世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日本近代化の流れ(89)

2017-03-15 00:00:00 | Weblog

■そもそも「北方領土」ってどんなところ?

北方領土の周辺図

「北方領土」とは第二次世界大戦に絡み、ソ連(現在のロシア)が占領した歯舞群島(はぼまいぐんとう)、色丹島(しこたんとう)、国後島(くなしりとう)、択捉島(えとろふとう)の4つの島(北方四島)を指す。

面積はおよそ5000k㎡で、千葉県や愛知県と同程度の面積だ。日ロ両国が自国の領土と主張し、現在ロシアが実効支配している。北方領土をめぐる日本とロシアの領有権の対立、これが「北方領土問題」だ。

北方領土・国後島

北方領土の東側は太平洋、西側はオホーツク海に面している。南からの暖かい日本海流(黒潮)と、北からの冷たい千島海流(親潮)の影響で、周辺海域は水産資源も豊富だ。また択捉島は、本土四島(北海道・本州・四国・九州)を除くと。火山島で、温泉が多いことでも知られる。

■日本とロシア、国境策定の経緯

戦前、日本とロシアは数度にわたって国境を決める条約を締結している。その主なものを地図と合わせて、簡単に振り返ってみよう。

(1)1855年 日魯通好条約(日露和親条約)

日魯通好条約(日露和親条約)に基づく国境線

およそ160年前の1855年2月、日本(江戸幕府)とロシア(ロシア帝国)の間で初めて国境を確定した日魯通好条約(日露和親条約)が結ばれた。両国の国境線は、択捉島と得撫島(ウルップ島)間に定められた。樺太島(サハリン)には国境を設けず、これまで通り両国民の「混住の地」にすると定められた。
日本政府は、この条約を根拠に「北方領土はこの時に日本領となった」とする立場をとっている。

(2)1875年 樺太千島交換条約

樺太千島交換条約に基づく国境線

明治維新後の1875年、日本はロシアと樺太千島交換条約を締結。日本は樺太島の領有権を放棄するかわり、千島列島をロシアから譲り受けた。この条約では、占守(シュムシュ)島から得撫(ウルップ)島までの18の島々の名を「千島列島」として列挙している。
この条約を根拠に、日本政府は現在に至るまで「歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の北方四島は、千島列島に含まない」としている。

(3)1905年 ポーツマス条約

ポーツマス条約に基づく国境線

1904年、日露両国は朝鮮半島と中国東北部の支配圏をめぐって日露戦争が勃発。これに勝利した日本は1905年、ポーツマス条約で南樺太を獲得した。
(続く)
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