孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

チュニジア  「対話」で国内対立・テロの克服を目指す

2016-08-22 21:59:20 | 北アフリカ

(写真は【松岡正剛氏 http://1000ya.isis.ne.jp/1488.html】より 一人の青年の焼身自殺が、経済苦にあえぐ多くの人々を動かして始まったチュニジアの政変、そして「アラブの春」 しかし、チュニジアは未だその経済問題を克服していません。)

経済不振・高失業率で首相辞任
中東民主化が期待されていた「アラブの春」は、シリア・リビア・イエメンの内戦、エジプトの軍事政権など、期待を裏切る結果に終わっていますが、そうしたなかで「アラブの春」の引き金ともなった北アフリカ・チュニジア(古代、地中海世界の覇権をローマと争ったカルタゴの地)が唯一、民主化をある程度実現したとされています。

もっとも、チュニジアもイスラム過激派によるテロ事件、国内の多くの若者のISなどへの参加、テロよる観光業への打撃からの経済不振、政治的な争い・・・など、決して安定している訳でもなく、アラブの春の「成功例」と呼ぶにはいささかためらわれるところもあります。

意地の悪い見方をすれば、国内の不満分子をISなど国外に出すことで、かろうじて国内の安定を維持しているともとれます。

そのチュニジアでは先月末、世俗政党にイスラム系政党も加わる連立政権を率いてきたシド首相が、主に経済不振を理由に、辞任に追い込まれています。

****チュニジア首相に不信任決議 経済低迷で内閣に批判****
チュニジア議会は30日、シド首相の不信任決議案を賛成多数で可決した。憲法の規定によりカイドセブシ大統領が連立与党と協議のうえ1カ月以内に新首相候補を指名した後、新内閣が発足する。経済危機や高失業率が解消されず、内閣への批判が高まっていた。
 
定数217議席のうち不信任案に118人が賛成、3人が反対し、残りは欠席あるいは棄権した。
 
チュニジアはベンアリ政権崩壊後に政治対立が続いたが、2014年の議会選、大統領選を経て15年1月にシド氏が首相に指名された。

第1党「チュニジアの声」など世俗政党にイスラム系のナハダ党が加わる連立政権が誕生したが、イスラム過激派による博物館襲撃事件やリゾート地での銃乱射事件が起こり、主要産業の観光が大打撃を受けるなど、経済は回復できていない。
 
今年1月には失業対策を求める抗議デモの一部が暴徒化し、全土に夜間外出禁止令が出るなどしていた。
カイドセブシ氏は6月にテレビ演説で改革が進まない内閣を批判し、新統一内閣が必要だと述べていた。
 
昨年末から「チュニジアの声」の内部対立が表面化しており、再び国内で政治的混乱が起こる可能性も指摘されている。【7月31日 朝日】
*******************

「アラブの春」後の民主化プロセスの危機を対話を促すことで乗り越えることに貢献し、昨年のノーベル平和賞を受賞した「チュニジア国民対話カルテット」のメンバーが先月来日していますが、彼らも経済問題の重要性を指摘しています。

****雇用が最優先の課題」 チュニジア国民対話カルテット****
(カルテットのひとつ、産業商業手工業連合会の会長の)ブーシャマウイ氏は「我々はいま、民主主義を守る新しい闘いをしている」と指摘。

「2010年のチュニジアでのアラブの春の時、国民は人としての尊厳、民主主義、そして雇用の三つを求めていたが、雇用だけはまだ解決していない」と述べた。チュニジアの失業率は約15%で、アラブの春前の13%よりなお高い。「テロを防ぎ、社会を安定させるためにも、経済発展や投資が必要だ」と語った。【7月20日 朝日】
*****************

チュニジアに限らず、経済不振・高失業率は若者らの社会に対する不満を高め、彼らをテロリストの側に追いやることになります。

若手・女性の起用で課題に挑む新首相40歳
辞任したシド首相の後任は、比較的順調に決まったようです。
このあたりが、他の「アラブの春」失敗国とは異なるところでもあるでしょう。

もちろん、新内閣がうまく事態を処理していけるかは別問題ですが。

****<チュニジア>新内閣発足へ シャヘド首相候補、課題山積****
チュニジアの首相候補に任命されたユスフ・シャヘド氏(40)は20日、閣僚候補の名簿をカイドセブシ大統領に提出した。議会の信任を経て、シャヘド新内閣が近く発足する。

チュニジアでは治安や経済の混乱が続き、過激派組織「イスラム国」(IS)が浸透する懸念も強まっている。シャヘド氏は20日の記者会見でテロ対策や中小企業支援に重点的に取り組む考えを示した。
 
チュニジアの安定化は、地中海地域でのIS対策という意味でも重要な側面を持つ。隣国リビアで過去2年間にISが台頭。チュニジアでも昨年、日本人3人を含む22人が殺害された国立博物館襲撃事件など大規模なテロが相次いだ。今年3月には国境を越えてチュニジアを攻撃する事件も起きた。
 
ISにはチュニジア人戦闘員が多く、イタリア南岸に近いチュニジアへの浸透を狙っていることから、欧州諸国もチュニジア情勢を注視し、治安対策などを支援している。
 
シャヘド氏は、シド前首相が経済や治安の混乱の責任を問われて議会から不信任されたのを受け、今月3日に次期首相候補に任命された。AFP通信などによると、正式に就任すれば1956年の独立後、最年少の首相となる。
 
シャヘド氏は「私の起用は若い世代への信頼の証しでもある」と述べており、20日発表した40人の大臣と次官の候補には35歳以下が5人、女性が8人含まれている。
 
また、これまで政府と距離を置いてきた最大労組のチュニジア労働総同盟の元幹部2人を閣僚に登用。財政立て直しのためには増税や補助金削減が必要になる見込みで、労働者層との摩擦を避けるための人選だとみられる。
 
シャヘド氏は農業問題の専門家で、与党ニダチュニス(チュニジアの呼びかけ)幹部としてシド前内閣では地方問題相を務めた。
 
ただ、シャヘド氏は、カイドセブシ大統領の遠い親戚にあたり、2011年の民主化要求運動「アラブの春」で倒れたベンアリ独裁政権時代の「縁故主義の復活」と批判する声もある。チュニジアでは11年の革命後、大統領が外交や国防、内閣が主な行政の権限を握るなど権力分散が図られたが、再び権力集中が進むとの懸念が出ている。
 
チュニジアは「アラブの春」の先駆けとなり、14年には民主的な選挙による政権交代が実現するなど、混迷するアラブ世界では比較的順調に民主化が進んでいる。しかしテロの影響で主要産業の観光が低迷し、経済の立て直しに苦慮している。【8月21日 毎日】
*******************

40歳の新首相を始めとする若手閣僚の起用、女性の登用なども、やはり他のイスラム国とは違う「民主化の継続」を窺わせます。

女性の社会参加では、後出記事のように、日本よりむしろ進んでいるとの指摘もあります。

チュニジア成功のカギは「対話」】
経済対策やテロの問題では課題も多いチュニジアですが、イスラム主義と世俗派の対立の危機を乗り越え、とにもかくにも唯一の「成功例」として民主化を維持できている背景として、「国民対話カルテット」のメンバーは「対話」をあげています。

****混迷を極めるアラブ世界のなかで、なぜチュニジアは民主化に成功したのか? ノーベル平和賞組織が明かす非暴力の「対話」の力****

2015年のノーベル平和賞の本命は、難民問題に取り組んでいたメルケル独首相と目されていた。
だが、蓋を開けてみると、国際的には無名の団体「チュニジア国民対話カルテット」(QDN)が受賞。ノーベル賞委員会は、「対話」という手法によってチュニジアに民主化をもたらしたQDNの功績を高く評価した。

では、他のアラブ諸国がいまだにテロや政情不安から抜け出せないなか、なぜチュニジアだけが民主化を達成できたのだろうか?
来日したQDNのメンバーに取材し、対話を武器に平和を確立しつつある、その手法について聞いた。

アラブ世界を席巻した民主化運動「アラブの春」は、チュニジアから始まった。(中略)

チュニジアは民主化の道を順調に歩みはじめたかに見えたが、アンナハダ党が出した新憲法の草案がイスラム色の強いものだったため、比較的自由な伝統を守ってきた世俗派勢力と対立。

2013年には、世俗派の指導者シェクリ・ベラドとモハメド・ブラヒミが暗殺される事件が発生し、両者の溝は決定的となった。

対立が過熱して政府への信頼が失われると、民主化への道が再び閉ざされるのではという危惧が国内で広がった。そこで登場したのが、労働総同盟事務総長フサイン・アッバースィー氏。「対話」によって、イスラム主義と世俗派を融和させようと試みたのだ。

彼は、商工業・手工業経営者連合、人権擁護連盟、全国法律家協会といった国内の有力な市民団体に声をかけて「国民対話カルテット」(QDN)を結成。与野党の政治家を集めて、民主化を進めるための対話を開始した。

QDNは対話を進める過程で、新憲法制定までのロードマップを作成。みごとにそれを実行に移し、再度の憲法草案の提出から総選挙へと続く民主化のプロセスを成功させた。
このときに制定されたチュニジアの憲法は、アラブ諸国のなかでも「特に民主的」と高い評価を受けている。(中略)

「対話の成功」は必然だった
──「対話」は「平和学の父」と呼ばれるノルウェーのヨハン・ガルトゥング博士が、紛争を解決するための手段として提唱しています。そういう意味ではとてもベーシックな手法ですが、シリア内戦の和平会談が難航しているように、実際に機能させるのは簡単なことではないと思います。
なぜ、チュニジアでは対話による民主化が成功したのでしょうか?

アブデッサッタール・ベンムーサー人権擁護連盟会長(以下ベンムーサー氏) 
(中略)チュニジアでこの対話が成功したのは、決して偶然ではありません。

成功の要因として、まずチュニジアは古くからさまざまな文明が交差した場所であり、カルタゴの時代に遡れば世界で初めて憲法が制定された場所であることが挙げられます。

また、1846年には米国よりも先に奴隷制度を廃止し、1861年にはすでに民主的な憲法を制定していました。民主主義ははるか昔から、チュニジアの大地に根付いていたのです。

2つ目の要因は、チュニジア人は他者に対して非常に寛容で、民族や宗教によって分断されていなかったことでしょう。

伝統的に教育の質が高かったことが、こうした気質を作り出しました。
特に1959年から1987年まで任期を務めた故ハビーブ・ブルギーバ大統領は教育レベルの向上に力を注ぎ、国民が学校で世界各国の文化や哲学、政治思想について学べるカリキュラムを作り上げたのです。

女性が革命と民主化を牽引
3つ目は女性の活躍です。

今回、私は初めて日本を訪れて非常に近代的な国家だという印象を持ちましたが、女性の地位という観点からいえば、チュニジアのほうがずっと進歩的だと感じました。

1956年にフランスから独立して以来、チュニジアでは女性は教育の場でも職場でも、完全に平等な地位を獲得しています。これはアラブ世界やイスラム圏では非常に稀なことです。

ですから、「ジャスミン革命」が起きたときも、その後の民主化への移行プロセスにおいても、女性はNGOやNPOを組織するなどして、非常に重要な役割を担いました。

つまり、チュニジアではアラブの春が起きる前から市民社会が非常に発達していて、民主主義や自由のための運動に対する経験と理解があったのです。(中略)

──2015年3月には、チュニジアのバルド国立博物館で銃乱射事件が起き、21人が犠牲になりました。また、2016年7月にフランスのニースで起きたトラックテロ事件の犯人は、チュニジアの出身で、チュニジアは「テロリストの温床だ」という国際的な見方もあります。対話は暴力に立ち向かう手段としても、有効だと思われますか?

ベンムーサー氏 QDNはイスラム原理主義対策にも取り組みました。

まず、我々は宗教的なプロパガンダを、モスクや教育の現場でいっさいおこなわないと各政党に約束させ、憲法にも明記させました。

また国の総力を挙げてテロを予防するため、全国的なテロ対策会議の開催を呼びかけています。

学校ではテロリストの言うことを鵜呑みにしないよう、批判精神を持つ教育を大切にし、スポーツ、演劇、映画などの文化的な活動を活性化させ、若者たちがテロリズムの思想に傾倒するのを防止しています。

「対話」はテロとの戦いに有効か?
アッバースィー氏(労働総同盟事務総長) 「暴力」と「テロ」はチュニジアと決して相容れないものです。
対話の成功後、大統領と議会が民主的に選出され、チュニジアではいよいよ新たな共和国制が始まったのです。いまでは表現の自由、結社の自由、報道の自由が保障された近代国家になりました。

もちろん、暴力によってこの安定を破壊しようとする輩がいないわけではありませんが、チュニジア国民は生理的に暴力やテロを嫌悪しています。

2016年3月にもリビア国境付近のベンガルテンでテロが起きましたが、警察や軍隊に先だって市民が立ち上がり、これを阻止しようとしました。

「チュニジアにはテロ組織のキャンプがある」という評判が立っていますが、元をただせばテロリストたちは他国で生まれ、我が国に流入してきたのです。

ですから、まずはテロリストに訓練を施したり、資金を提供してきた国の責任を追及する必要があると思います。

また、テロはもはや一国の問題ではなく、国際社会の問題です。国際社会が共通の戦略を持ち、テロを撲滅するという姿勢が必要であり、日本にもその責任を果たす義務があります。

私は、チュニジアが再び民主主義を失うことはないと固く信じています。
すでに国民全員に、この民主化を成功させた当事者であるという意識と責任感が芽生えていますから。【8月22日 CORRiER Japon】
*******************

「アラブの春」がチュニジアから始まったのも、当時からチュニジア社会がある程度民主化された社会であったことがあげられています。

他のアラブ諸国なら独裁者によって簡単に押しつぶされてしまったであろう反体制運動が、チュニジアでは潰されることなく広がったのも、そうした事情あってのことです。

カルタゴで世界で初めて憲法が制定された・・・というのは初耳ですが、軍隊を持たない貿易国として経済力でローマを脅かし(必要があれば軍隊は傭兵で対応したようです)、ローマと3回の死闘を繰り広げ、滅んでいったカルタゴの歴史は、英雄ハンニバルの活躍も含め、多くの世界史上の出来事のなかでも印象的なものの一つです。(子供の頃見た、象を引き連れたハンニバルのアルプス越えの挿絵は強烈なインパクトがありました)
日本の在り様をカルタゴの運命になぞらえる見方もあります。

是非とも一度訪れて、チュニジア観光業復活の一助ともなりたいものだと考えていますが、そのためにもぜひともチュニジアが「対話」の精神を堅持して、世俗主義とイスラム主義の対立を克服し、安定した社会を維持していけることを願っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする