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セントアンナの奇跡

2009年09月19日 | 洋画(09年)
 「セントアンナの奇跡」を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見てきました。

 前田有一氏が、この映画につき、「社会派スパイク・リー監督らしいブレない主張性と、老練な映画作りのテクニックの両方を楽しめる、通向きの一本だ」と述べているので、別に「通」ではないものの、そんなに言うのならと日比谷まで出かけてきました(映画館は、以前の日比谷シャンテです)。

 確かに、前田氏が言うように、「白人─黒人の対立軸をメインにおいているが、同時に他の様々な対立軸も絡んでくる。ドイツとイタリア、パルチザンと住民、男と女、少年と大人……」と、実に様々なレベルのエピソードがこの映画の中には詰め込まれています。そして、これらの「多くの伏線を残さず回収することも、この監督レベルであればたやすいこと」なのでしょう。

 ただ、純粋培養的な日本のタコ壺社会に漬かっていると、こうした様々の対立軸に出くわすことが余りないためか、映画の背景となる個々の事情がよく分からず、結局のところ、十分な説明が与えられないまま素材だけがたくさん投げ与えられたような雑然とした印象しか残らなくなってしまいます。

 たとえば、映画の冒頭の方で、イタリアにおいてナチスのドイツ軍と闘っている現地軍の指揮官(白人)が、非常に無謀な渡河作戦を強行させたために、「バッファロー・ソルジャー」と呼ばれる黒人だけで編成された歩兵部隊(第92歩兵師団)は手ひどい損害を被ってしまいます。事前の各種の情報を無視し、かつ偵察行動も一切取らないでこんな作戦をとってしまう指揮官の存在など、日本軍ならいざ知らず、あまり考えられないところ、アメリカにおける激しい人種偏見からすると、こうした非常識なこともありうる話だなとある程度納得できます。

 ただ、この映画のメインとなるのは、このバッファロー・ソルジャーに所属する4人の軍人ですが、イタリアの小さなの中に取り残された彼ら4人の救出のために、米国軍が白人の部隊を出撃させたとなると、本当なのかと訝しく思えてきます。
 ところが、Wikiの「スパイク・リー」の項目によれば、「人種差別が当然のように行われていた当時のアメリカ軍において、黒人兵が戦闘兵科に付いたのは1944年12月ヨーロッパ戦線におけるバルジの戦い前後からのことであり、硫黄島攻略戦当時においても黒人兵はアメリカ軍上陸部隊の1%に満たなかった」とのことです〔バルジの戦い以前の“史上最大の作戦”には、白人しか参加しなかった!〕。
 こうした背景もあって、イタリア戦線に投入されたバッファロー・ソルジャー部隊については、米軍上層部が強い関心を持っていて、それで上記の救出につながったのだなと理解できます。(ただこうしたことがわかるのは、映画を見終わって自宅で調べるからにすぎませんが)。

 また、4人は、逃げ込んだトスカナ地方の小さなで、住民(=白人)たちから偏見のない扱いを受け、アメリカ国内での処遇の酷さとのあまりの違いに驚きます。とはいえ、大航海時代のスペイン人の南米における現地人大虐殺の事例からしても、ヨーロッパ人が人種偏見を持たないとはトテモ思えず、そう簡単にこのエピソードを鵜呑みにもできないところです。

 一番引っかかってしまうのは、やはり「奇跡」に関することでしょう。私のような無宗教の者とか無神論者からすれば、こうした「奇跡」がなくとも、十分に映画のストーリーは成立するのでは、とも思えるところです。
 それに、この映画における「奇跡」はいったい何を指しているのか、今一よくわからないところがあります。この映画の副主人公である少年アンジェロがもたらすものなのか(たとえば、壊れていた無線機が治ってしまう現象など)、聖母の彫像の頭部がもたらすものなのか(それを持っていたせいか、取り残された4人の黒人兵のうちの1人が救出されます)、あるいはロザリオによるのか、そのような具体的なことではなくもっと漠然としたことなのか、結局よくわからないままとなってしまいます。
 特に、歴史的事実として起きたのは「セントアンナの虐殺」であって、それをなぜタイトルで「セントアンナの奇跡」と言い換えるのか、その深い意味合いは理解しがたいところです。

 という具合に一つ一つのエピソードを後になってバラバラにほぐしていくと、こちらの知識のなさもあって十分に理解できない点が出てきて、本当にそんなことがありうるのかと思いたくなる場面がいくつもみつかります。
 ですが、そうしたエピソードが次々に積み上げられ一つのストーリーとしてまとめあげれてくると、あまり細かいところにこだわらずに素直に受け入れて、まあそんなことかもしれない、こういう映画をつくるにはそうした話の持っていき方も必要なのかもしれない、と思えてきます。

 オバマ大統領の誕生以来、アメリカにおけるマイノリティの問題がクローズアップされ、日本で公開されるアメリカ映画にもそうした傾向がうかがわれ、今回もそうした流れの一つのように思われます。そうした意味でも、注目すべき作品ではないか、と思いました。


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