Retrospective...

イラストレーター/ライター遠藤イヅルの困った嗜好をばらす場所

【ナローゲージ】ネムタクの銀龍。

2010-12-10 | ナローゲージに思いを馳せる
軽便鉄道は免許申請の楽さと建設費の安さで、かつて日本中に敷かれていました。

それこそ沖縄から、北海道まで。

これらの軽便鉄道は開業はしたものの
客足も伸びず、本来の施設目的の一つである貨物輸送はトラックにかわり、
やがては旅客輸送もバスやマイカーにシフトするにいたり、次々と姿を消していきました。


どこも経営母体は弱く、経営は大変だったのではないかと思います。
なので、車両も、施設も最小限だったり、自分たちでなんとかしようと
必至になっている姿が、伝わってくるのです
(軽便では相当に早い段階でワンマン運転という概念を持っていたりした)。


で、今日は、表題の「ネムタクの銀龍」の話になるのですが。


「ネムタク」とは、昭和34(1959)年に廃止された、いまもって日本で最東端を走って「いた」軽便鉄道、
根室拓殖鉄道のことです。
根室から歯舞のほうに向かっていました。


他の軽便の例にもれず、劣悪だった道路にかわる交通手段・輸送手段(歯舞の昆布等)として建設されたけれど、
根室半島は酷寒で、積雪は当然のこと塩害などにも悩まされる過酷な環境だったため、
経営は相当に厳しかったであろうと想像できます。


ネムタクは、経営が苦しかったなどという意味では、軽便鉄道の中では、「ふつう」ではあります。
だけど、ネムタクが有名なのは、とてつもないヤツがいたからなのです。


それが「銀龍」号。


なんだこれw


模型ですみません


銀龍号は、正式には単端式気動車で、車両番号はキ1→キハ3。
昭和24(1949)年、北海道では名の高い歴史のあるバスボディメーカー田井自動車工業製だったのだけど、
色々必要になったものを自家製で継ぎ足し継ぎ足ししたら、えらい姿になってしまったのでした。
こんな百鬼夜行のようなデザインでありながら、
なぜか「銀龍号」なる勇猛なネーミングとの激しいギャップがまた、面白い。

幾多軽便鉄道があって、確かに奇妙奇天烈な車両も数あれど、
ここまで風変わりだったため伝説化し、ネムタクの銀龍、としてすっかり有名になってしまったのでした。



銀龍号のもとは、前述のとおり、キ1でした。
キ1は、キャブオーバー型トラック+開放荷台を持った「鉄道用に足回りを変えたトラック」
のような姿で、まあ、さしておかしな車両ではなかったらしい。
銀龍の名前はすでに、キャビン部がジェラルミンで出来ていたためこのトラック時代には
愛称としてついていたようです。

でも、入線して稼動させてみたら、前後の重量バランスが悪かったたか脱線ばかり。
このため、すぐに改造が行われました。
まず、キャビンの前のシャーシを延長してボンネットをつけ、この中に重いエンジンを移動させて重量バランスを良くしようと思ったらしい。


たしかにこれで重量バランスは改善されたのだけど、とってつけたようなボンネット、
適当に組んだようなグリルとあいまって、えもいわれぬかっこ悪さになってしまったのです(涙


このころすでに、ネムタクは本来の目的であった海産物輸送をトラックに奪われていたため(悲しすぎ)、
トラックとして生まれた「銀龍」は製造から7年後、荷台を客室に改造のうえ旅客車、
形式もキハ3となりました。


ここで問題なのが近所の大工が作ったとされる木造の客室がキャビンより高いものだから、
ボンネット-キャビン-客室とだんだんに背が高くなっていくようになって、
不恰好さがさらにアップ(号泣)、
鉄道車両にもクルマにも見えない、すごいスタイルを持つに至ってしまったのでした。



ただでさえ珍妙だった銀龍号は、さらに晩年は色も変えて、ヘッドライトを 2つにしたものだから
さながらナメゴンかカタツムリのような生物的な姿になって、
また伝説を残すことになったのでした...。








>>ネムタクにはほかに、「ちどり」と「かもめ」という旅客車がいました。

>>「かもめ」はご覧のとおりバランスもよく旅客車らしい姿の好ましい2軸単車で、
銀龍号と同じころ、同じところで製造されました。




>>こちらは銀流号と違い、大きな改造も無く、廃止まで走っていたそうです。


>>あれ!画像小さくアップしちゃった!あとで大きいのと差し替えます!
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【ナローゲージ】木曽森林の静態保存車(やまばと号など)を少しめぐる。

2010-10-22 | ナローゲージに思いを馳せる


順番が前後しまくりですが、10月の3連休の木曽旅行の際には、
上松の赤沢森林(ほんとはここにはたくさんあるんだが...それは次回のお楽しみ)、
以外の保存車で見られるものは、可能な限り見てくるようにしました。


まずは。
王滝に向かう途中、中央西線薮原駅近く、「木祖村郷土館木工文化センター」の入り口に
看板も無く突拍子な印象で置かれているモーターカー「No.20」。
昭和25(1950)年酒井製。なんともかわいい。


雨の木曽谷にたたずむ。


昭和25年頃といえば、キャブオーバー型のバスはすでに出ていたと思いますが、
主流はまだボンネットバス、という時代に、こんな箱型のボディを持っていたのは斬新。

それにしてもなんてすばらしいデザインなんだろう(^^:


うしろ。他のモーターカー同様、うしろから乗り降りする仕組み。





車内。張り出したエンジンカバーとマニュアルの長ーいギアが目につく。





惜しむらくは明らかに放置状態なこと。
窓は落ち、車体は錆びてる。
でもよくこの華奢なのりものが、この放置プレイ状態で
この「そこそこ綺麗な状態」で保たれているなあとも思ったり。


先日の「王滝森林フェスティバル」のあと向かったのが
王滝村をさらに山のほうにクネクネと10kmほど奥に向かった「滝越」エリアにある、
水交園(すいこうえん)」にある保存車群。
ちなみにこの水交園、そばが本当においしかったです。
3連休ということもあってか、昼過ぎには売りきれるほどにぎわっていましたよ。
本気でおすすめです。



で、ここには「やまばと号」が保存されてるので、見に行きたかったのです。

「やまばと号」は、道路事情が悪く、森林鉄道が事実上の主要交通機関であった時代の通学専用列車でした。

滝越には王滝小・中学校滝越分校があったそうなのですが、
昭和34(1959)年に王滝村中心部にある王滝村小中学校の本校へ統合されてしまったため、
滝越エリアの子どもたちはこの通学列車「やまばと号」に乗って通学することになりました。
ちなみに滝越~田島(王滝村の中心に近い)間は12km。ここを約1時間かけていたそうです。

滝越エリアにとって、子どもたちの未来を担っていた大切な存在だった「やまばと号」は、
専用機関車(酒井製7t機。無番。王滝村所有だった)とともに、
屋根付きで大切に保存されている...というなんとも温かいお話なのです。





で、やまばと号の客車。かわいらしい青と黄色の2トーン。




昭和34(1959)年、岩崎レール製の客車ですが、それまで(やまばと号以降も)木造だった客車が、
この「やまばと号」だけは車体がスチール製だったそうです。
子どもたちの安全を考えた、とのことで、これもなんだかいい話です。


車内。シートがちっこい。。。
子どもたちはこの客車に揺られて、何を思い、どのように通っていたのでしょうね。





それ以外にも水交園には、

運材台車





関西電力の除雪車
(新潟鉄工製。自走は出来ないので機関車に押してもらう。見ての通りロータリー式。)




No.119 5t機(酒井製)




などが置いてあります。

なおNo.119はトルコン(オートマ)車で、しかもトルコンの製造は岡村。
そう、あの家具の岡村です。
岡村製作所は、なんと昔、ミカサというクルマ(昭和27(1952)年製でトルコンつき!すごい)を製造してましたし、
トルコンといえば岡村、という時代がありました。


これはミカサツーリング

ちなみに「ミカサ」はFFで、エンジンは空冷フラットツインの600CC...で、
さらにこのホイールといえば...何か思い当たるフシが...。



そう!このミカサのもとになったのは、シトロエン2CV。
オカムラは2CVを研究し、ミカサを送りだしたのでした。
たしかに3穴のホイルなんてそっくりですよね。




>>惜しむらくは開田高原に行ったというのに、開田郷土館にあったNo.135+C型客車を
横目で見つつ通過してしまったこと...。
あー。でも次は上松に行くので、そのときに組み合わせてまた見に行く事にしましょう!

>>話が森林鉄道からそれますけど、ミカサにはコマーシャルバンがありました。
その名も、ミカササービスカー(写真右)。
これの窓なし・リブ入り荷室バージョンは2CVのバンにもなんとなく似てます。





>>さらに脱線。オカムラは最近の鉄道車両のシートも作っていたりして、小田急のVSEロマンスカーは同社のものらしい。
でもひとこと言いたい...堅過ぎます



>>ということで何回かにわけた木曽の旅、次回で最終回。
森林鉄道以外の観光(と、C5)のお話です。。。
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【ナローゲージ】第3回王滝森林鉄道フェスティバルに行ってきた!

2010-10-15 | ナローゲージに思いを馳せる


実はまだ大阪編の続きはあるのですが、
イベントモノのUPは早いほうがいいと思いますので、先にあげます
(木曽旅行全体についての記事は、また後日アップします!)。



ということで、先週末の3連休のうちの土日、木曽まで行ってきました。


目的は、長野県には数え切れないほど訪問しているのに、
なぜかほとんど行ったことの無い木曽地方に行って「疲れはてたこころを洗う」ことと、
3年ぶりの開催になる「王滝森林鉄道フェスティバル」に行く事です。



今年の「王滝森林鉄道フェスティバル」は3年目・3回目の開催。
王滝村・松原スポーツ公園内に施設された軌道はしだいに伸び、
今年はなんと往復1.5kmに達したとのこと。
ここを、美しくレストアされた名車(迷車?)・珍車が動くというのですから、
森林鉄道にはあまりくわしくないieですが、
ナロー好きとしては足が向かわないわけにはいきませんでした。
過去2回とも行っていないので、なおさら行きたかったのです。




松原スポーツ公園に到着したのは昼前。
到着してC5を駐車場にいれたとたん、駐車場わきの軌道を結構なスピードで
やってきたのは142号機+このイベントにあわせて復活したB型客車!
ちなみに142号機は昭和54(1979)年北陸重機製。
この記事のトップ画像の機関車です。ライトがギョロリとしていてかわいいですね。





駐車場のあたりがちょうど終点なので、ここで機まわし。
機関車牽引なので、ちゃんとつけかえの施設があるのはすごい。





客車を残し...





機関車はさっきとは逆向きに連結
そして出発!





復活した軌道ではB型客車による体験運転以外にも、
デモとして132号機...昭和35(1960)年酒井製)+ほんもののヒノキを積んだ
運材台車での森林鉄道再現列車が往復!





積んでいるのは、なんでも350年もののヒノキだとか...




メイン会場ではちょっとした物販コーナがあってそばやタコ焼きが食べられたり、
ミニSLがこどもたちを載せてぐるぐるまわっていたり、
別棟では木曽森林鉄道をHOナローで再現(超絶に出来が良い!)したモジュール
が展示されていたり、盛りだくさん。


潜在的に持っている鉄道模型魂に火が付きそうです




さて、松原スポーツ公園の奥には、保存車輛たちの基地と体験試乗ののりばがあります。





そしてここは、さながら百鬼夜行の様相。



モーターカーNo.4 昭和25(1950)年酒井製。エンジンはトヨタのR型OHV。




うしろはハッチ式で乗りこめる。しかしまあのっぺりしたデザイン。
むかしの商用バンそのものの風情。






関西電力のモーターカー。
森林鉄道の王滝線廃止後も、関西電力の専用線はあったようで、人員輸送のために
昭和50年に岩崎レール工業で作られたモダーンなモーターカーで、無番です。


こどもと比べてもいかに小さいかわかるかと思います


ショッキングなほどにかわいいうしろ姿。これはイイ。。。ドアに開けられた丸い目玉。
なんでこんなデザインが出来るんだ(驚愕






今回のフェスティバルに合わせて復活したもう1両の目玉、モーターカーNo.14。
昭和27(1952)年酒井製。トラックのような武骨なデザイン。



エンジンはなんとプリンスG1型だそうです!うひょー!
2代目スカイラインに積んでいた「封印」エンジン。
でも、スカイラインのほうがずっとあとの登場なので、エンジンは換装されたと考えるべきか。



大集合w
すごい光景。ちっこいけど、みんな立派な鉄道車両。






そしてこのちっこいモーターカーたちも、続行運転でw保存線を走り始めました。




No.4。





関電モーターカー。




そしてNo.14。消音機の無い派手で武骨なエンジンサウンドを響かせて走り去ります。
しかもプリンスのエンジンだ!





やはり「本物が動いている」という衝撃はすごい。
ほんとにほんとにすごい!

家が近かったら、すこし経済的に余裕があったら、
こういう運動に参加してみたい。。。
これは、素晴らしく社会的意義のある運動ではないかと思います。

そして、これら保存車輛を、村の大切な歴史として保存し、フェスティバルを開き、
きちんと活動している王滝村も素晴らしい。


D51やSLも好きですし、素晴らしい文化遺産。
でも、軽便鉄道もまた、時代を映す鏡。
小さい車輛たちがこうして遺されていく素晴らしさ。
人を荷物を運んだ、産業を支えた大切な輸送機関だったのですものね。


最後に、木曽森林鉄道についてかんたんに説明...

木曽といえば、ヒノキを代表とする林業がさかんなところです。
森林鉄道は、伐採した木を運ぶために作られた鉄道で、
wikiをそのまま引用しますと、
「林野庁長野営林局管内の長野県の木曾谷の国有林の運材のため運行していた森林鉄道の通称である。
木曾谷には最盛期に10営林署が存在し、各署が1,2線の森林鉄道を保有していた。
中でも上松運輸営林署管内の小川森林鉄道と王滝森林鉄道は規模も大きく、
かつ比較的最近まで残っていたことから全国の森林鉄道の中でも高い知名度を誇っている。
最盛期には、路線の総延長は400Kmにものぼっていた。
しかし、道路が整備されてトラックが木材の輸送を担うようになってから姿を消していった。」

とあるように、かつては木材運送の重要な手段だったのです。


ですが、他の中小私鉄、貨物輸送と同様に、
道路の整備が進み、バス・トラックでの輸送に切り替わったことで、
木曽の森林鉄道は、昭和50(1975)年を最後に、廃止されることになりました。


木曽界隈には、昭和60(1985)年から赤沢自然休養林で森林鉄道が観光用として復活していましたが、
それ以外にも、「りんてつ倶楽部」が車輛の保存・運転活動を長年にわたりおこなっており、
今回の復活運転をはじめとして、木曽森林鉄道の保存活動に尽力されています。





>>このあとは森林鉄道の保存車を廻ったりしつつ、帰宅しました。
保存車のことは、別途記事にしたいと思います。

>>なんだかんだで、動いているナローめぐりも、結構行っていますね(嬉
こうなると丸瀬布のSLは必須ですねえ...。北海道は遠いなあ。
保存車もまだまだ見ていないのがいっぱい。楽しみは続きそうです。
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【ナローゲージ】鉄道文化むらのナロー遊覧列車「あぷとくん」。

2010-04-28 | ナローゲージに思いを馳せる


ちょっと古い去年の1月に行った話で恐縮ですが、
かつての横軽越えの基地であった横川機関区の跡地に立っている「碓氷峠鉄道文化むら」に行ってきました。


好きな車両も数多く保存してあって、紹介し出すときりが無いので、
今日はここを走るナローゲージの遊覧列車、「あぷとくん」の記事にいたします(^^;


「あぷとくん」は鉄道文化むら内をエンドレスに周回するレイアウトを走行する遊覧列車です。
そのレールのゲージは、610mm。俗にいう、2フィート軌道です。
この「ナローゲージ」のコーナーでは、日本の主な軌道幅1067mm以下をナローとしていますが、
それでも多くは762mm(30インチ=2フィート6インチ=「ニブロク」)で、
610mmのゲージを持っていた営業用鉄道はあまり多くは無かったのではないでしょうか。


「あぷとくん」は、SLもしくはDL+客車3両編成になっています。エンドレスなので機関車の機回しはいりません。
3両の客車はそれぞれ「赤城」「榛名」「妙義」で、群馬県の山々にちなんだ名前が付けられています。
さすがに小さいのですが、ちゃんとボギー台車を持っていたり、なかなかの本格派です。





これらを牽引する機関車は、前述の通りSL+DLなのですが、どうもオフシーズン時にはSLではなくDL牽引になってしまうようで、
行ったこの日はDLでした。
でも個人的にはナローDLに牽引されているだけで十分楽しめました(^^;




このDL、見た目はクラシカルですが、実は鉄道文化むら開園当時に北陸重機で製造された新しい車両です。




デザインモチーフは碓氷峠電化時に導入された国鉄EC40です。
ロッド式なのが妙に嬉しいですね。心くすぐられます。
カプラー(連結器)も新解釈の朝顔型っぽいし...。
バッファはダミーのようですが...。まあ仕方ない。


で、SLも鉄道文化むら開園に合わせて1998年製に製造された新しいSLではありますが、
なんとナローゲージ遊覧鉄道の聖地ともいえるイギリス製だけあって、
ちゃんと石炭で走りますし、外観も完全に英国風。うーん、見たかったなあ。




>>鉄道文化むら、おすすめです。鉄道博物館も面白いですが、ここは青空の下、のんびりと往年の名車と触れ合うことが出来ます。
今度は(いつだ^^;)保存車両を紹介したいです...。
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【ナローゲージ】ひさしぶりに内部・八王子線でナローを味わう。

2010-02-15 | ナローゲージに思いを馳せる





だいぶ前の話の続きになりますが、
伊賀鉄道で860系に感動した帰り、青山越えを5800系L/Cカーのクロスシートで堪能したあと
四日市で降りることにしました。




伊勢中川でとなりにいた名古屋行きにのりかえ。お、今度は2610系のL/Cカーだ(萌



四日市といえば「とんてき」...ではなくて、「ナローゲージ鉄」には聖地のような場所(^^;
何しろ日本で唯一ともいえる通常営業のナロー電車が、
生活の一部として走っている最後のエリアなのですものね...。


以前このカテゴリの記事で「三重路のナローゲージ」と称して記事を書きましたが、
執筆からあともここを起点とするナローには乗っておらず、久しぶりの訪問となりました。


ただし、今回は東京へ帰る都合上、北勢線には乗れず、さっと行ってさっと帰れる
内部・八王子(うつべ・はちおうじ)線にちょっとだけ乗ることにしました。





湯の山線の乗り換え駅でもある近鉄四日市は、3面6線の立派な高架ホームですが、
小さな電車たちは高架下から発車します。
なので、乗りかえにはちょっと時間がかかります...。


そういえば何年振りにここに来るんだろう?...車体がレインボーカラーになったのっていつだっけ。

でも車両の面々は変わらず、冷房化もされず。
三岐になって近代化した北勢線との違いですね。




四日市にて。お出迎えは妙に明るい色になった260系。
ホームのお客さんとの対比でナローの電車の小ささって伝わると思います(^^

左のホームから出るのは内部に向かう内部線、
右からは西日野へ向かう八王子線が出ています
(厳密には八王子線は内部線の日永駅から分岐している)ので、わかりやすい。




とりあえずこの電車に乗ろう。
3両編成のうちあえて元モ220系の生き残りである中間車のサ120形を選ぶ。
ナローゲージを近代化すべく登場した昭和57年製のモ260系列に組み込まれてはいるけれど、
サ120のタネ車、モ225は昭和24年製!こりゃまたえらく古い...。
モ220自体は形式消滅したけど、でも車両そのものはまだこうして残っているんですからたまらん。
それに北勢線にも残るク110形などはもと三重交通の電車ですものね。
こういう歴史を知る車両がまだある、というのがすごいです。




その車内。ナローゲージの車両の狭さを感じさせます。





さて、どっちへ行こうと迷いましたがとにかく時間が無いので、短いほうの八王子線へ。日永で降りて、乗ってきた電車を見送ります。
この駅、内部線と八王子線の乗換駅なのですが、八王子線は上の写真で言うところの
右へカーブしていく方向になります。



日永からはあっというまに西日野。
ちょっとだけのナロー・トリップも終了です。
そのまま同じ電車で四日市へ出て、帰りました。





>>西日野駅も全然変わってないな...と思ったら、帰宅後ブログ見てびっくり!
電車のうしろの景色が全然違うじゃん(^o^;






>>三重路のナローゲージの沿線も宅地化が進んでいるんだって思いました~。
まあ下の写真、平成3年とかですので、まあ当然かなあ。
それにしても「生活路線でナロー」って、最高にKoolですわ...(^^;
コメント (6)
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【ナローゲージ】頸城のホジに会いに行ってきました(3)その他車両編

2009-10-31 | ナローゲージに思いを馳せる




さてさて、六甲に保存されていた車両たちはホジ3以外にも多数あります。
そして、頸城鉄道の廃線後、西武鉄道のユネスコ村で一時期走っていたあと
また頸城に戻り大切に保存されていた2号蒸気。

これらの奇跡の大集合で、軽便博物館と呼べるほど充実した車両たちが
百間町の車庫に21世紀に集まっているのですね。




まずは、今回はまだ無火ではあったものの
その状態の良さから復活も検討されているという2号蒸気(SL)。


1914(大正3)年の頸城鉄道開業時に用意されたSLが自重5t機で小さく、
翌1915年にすぐに導入されたという歴史を持つ9t機です。
頸城へ来る前は、なんと国鉄の大井工場の敷地を造成するのに使われていたらしい。
製造はドイツのコッペルで、製造は1911(明治44)年...あと2年で100歳ですな!



美しく輝くコッペルの銘板!


で、次は「まさかの復活」で動態保存化されたディーゼル機関車(DL)のDC92。



DC92の形式数字は、
D=ディーゼル、C=車軸の数(Cは3本をあらわす)、9=自重9t、
2=この前に導入されたDL、DB81に次ぐ2号機を意味します。

1954(昭和29)年協三工業製。協三は産業用機関車などでは有名なメーカーで、
あのディズニーランドのSLもここで新製されたものだったりします。
名義上は1号SLの改造、とのことなのですが車軸以外はほぼ新造です。


検査表記が廃車直前のままなのが泣けます(ToT

復活に当たってはエンジンが再生されたのか、尾小屋のDC121のように載せ換えたのかが
非常に気になりますが、情報が得られていません...。




続いて、ハ6です。




頸城には開業当時にホハ1~5、ホトク1(前述の通りホジ3に改造された)と6両のボギー客車が用意されましたが、
残念ながらホトク1→ホジ3以外は残存していません。
ただし、客車はこれ以外にも2軸客車が何両か在籍していました。
そのうち六甲には2両の2軸客車が保存されていましたが、現在も姿を見ることが出来るのはハ6だけのようです。
もう1両の客車ニフ1は、六甲ですでに朽ち果てていて台枠だけになっており、
頸城に里帰りしているはずなのですが今回姿を確認できなかったです。
さすがに捨ててしまったのか、それともどこかで直しているのか、気になりますね。現役時代は稼働の多い車両だったようで、ぜひ復活を期待したいです。


ハ6は戦後の1949(昭和24)年に購入した旧魚沼鉄道の客車で、さらに元をたどると青梅鉄道で作られたものだそうです。
製造年はわかっていないそうですが、ダブルルーフのオープンデッキ2軸客車の姿は
明治大正期の客車の姿を良く残していて好ましいです(^^;
実際には多客期以外はさして使われていなかったようで、
稼働している写真を見たことがあまりありません。



あとは貨車が3両...いいですよねえ。保存車といえば華のある機関車、動力車が残るのが普通なのに、
ナローゲージの小さい小さい貨車が生き残っているなんて、ほんと嬉しいです。
こういう「あたりまえのふつうのものが残っている」ことにieは萌えるんですよねえ。


ワ7。


中にはホジ3のドライブシャフトらしいものが転がってましたw


1914年開業時に用意された木造有蓋車、ワ1~11の中の1両です。
ワ7はワ10とともに、木の板を鉄板張りに変えた車両でした。
積載量は5t。こんなに小さくても5tも積めるんですね。
動かせるような状態ではないのか、車庫に置かれたままで、動態運転はされませんでした。


ワ14。




ハ6同様、旧魚沼鉄道から来たそうです。積載量は4t。
木の板ボロボロでしたが、木なので張り替えれば直るのではないかなあと素人ながらに考えました。
いつか先の復活運転の際には、ぜひ客車にくっつけてほしいですね。


ト。ト1~6のうちのどれか。無番だったのでどれかわかりません。



何にせよナローの客車や貨車が残っていることことはとっても貴重!
動力車もいいが被牽引側にも弱いieにはたまらない車両たちでした。


このあと、まだまだ百間町ではイベントがあったのですが、
遠方ゆえ帰路につかねばなりません。
パークアヴェニューを運転させていただいたゐぬの師匠にもお礼を述べて、
後ろ髪ひかれる思いで会場を後にしました。

そして廃線跡をたどりつつ、いまでも浦川原駅舎が残るバスターミナルへ行き
直江津に戻って寿司を食べて帰路へ。
夢のような1日でした。



百間町~明治村間に残る築堤。
目を閉じればまぶたの裏に頸城の車両たちが駆け抜けていきます...。



今でも残る旧浦川原駅。頸城鉄道はいま高架になっている後ろのほくほく線の真下を通っていたとの事。


>>百間町を離れる際に撮ったC5さんと車庫、頚城の車両たちとの並びという
感動のショットです(汗


いかにナローの車両が小さいかわかりますよね



>>頸城鉄道の復活はまだまだ夢があるようで、大池いこいの森付近で
もっと長い距離で復活運転を考えているらしい!
そのときはぜひホジ3を復活させてほしい...
そしたら通ってしまうかもしれません!


>>ちなみにこの日デジイチの充電池自体がカメラに入っていないというミス(号泣
をしてしまったのですが、
先般買ったソニエリのサイバーショット携帯(au S001)の性能を信じてそれで撮影。
今回の頸城のブログ記事写真は全部ケータイカメラの画像です。
なんとかなるもんですねえ(^^;
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【ナローゲージ】頸城のホジに会いに行ってきました(2)ホジ3編

2009-10-29 | ナローゲージに思いを馳せる


さて、お目当てのホジ3は、奥の側線に移動したあとからゆっくり見ることが出来ました。


ただ...
村おこし的なイベントなので子供たちの似顔絵はかわいいんですが、
「そのまま」のホジが見たかった自分にはなんとも(涙





でもなにはともあれ
平成も21年になった今日日に、廃止後40年近くたった頸城のホジ3を
ほかの場所...たとえば博物館などではなく、
ゆかりある百間町の車庫で見ることの出来る素晴らしさに感動しました。


ホジ3の「ホジ」は、「ボギー台車」を持つ「ジーゼルカー」の頭文字。
ホジ3が導入される前に頸城にあった「単端(運転台が片方にしか無い車両)」が
ジ1・ジ2だったので、その続番号で「ホジ3」になりました。





ホジ3を人気ものにしているのが、このユーモラスな外観です。

大正14年の開業時に用意された客車のうち、
畳敷きだった特別車両「ホトク1」を自社工場で
昭和7年にエンジンを取り付けて「自動客車」に改造したのがホジ3なのですが、
現在の姿になったのはエンジンをいすゞDA45ディーゼルエンジンに換装したのと同時の昭和26年。

戦後の改造なのに車体はオール木製。唯一乗務員ドアが鉄...。
客ドアは真ん中にぽつんと。左右にデッキがあった客車時代の名残か、
車端の裾だけ下に伸びています。


そしてこの顔...。アンバランスな窓のサイズに、ぽつんと1つだけついた小さな前照灯に、
なぜか半埋め込みのテールランプ。



何もかもが、変わった外観ですよね。
でもそれがナローファンの心をつかみ、神格化された存在にもなりました。


それが目の前にあるんです。
ケイベン野郎になりつつあるieには、夢のような時間でした。



車内がすくころまで待って、ようやく乗りこみました。

すべて木で作られた空間は、やさしくて、まるで落ち着いて過ごせる部屋のようです。
シートの生地も張り替えられています!

そしてゐぬ乃師匠とホジの車内で軽便&クルマ談義...
なんとも濃厚な時間でしたね!




ホジ3といえば車内のど真ん中に堂々とに張り出したこの木箱...
物置台にしか見えないんですが...。





これ、実はエンジンカバーなんですねえ。
エンジンの背が高いので、車内に飛び出てしまってます。
木の板一枚で熱や音を遮蔽していないという大胆さ(^^;
夏は暑かったでしょうねえ...。


鎮座ましますDA45 部本欠品は無いようだが、こりゃあ動くようになるのかなあ(涙



吊革の金具も凝ったデザインですね。ハート形の部品もあります(@^^@





続いてエンジンや足回りを外からチェックです。

90馬力を発生したという、いすゞDA45型エンジン。
だいぶサビサビです。




ドライブシャフトは外されています。
これがつながって、このホジが動いたら嬉しいなあ。





客車用台車を無理やり駆動台車に改造した動台車。
本来はロッドつきだったそうです。
ロッドを外した後の軸がむき出しですね。





従台車。客車用台車そのものの姿です。




いやはや、すごい。ホジ3まじまじ見てきました。夢のようでした。

ここまでこぎつけられたのは、
くびきのお宝のこす会や地元のみなさんの努力のたまものでしょう。
そして、これを長期間にわたり保管していた方、
さらには頸城に返してくださったそのご子息様。
ありがとうございました。


21世紀の奇跡に乾杯。




>>似顔絵を消し、お客さんも極力写らないように撮ってみました。
柿の木が渋すぎる演出です。
現役時代にタイムスリップしたような錯覚を感じました。





コメント (3)
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【ナローゲージ】頸城のホジに会いに行ってきました(1)サプライズ編

2009-10-27 | ナローゲージに思いを馳せる



「頸城のホジに会いに行きたい」というエントリーを書いて早4年。


ついに、その夢をかなえてきました。


10月24日・25日の2日間。これが、頸城の車両たちの今年の公開日。
なにぶん告知の少ないこのイベント、ここ数年逃していたので、
今年は結構前からマークして、くびきのお宝のこす会のHPをこまめにのぞきに行って、
この日を待ちました。



24日夜に仕事を終え、一目散に
ハンドルがぶるぶる震える(涙)C5で関越~上信越道を飛ばして、
廃線跡の脇に立つ(号泣)ビジホにかけこみ、
そして待ちに待った25日。
廃線をたどる道路をひた走り、百間町の会場を目指します!


北四ツ屋駅辺りだと思う


9時のスタートには少し遅れてしまいましたが、到着したらまず
当時の本社と車庫が残っていることに本当に感動。
歴史を大事にする頸城鉄道万歳。
ちなみにクルマで行っても歩いて1分くらいの農協?前が広い駐車場なので
大丈夫でした。


バスの停まっているあたりは駅舎だったはず



そして車庫の前に回ったら、こんな感じになっていました。



旗はなんと木で出来てました(^^


現役時代の車庫からのびる新しく施設された線路には
コッペル製造の2号蒸気+DC92+ホジ3が停まっています。



何が始まるんだ?と思ったら...


DC92がレストアされていて、なんと、動いた!
コッペルは無火なので、それを押す形で。
ホジ3も後ろに牽引されているので、ie的には好きじゃない全動力車編成ですが、
とにもかくにもDC92が復活していたのは本当に驚いた!


そのあと、このSL+DL+自動客車(ホジ)の編成はなんと!
車庫の南側・・・つまり、旧本線あとに施設された(号泣)線路にバックで移動!
無動力の推進回送とはいえ、ホジが動いている姿を目にすることが出来るなんて!





そして入換。目まぐるしく構内を動き回り、今度は一番右の側線へ移動です。



古い建物とのマッチングが最高ですね。



そしてホジ3を切り離し、今度は庫内にいる無蓋車ト(番号不明)と、
旧青梅鉄道→魚沼鉄道と渡り歩いた明治の雰囲気満々の客車ハ6を迎えに行ったのです。



(小さいけど、動画です!右クリックで「新しいタブ」選択してご覧ください)


SL+DLというありえない組み合わせではありますが、
頸城の基本だった「ミキスト」編成の再現。
時速8キロ以下という速度ではあるけど、目の前を頸城の車両が動いている衝撃!



ひえええ、イイ! でも出来れば機関車をどちらか1両にしてくれえ(哀願



その後、このSL+DL+貨車+客車の編成はさきほどと同様に
旧本線ににバックで移動。
そして、また出発していきます。
さきほどの編成とは違い、今度はミキストですから、リアリティは高まりました。
あの当時のように(見たことないけどw)走っていきます!うおおお!


ちなみにコッペルの煙はダミーです でもそれらしく見えるからgood!








>>いやー驚いた。保存だけではなく、まさかのDC92復活。
ieが頸城に来るということでお越しいただいたゐぬ乃師匠も、これにはびっくり。

>>やっぱり、動いているのは凄い。
短い区間、ゆっくりしたスピードだけど、夢のケイベン、マルケーが
目の前を進む姿に感動しました。

>>で。マルケーを見た大興奮記、まだまだ終わりません(汗
ホジ3のこと触れてないじゃん!って感じのエントリーでしたが、
いえいえie、ホジ3には言葉にはできない感動を味わいました。

>>ということで、次回は、
とにかくいちばん会いたかったケイベンの伝説車両・ホジ3との
邂逅をお送りします。

>>ゐぬ乃師匠、お越しくださいまして、
ありがとうございました!BUICK公園通り、マジやばいっすね...。
コメント (8)
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【ナローゲージ】尾小屋の車両に会いに行く旅(3)なかよし鉄道大増発その2

2009-05-12 | ナローゲージに思いを馳せる


ということで、
感激感動の「なかよし鉄道大増発」、二回目です。


いよいよ10時からの便に乗車です。


ところが、
なかよし鉄道の運転を運営されている方に東京から来た旨を伝えたら、
なんとDC121のキャビンに乗せてくださるとのこと!
ウヒョー、大感激。信じられない。
こんな幸せ、受け止めないわけにはいかない!








運転士の方にお礼を言い、キャビンへ。
思ったよりも広い。
エンジンのアイドリング音は想像以上に大きく、
軽便用とはいえ、鉄道車両の偉大さを知りました。
キャビンには触媒などを一切介さないディーゼルの排気ガスのにおい。
懐かしいにおいです。これにも感激。


そして10時ちょっと過ぎ。いよいよ出発です。





機械式DLであるこのDC121、マニュアルミッションですからシフトノブ+クラッチペダルがあります。

これがまた動きが渋そうで...。
あいにく視線の角度から、どんな風にクラッチを踏んでいるのか、
ブレーキ弁はわかるがアクセレーターはどれなのか、
短い時間でおまけに興奮していたie、よくわからずじまい(汗




そんなこんなでクラッチは唐突気味につながることもあり、
そのショックもかなりありますので、
キャビン内では結構しっかり立っていないといけません。

直線区間ではそれなりの速度。キャビンはぐらぐら揺れます。


そして終点。
ここで朝顔カプラーからピンを抜き、キハ1にひかれた客車は駅に戻っていきます。





ちなみにこのホ3(形式はホハフ3)は見た目こそ近代化改装されてますが
製造自体は大正の客車...すごいね...。
もう1両のホハフ8も同様です。


そしてDC121、ここから折り返して猛ダッシュで駅に戻っていきますが
時速はさほど額面でいえば出ていないのでしょう。
でも、これがまた力強かったのでした。
エンジンは140PSの三菱DF2L型だったはずが
さっき調べたらエンジン換装されてるらしくてそれが6D22型...。
ってことは220ps程度あるわけで。
1952年製の古豪を、ここまで勢いよく走らせられるわけです。



DC121の添乗は終わり。
丁重に機関士さんにお礼を言い、
感動で震えるこころを抑えつつ、今度は「一般の客」として
ホハフに乗り込んで1往復。

ちなみに、運賃は無料です。
そして、車内は子ども連れで満員!!
小さな子どもたちに、この「ほんもの」のレトロな車両たちは
どう写ったのでしょうか。




ちなみにホハフ8の車内はこんな感じ。
似せたレトロ、レトロ感を作ったものでは決して出せない、
ホンモノの古さと懐かしさがあります。





さて。なかよし鉄道、30分おきの運転では乗客をさばききれず、
30分の間に2往復を始めました。

ie、ここぞとばかりにカメラ小僧と化す。








意図せぬフォトショの自動色補正がかえって古臭い写真感を醸し出す。

森の向こうからやってくるデコボコの百鬼夜行...。
ほんとうに尾小屋はこうして走っていたのかなあと思わせる...しばし悦楽のとき。




「臨時」のサボが泣ける...。力強く排気をふりまいて、キハ1が客車2両をひいて
軽快に走りだしていく。







>>ということで、これまた後ろ髪をひかれる思いでなかよし鉄道を後にしました。
21世紀に残った奇跡に感激しながら。

>>運転には数多くの運営の方が当たられていました。
小松市の保存車にかける意識の高さ、素晴らしい姿勢もまた、
この「奇跡」の立役者でしょう。
みなさんの努力があって、はじめてここまでの感動が生まれる...
頭の下がる思いでした。ほんとうにありがとうございます。
何も出来ていない1人の鉄道ファンとして、心からお礼を言いたいです。
コメント (2)
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【ナローゲージ】尾小屋の車両に会いに行く旅(2)なかよし鉄道大増発その1

2009-05-11 | ナローゲージに思いを馳せる
ということで5/5になりました。


前のエントリーで、「メインイベントは5/5」とありましたが、
標題でピンと来た軽便ファンも多いのでは...。


そう、この日は、尾小屋鉄道の車両が運転されている
「なかよし鉄道」の大増発運転の日なのでした。
なかよし鉄道とは、粟津駅から歩いて数分のところにある
「いしかわ子ども交流センター小松館」の敷地内に伸びる、全長わずか400m強の遊覧鉄道です。


でもただの遊覧鉄道というにはあまりにも惜しい!
なにしろ、いうなれば尾小屋鉄道の動態保存路線と言ってもいいのですから!
現役時代を見ることが出来なかったieには、
動いている「リアルな」尾小屋の車両が見られるとあって、
数年前から行きたかったところだったのです。


5/5と夏休みの一部日程のみ行われる大増発運転。
なぜこの日がすごいのか?


それは、こんなのが走るからなのです!!!


DC121が牽引する「列車」!


ふだんはキハ1が1両で30分おきに動くだけのなかよし鉄道
(本来ならそれだけでも十分すごい)。
でも、大増発になると大量の客をさばくため、
往年を彷彿とさせる
数両連結された「列車」が走る...。
これをずっと前から見たかったのです。



運転は10時からなのですが、ieは「その前に試運転が走る」ことを聞きつけ、
9時にはセンター入り。
駐車場もまだガラガラ。




こんな幻想的な風景...見事です。
遊覧鉄道にしては立派な車庫もまたgood。


だけど、センターは子どもでいっぱい。
どうやら子どもの日に合わせたイベントが開催されているようです。
そのイベントをするとスタンプがもらえて、全部スタンプを集めると
何かがもらえる、らしいのですが、
その中に「なかよし鉄道」が入っているので、子どもが殺到するんですね。
大増発の意味がわかりました。



なんて思っていると、なかよし鉄道では情報通り試運転が始まりました!


DC121を先頭にした4両編成が、思ったよりも大きなディーゼルサウンドを響かせて(でもゆっくりゆっくり)動き出しました。




....すげえ....夢のような光景...。
ナローのDLが...尾小屋のDC121が...
ファインダーのなかを通り過ぎていきます。




動いてる。DC121が動いてる。
客車を引き連れて。





最後尾にはなぜかキハ1。試運転サボが泣かせますね。って、推進運転?


と思ったら、このキハ1の意味はすぐにわかりました。



なかよし鉄道って行き止まりなんです。
しかも行き止まり先には駅もない。
DL牽引だと、機回しをして、先頭(車庫側)に付け直さないとならない。
でも、そんな余地は無い。

なので、帰りはこうなる...。









キハ1が、客車を引っ張って帰ってくる!



そして、そのあとをDC121が渾身の速度で駅に戻ってくるのです。
ロッドをユーモラスに回しながら。








>>ということで、長くなりそうなのでいったん切ります...。
いやもう、静かに興奮していましたよ、ie。
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【ナローゲージ】尾小屋の車両に会いに行く旅(1)

2009-05-08 | ナローゲージに思いを馳せる
DD16+旧型客車に心酔したあと、向かったのは石川県のとある場所。


その場所は...


小松市、ポッポ汽車展示館。


といいつつC5メインの写真 それにしても疲れないクルマだ(感動



ここには、昭和50年代まで残った数少ないナロー・ゲージの鉄道、尾小屋鉄道の
車両の生き残りが展示されているのです。


長野で長電も乗りたかったし、善光寺御開帳もやってるし...
で長野を離れるのは後ろ髪をひかれる思いもありました。

でも、この場所に15時までに着かないといけなかったのです。
なので、石川に向かいました。
というのも、5/4は、
なつかしの尾小屋鉄道を守る会が、キハ3のエンジンに火を入れる数少ない日だったのです。

それに間に合うはずだったのですが、
でも、激しいGW渋滞は上信越道にもおよび、
上越ICまで結構時間を要してしまいました。
結果として間に合わず、着いたのは16時半。がびーん。


でも、まあ仕方ない...ほんとうのメインイベントは5/5なので(うひひ
ここは気を取り直して、保存されている3両をじっくり眺めることにしましょう。



まずは5号機。
1947年立山重工業製。自社発注のSLで、自重15t。
地方鉄道向けのものとしては国産最後のSLです。
ナローのSLの魅力たっぷり
...といいつつ、DCや客車のほうが好きなので
あまり見てない(汗


磨きあげられてピカピカ!




そして、キハ3。

もと遠州鉄道奥山線(1964年廃線)で使用されていたキハ1803。
1949年、汽車会社で製造のDCです。
2軸駆動台車(1軸と2軸間はチェーン連動)と日産UD-3エンジン(当初はいすゞDA45)による強力な駆動力を持っていたそうです。
尾小屋への入線の際、「180」を塗りつぶして「3」だけ残しているのが
有名だったのですが、それはそのまま再現されてます。




メーターはバス用の流用のようです。
センターに座る運転席。機械式DCなので、マニュアルミッションです。
シフトノブは席の左側にありますがこの写真からは位置がわかりませんね。
赤い左のペダルがクラッチ。シンクロなんてついてなかったんだろうなあ。



UD-3型エンジン...ってことは2サイクルディーゼルだ...やっぱり15時までに着きたかったなあ。2サイクルディーゼルの音、聞きたかった!


あ...ほんとだ、3気筒だ...。たしかにUD-3だ。気がつかなかった。
実はエンジンについて訪問時はわからなかったので...(無念
オルタが新しいのが動態保存の証ですね。



最後の1両は、ハフ1。
○ハフ、となってないので、
コホナオスマカ...の重量分けにも入らないほど軽い客車、ということになりますすね。

なんと1919年(大正7年!)、名古屋電車製作所製。
尾小屋鉄道創業時からの貴重な客車です。
見た目鋼製のようですが、木製の車体の羽目板を取り外し
鉄板を貼り付けた「ニセスチール」車。


ドアの無いデッキ、朝顔形カプラー...。
ああ、ナローのの古典客車、たまんねぇす




狭い狭い車内。シートの破れが残念。背もたれは木。



>>ということでじっくり眺めているうちに日も暮れたので、
小松市内に戻りました。
5/5は...待ちに待った、「アレ」の日です...
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【ナローゲージ】高原列車の夢のあと 草軽電鉄の遺構に会う

2008-06-09 | ナローゲージに思いを馳せる
日本有数の名温泉地、草津。

そして、これまた日本有数の避暑地、軽井沢。

この二大観光地ともいえる草津と、軽井沢のあいだを鉄道が結んでいました。



草軽電鉄と呼ばれたその小さな鉄道については説明すると長くなってしまいますので
同社(今でもバス会社として盛業中)のHPをご覧いただきたいのですが、
廃止が昭和37年(1962年)ですから、すでに廃線後45年以上もたっていることになります。

クルマで走った方がおられるなら、草津と軽井沢は結構な距離があることに
気が付かれると思いますが、
この草軽、さらに急勾配と山岳(山岳と言っても開かれた高原の景色)地帯を
いっさいトンネルなしで延々と山の稜線に沿って上っていくために
距離55.5KM、時間にしてなんと3時間半もかけて、小さい小さい電気機関車が
身の丈をはるかにこえる客車を引いて、ゆっくり登りおりしていたのだそうです。


その機関車は、ナローファンにはあまりにも有名な、
アメリカ・ジェフリー社製の「L型」電気機関車、デキ12型。
元来大正9年に「信越電灯」が発電所建設のために導入した鉱山用機関車で、
それを草軽が譲り受け、昭和12年までの間に24号までの13両がそろいました。

これが、また小さい。驚くほど小さい機関車です。
現在も、軽井沢駅前に保存されているので、その小ささを実感することが出来ます。


オリジナルの色は失われているようだが、その小ささはわかる。
車体の前後に飛び出た赤い「従輪」の寸法が460ミリ、
全長はその車輪を含めて約4.7mしかないです。

クルマのサイズを考えると、ぽこんと飛び出たキャブ(運転台)の小ささが推測されると思います。
人が座るには過酷過ぎるほどの「尋常ではない」狭さです。


この機関車が、762ミリゲージの、ほとんどバラストもなく、
レールのつなぎ目も適当な線路を、
結構な急勾配を上り下りしてたというのですから、なんともスリリング?



この草軽。
廃止後すでにそろそろ半世紀、というような状況で、廃線跡や、遺構は
極端に数を減らしています。

でも、そんな中での「白眉」が、いまだに残る「北軽井沢駅」の駅舎です。


駅名板の手前に線路があったようです。奥の建物はその当時の写真にも写っています。


ちなみに、開業当時は「地蔵川」という何の変哲もない駅名だったそうですが、
この界隈一帯を「法政大学村」として所有していた法政大学から、この駅舎の寄贈を受けたものなのだそうです。
昭和初期だというのにすでに別荘地として草軽が開発をしていた
「北軽井沢別荘地」の玄関として、まさにふさわしい立派な駅舎です。


おまけ:サーブとパチリ。

他にも遺構は散見されるようなのですが、ひとまずは
目立つ二箇所に行きました。でも、それでも妄想上手なieは、
50年前のこの地にタイムスリップしていたのでした(汗&涙


>>本格的な廃線めぐりをされているサイトはこちら。
いまの国道と全然違う場所を走っているので、もはや探索不可能な箇所も
あるようで。頭が下がる思いです...

>>草軽現役当時の貴重な写真や雰囲気を伝えているのがこちら。
カブトムシのような独特のパンタグラフをかざしたデキや、高原路線の風情が
伝わってくるようです。

>>草軽の「動く姿」を見たいなら、国産初の総天然色映画、「カルメン故郷に帰る」が有名です。
前編北軽井沢界隈で撮影され、草軽も頻繁に出演しているとのこと!
ああ、カラーでよみがえる草軽の景色...って、ie見たことない。
今度DVD借りてきてじっくり見なきゃ!
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井笠の保存車を見に行きたい

2006-12-22 | ナローゲージに思いを馳せる
岡山県、山陽本線笠岡駅から
伸びていた軽便鉄道(ナロー・ゲージ)、井笠鉄道。
自動車社会の趨勢に負け、昭和46年に廃止になった鉄道です
(ちなみに、軽便としては生き残った方に属します)。

他の軽便鉄道の例に漏れず、雑多な車両たちが紡ぐ編成はとても面白く、
あと15年早く生まれていれば、通っていたかも知れない、そんな鉄道です。

井笠の車両たちは比較的残っており、有名な例では客車がSL運転で有名だった
西武山口線へ、赤い車体が美しいホジ3は下津井電鉄へ引き取られるなどしている他、
それ以外にも、旧新山駅を利用した井笠鉄道記念館などにも車両が残されています。


表題では、「見に行きたい」とありますが、
実はこの記念館と、笠岡駅の陸橋下に鎮座するホジ9は見に行ったことがあるのです。




時は1994年。すでにこのように荒廃していました。
しかも、その当時の自分にはこのホジ9に対する視線が今と違い、
いいものを見た(貴重さはわかっていたけれども)程度の認識しかなかったのです。

いまだにこのホジ9は、荒廃したままこの場所にあるといいます。
ホジ9に限らず、もういちど、岡山県内各地に点在する井笠の車両たちに
会いに行きたくてたまりません。



>>井笠鉄道、および保存車についてはこのサイトが詳しいです。

>>ちなみにこの時はねこさわ君の家のメルセデスC200で行ったんですが、
いやはや目の覚めるようなイイクルマでした。なつかしや、初代Cクラスも
そんなに古いクルマになってしまったんですね。
コメント (10)
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越後交通栃尾線に思いを馳せる

2006-09-21 | ナローゲージに思いを馳せる
久しぶりのナロー・ゲージコーナーです(汗

このコーナーで何度か書いてきましたとおり、戦前の日本中に雨後の竹の子のように
各地に出現したナロー(軽便鉄道)も、昭和30年以降モータリゼーションが進み廃止が相次ぎ、
いまや風前の灯火となってしまっています。

僕は昭和46年、1971年生まれですが、すでにこのころ、
草軽電気鉄道、九十九里鉄道、沼尻鉄道、仙北鉄道、遠州鉄道奥山線、
井笠鉄道、頸城鉄道、花巻電鉄、静岡鉄道駿遠線...などの主立ったナローは
廃止されてしまっており、壊滅状態でした。



そんな時代、昭和50年(1975年)に廃止になったのが越後交通 栃尾線(とちおせん)
大正4年に栃尾鉄道として開業。昭和35年に越後交通に編入されました。
この路線は軽便鉄道ながら多角経営にも積極的で、なんと急行電車の運転を行ったり、
いまでも地方私鉄には導入されていない路線もある
「CTC(列車集中制御装置)」を導入したり、と一風変わった鉄道だったそうです。


車両もまた、しかり。
ガソリンカーを電車に改造したもの(モハ205)、
カルダン式と釣掛式の2種類のモーターを両方持っていた異端車(モハ209)、
地方私鉄・ナローでは斬新な垂直カルダンモーターもの(モハ211など)、
ノーシル・ノーヘッダの美しい外観を誇るもの(モハ217など)、
もと草軽出身の付随車(サハ全車)、路面電車出身の制御車(クハ111)、
昭和40年代製造のハイ・クオリティ車(クハ102~104)...


モハ209。パワーがあるので機関車がわりに使われていたりしたそうです

単行のディーゼルカーや、機関車+客車の運行が多いナローゲージの中で、
栃尾線は他の地方電鉄ばりの3両~4両の編成で越後路を駆け抜けていました。
でも、組成するのは小さな小さな電車たち。
この「ありえなさ」が、僕にはたまらなく魅力的です。


終点悠久山(ゆうきゅうざん)に停まる魅惑的な4両編成。




>>この鉄道も僕が生まれて4歳までは残っていた...。
あと10年、いや8年早く生まれていれば、間違いなくここに
通っていたに違いない...と思うのです。
こればっかりはどうしようもないですが(^^
コメント (9)
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下津井電鉄はアンダーの記憶

2006-03-08 | ナローゲージに思いを馳せる
下津井電鉄は、岡山県に平成2年まで走っていたナローゲージです。


本州~四国間の宇高航路が明治43年に開通した際、
それまでのメインルート下津井~丸亀航路の利用客が激減。
そこで、てこ入れのためにこの鉄道は開業しました。
その名も下津井軽便鉄道。時に大正3年。

当初はドイツのクラウス製蒸気が走っていましたが、昭和3年にはすでに
ガソリンカーを導入、その後電化して下津井電鉄となりました。


僕はここに一回だけ、昭和60年に訪れています。中二でした。
ところが、若い自分には軽便鉄道の良さもよくわからず、
ただ奇異の目で見ていただけでした。
しかもお金もないですからフィルムも限られていて、
写真もほとんど撮っていないのです。

さらには当時使っていたOM-1の感度合わせを、
フィルムはASA100だったのにカメラの設定を200にしてしまって、
あがってきた写真は微妙に色がおかしかったのです。

だけど、この間スキャニングして、フォトショで色補正かけたら、
そこそこに自分が見た風景がよみがえったではありませんか。



蘇った(まあまあ)正しい色。
クハ24+モハ103。1961年にナニワ工機製。
窓配置がヘン(途中に小窓が入っている,,,など)なのは、
ワンマン改造で前ドアを移設したため。


人間とはオモシロイもんで、写真がセピアになれば
記憶までセピアになってしまう。
それと同じように、僕の記憶の中で下津井は
ちょっと感度違い(アンダー)の景色のままだったのです。

それが、補正されたのは嬉しかった。


何はともあれ、下津井電鉄は当時でも残り少なくなったナローの電化鉄道でした。
だけど、前述のごとくしっかりと乗らなかったし、撮らなかった。
いまの自分ならものすごく写真を撮ったでしょう。
乗りまくったでしょう。
ここに限ったことではないのですが、後悔することって多いんです。


だけど、最近、ちょっと考えが変わってきました。

...あの場所に、確かに僕はいた。
この目で見たし、この五感で下津井の電車を感じた。
ならばそれでいいのではないか。
せめて、廃止前に間に合ったのだから、
それでいいのだ、と。


>>下津井電鉄の廃線あとはまだ結構残っているようです。
そして廃止前後の車両達は、
実はいまなお保存会によって残されています。
それ意外にも残っているようなのです。
見に行けることがあれば、今度こそしっかり愛でたい。
そう思っています。
コメント (5)
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