元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「モンスター」

2012-01-28 07:15:54 | 映画の感想(ま行)

 (原題:Monster )2003年作品。不幸な生い立ちの娼婦が、連続殺人を犯す“怪物”に変わり果ててゆくプロセスを描く。監督は女流のパティ・ジェンキンスで、実在の女性死刑囚を題材にしている。

 身体を張って汚れ役に挑み、アカデミー主演女優賞を獲得したシャーリーズ・セロンの壮絶演技が話題になった本作だが、各賞のノミネーションにおいて主演女優賞以外はほとんど無視されていた事実がこの作品の“限界”を示していると思う。一番の問題点は、連続殺人を犯すヒロインの精神的バックグラウンドが描き切れていないこと。

 不遇な子供時代を送ったこと等はセリフでサッと流すのみ。最初の殺人は正当防衛だが、それが金目当ての強盗殺人へと発展するプロセスに説得力はない。作者としては“ネコっ気のあるレズ娘に対して「亭主風」を吹かせようとしたためだ”との解釈で押し切りたいのだろう。しかし、その程度の理由で凶行に及ぶほど人間ってのは単純ではない。

 事実を元にしており、実際にはどうしようもない葛藤と狂気がヒロインの中で渦巻いていたはずだが、そこまで踏み込む覚悟と体力が、この若手女流監督には欠けている。相手役がクリスティーナ・リッチというのも、社会の掃きだめで生きる惨めさと開き直りを描出するためには、小綺麗に過ぎるキャスティングである(笑)。

 要するに、セロンが“肉体改造演技”に踏み切った時点をもって“満足”してしまったような映画で、素材に対してもっと肉迫するか、あるいは完全に突き放すかといった、肝心の映画的興趣を盛り上げる工夫にはまるで欠けている。私は事件の酷さよりも、銃が簡単に手に入るアメリカ社会の方が問題に思えてしまった。
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「ヒミズ」

2012-01-27 06:34:28 | 映画の感想(は行)

 早くも今年度のベストワン候補が登場したという感じだ。決してウェルメイドな作品ではない。作劇がゴツゴツと荒っぽく、余計なシークエンスや“もっと整理した方が良い”と思われる箇所もかなり目立つ。しかし、本作に込められたメッセージ性は、そういうマイナス材料を跳ね返すほどの強靱なものだ。本当に観て良かったと思える逸品である。

 15歳の中学生・住田の家は貸しボート屋で生計を立てている。しかし母親は男を引っ張り込んで、挙げ句の果てに家出する。父親はほとんど家におらず、時々戻ってきては住田に暴力を振るい、なけなしの金を奪う。そして“お前なんか要らないんだ。子供の頃に死ねば良かったのだ”と、息子に本気で言い放つのだ。さらには、父親の借金の取り立てに来たヤクザからも手酷い仕打ちを受ける。

 まさにドン詰まりの状況だが、それでも“こんな定番の不幸話に負けてたまるか! 立派な大人になるんだ!”と必死で叫ぶ住田。ところが事態はさらなる窮地に彼を追い込んでゆく。

 そんな住田を見守るのはボート小屋の周辺に住むホームレス達と、クラスメートの女生徒・茶沢だ。青テントの住人は、はるか年下の住田を“さん”付けで呼び、茶沢はどんなに邪険にされても住田に付きまとい、彼の力になろうとする。どうして彼らが住田の味方になるのか、徐々に明らかになるその理由は、実に辛く切ない。ついには一生“終わりなき非日常”を送るハメになった住田に、彼らはそれでも未来を託すのだ。

 監督・園子温の諸作には宗教的なモチーフが数多く登場するが、今回それは終盤に示される住田と“水”とのイメージに顕著である。これは洗礼を意味しているのかもしれない。あるいはこの世の不幸を一身に背負ったような形で犠牲となり、やがて復活したキリストをも彷彿とさせる。

 本作はおそらく、あの震災を題材にした初めての日本映画ということになるのだろう。住田が熱望する“普通の生活”が、被災者だけではなく多くの人々にとっても縁遠くなりつつある現在、このロクでもない世の中に“復活”した救世主は、闇の中にかすかに光る一縷の望みに向かって全力疾走する。住田だけではなく、我々すべてが“頑張る”しかないのだ。

 主演の染谷将太と二階堂ふみは先のヴェネツィア国際映画祭にて新人俳優賞を獲得したが、その評価も頷けるほどの見事な演技だ。染谷は前から何本かの映画で目にしていて、そのナイーヴな持ち味は予想通りだとも言えるが、この映画で初めて出会った二階堂のパフォーマンスには圧倒された。凄い逸材だ。関係ないが、彼女は宮崎あおいに似ている(笑)。いつか姉妹役で共演して欲しいものだ。

 渡辺哲や吹越満、神楽坂恵、でんでん、黒沢あすか、吉高由里子といった今までの園映画における“オールスター”が顔を揃えているのも嬉しい。劇中に流れるモーツァルトのレクイエムとサミュエル・バーバーの弦楽のためのアダージョが抜群の効果を上げている。とにかく、強烈な求心力は観る者に強い印象を与えることは必至で、2012年初頭を飾る傑作だと言って良い。
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朝吹真理子「きことわ」

2012-01-26 06:35:46 | 読書感想文

 葉山の海沿いにある別荘で、幼い日をともに過ごした貴子と永遠子。時は経ち、長い間疎遠になっていた二人は別荘の解体を機に再会する。記憶と現実とが交差する心理の動きを追う、第144回芥川賞受賞作。

 作者のルックスと出自こそ話題になったが本書の評判は良くなく、たとえばAmazonのカスタマーレビュー欄なんかでは酷評が目立つ。しかし、私はそれほどヒドい小説だとは思わない。少なくとも、質的な低落傾向が顕著な昨今の芥川賞作品の中ではマシな部類である。

 本作の売り物は、内面と時間経過との“非・シンクロニシティ”だと思う。人間の意識というものは、時系列的に配備された因果性とは無関係に変化する。その“移ろい”を散文的に綴った本書に、明確なドラマ性を求めること自体“お門違い”であろう。くだんのカスタマレビューの書き手の多くがそのあたりを分かっておらず、単に“物語性がない。退屈だ”みたいな、それこそ退屈極まりないコメントを羅列しているのには、苦笑せざるを得ない。

 ただし、このような形式の小説は書き手に多大なテクニックを要求する。語彙も表現力も乏しい者が内面描写だけを書き連ねようとしても、ただの茶番に終わるのは言うまでもない。その点この作者は、非凡な文章構築力で巧みにハードルをクリアしてくる。冒頭の“永遠子は夢をみる。貴子は夢をみない”という、まさに読み手を夢路に誘うようなフレーズから始まり、優雅な身のこなしで対象から付かず離れずのインターバルを取りつつ、パステル調の美文を次から次へと繰り出してくるあたりは感心した。

 ただし、この小説に難点が全くないかというと、それは違う。まず人間関係が分かりにくい。ヒロイン二人のそれぞれの家族の状況を把握するのに、かなり難儀した。そして何より、このような作風が果たして長続きするのかという、危惧の念を抱いたことも事実。高踏的なタッチは、陳腐化するのも早い。今後の展開を注視したいところだ。

 あと関係ないが、案外これは映画化してみると面白いのではないかと思う。近年「かもめ食堂」とか「プール」とかいった“癒し系もどき映画”が散見されるが、そういうシャシンとは一線を画す硬質かつ静的な魅力のある作品に仕上がるかもしれない。もちろん、それなりの手腕を持った映像作家がメガホンを取ることが必須条件だ。
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「タレンタイム」

2012-01-25 06:27:13 | 映画の感想(た行)

 (原題:Talentime )マレーシアの女流監督ヤスミン・アフマドが2008年に撮った映画で、私は今回、福岡市総合図書館映像ホール「シネラ」での特集上映で接することが出来た。同監督の作品を目にするのは初めてで、本国では実力派として知られていたことを証明するかのような、実に見応えのある青春映画である。

 小さな町の高校で、生徒の音楽の才能を競い合うイベント“タレンタイム”が開かれることになり、一次オーディションの結果7人の出場者が選ばれる。その中で映画で描かれるのはピアノの弾き語りが得意な女生徒のメルーと、ギター片手に自作の歌を披露するハフィズだ。メルーは、バイクで送り迎えをしてくれるインド系男子生徒のマヘシュと恋に落ちる。

 ところがマヘシュは聴覚障害者。しかも彼の母親は民族や宗教が異なるからと、メルーとの交際を認めない。マヘシュの家庭も複雑で、父親はおらず母親と姉との3人暮らし。母親の弟は一家のことを何かと気に掛けてくれるが、この叔父は自分の結婚式の直前にトラブルに巻き込まれ、命を落としてしまう。

 ハフィズにも父親はおらず、難病で余命幾ばくも無い母親の看病に明け暮れる毎日だ。それでも彼は音楽活動や勉学に手を抜かず、成績はトップクラスである。それを妬む中国系の同級生は二胡の名手で、彼もまたタレンタイムの出場が決まっているものの、ハフィズに対して妨害工作を仕掛けようとする。

 7人のうち3人しか紹介されていないのは不満とも言えるが、主要キャラクターの描き方の密度が濃いので観ている間はそれも気にならない。多民族国家マレーシアは、文化や宗教が異なる人々が共生して行かざるを得ない社会を形成している。当然のことながら確執は大きく、時として取り返しの付かない事態に発展することもある。特に、マヘシュの叔父の辛い過去の体験は胸に突き刺さる。

 しかし、それでも彼らは前に進まなければならないのだ。何とか理解し合い、どうにかして妥協点を見つけようとする登場人物達の苦悩と努力は、そのままグローバル社会を生きる我々の姿に投影される。そして、他者と出会って成長する登場人物達の姿は、まさに青春ドラマの王道を行くような頼もしさがある。演じるキャストも皆達者だ。

 そして感心したのは劇中で歌われる楽曲だ。この映画のために作られたナンバーらしいが、どれも素晴らしい出来映えである。なお、この監督は本作を撮り上げてから間もなく50歳代の若さで急逝した。世界に通用する手腕を持った作家だと思うのだが、実に残念だ。機会があれば他の作品も観てみたい。
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吉野源三郎「君たちはどう生きるか」

2012-01-24 18:30:21 | 読書感想文

 昭和12年に山本有三が編纂した「日本少国民文庫」の中で配本された、少年向けの読み物である。かなり有名な著作らしいのだが、私が本書の存在を知ったのはつい最近だ。

 聞けば、戦後期も含めた長い間、中学生などの副読本や読書感想文の教材として学校現場で使われていたとか。しかし私はまったく記憶がない。書店で平積みになっていたのを偶然見かけ、パラパラとめくってみると面白そうなので購読したに過ぎない。ところが実際読んでみると、これは示唆に富んだなかなかの書物だということが分かる。

 主人公は東京の旧制中学に通うコペル君と呼ばれる少年だ(このニックネームはコペルニクスから来ている)。父親はいないが、物知りで面倒見の良い叔父に可愛がられている。物語はコペル君と友人をはじめとする周囲の人たちとの交流、および彼自身が考えたことが綴られ、それに対てし叔父がコメントやアドバイスをするという形式が連続して進む。

 有り体に言えば、コペル君が学ぶことは“社会性”である。人間は一人きりでは人間になり得ない。他者と関わることによって初めて人間になる。そして他者がいなければ社会も成り立たない。自分は無数の人間が網目のように関わり合っているシステムの一部なのだ。そして、システムに組み込まれない限り人間としての個性も実力も発揮できない。

 つまりは主人公はその名の通り、自分中心の価値観から社会中心の世界観へと“コペルニクス的転回”を遂げるのだ。そして、その認識を持つことが“成長”なのだと結論付ける。この図式は普遍的なもので、今でも通用する。もちろん、大人になっても“自分中心主義”から一歩も出られない者がいて、それに対する痛烈な批判もある。

 ストーリーも面白く、特にコペル君が上級生にいじめられていた級友を救えずに、涙を流して悩むくだりは胸が締め付けられた。周りのキャラクターも十分に“立って”おり、最後まで飽きさせない。もちろん、過度な説教臭さとも無縁だ。時折挿入されるイラストも効果的である。

 これは今の中学生達にも読ませたい本であるばかりではなく、私も十代の頃に読んでいたならば、今よりほんの少し“成長”出来ていたかもしれないと思わせる(笑)。とにかく、読む価値は十分にある良書だ。
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「ハッシュ!」

2012-01-23 06:36:35 | 映画の感想(は行)
 2001年作品。監督は「ぐるりのこと。」などの橋口亮輔だ。土木研究所勤務のゲイの会社員(田辺誠一)が突然、偶然知り合った人生あきらめたような生活を送っている歯科技工士の女(片岡礼子)から“アンタの子供が欲しい”と言い寄られる。彼のパートナー(高橋和也)をはじめ、周囲は困惑するばかり。

 いかにも頭の中だけで考えたような話で、だいたいこの女、子供が欲しいのならマトモに男と付き合って結婚でも何でもすればいいではないか・・・・と片付けられないのがこの映画の非凡なところだ。



 この設定がまったく絵空事にならないのは、作者自身が彼等の葛藤や苦悩を本気で共有しているためであろう。ヒロインは“人と上手く付き合うことなんて出来ないと思っていた私だけど、ゲイの二人と一緒にいると楽しくて、誰かと人生を分かち合うことの素晴らしさがわかった。この延長線上に「子供を作ること」があるなら、それはそれでいいのではないか”と言う。

 対して主人公の兄嫁(秋野暢子)は“そないな浮わついた気持ちで子供を作ってもろうてはかなわんわ。子供を産むのは痛いんやで。子育ては大変やで。家を守るのは並大抵のことではあらへんで。わかっとんのかいな”と言い放つ。

 兄嫁の言うことは正論かもしれないが、根無し草みたいな主人公達にとって、ゲイだろうが何だろうが、家庭を持って足が地に着いた生活に踏み出すことは、苦労はあっても“楽しく、素晴らしい”ことなのだ。少なくとも、それまでの彼等の生活よりよっぽど実り多いはずである。

 この“拠り所のない生活→確固とした基盤のある生活”というポジティヴな方向性に準拠した描き方は、主要登場人物3人だけではなく、主人公の同僚(つぐみ)などほとんどすべてのキャラクターをカバーしている。この思い切り方、スタンスの明確化は気分がいい。

 2時間を超える上映時間だが、会話の面白さ、軽妙でテンポのある展開でまったく飽きさせない。キャストの演技も万全。橋口亮輔は本当にいい作家になった。音楽を担当しているのがボビー・マクファーリンで、演奏にヨー・ヨー・マが参加しているのも見逃せないところ。必見の秀作である。
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「ロボジー」

2012-01-22 07:12:56 | 映画の感想(ら行)

 矢口史靖監督にしては“薄味”な映画作りだ。たとえば「スウィングガールズ」や「ハッピーフライト」のように、題材に対する深遠なリサーチが独特の凄みを醸し出して観客を圧倒させることはない。ならば面白くないのかというと、そうではないのだ。適当に肩の力が抜けたような、温めの湯加減で寛いでいる感じの心地よさが全編に漂っている。こういうアプローチも悪くない。

 弱小家電メーカー“木村電器”の研究職社員の3人組は、自分勝手な社長の気まぐれな命令により、間もなく開催されるロボット博でデモするための二足歩行のロボットを開発していた。しかし、本番直前に試作機がバラバラになる。困った3人は、窮余の策としてロボットの中に人間を入れることを思い付く。

 ヒマを持て余していた痩せ型の老人・鈴木重光をスカウトしてロボットの筐体の中に入れて博覧会に出場したところ、現場での思わぬ“大活躍”により、そのロボット“ニュー潮風”は一躍人気者になってしまう。ロボット博だけの出番だったはずが次々と仕事が舞い込み、くだんの3人組は引くに引けない立場に追い込まれる。さらにこの“ニュー潮風”に惚れ込んだロボット好きの女子大生がまとわり付くようになり、事態は混迷の度を増すばかり。果たしてどんな結末が待っているのか。

 よく考えると、この設定には随分と無理がある。そもそもこれは企業の隠蔽工作であり、話の出発時点からしてウサン臭い。いくら昨今のロボット技術が進んでいるといっても、あまりに臨機応変に動きすぎる“ニュー潮風”に対して最初から大きな疑念が巻き起こらないのもおかしい(マスコミや市民が“実は人間ではないか”と思い始めるのは終盤になってからだ)。

 イベントの途中で勝手に抜け出して娘の家族に会いに行くというくだりなんか、いくら何でも無茶だろう。斯様にユルユルの設定なので、秘密がバレるかバレないかのサスペンスはとても弱い。しかし、ある意味この脱力感が良いのだ。観客に必要以上のプレッシャーを与えない、昔のプログラム・ピクチュアを観ているような気楽さがある。

 さらにストーリーを“老人の生き甲斐探し”に収斂させるあたり、高年齢層を狙ったマーケティングも期待出来よう。矢口監督としても、毎回入念な題材の作り込みを実行するのはキツいので、このレベルの作品をコンスタントにリリースすることによって作家活動をスムーズに進める上でのプラスにもなると考えられる。

 とはいえ、日本全国の有名ロボットが集結する場面や、ロボット工学のウンチクを披露するあたりは、決してネタの掘り下げに手を抜いていないことを示している。ギャグの振り方も万全だ。

 主演の五十嵐信次郎(ミッキー・カーティス)は好演で、スティクスの大ヒット曲「Mr.ROBOT」をカバーしているのも嬉しい。ヒロイン役の吉高由里子はノンシャランな魅力を発揮。コメディエンヌとしての実績を積み上げている。矢口監督は彼女をはじめ綾瀬はるかや上野樹里、西田尚美といった天然系の女優が大好きのようだ。北九州市を中心としたロケ地の風景も効果的で、観て損のない佳作といえよう。
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アナログレコードの優秀録音盤。

2012-01-21 06:56:58 | 音楽ネタ
 手持ちのアナログレコードの優秀録音盤を紹介したい。まずは往年の人気オーディオ評論家・長岡鉄男が“ナンバーワンの名録音”と絶賛していた、アメリカの作曲家ジョージ・クラムの「魅入られた風景」と、同じくアメリカの作曲家ウィリアム・シューマンの「ホルンとオーケストラのための3つの会話」とのカップリング盤(レーベルは米国NEW WORLD)。演奏はニューヨーク・フィルハーモニックで、指揮は前者がアーサー・ワイズバーグ、後者がズビン・メータである。



 両方とも現代音楽に分類される楽曲だが、聴く者の神経を逆撫でするような晦渋さは希薄。音色の美しさでじっくりと聴かせる佳曲である。録音の面で注目されるのが「魅入られた風景」の方で、深々とした音場とどこまでも伸びる高域が異次元の音楽空間を創出。曲自体は決して力任せに押しまくるものではなく、静かな展開が目立つ。しかし、時折挿入される強奏場面は目がくらむほどの高揚感があり、双方の対比が鮮やかなコントラストを生み出すと共に、広大なダイナミック・レンジを体感できる。

 一方のW・シューマンの作品も好録音なのだが、やはりこのディスクのメインはクラムのナンバーだと思う。ジャケットのデザインも重々しくて存在感がある。アナログレコードは入手困難だが、CDは出ているので興味のある向きはディーラーの在庫を確認してみるのもいいだろう。

 次に挙げたいのが、フィンランドの現代音楽作曲家の作品。エイノユハニ・ラウタヴァーラの「黄昏の天使」とウスコ・メリライネンの「コントラバスと打楽器のための協奏曲」が収められたディスクだ。どちらもコントラバスをフィーチャーした楽曲で、ベルリン・フィル八重奏団のメンバーでもあるエスコ・ライネが妙技を披露している。指揮はレイフ・セーゲルスタム、オーケストラはフィンランド放送交響楽団。



 どちらもマイナーな曲だが、コントラバスと管弦楽団との絡みをスリリングに表現した興味深いナンバーで、とにかくその絶妙の掛け合いに聴き入ってしまう。現代音楽といっても不協和音を必要以上にガナり立てるような展開ではないので、安心して対峙できる。録音面では横方向に広がる音場に立体的なコントラバスの音像がズシリと乗っかるという案配で、オーディオシステムの低音制動力が試されるソフトだ。

 このレコードはフィンランドのFINLANDIAレーベルからリリースされているが、同レーベルのジャケットのデザインはどれも清涼なタッチで味がある。録音も寒色系をメインにしているようで、フランスやイタリアのレーベルとは趣が違っていて興味深い。

 最後に紹介するのが、オーディオファンならば誰でも知っている優秀録音、エリック・カンゼル指揮シンシナティ交響楽団によるチャイコフスキーの「序曲1812年」だ(レーベルは米国TELARC)。このディスクには他にイタリア奇想曲なんかも入っているのだが、はっきり言ってそれらはどうでもいい。「序曲1812年」の終盤の大砲の音を聴くためのソフトである。



 さらに言えば、演奏自体も大したことはない。この曲は有名なので数多くの音楽家が吹き込んでいるのだが、このカンゼル盤より優れたパフォーマンスはいくらでもある。大砲の音を除けば存在価値すらない。しかし、それだけこのカノン砲の実音はインパクトがある。盤面を見るとレコードの溝が何かの冗談じゃないかと思うほど左右に波打っており、当然のことながらプレーヤーの調整がイマイチだとレコード針が飛び上がってしまって上手く再生できない。大砲の音圧をシッカリと再現するのは簡単ではないが、それだけオーディオファンにとっては挑戦する価値のあるディスクといえよう。

 アナログレコードが音楽ソフトの主役の座を降りてから30年近くが経とうとしているが、今でもしぶとく生き残っている。それどころかアナログの持つ独特の味わいを求めて、新たな愛好家も獲得しているという。プレーヤーやカートリッジの新製品発表が途絶えることもない。少なくとも以上挙げたディスクの音はCDとは一線を画するものだと思う。これからも末永く付き合いたいものだ。
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「リアル・スティール」

2012-01-20 06:27:02 | 映画の感想(ら行)

 (原題:REAL STEEL)設定に不自然な部分がかなりあって序盤はドラマに入り込めなかったが、父と子の絆を描く古典的なプロットを愚直なまでに遵守していることが分かってからは、それほど違和感なく観ることが出来た。見せ場もそこそこあって、最後まであまり退屈することなく付き合える。

 2020年、リングの上で戦うのは生身の人間ではなく格闘専用のロボット達であった。そうなった理由が、観客がより暴力的なものを求めるようになったからだ・・・・と主人公のチャーリーは説明するが、それはウソっぽい。百歩譲ってロボット格闘技が市民権を得るような世の中になったとしても、チャーリーのような従来のボクサーがすべて“失業”してしまう事態は考えられない。鍛え上げられた人間の技を堪能するという名目の興行は、ちゃんと平行して存在し続けるはずだ。

 また、ロボット格闘技がマイナーな場やアンダーグラウンドの舞台にも広がっているのは良いとして、それらの出場者が最高のステージである正式機関“WRC”主催の試合にどうやってエントリーできるのか、その説明もない。在野の強い奴をランダムに拾っていくだけならば、システムとしての権威も成立しないはずだ。ここはもっと突っ込んだ背景描写が必要だった。

 さらに、チャーリーと10年ぶりの再会を果たす11歳の息子マックスが廃棄処理場で見つけたロボットのATOMを格闘用としてブラッシュアップしてゆく過程が映画のかなりの部分を占めるが、そもそもいくらゴミ捨て場にあったロボットとはいえ、処理場に不法侵入して勝手に“盗んで”きたことには間違いない。そのあたりエクスキューズも挿入して欲しかった。

 チャーリーの凡夫ぶりも気になるところで、後先考えずに行動し結果として貧乏くじを引いてしまうパターンの繰り返しでは、感情移入するにも無理が出てくる。ところが、これらの不満点も“ダメな中年男と利発な子供”という昔ながらの鉄壁の設定を用意し、彼らが理解し合って頑張り、大舞台で活躍するという黄金律みたいな筋書きを貫いた結果、さほど気にならなくなる。映画というのは、これだから面白い。

 ロボット同士のファイトは文字通りメカニカルで素早く、動きが追えない部分もあるが(笑)、某「トランスフォーマー」みたいに何が何だか分からないような無茶な画面構築はしていない。見慣れればかなり盛り上がる。各ロボットには“個性”がちゃんと付与されており、得意技等の設定も妥当だ。

 主演のヒュー・ジャックマンは肉体改造の成果が上がっており、ボクサー役がサマになっている。そして子役のダコタ・ゴヨが上手い。これからの出演作も期待できる逸材だ。ショーン・レヴィの演出は才気走ったところはないものの、ダレることなく的確にドラマを進めていて好感が持てる。ダニー・エルフマンの音楽も良いが、印象的だったのはマウロ・フィオーレのカメラによる奥深い映像。濃いめで暖色系のシッカリとした絵作りで、作品に重量感を与えていた。
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G.T.Soundのスピーカーを試聴した。(その2)

2012-01-19 17:49:35 | プア・オーディオへの招待
 このメーカーのスピーカー作りの方向性は、徹底した高剛性である。今回試聴したSFS-2B7も一本120kgという重量級。エンクロージャー(筐体)自体が共鳴することを出来るだけ抑え、ユニット自体のパフォーマンスを発揮させようという方法論だ。以前試聴したKISO ACOUSTIC(キソ・アコースティック)のスピーカーのように、エンクロージャーごと盛大に共鳴させてその共鳴音もサウンドの一部として構成させるようなやり方とは正反対。いわば“昔ながら”の方法を踏襲している。

 また、同社は(低音部、高音部などの)スピーカーユニットごとの販売も行っており、最終的にはユニットごとに別々のアンプで駆動する“マルチシステム”をも提案しているようだ。これも昔のマニアが目指したような方法論である。



 このようにG.T.Soundの製品作りのコンセプトは“古い”とも言えるのだが、だからといって出てくる音もアナクロかというと、このSFS-2B7という新製品を聴く限りにおいては全然そうではない。これ見よがしなケレンを抑えた自然でフラットな音の出方、しかも高解像度でハイスピードである。海外の有名ブランドと比肩しうる実力機だと思う。ただし“マルチシステム”の要素を取り入れた製品展開は、マーケティング面ではどうなのかという課題もあるだろう。

 さて、今回印象的だったのが、この大型で高価なスピーカーを駆動していたのが、ACCUPHASEのE-560という定価60万円ほどのプリメイン型であった点だ。 E-560も値の張る商品には違いないが、420万円もするスピーカーに対してはあまりに非力のように思える。ところが実際聴いてみるとさほど違和感はない。十分楽しく聴ける。

 社長の話によると、本当にスピーカーが上質のものならば、繋ぐアンプを選ばないのが当たり前なのだという。最近はスピーカーの能率(アンプの出力に対して得られる音圧の割合)があまりにも低くなり、大きな駆動力を持ったアンプで無理矢理にドライヴさせるという方式がまかり通っているが、これは本来間違いであるということらしい。これには私も同意したい。

 確かにG.T.Soundのスピーカーの能率は高い。オーディオシステムの音の方向性を決定するのはスピーカーだから、気に入ったスピーカーを鳴らすためにアンプ側に多大な負担を強いるのは筋違いだろう。スピーカーの値段の二倍も三倍も高価なアンプを持ってこないと上手く鳴らないというのは、あまり愉快な気分になれない。ユーザーに余計なプレッシャーを掛けるスピーカーの低能率指向など、個人的には蹴飛ばしてしまいたい(爆)。

 あと、主宰者からは他の大手メーカーの音作りに対する批判も数多く聞けたが、それが正しいかどうかはともかく、信念を持ってオーディオ作りに邁進している人間の意見というのは聞いていて楽しいものだ。その意味でも今回の試聴会は有意義であった。

(この項おわり)
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