細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

ポスト

2014-03-11 20:09:24 | 家族のこと

先週、長女が家の中に複数のポストを作りました。折り紙で作った手作りのポストを家族それぞれのために作ってくれました。

私のポストはベッドのそばに作ってくれました。長女自身のポストは、自分の部屋の入口に作ってありました。

ポストには、手紙を書いて入れるのですが、宛名、内容と、いつ見たのか日付を書く欄と、返事の要不要を書いてくれ、と指導を受けました。見本付きで。

私も最初の手紙を長女のポストに入れました。

先日、Facebookでは紹介しましたが、学校の企画で長女が作った親への感謝状の中の、「恩返しベスト3」の一つ、「将来、科学者になってみせるよ」に対する質問です。

「どうして科学者になりたいのか教えてください」という手紙を、長女のポストに入れました。

昨夜、私のポストに返事が入っていたのですが、「世界の役に立ちたいから」と書いてありました。

昨夜は長女と一緒に寝たのですが、「どうして世界の役に立ちたいの?」と聞くと、「自分が二度生まれてくることはない。一度しか生きることのできない人生なのだから、少しでも人の役に立つようなことをしたい。世の中のためになる新しいことを発見するとか。」というような説明をしてくれました。父親が科学者の類であることはもちろん知っています。

「パパは科学者ではなくて、工学者だよ。」と、科学者とengineerの違いも簡単に教えておきました。そして、「科学者になるためには相当に頑張らないとね」とも伝えました。

長女が科学者になろうともならなくとも、私にはどちらでも構いません。科学者になるために算数を一所懸命教える、というような愚かなこともしません。国語や算数は、科学者になるために必要なのではなく、しっかりとした人間になるために必要なのであり、そのために教えてやっています。

科学者になることを後押しするのではなく、どうして科学者になりたいのか、それを掘り下げて一緒にこの世のことを考えるようなコミュニケーションで後押しをしてやりたいと思います。高いモチベーションを持つことがすべてであり、そのための努力を独り立ちした後も自分でできるかどうかが道を分けます。

次にどんなお手紙がポストに来るでしょうか。楽しみです。


大衆社会の処方箋

2014-03-11 19:22:15 | 人生論

またまた飛島建設のKさんにお薦めされた百田尚樹の「影法師」を読み終わった後(非常な良書でした。土木的な内容も満載。)、日曜日の夕方だったこともあり、「オレたち花のバブル組」を読み始め、翌日一気に読み終わってしまいました。大人気のテレビ番組は見たことありませんが、初めて経験した半沢直樹の倍返しは読んでいても爽快でした。

さて、その後、少しだけ読みかけていた「大衆社会の処方箋」(藤井聡・羽鳥剛史著,北樹出版)を本格的に読み始め、非常に考えさせられながら読んでいます。

オルテガの大衆社会論は、現代日本社会において、次の仮説を提示するものといえる、とのことで、その仮説とは、
「現代の社会問題はいずれも、人々の大衆化に、その決定的な原因がある。」(第Ⅰ部第2章)

とのことですので、あまりにも根幹的な議論です。まだ5分の1程度が読み終わった段階です。

オルテガの論ずる大衆の「生」とは、以下のような様相を呈するとまとめられるそうです。(第Ⅰ部第2章)
(1) 近代文明の発達により、社会的、物質的な制約から解放され、より多くの可能性に囲まれる中で、
(2) "慢心しきったお坊ちゃん"のように、自分の思うままに、あらゆる種類の自らの欲望を無制限に要求する一方で、
(3) 自分以外の外部の存在を考慮せず、自分自身の中に閉じ籠る。

藤井先生とはこれまで直接お話したのは4回ですが、「現代日本社会の将来には絶望している。諦めることは決してしないけれど。」と私にもおっしゃったことの真意がこの本を読むと納得できるように思います。 確かに状況は絶望的です。

自分にもできることはいろいろとあるとは思いますが、今朝、通勤の電車の中で思ったことは以下。

まずは、家族、特に子どもたちのことは全力で大衆社会から守る。共同体が崩壊した現代において、家族までもが崩壊すると人間はまさに頼るものが無くなります。子どもたちを中心とする家族に対しては、非大衆的な生き方をともにできるよう、私にできることを全力でやり続けようと決意を新たにしました。

共同体が崩壊した現代において、私が日頃親しくお付き合いさせていただいている方々は、「家族」に等しいのではないか、と思うようになりました。冗談で「兄弟」とか「大将」とか言い合ってますが、心から信頼できる方々と、家族的な共同体を築いて一緒に戦っていこうとしているのだと感じます。その共同体は決してぬるま湯ではなく、お互いを正しあうこともあるし、諭しあうこともあります。機能体と呼んでもよいかもしれませんが、それでも心がつながりあっている共同体です。孤独と孤立の感情を持つこともなく、疑いと不安で一杯になることもなく、安心して自分の力を高めて周囲に貢献しようと心から思える環境です。

今の私は、家族を別とすると、大きく分けて3つの共同体に所属していると思っています。一つは、古くからの付き合いのある、コンクリート構造物の品質確保の同志たち。二つ目は、熱血ドボ研。三つ目は、鞆の浦を通じて出会った人々。私の日常のコミュニケーションのほとんどは、この方々とのコミュニケーションです。

私は非大衆的な面がほとんど(100%となることを目指したいが、そうなると超人です)だと思っているので、上記の3つで閉じるつもりもなく、 もっと増やしていきたいと思っています。自分の研究室が真っ先に挙がってこないところが問題かもしれませんが、それは次に述べます。(研究室とは、良い意味で社会を知らない、大衆的な学生が次々と入ってくる入れ替わりの激しい組織ですから、もちろん非大衆的なコミュニケーションに溢れた組織ではありますが、上記の3つの共同体のように私がしびれるような議論が飛び交うか、というとそのレベルにはありません。そうなったときが、まさに世界レベルの研究室、ということでしょう。夢ははるか先。。。)

私は教育者です。教育の重要性はこれまでもずっと考えてきましたし、一生を捧げる価値のある仕事だと心から思っています。

そして、この現代の「高度大衆社会」において、非大衆的な生き方を、身をもって若者たちに示して感化いくことは極めて重要であると思います。

いくら本を読んでも、いくら素晴らしい映画を見ても、やはり生身の人間とのコミュニケーションには勝てません。非大衆的な生き方を学ぶだけでなく、「実践」することが大事だからです。

私と研究室で時間をともにした方々が、社会で活躍を始めています。中には典型的な大衆になってしまった方もおられるとは思いますが、彼ら、彼女らと非大衆的なコミュニケーションを続けていくことが、私の重要な役割なのだろう、と思っています。

そうするためには、死ぬまで、本来の人間の生き方を貫かねばなりません。当たり前のことです。