あられの日記

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野毛山公園

2015年04月18日 00時13分25秒 | 横浜
伊勢山皇大神宮を出発したのが午前10時24分でした。参道下にいた警備員さんに教えていただいた道で野毛坂を目指す。

なんか、すんごい石壁出た~~っ!!
人の大きさで石積みの高さが分かるかと。

石の間のコレ、何って名前だっけ?最近よく見るんだよな。

う~む。バブリーは石組み。これ、亀甲に成形して、更に角を丸く面取りしてあるわ。
更に~~っ!!

亀甲の石積みの上にイギリス積みの煉瓦です。何だろ?明治時代に積んだの?それともバブルの時に贅沢な石積みにしたの?綺麗だけども。今どきなかなかない石積みだけど。
あ。イカンイカン。また石積みにひっかかってしまってるわ。
さて、野毛山公園到着です。時刻はまだ10時半。

説明板発見:野毛山公園
野毛山公園は日本の公園発祥の地である横浜で横浜公園や掃部山公園に次ぐ長い歴史を持つ公園です。
明治時代の野毛山は豪商たちの屋敷が立ち並ぶ住宅街でした。現在の散策地区には生糸貿易で財を築いた原善三郎の邸宅が、現在の野毛山動物園の区域には茂木惣兵衛の別荘がありました。
1923年(大正12)9月1日、関東大震災の際に野毛山も大きな被害を受けました。震災後、被災復興事業の一環で、都市防災の要地、また市民の憩いの場として、野毛山に公園を建設することになりました。
横浜市が買収した民有地、復興局が買収した茂木別邸跡地と市水道浄水場、市長公舎を含む市所有地を合わせ公園用地を取得し、1925年(大正14)に着工。翌1926年(大正15)に一般公開されました。
戦後は1947年(昭和22)まで米軍に接収され、公園として利用出来ない時期がありました。
1964年(昭和39)明治時代に作られた野毛山配水池の老朽化により、水道排水池整備工事によって配水池を地下に新設することになり、地上部を公園としました。

こちらは動物園の西側の展望地区で見つけた施設です。右側に表札出てます。野毛山配水池。現場ではこの入口の石積みが青山の明治神宮外苑の入口の石積みに似てる!と思い「石積み」を撮影したつもりだったんですよ。したらば、こここそ歴史ポイントでした。

ほらね。相模原公園や麻溝公園を紹介する記事に度々登場する「水道みち」。そのゴールがここだったのですよ。び・びっくり~。

さて、野毛坂から散策地区に入ります。何かある~。ラジオ塔?塔って、普通に石灯籠なんじゃ…。でもこれ、説明板によりますと。由緒正しい日本放送協会が昭和7年に建てた3メートルのラジオ塔です。聴衆契約者が100万人を超えた記念で建てたって書いてある。
ところで日本放送協会ってつまり、NHKですよね~。

これは~。佐久間象山の顕彰碑ですね。
説明板によりますと、佐久間象山は信州松代藩に1811年(文化8)に生まれました。松代藩の藩主は佐久間象山を洋学研究の担当者に任じました。像山は兵学を学び、大砲やガラスの製造を手がけ、西洋の技術・学問を積極的に取り入れました。
1852年(嘉永5年)江戸に赴いた象山は幕府に、戦略上の観点から開港場に選ばれた下田ではなく横浜の開港を提言しました。
その後、1864年(元治元年)開国派であった象山は京都に赴きましたが、攘夷派の前田伊右衛門・川上彦斎らによって暗殺されてしまいました。
象山の門弟には勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰など開国派の中心人物が名前を連ねています。
ドラマによく登場しますね。『JINー仁ー』とかNHKの大河『八重の桜』でも出てきたわ~。
「ペリーから敬礼を受けたただ一人の日本人と言われました」だってさ。ウソかマコトか?
でも桜の時期の日本人にはンな歴史浪漫など関係ないのですっ!

お花見の場所取りが肝心なのね。幹事さんは大変ね~。

ああっ!ヨドバシカメラの面白広告ラッピングのバスがいる~~。フォトショフォトショっ!!

ようやく、野毛山動物園に着いた。坂道なんかもう嫌いだ~~~っ!!
でもさ~。まさかの動物園内にも高低差が、この後私を待っていたのです…。
コメント
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