アントンK「趣味の履歴簿」

趣味としている音楽・鉄道を中心に気ままに綴る独断と偏見のブログです。

エピローグ~激動の2020年~20系

2020-12-31 20:00:00 | 国鉄時代(カラー)

激動の2020年が終わる・・

世界中の誰もが経験したことのない事態に陥った年。アントンKもこの歳になると、数々の難行を自分なりに体験してきたと思っていたが、今年だけは次から次へと襲いかかる難題に心が折れそうになった。でも、何とか無事に今日を迎えられたのも、家族の支えがあり、また趣味の仲間たちの笑顔があったから。そして心の奥底にまで沈み、慰めてくれた音楽の存在のおかげなのだ。ほんの一瞬でも、言葉を交わし、お互い笑顔になれる時間の大切さ。何十回も聴いた音楽のはずなのに、荒んだ心の染みわたる新たな旋律。これらがアントンKに救いの手を差し伸べてくれていた。

エピローグなんて書いたが、来年になっても何も変わらないだろう。むしろこれから始まることと思い直して、来る年を迎えたい。そんな今のアントンKの気持ちを物語るような画像を掲載して今年を締めくくりたい。去りゆく2020年を20系客車に見立てて、遅れ「あけぼの」の去りゆく後ろ姿。

1976-12-28   1004ㇾ あけぼの  ナハネフ22  東北本線:古河-栗橋


何処までも続く大地に感動した日~DD51

2020-12-30 19:00:00 | 国鉄時代(カラー)

鉄道写真のデータ化と同時に、今まで行った演奏会の記録をも整理し始めている。写真が遡ること1974年くらいからだが、演奏会に初めて出向いたのがやはり同じ時代の1973年くらいで、ちょうど同じ頃となり実に面白いことだ。初期の頃の演奏会は、もうプログラムは見当たらないが、親父に連れられてよく出向いていた記憶は残っている。カール・ベーム=ウィーン・フィルとか、カラヤン=ベルリン・フィルだったと思うが、どちらもべートーヴェンの交響曲を鑑賞したことくらいしか残っていない。しかし、まだとても印象にあるのは、中学生の友人に誘われて出向いたマゼール=クリーブランド管の演奏会の方。初めて聴いたラヴェルの「ダフニスとクロエ」というバレエ音楽に驚嘆した思い出。もちろん、よく聴き込んだ楽曲ではなく、生演奏自体、鑑賞の経験が少ないから、実演奏の緊張感やスケール感は初体験だったように思う。しかしだんだんと実演奏の醍醐味にハマり出したのは、この後数年経った、朝比奈隆氏との出会いだったのだ。この辺は、今回綴ると長くなってしまいそうなので次回に譲りたいが、あれから数十年の年月を経ているが、相変わらずのアントンKには、我ながらどうしたものかと苦笑してしまう。

この山の頂きから見下ろした大地は、何層にも続いて地平線まで繋がっていた。そんな広大な景色に二条のレールが絡むように敷かれ、そこから自己主張するかのように赤いDD51が現れた。同一列車を数十分も俯瞰して観る光景に圧倒された昔の思い出。これが北海道だと思い知らされた瞬間だった。

1978-08-26  1492ㇾ  DD51 521              根室本線:広石信号場-新狩勝信号場


碓氷を越えた寝台急行「越前」~EF62

2020-12-29 20:00:00 | 国鉄時代(カラー)

客車列車の場合、走行する路線によってけん引する機関車がおのずと決められていたものだが、その最も解りやすいケースが、急行「越前」ではなかったか。アントンKが知っている時代、75~76年くらいのことだが、上野と福井を結んでいた寝台急行「越前」は、信越線経由であり、あの碓氷峠を行き来していた。当然のことながら、峠ではEF63の力を借り、本務機はEF62が当てられていた訳である。いま思い起こせば、EF57が生きていた時代でもあり、当時はまだEF62と言えば新しい電機として認知していたもの。しかし、新型電機でも、台車がC-C配置で個性的であり、また面影がどこか穏やかで優しい印象をもち、一発で興味が沸いた電機であることには違いなかった。かといって、EF62を狙いに遠征までは出来なかった思い出がある。時代が変わって、この寝台急行も「能登」と名称が変わり、どの列車も同じように寝台車の連結もなくなり消滅していったのだった。

掲載写真は、EF57狙いで出向いていた西日暮里付近でのもの。鶯谷よりは、随分と撮りやすく感じていたが、それでも一応写っている記録だけというもので情けない。ただ編成は素晴らしく、マニ37から続くオロネ+スハネ+スハネ+オロ・・は、いつ見てもやはり豪華で旅情をそそる。

1976-04-25  606ㇾ EF62 22 越前    東北本線:西日暮里付近


昼下がりの中央線にて~EF15

2020-12-28 19:00:00 | 国鉄時代(モノクロ)

70年代の鉄道写真は、中央線沿線のものが数多く残っている。これまでにも書いてきたが、アントンKはもともと鉄道模型に興味があり、中央線沿線に当時あった模型店に入り浸っていた。自宅から自転車で15分くらいか、西荻窪にあった「ニットー教材」、そしてその足で三鷹の「トリオ商会」まで回るのがお決まりのコースだった。時間に余裕があると、吉祥寺の「歌川模型」、大泉の「イズミ教材」、それに「ヒラタ模型」だったか、まで遠征していたのが懐かしい。そして以前にも書いているが、車輛観察のため、三鷹電車区でカメラを向け出し、また走ってくる列車を撮影し始めたのが、鉄道写真の世界へのきっかけとなった。色々な模型店の独特な雰囲気や、何とも言えぬ店の匂いが好きで、よく通ったお店はもう無いらしい。今あればどんなに懐かしい事だろう。とても残念に思う。

掲載写真は、そんな模型店巡りの途中、自転車を駅に留めてホームへ上がり狙った貨物列車。すでにこの時代は、写真撮影の面白さ、デッキ付き電機の魅力に取りつかれつつあった頃。画像からそんな想いがふつふつと湧き上がる。

1978-03-07  1861ㇾ EF15 12         中央東線:荻窪駅


茨城の赤電~401系低運転台車

2020-12-27 20:00:00 | 国鉄時代(カラー)

現在、JR東日本の首都圏内通勤型電車は、E231系やE233系といった形式に統一されつつあり、昨今では最新型のE235系が勢力を伸ばそうとしている。山手線に続き、最近では横須賀線用もお目見えし、今後は一気に増殖する勢いなのだ。

アントンKにとって、横須賀線と言えば、やはり113系電車、いわゆる近郊型電車をまず思い浮かべてしまう。総武線快速電車との相互乗り入れが始まる頃、113系に1000番台が登場し、品川から現在の長いトンネルを抜けて走るようになった。グリーン車が当時からあり、普通車はセミクロスシートと言われる座席配置で、乗車するとよくクロスシートを狙って乗り込んだものだ。しかし、現在の217系電車は、編成の両端部にセミクロスが残るのみで、他の車両は全て通勤電車のようなロングシートが並んでいる。ちょっとした旅に出た場合、やはりロングシートでいく旅と、クロスシートに座る旅とでは、明らかに移動の醍醐味が変わってくるはずなのだ。昔なら、クロスシートに座り、窓を開け放して進行方向を見ながら流れる景色を堪能したもの。遠い話になってしまった。

101・103系などの通勤電車と区別するため、113系や115系のことを中電と呼んでいた気がするが定かではない。アントンKには、中電に乗車=旅に出る、そんな図式が当時あって、どこかワクワクして乗車したことを思い出す。社会構造そのものが変わり、人口も増え通勤距離も昔とは比べ物にならず、セミクロスなどという中途半端な車両は時代に合わなくなったと判断されたのかも。情緒もなくなったものだ。

掲載画像は、常磐線を中心に活躍していた交直流の近郊型401系電車。それも低運転台のクハ401初期車で、電動車は、非力のMT46だったと記憶している。EF80を狙いに茨城まで来て、合間の電車たちにも個性があり、飽きることなど皆無だったあの時代が本当に懐かしく思えてしまう。

1981-11-13  736M  Tc401           水戸線:笠間付近