元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ゲティ家の身代金」

2018-06-30 06:38:17 | 映画の感想(か行)

 (原題:ALL THE MONEY IN THE WORLD)話自体は大して面白くないが、キャストの存在感により何とか最後まで見せきったという感じだ。リドリー・スコット監督としても、近年は凡作・駄作の連打であったが久々に“語るに足る映画”を手掛けたと言えよう。

 73年7月。当時の世界一の大富豪である石油王のジャン・ポール・ゲティの17歳の孫ポールが、ローマで誘拐される。犯人グループからは1700万ドルという破格の身代金が要求されるが、稀代の守銭奴でもあるゲティはビタ一文払う気は無かった。ポールの母ゲイルは当時すでにゲティの息子とは離婚していたが、何とか人質を取り戻そうと、犯人とゲティ家の両方を相手に奮闘する。

 警察は犯人達の身元を割り出し、アジトを急襲するもののポールはすでにマフィアに“売られて”いた。ポールの状況がさらに危なくなってきたことが分かると、さすがのゲティも重い腰を上げようとするのだが、それでも身代金を満額出すことは考えていない。実際にローマで起きたゲティ3世誘拐事件を描いた、ジョン・ピアースンによるノンフィクション小説の映画化だ。

 物語はゲイル(ミシェル・ウィリアムズ)とゲティに雇われた元CIAの交渉人チェイス(マーク・ウォールバーグ)を中心に展開するのだが、この2人の造型が不十分だ。ゲイルはゲティ家を離れた後、どういう境遇に置かれているのか分からない。思わせぶりに登場するチェイスも、目立った活躍はしていない。

 そもそも、犯人を検挙するはずの警察が(具体的な説明も無いまま)ほとんど機能していないので、ゲイルとゲティがバタバタと走り回っても進展しているようには見えないのは辛い。

 しかし、そんなマイナス要因を吹き飛ばしてしまうのが、ゲティのキャラクター設定だ。よく“金持ちほどケチだ”と言われるが、彼はその最たるもので、何しろ身代金を値切った挙げ句にそれが控除の対象になるかどうかを大いに気にする始末なのだ。演じるクリストファー・プラマーのパフォーマンスは最高で、煮ても焼いても食えないクソジジイぶりを実に楽しそうに演じる。

 さらに、ポールに扮する新鋭チャーリー・プラマーもけっこう逸材だ。ルックスの良さも相まって、今後は人気を博すことだろう。ティモシー・ハットンやロマン・デュリスといった脇の面子も良い。

 派手なアクションや切迫するサスペンスが入り込む余地が無い実話を元にしているせいもあり、リドリー・スコットの演出は歯切れが良くない。また、画面がやたら暗いのにも閉口した。重厚感を出そうとしたのかもしれないが、登場人物の表情もよく分からず、これでは逆効果だ。キャスティング以外に興味を惹かれたのは、当時のマスコミの狂騒ぶり。暴徒と見まごうばかりの傍若無人な振る舞いに、驚き呆れるばかりだ。これも時代考証が上手くいっている証左なのだろうか。
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「パッセンジャー57」

2018-06-29 06:32:25 | 映画の感想(は行)

 (原題:PASSENGER 57)92年作品。確かこの作品は、地方ではスティーヴン・セガール主演の“アクション大作”「沈黙の戦艦」(92年)との同時上映で公開されているが、結果としてはセガール御大の俺様映画よりも数段楽しめた。しかも、上映時間が84分という思い切りの良さ。活劇映画はかくありたい。

 凶悪なテロリストであるチャールズ・レインが、とうとうFBIに拘束される。ロスアンジェルスで行われる裁判のために旅客機で護送されることになったレインだが、密かに乗り込んでいた仲間と共に飛行機をハイジャックする。たまたまその機に搭乗していた航空会社のテロ対策専門官のジョン・カッターは、レイン達に敢然と戦いを挑む。

 狭い機内でのアクションは、乗っている飛行機自体のスピード感もあって淀みなく進む。途中、ジョンが燃料を抜いたため機は着陸を余儀なくされ、一度は地上でのバトルに移行するが、終盤近くに再び舞台が機内に移る。この三部構成は、作劇にメリハリを付ける意味では効果的だ。

 ジョンのキャラクター設定も万全で、かつては“その筋”のプロだったが、妻を事件で失ってからは第一線を退いている。それが偶然にも遭遇した緊急事態によって、昔の血が騒いで戦いに身を投じるという段取りが無理なく表現されている。

 ジョンに扮するウェズリー・スナイプスはさすがの身体能力を発揮し、無茶なシチュエーションで大立ち回りをやらかしても違和感のない造形だ(特に、滑走中の飛行機に車で追いつき、飛び移るシーンは出色)。敵役のブルース・ペインのふてぶてしさも良い。監督のケヴィン・フックスは航空映画にありがちな合成などを極力排し、即物的なリアル感を狙っているのは好感が持てる。

 そして、何より印象的だったのがスタンリー・クラークによる音楽だ。世界的なベース奏者でグラミー賞も獲得している彼だが、ここではノリの良いファンク的なアプローチで大いに盛り上がる。機会があれば、また映画音楽を担当してほしいものだ。
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「ファントム・スレッド」

2018-06-25 06:18:15 | 映画の感想(は行)

 (原題:PHANTOM THREAD)前半まではまあまあ面白いのだが、後半は完全に腰砕け。結果としては明らかな失敗作だ。これはひとえに、作者が各キャラクターの造型に失敗していることを示している。主演のダニエル・デイ=ルイスも、こんな作品を最後に“引退宣言”してほしくはない。

 1950年代のロンドン。オートクチュールの仕立屋レイノルズ・ウッドコックは、その卓越した技量と美的センスで社交界にその名を轟かせていた。ある日、レイノルズは旅行先のレストランで若いウェイトレスのアルマに出会う。アルマのプロポーションはレイノルズの理想と合致しており、早速彼は彼女を自身の自宅兼ファッション工房に招き入れる。アルマは当然のことながらレイノルズに好かれたものだと思っていたが、彼の方は彼女を仕事上のインスピレーションの源泉ではあるものの、あくまでスタッフの一人としか見ていなかった。我慢が出来なくなったアルマは、無謀な行動に出る。

 レイノルズの日常と信条を淡々と描いた前半は興味深い。彼は仕事に対して、強迫観念的とも思えるディテールの整合を要求する。私生活でも食事の作法をはじめ、すべてが完璧で規律的に追い込まなければ気が済まない。自身がその外観に惚れ込んで連れてきたアルマに対しても、余計な言動を一切許さない。

 また彼は並外れたマザコンであり、幼い頃に死に別れた母親の面影を今でも引きずっている。さらにはビジネスを取り仕切っている姉に対しても複雑な感情を抱いており、つまりはシスコンでもある。こういう屈折した人物像を演じさせるとデイ=ルイスは実に上手い。もちろん、彼の持ち味である優雅な身のこなしは健在だ。

 しかし、中盤でアルマが無茶なマネをしてレイノルズは大ピンチに見舞われてしまうのだが、それが一段落した後は、何とそれまでの展開を完全に無視するかのような主人公像の“コペルニクス的転回”(?)が炸裂し、観る側を大いに呆れさせる。あとはレイノルズとアルマの、どうでもいいようなアバンチュールがダラダラと続き、果ては二度目の“無茶なマネ”が現出するに及び、鑑賞意欲は地に落ちる。

 この2人の振る舞いに対してレイノルズの姉が大きく関与してこないのは不満だし、主人公のマザコンぶりも後半には取って付けたようになる。さらに悪いことに、アルマ役のヴィッキー・クリープスは少しも魅力的ではない。有り体に言えば、ブスである。しかも、この容姿の冴えない女がどうしてレイノルズのお眼鏡に適ったのか、映画は少しも具体的には示していない。

 ポール・トーマス・アンダーソンの演出はたどたどしいが、マーク・ブリッジスによる見事な衣装デザインと、ジョニー・グリーンウッドの流麗な音楽の助けによって前半は何とか持ち堪える。だが、中盤からは完全に破綻。見終わって出てくるのはタメ息だけだ。なお、エンドクレジットの最後に“ジョナサン・デミに捧ぐ”とのフレーズが挿入されているが、どう考えても、あまり意味のあることだとは思えない。
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「エンゼル・ハート」

2018-06-24 06:58:22 | 映画の感想(あ行)
 (原題:ANGEL HEART )87年作品。ダークな雰囲気は捨て難いが、全体的にはピンと来ない部分が大きく、印象に残るシャシンとは言えない。アラン・パーカー監督作品は当たり外れが大きく、正直言って本作は“ハズレ”に分類されると思う。

 1955年のブルックリン。私立探偵のハリー・エンゼルは、弁護士のワインサップを通じてルイ・サイファーと名乗る謎の男から人探しを頼まれる。サイファーの依頼は、戦前に人気があった歌手のジョニー・フェイバリットの消息だ。ジョニーは従軍後に神経を病んで、精神病院に入院していたらしいが、それから行方が分からなくなっているという。



 早速ハリーは件の病院を訪ねるが、ジョニーの転院の記録はあるものの、内容はとても信用できるものではなかった。そこで担当だったファウラー医師との接触を試みるが、医師は金と引き換えにジョニーを素性の分からない連中に引き渡したことを白状する。やがてハリーの身の回りの者たちが次々と謎の死を遂げるに及び、彼は得体のしれない事件に巻き込まれていることを察知する。ウィリアム・ヒョーツバーグの小説「堕ちる天使」(私は未読)の映画化だ。

 薄暗い画面の中を、怪しい人物たちが跳梁跋扈するばかりで、盛り上がりに欠ける。ブードゥー教の秘密の儀式などという、思わせぶりなモチーフも芸も無く出てくる始末。そもそも、ルイ・サイファーというのはルシファーを示していることは明白で、これはサスペンス・ドラマではなく、完全なオカルトものだ。

 まあ、神と悪魔との相克をヴィヴィッドに描けばキリスト教圏の観客はインパクトを受けるのだろうが、こちらとしては何の感慨もない。ラストのオチは弱く、しかも勘の良い映画ファンならば中盤付近で読めてしまう。

 ハリーを演じるミッキー・ロークは当時人気絶頂だったが、こういう“他者から振り回される”ような役柄は似合わない。サイファーに扮するロバート・デ・ニーロは存在感こそあるが、大して“活躍”していない。あと、占い師を演じるシャーロット・ランプリングの使い方はもったいなかった。マイケル・セラシンによる撮影とトレヴァー・ジョーンズの音楽は良かったが、それだけでは映画を評価するわけにはいかない。
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「レディ・バード」

2018-06-23 06:27:46 | 映画の感想(ら行)

 (原題:LADY BIRD )あまりにも“普通の映画”なので面食らってしまった。ならば別に観なくても良い映画だとも言えるのだが、アカデミー賞にノミネートされ、他にもいくつかアワードを獲得しているのであえてチェックした次第。ただ、上映時間が1時間半程度と短いので、そこは評価出来よう(世の中には無駄に長い映画が多すぎる ^^;)。

 2002年、カリフォルニア州サクラメントのカトリック系高校に通うクリスティンは、自分を“レディ・バード”と名付けて周りにも呼ばせている少し変わった女生徒だ。彼女は母親との仲が上手くいかないせいもあり、この田舎町から抜け出して東部の大学に進学することを希望していた。母親は地元の大学に行かせたいのだが、クリスティンは密かに父親に希望の大学に入るための助成金の申請書を頼んでいた。

 ある日彼女は親友ジュリーと一緒に受けたミュージカルのオーディションで、ダニーと出会う。優しい彼を好きになった彼女だが、実はダニーは同性愛者だった。次にクリスティンが好意を持ったのは、バンドのメンバーであるカイルだった。やがて彼女はカイルと同じ人気者グループのジェナと一緒に行動するようになり、ジュリーとは疎遠になる。卒業の日が近付いた頃、東部の大学から補欠合格の通知が届く。だが、そのことでまたクリスティンは母親と衝突するのであった。

 ヒロインが通う高校の様子こそ興味深いが、母親との確執や、友人およびボーイフレンドとの関係性などには大して新味は感じられない。これより厳しくて身につまされる青春映画は過去にいくつもあったし、本作が持つアドバンテージは大きくはない。そもそも主人公が勝手に“レディ・バード”と名乗っているという前提には説得力は無く、そのことが終盤の展開の伏線になっていることは分かるものの、必然性が感じられないのは辛い。

 彼女の兄は養子であり、その恋人も同居しており、また父親はパッと見た感じは祖父ではないかと思うほど年を取っている。そのちょっと変わった家庭環境を突っ込んで描いた方が面白くなったかもしれない。

 グレタ・ガーウィグの演出は前作「20センチュリー・ウーマン」(2016年)よりは幾分滑らかになったが、それでも平板で凡庸だ。上映中は眠気をこらえるのに苦労した。70年代っぽい粒子の粗い画面も、さほど効果的だとは思えない。

 主演のシアーシャ・ローナンは「ブルックリン」(2015年)の頃に比べれば少し垢抜けてはいるものの、やっぱりルックスが私の好みではない(笑)。加えて、高校生を演じるには容貌が老けている(再笑)。母親役のローリー・メトカーフは良かったが、あとは印象が薄い。“イケメン枠”で登場のティモシー・シャラメもあまりクローズアップされていない有様だ。

 それにしても、こういう“普通の映画”が候補作になるとは、今年(第90回)のアカデミー賞のレベルは高くはないことを、改めて実感した。
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中村文則「教団X」

2018-06-22 06:30:45 | 読書感想文
 芥川賞作家である中村文則の作品は、過去に「銃」と「掏摸<スリ>」を読んだことがあるが、大して印象にも残っていない(恥ずかしながら、今となってはストーリーさえ忘却の彼方だ ^^;)。それでも2014年に発表された本書は評判が良かったので、文庫化を機に手に取ってみた次第。しかし、結果として“やっぱりこの作家の本は肌に合わない”という認識を新たにしただけだった。

 主人公の楢崎の交際相手であった立花が、突如として彼の前から消える。彼女を探してたどり着いたのが、松尾という謎の男が主宰する宗教団体だった。もっとも、そこは決して怪しい組織ではなく、単なる親睦会のようなものである。スタッフの話によると、立花は確かにここに所属していたが、本当は別の教団のメンバーで、松尾の団体を攪乱した後に失踪したらしい。楢崎は真相を突き止めるべく、立花が属しているその組織“教団X”に乗り込んでゆく。



 ストーリー設定だけをチェックすると、新興宗教の内実と、そこに集う人々の内面の屈託をヴィヴィッドに描いた小説なのだろうと予想してしまう。だが、実際はまるで異なる。

 600ページにも及ぶ本書のかなりの割合を、松尾による量子力学がどうのこうのとか、神の存在が何だとか、宇宙論がどうしたとか、そんなレクチャーで占められている。しかも、それらが面白いのかというと、断じてそうではない。手前勝手に合点したウンチク(らしきもの)を得々と披露しているだけで、物語に大きく絡んでくることはない。

 “いや、これは娯楽小説ではなく純文学のテイストが濃いので、こういう登場人物のモノローグめいた記述が多いのは当然だ”とする意見があるのかもしれないが、それにしては“教団X”およびその関係者が引き起こす事件は犯罪小説のモチーフそのものであり、純文学とは相容れないと思われる。一方で、長いばかりでちっともエロティックではない性描写が挿入されるのも興趣が削がれる。

 後半は何やら大々的なカタストロフが起こりそうな前振りが成されるにも関わらず、結局は尻すぼみで、取って付けたように終盤では“共生の重要性”らしきものを説いてくるのは鼻白むしかない。登場人物は皆魅力に乏しく、途中で誰がどうなろうと知ったことではない気分になる。文章にはキレもコクもなく、冗長そのもの。しっかりと書けばこの半分以下のページに収まっただろう。正直、最後まで読んで後悔した。
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「モリーズ・ゲーム」

2018-06-18 06:27:33 | 映画の感想(ま行)

 (原題:MOLLY'S GAME)食い足りない部分はあるが、とにかくジェシカ・チャステイン扮するヒロインの存在感が圧倒的で、それだけで入場料のモトを取った気にさせてくれる。これが実話を元にしているというのも驚きで、まさに世の中にはいろいろな生き方があるものだと、改めて感じ入った。

 2002年の冬季オリンピックにおける女子モーグルの北米予選。ランキング3位のモリー・ブルームは、満を持して試合に臨むが、スキー板が松の枝にぶつかって外れてしまい、転倒して重傷を負う。それによって競技から引退せざるを得なくなった彼女は、ロスアンジェルスで休養中にバイト先の支配人からポーカー・ゲームのアシスタントを頼まれる。軽い気持ちで引き受けたモリーだが、そこは各界の有名人が密かに集まり大金が飛び交う“闇ポーカー”の世界だった。

 彼女は驚きつつもそのシステムに興味を持つのだが、ある日突然解雇されてしまう。そこでモリーはそこで吸収したノウハウを元に、今度はニューヨークで自前の賭場を持つに至る。だが2012年に突然FBIに踏み込まれ、違法賭博の罪で逮捕。彼女は何人もの弁護士に断られた末、法廷では有能だが気難しいチャーリー・ジャフィーへの依頼を取り付けることに成功する。

 スポーツに打ち込んでいた主人公が、どうしてギャンブルの世界に入り込んだのか、その具体的根拠が示されていない。また、肝心の裁判のプロセスも分かりやすく説明されていたとは言えない。ポーカーのシーンも各プレーヤーの持ち札が示されることもあるが、単発的かつ短時間で観ていてストレスを感じてしまう。それに、映画で描かれた顛末の後、実際にモリーはどうなったのか一切説明されていないのも不満だ。

 しかしながら、それらが大きな欠点と思えなくなるほど、ヒロインの造型には力が入っている。モリーにあるのは“勝利への執念”だ。それは志半ばで断念せざるを得なかったスキー競技の代替行為としての、心と身体を削るスリリングなゲームとしての賭場の運営である。

 普通、こういうアグレッシヴなヒロインが活躍する映画だと、主人公を公私ともに支える二枚目野郎なんかが登場するものだが、本作では存在しない。モリーに影響を与えた父親も、弁護を引き受けるジャフィーも、対等に主人公とぶつかり合う。また、ポーカーにハマる客の生態の描写に関しても容赦ない。特に、わずかな迷いから負けを喫し、そのまま人生を転落してゆく中年男の扱いなど、観ていて身を切られる思いだ。

 これが第一作となるアーロン・ソーキンの演出はパワフルで、最後まで観客を引きずり回す。チャステインの演技は文句なし。父親役のケヴィン・コスナーやジャフィーに扮するイドリス・エルバのパフォーマンスも万全だ。シャルロッテ・ブルース・クリステンセンのカメラによる寒色系の画調も印象に残る。
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「ノース・ダラス40」

2018-06-17 06:44:38 | 映画の感想(な行)
 (原題:North Dallas Forty)79年作品。某大学のアメフト部の不祥事が最近話題になったが、そこで思い出したのがこの映画だ。NFLの内幕を描き、勝利至上主義に凝り固まったプロスポーツ界を告発する、なかなか骨のあるシャシンである。

 テキサスのプロ・フットボール・チーム“ノース・ダラス・ブルズ”に所属するフィル・エリオットは、この道8年のベテラン選手だが、近ごろは出番が無い。その原因は、ヘッド・コーチの強引なやり方と対立しているからだ。オーナーのコンラッド・ハンターは、自分のチームを優勝させることに執念を燃やしており、コーチや選手が受けるプレッシャーも大きいものになっていた。フィルは以前は嫌々ながらもその方針に従っていたが、新しい恋人との出会いを切っ掛けに、ますますチームと距離を置くようになる。



 しかも彼の身体はすでにボロボロで、活躍の場は限られていた。それでも今シーズンのチームは好調で、いよいよ強豪チームのシカゴ・モロダーズと対決することになる。試合後、オーナーから呼び出された彼は、思わぬ事実を知ることになる。元ダラス・カウボーイズのピータ・ジェントが、73年に発表してベストセラーになった自伝的小説の映画化だ。

 “敵をぶっ殺してでも、1ヤードを奪え!”という掛け声が飛び交う激しい現場とは裏腹に、オーナー側の下世話な事情が選手達を翻弄する。要領の良い者はちゃんとオイシイ思いをするが、上層部の“空気”を読めない生粋のプレーヤーであるフィルのような者は冷や飯を食わされても仕方が無い。痛切なラストシーンは、観ていて身が切られるようだ。

 スポーツ先進国であるはずのアメリカでも斯様な状況が罷り通っていたのだから、ヨソの国は推して知るべしだろう。体育会系というのは、かくも理不尽な世界なのだ。

 テッド・コッチェフの演出は力強く、特に試合のシーンは主人公の目線をトレースした迫力のあるもの。主演のニック・ノルティは体重を20キロ増やした肉体改造をしているせいか、盛りを過ぎたスポーツ選手の佇まいをよく再現していた。マック・デイヴィスやチャールズ・ダーニング、ボー・スヴェンソン、デイル・ハドンといった脇のキャストも万全だ。
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「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」

2018-06-16 06:32:01 | 映画の感想(は行)

 (原題:THE FLORIDA PROJECT )正直なところ上映中は退屈で眠くて、何度も劇場を出ようと思った。しかし、ラストシーンで一気に目が覚める。劇中のダラダラとした展開は、すべてがこの幕切れの“伏線”であったと思えば合点がいく。こういう映画の作り方はいつも成功するとは限らないが、今回は上手くいった部類だろう。

 フロリダのディズニー・ワールドのすぐ近くにある安モーテル“マジック・キャッスル”。6歳の女の子ムーニーは、母親でシングルマザーのヘイリーとそこで暮らしている。ムーニーの遊び相手は、同世代の男の子スクーティと、最近越してきたジャンシーだ。3人はいつも徒党を組んで悪さばかりをしている。モーテルの管理人ボビーはそのたびにムーニー達を叱るが、悪ガキ共は反省している様子は無い。

 仕事が見つからないヘイリーは、ニセの香水を観光客に売りつける等して何とか糊口を凌いでいたが、やがてそれも出来なくなる。ついには“禁じ手”に走る母親の様子が周囲に知られるようになり、地域の児童相談所が介入する事態を招く。

 煌びやかなディズニー・ワールドの裏手には、こういう貧民街に近い状態が展開されている事実に驚かされる。“マジック・キャッスル”は紫色に塗装され、当初は観光客を見込んでいたらしいが、今では安っぽいラブホテルのような有様だ。また、大通り沿いに林立している土産物屋にも、そこはかとなく“場末感”が漂う。まさに、貧富の差が拡大しているアメリカの状況を鮮明に描き出していると言えよう。

 しかし、この興味深い“お膳立て”の中で繰り広げられるドラマは、大して面白くはない。身持ちの悪い女は、やっぱり愚行の繰り返しで、描き方自体は何ら映画的興趣を呼び込む工夫はされていない。ムーニー達のおこないも単にイタズラを芸も無くダラダラと追うだけで、まったく笑えないしカタルシスも無い。中年になってもモーテル管理人の身に甘んじているボビーの屈託を十分表現するにはエピソードが足りない。

 だが、そんなマイナス要因を吹き飛ばすだけのインパクトが、最後のシーンにはある。断っておくが、この場面によって登場人物たちの境遇が劇的に好転するわけではない。それどころか、彼らが認識している“外の世界”の地平が明らかになり、切ない想いをしてしまう。それでも、幼いムーニー達が“ここではない、どこか”の存在を知ることによる感慨がスクリーンに充満し、胸がいっぱいになるのだ。

 ショーン・ベイカーの演出には特段の才気は感じられないが、それでもカラフルな画面造型は強い印象を残す。演技面ではボビー役のウィレム・デフォーが出色。人生をあきらめたような雰囲気と、それでも“宿泊客”達のことが気になって仕方がない面倒見の良さを両立させている。子役は全員達者だが、同時にヘイリーに扮したブリア・ヴィネイトも要注目だと思う。これがデビュー作ながら、蓮っ葉でヤバそうなオーラを発散していて圧巻だ。
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「ハーレム・バレンタインデイ」

2018-06-15 06:22:32 | 映画の感想(は行)
 82年作品。この頃、日本映画界は若手監督の台頭により活況を呈していた。そんな中、長谷川和彦監督が中心となって気鋭の演出家が集結し“日本映画の殻を打ち破る!”という名目で結成された映画会社がディレクターズ・カンパニーである。本作はその第一弾として企画された、ピンク映画三本立てのひとつだ。もっとも、ピンクとはいっても上映は成人映画館ではなく、キャパシティの大きな一般劇場で敢行されたあたり、この会社の気合が感じられる。

 中国とソ連との間で戦争が勃発し、日本も巻き込まれてしまった架空の近未来。戦後復員したイシは、かつての恋人である麗子を捜すため、歓楽街を歩き回っていた。しかし、ようやく見つけた麗子は麗花と名を改め、謎の男アルファが仕切る娼館“チャイナストール”の高級娼婦となっていた。何とかして麗子を連れ出そうとするイシだが、アルファの一味が立ちふさがる。そして“チャイナストール”は大々的なバトルの舞台となり、血の雨が降るのであった。



 監督と脚本を担当しているのは泉谷しげるだ。ミュージシャンとして有名な彼だが、実は映画にも造詣が深く、この他にもいくつかの作品に関わっている。

 正直言って、本作は同じディレクターズ・カンパニーのメンバーであった石井聰亙(現:石井岳龍)監督の演出タッチとよく似ている。ならばかつての石井監督の二番煎じなのかといえば、そうではない。ノイズと幻覚とバイオレンスに溢れた画面こそ共通しているが、泉谷の作風は重量感がない代わりにライトでスタイリッシュだ。もちろん音楽も泉谷自身が担当しており、サイケデリックな色遣いも併せて、軽いトリップ感覚を味わえる(長田勇市によるカメラワークが光る)。

 麗子役の伊藤幸子は決してグラマラスな身体つきではないのだが、絶妙な映像ギミックにより、とてもエロティックに見える。主演の館山イサムの存在感も、なかなかのものだ。石井監督をはじめ、緒方明や阪本順治といった後に有名になる面子がスタッフに加わっているのも面白い。

 なお、ディレクターズ・カンパニーは一定の実績は残したが、しっかりとしたプロデューサーが存在しなかったためか、92年に消滅してしまった。残念なことである。
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