる娯楽時代劇は一切チェックする必要は無いと思った。最早この分野におけるスキルも人材も払底してしまったらしい。そんな情けない気持ちになるほど、この映画は低調だ。

 江戸での勤務を終えた坂崎磐音と彼の幼馴染みである小林琴平と河井慎之輔は、3年ぶりに故郷である豊後関前藩に戻る。琴平の妹の舞は慎之輔と結婚し、磐音も舞の妹である奈緒との祝言を控えていた。ところが、帰還して早々に慎之輔は舞が不貞を犯したという噂を吹き込まれる。逆上した慎之輔は舞を斬殺。それに激昂した琴平は慎之輔を殺害。磐音は藩から琴平を討ち取るよう命じられ、やむを得ず琴平を斬る。



 こうなった以上は奈緒とは一緒になれないと判断した磐音は、ただ一人脱藩して江戸で浪人生活を送る。そんな彼に大家の金兵衛は、両替商の今津屋の用心棒の職を紹介する。折しも今津屋は幕府の金融政策をめぐる陰謀に巻き込まれ、存亡の危機にあった。敵対する悪徳両替屋が放つ刺客から今津屋を守るため、磐音は得意の剣法で立ち向かう。佐伯泰英の長編剣戟小説(私は未読)の映画化だ。

 同じ道場で和気藹々と剣術を学んでいた主人公達が、地元に帰るとたちまち刃傷沙汰に及ぶという無理筋の展開に呆れていると、磐音は奈緒とその家族を放置して江戸へと舞い戻り、何事も無かったかのように暮らし始めるに及び、こちらは完全に脱力してしまった。今津屋に関する金融ネタも、煽っているわりには芝居じみた“作戦”で事足りてしまうので拍子抜け。

 だいたい、題名の通り主人公が“穏やかで優しいが剣の腕は立つ”というキャラクター設定ならば、話を磐音が藩を離れて江戸に居を移した時点から始めないと辻褄が合わないし、終盤近くに判明する奈緒の“決意”にしても背景がまるで描き込まれていない。

 だが、そんな脚本の不備よりもっと重大な欠陥が本作にはある。それは、出てくる者達が誰一人として時代劇らしい面構えや存在感を有していないことだ。テレビ画面ならば気にならないのかもしれないが、映画館のスクリーンでは軽量級に過ぎる。

 そして、肝心の殺陣に関しては全然サマになっていない。ちゃんとした立ち回りが出来る者も、それを指導する者も、邦画界にはすでに存在しないのであろう。このような有様では、現時点で娯楽時代劇を観る必然性は感じられない。昔の東映や大映の時代劇をリバイバル上映などで楽しむ方がずっと良い。

 本木克英の演出は相変わらず凡庸。主役の松坂桃李をはじめ柄本佑や佐々木蔵之介、木村文乃、谷原章介らは頑張ってはいるが、成果は上がっていない。奈緒役の芳根京子に至ってはセリフ回しも表情も抑揚が無く、十分な演技指導が成されていなかったことが窺える。極めつけはMISIAによるエンディングテーマ曲で、悲しくなるほど場違いだ。続編が作られるような雰囲気だが、私は観ない。
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「オーケストラ・リハーサル」

2019-06-23 06:37:22 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Prova D'Orchestra )79年作品。正直言って、わけの分からない映画である。だが、フェデリコ・フェリーニ監督にとって“わけの分からないまま観客を埒外に置く”という無責任な態度とは無縁だ。何しろ、実際観た印象はとても面白いのである。前衛的ともいえるネタを娯楽映画の次元にまで押し上げるという、フェリーニ御大の真骨頂を見るようなシャシンだ。

 13世紀に建てられたイタリアの古い教会で、有名管弦楽団のリハーサルが行われることになった。この教会は響きの良さで知られており、しかもテレビ局が取材に来るという。写譜師の老人も演奏家たちも、高揚した気分で当日を迎えた。早速テレビの取材班は楽団員にインタビューを始めるが、ピアニストが“ピアノが楽器の中で一番優れている”と答えたのを切っ掛けに、各人が自分の担当する楽器こそが最高のものだと勝手気ままに主張し始める。収拾がつかなくなる状態で指揮者が到着するが、楽団員達の混乱が落ち着く気配はない。さらにはマネージャーと組合代表との口論も勃発。ブチ切れた指揮者は、ドイツ語で怒鳴り始める。



 この脈絡の無い筋書きに、何らかの意味付けをすることは可能だろう。たとえば、異論を受け付けないエゴイスティックな各キャラクターの態度に“混沌とした欧州情勢を重ね合わせた”とか何とか・・・・。しかしながら、本作は小賢しい勘ぐりを無視するかのように、パワフルに暴走する。

 そして後半の呆気にとられるような展開と、それに続く人を喰ったような終盤のオチの付け方には、大きなカタルシスを観客にもたらす。それは縺れた糸がスッキリと元通りになるような、あるいは肩凝りが一気に軽減するような、多分に生理的なものであろう。

 よく考えてみると、この“モヤモヤモした状況から見晴らしの良い地点に着地する”というのは娯楽映画のルーティンであり、作者はそれを忠実になぞったと言うことも出来る。変化球を駆使しながら、エンタテインメントの王道を忘れないフェリーニの異能ぶりが光っている。ニーノ・ロータによるスコアは万全だし、ボールドウィン・バースやクララ・コロシーモ等のキャストもイイ線行っている。
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「長いお別れ」

2019-06-22 06:46:30 | 映画の感想(な行)

 良い部分と良くない部分が混在している映画だが、実のところ良くない部分の方が多く、結果として及第点には達していない。聞けば巷の評判は悪くないようだが、その理由が見透かされてしまうのも何ともやりきれない気分になる。

 2007年秋。東京郊外に住む東昇平は70歳の誕生パーティーを家族に開いてもらうが、実は認知症の症状が出始めていた。妻の曜子は長女麻里と次女の芙美にそのことを告げ、今後は心積もりしておくように伝える。2013年秋。病状が進んでゆく昇平を介護していた曜子だが、網膜剥離で入院することになる。芙美は代わりに父親の世話を買って出るが、予想以上にハードなので心が折れそうになる。曜子の手術は成功して退院するが、今度は昇平が骨折して入院する。認知症の父親とそれを見守る家族の7年間を描く、中島京子の同名小説の映画化だ。

 最初に述べた“良い部分”とは、昇平役の山崎努の演技である。中学校校長も務めた厳格な人物が前後不覚になってゆく過程を、確かなパフォーマンスで観客に伝える。特に現役時代の威厳や家族に対する愛情を、薄れゆく意識の中で何とか保持しようとする様子には心打たれるものがある。曜子に扮する松原智恵子も妙演で、その“天然”なキャラクターが観る者の笑いを誘う。

 さて“良くない部分”というのは、それ以外の全てである。芙美はスーパーで働きながらもカフェ経営の夢を持っているが、まるで上手くいかない。父親の期待に応えられない屈託もある。しかし、その言動は不自然だ。演じる蒼井優の力量が高いだけに、違和感だけが強調される。

 麻里に関するパートは、ハッキリ言ってヒドい。麻里は夫と息子と共にアメリカに住んでいるが、都合7年も海外にいるのに最後まで英語が全然しゃべれない。夫は人間味がゼロで、息子は何を考えているの分からない。加えて麻里役の竹内結子は相変わらず演技力が無いので、余計に盛り下がってしまう。脚本も上等ではなく、そもそも映画は昇平が遊園地を徘徊する場面から始まるのだから、最後もそこに帰着して然るべきだが、実際はそうならずに訳の分からないエピソードで幕を閉じるというのは、明らかな不備だろう。

 とはいえ、この映画が観客受けが良いというのも理解できる。なぜなら、描写が“ぬるい”からだ。介護の厳しい現実をスルーし、何となくハートウォーミングなホームドラマに仕立て上げることによって、観る者の薄甘いカタルシスを誘おうという作戦である。まあ、興行面ではそれもひとつの手だが、個人的には受け入れがたい。
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「きらきらひかる」

2019-06-21 06:27:50 | 映画の感想(か行)
 92年フジテレビジョン作品。「バタアシ金魚」(90年)と並ぶ、松岡錠司監督の初期の代表作だ。軽やかに見えて、実はシリアスに登場人物の内面に迫っていく。しかもそのアプローチはポジティヴかつロマンティックで、鑑賞後の印象は良好である。

 イタリア文学翻訳家の20歳代後半の香山笑子は、母の勧めで30歳の医師である岸田睦月とお見合いする。睦月は感じが良く、笑子は憎からず思うが、実は彼が同性愛者で女には手も触れられないことを知ってしまう。それでも笑子は情緒不安定でアルコール依存症の自分を優しく受け容れる睦月に惹かれ、結婚する。ところが、睦月の“恋人”である大学生の紺が勝手に同居するようになり、ここに不思議な“三角関係”が現出する。江國香織の同名小説の映画化だ。



 冒頭の見合いのシーンは面白い。笑子は何かというと“黙ってないで何かしゃべれよ!”だの“オマエ、笑ったな?”だのと相手に突っかかる。それでも睦月は巧みにやり過ごす。笑子は悪態をつきながらも彼の温かい人柄に触れて、別れる時には泣き出してしまうのだ。

 笑子のキャラクター造型はまさに絶品。クソ生意気で大酒飲み、結婚後もファミリーレストランのウェイトレスをはじめ周囲の人間にケンカを売りまくる。そんな彼女の態度がちっとも不愉快に思えないのは、第一に本音で生きていること、そして第二に横柄な言動の裏に純粋で愛すべき本心が見え隠れすることだ。睦月も彼女の内面に惚れ込んだことは当然と思わせる。

 愛とは互いの本質を理解して惹かれ合うことだという、ひとつの理想を提示している。その次元に達すれば、相手がどんな指向を持っていようと関係ないと言い切る、作者のロマンティストぶりが印象付けられる。中でも深夜の車の中で、あわや3人の関係が破局に至るかもしれないと思い詰めた笑子が、車を飛び出して朝まで街をさまよう終盤のシークエンスは素晴らしい。朝の光が“きらきらひかって”登場人物たちの新しい旅立ちを予感させるシーンの、何と感動的なことか。

 笑子を演じる薬師丸ひろ子のパフォーマンスは、彼女のキャリアの中でも1,2を争う。睦月役の豊川悦司と紺に扮する筒井道隆の演技も申し分のない仕事だ。加賀まりこや川津祐介、津川雅彦、土屋久美子といった脇の面子も万全。笠松則通のカメラによる透明感の映像、PSY・Sによる主題歌は文句なしの出来映えだ。
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「愛がなんだ」

2019-06-17 06:33:25 | 映画の感想(あ行)

 面白い。内容がリアリズムの方向には振られておらず、登場人物は多分にカリカチュアライズされている。しかし、観ていて実に胸に刺さるのだ。誰しも胸の奥に秘めている身も蓋もない願望、そして“分かっちゃいるけど、やめられない”とばかりに自身を追い込んでしまう衝動などが、的確に表現されている。

 20代後半のOLの山田テルコは、パーティで知り合ったマモルに一目惚れし、それ以来仕事も友情もそっちのけでマモルに尽くしている。しかしマモルはそんなテルコを“都合のいい女”としか見ていない。テルコの友人である葉子はナカハラという男と付き合っているが、葉子にとって相手は“都合のいい男”でしかない。そんな中、マモルに年上の交際相手が出来る。男勝りでサバサバしたその女・すみれはテルコや葉子を巻き込んで一泊の小旅行を企画するが、そこで彼らの関係性が微妙に揺らいでくる。角田光代による同名恋愛小説(私は未読)の映画化だ。

 登場人物達の恋愛感情はすべて一方通行であり、そして皆がそのことに薄々気付いてはいる。しかし、その状況を直視しようとはしない。自身の言動がことごとく的外れで、自己満足の産物でしかないことを認識するのが怖いのだ。

 何とか自分への言い訳を積み重ね、とにかく相手と繋がりを持つだけで良いのだと無理矢理納得しようとする。これは実に痛々しい構図なのだが、困ったことにそういう退嬰的な心理状態に陥る者(あるいは、陥ったことのある者)はけっこう多いと思う。なぜなら、そっちの方が楽だから。自分および相手に正面から向き合わず、ナアナアで済ませればそれに越したことはない。だが、少しでも人生を前に進めようと思うならば、それではダメなのだ。

 映画では今までの状況を脱して一歩踏み出そうとする者と、それが出来ない者との対比を残酷なまでに映し出す。そして各キャラクターの戯画化が昂進すればするほど、その苦みは増してゆく。こういう仕掛けを違和感なく創出した監督の今泉力哉の力量は、大いに評価して良いだろう。ラストの扱いなど皮肉が効き過ぎていて、笑いながらも感心してしまった。

 テルコを演じる岸井ゆきのは大健闘で、空回りを続けるヒロイン像を上手く表現していた。マモルに扮する成田凌は、すでに“第二のオダギリジョー”みたいな雰囲気を醸し出していて絶品だし、ナカハラ役の若葉竜也も好演だ。脇に片岡礼子や筒井真理子、江口のりこといったクセ者を配置しているのもポイントが高い。
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「敵、ある愛の物語」

2019-06-16 06:49:59 | 映画の感想(た行)

 (原題:Enemies,A Love Story)89年作品。ポール・マザースキー監督のフィルモグラフィの中では、間違いなく「ハリーとトント」(74年)や「結婚しない女」(78年)と並ぶ代表作だと思うのだが、アカデミー賞候補にもならず(注:各種批評家賞は受賞しているが)いまいち注目度が低いのが残念だ。子供じみたシャシンが目立っていた当時のアメリカ映画界において、大人の感性に満ちた逸品として評価したい。

 1949年、ニューヨークのコニーアイランドに住むハーマンは、母国ポーランドでのナチスの弾圧によって妻子を失い、命からがらアメリカに逃れてきた。現在は命の恩人である女中のヤドウィガと結婚し、ユダヤ教のラビの事務所に勤めている。だが実は彼にはマーシャという愛人がいて、ヤドウィガには“外回りの営業に行く”と称してマーシャと逢瀬を重ねていた。

 そんなある日、何と死んだはずの妻タマラが彼の前に姿を現わす。実を言えば、大戦中すでに2人は離婚寸前だったのだ。タマラの存在を知ったヤドウィガは困惑するばかり。またマーシャからは“フロリダで仕事を見つけたので、一緒に行ってほしい”と懇願される始末。そんな折ヤドウィガの妊娠が判明し、いよいよハーマンは窮地に立たされる。

 まず、3人の女から惚れられ、結果として三重結婚の状態に陥ってしまう男が、別に二枚目でもなく甲斐性も無いという設定が面白い。凡庸な男でも、成り行きによっては女達から追いかけられる立場になり得るのだ(笑)。

 最も秀逸だと思ったのは、3人の女の住処がそれぞれコニーアイランド、ブロンクス、ロウアーマンハッタンと離れていること。この大都会の北の端から南の端に至る各ポイントを、ハーマンが地下鉄を駆使して飛び回るわけだが、それぞれの“土地柄”に合わせて3人のヒロインの性格も描き分けられていることに感心した。

 すれ違いと鉢合わせの連続で、ナチスのホロコーストから奇跡的に逃れたハーマンも、この先の読めない展開に疲れ果ててしまう。観ている側も同様に予想が付かないストーリーに翻弄されるが、映画はまさかの結末を用意していて驚かされる。結局はハーマンは“狂言回し”であり、物語の焦点は3人の女の生き方であったことが分かり、大いに納得してしまった。

 当時のニューヨークを再現してみせるセットは見事。色彩とライティング、モーリス・ジャールによる音楽、テンポのいい演出。そして賞賛すべきはキャスティングだ。マルガレート・ゾフィ・シュタイン、レナ・オリン、アンジェリカ・ヒューストンという芸達者の女優を並べ、持ち味を存分に引き出している。もちろん、ハーマン役のロン・シルヴァーも妙演。鑑賞後の満足度が高い逸品だ。
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「僕たちのラストステージ」

2019-06-15 06:18:15 | 映画の感想(は行)

 (原題:STAN & OLLIE)悪くはないが、どうも薄味だ。これはひとえに題材となった往年のお笑いコンビ“ローレル&ハーディ”の芸が古いからだと思う。

 彼らはサイレント期からハリウッドで活躍していたのだが、同時期のチャップリンやキートンおよびロイドらが繰り出していたネタが今見ても十分面白いのに比べて、“ローレル&ハーディ”のパフォーマンスはかなり“ぬるい”。劇中で紹介される映画の一部分はもちろん、ネット上で鑑賞可能な彼らの出演作をチェックしても、ほとんど笑えない。ならばどうして現時点で彼らの伝記映画を撮ったのかという、その背景が見えないのが辛いところだ。

 1953年、かつて飛ぶ鳥を落とす勢いだったスタン・ローレルとオリバー・ハーディのコンビは戦後はすっかり落ち目になっていたが、復活を期してイギリスおよびアイルランドにツアーに出かける。当初は待遇が悪く、客足も全く伸びなかったのだが、なりふり構わないPR活動のおかげで次第にファンを取り戻していく。ところがある日、口論をきっかけに2人はコンビ解散の危機に陥る。しかもオリバーは持病の心疾患が悪化。ツアー続行も難しくなる。

 往時の勢いを失った芸人の悲哀はよく出ていたし、2人のそれぞれの嫁さんのキャラクターも面白い。しかしながら、ジョン・S・ベアードの演出は淡白だ。おかげで意外性のない型通りの展開になってしまった。加えて、冒頭に書いた通り“ローレル&ハーディ”の持ちネタは凡庸であるため、クライマックスの最後のステージに至っても盛り上がりに欠ける。2人の人気が陰りを見せ始めたのは敏腕プロデューサーのハル・ローチとケンカ別れしてからだが、映画ではそのあたりの描写は軽く流していることもマイナス要因だ。

 とはいえ、主役のスティーヴ・クーガンとジョン・C・ライリーの演技は実に達者である。シャーリー・ヘンダーソンにニナ・アリアンダ、ルーファス・ジョーンズら脇のキャストも万全。そしてガイ・スペランザによる衣装デザインは素晴らしく、どれも当時の雰囲気を良く出していながら、上品でハイ・クォリィティだ。音楽担当のロルフ・ケント、撮影担当のローリー・ローズ、いずれも的確な仕事をしている。
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