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「猿まわし復活」その調教と芸 村崎 義正

2013年05月23日 01時04分41秒 | 大道芸
 「猿まわし復活」その調教と芸  村崎 義正(昭和8年生)著  1980年(昭和55年)出版

 私が猿まわしに興味を抱くようになったのは、昭和37年に、重岡武寿、博美の兄弟二世帯が、
高洲(山口県光市)へ、東京から引き揚げて帰ってからである。
彼ら兄弟は猿まわしであった。
そして、兄、武寿の妻、美枝子が私の従姉であったから、誰よりも先に交際が始まり、いやおうなしに、
猿まわしについて認識を持つことになった。
(中略)
 武寿は、頭がつるりと禿げあがって、眼光きわめて鋭い男である。
体も頑丈で、仁王様のような気迫を発散させていた。
縄張りを持たない者が、大道で生きてゆくのは容易なことではない。
そのきびしさが、精悍な彼をつちかってくれたのであろう。
(中略)
 大道で太鼓を鳴らし、人々を集めて、猿に芸をさせ、弁舌さわやかに、口先三寸で、
客のふところから小銭を巻き上げることになれているので、なかなかの説得力をもっている。
(中略)
 明治、大正の、猿まわし全盛時代には、この高洲には、150頭の芸猿がいた。
つまり、150人もの猿まわし芸人がいたことになる。
元締めである7人の親方衆とそれに専属する調教師もいた。
山口県のへんぴな片田舎に、大芸人ができあがっていたのである。
(中略)
 しかし、武寿という男、たいしたものであることに違いない。
わずかなアドバイスで、よく自分の世界を造りあげた。
高洲は、かつて、猿まわしのふるさとだった。
そのことを卑屈にかくし通そうとする有力者達が、いくらじたばたしても、苦難のすえ、
新境地を開いた武寿に歯が立つ訳がない。
やらないうちから勝負はきまっている。
(中略)
 高洲の親達は、子供たちに、高須が猿まわしのふるさとだったことを絶対に話さない。
みんなでしめし合わせている訳ではないが、誰一人、話すものがいないので、
子供たちは、まったくと言ってよいほど、その史実を知らない。
親達が話さない理由は、「猿まわしと言えば民」「民と言えば猿まわし」と言われたくらい、
かつては、猿まわしそのものがきびしい差別にさらされてきた。
口では説明できないくらい、辛い思いを嫌というほどあじわってきた。
だから猿まわしをやめた。
高洲では、猿まわしはタブーになった。
そこへ、猿まわしが二人も帰ってきて、高洲を根城に堂々と商売を始めたから、むくれるのである。
(中略)
 博美は、道を歩く時、いかつい体をちぢめるようにして、うつむいて歩く。
この世の罪を一人で背負い込んでいるかのような風にである。
また、猿まわしに対するの強い風圧に必死に耐えているようにも見えた。
もちろん、彼はねばりのある強い意志を持った男なので、の風圧など、
なんとも思っていなかったに違いないが、外見上からは、日陰者のような印象しか映ってこない。
 
 博美がバタ(街頭や広場で人を集めて芸を見せる興行形態)打ちの名人と聞いて、私は首をかしげた。
バタ打ち芸人は、声がよく、弁舌がさわやかな者でなければ、できるものではないと、
聞いていたからである。
陰気くさく無口で、風貌のさえない彼にバタ打ちなど、とうていできるとは思えない。
人は見かけによらないもの、だと私は思う。
その点、解せないので、私は武寿に聞いてみた。

 博美は口上では点が取れない。
つまり、稼げないので、猿の芸を上げてゆくために死力をつくした。
猿の芸のなかでは、自転車乗りがもっともむつかしい。
その自転車乗りの際、博美の猿はタナ(綱)をはずして自由自在に乗りまわることができた。
猿からタナをはずすことは禁物である。
なぜなら、タナをはずすと、猿が逃亡するからであった。
芸人と猿がよほど気が合っていないとできる業ではない。
これは至芸と言える。
猿まわしの千年にもわたる歴史の中で、タナをはずして猿に芸をやらせるなど、
およそ考えられないことであった。
(中略)
 私が博美を敬遠して間もなく、武寿、博美の兄弟は、ぷっつり猿まわしを廃業して、武寿は塗装工に、
博美はとび職に転職した。
原因のきっかけは、5月14日、光市室積の普賢市で博美がバタを打っていて、客が殺到した時、
石灯籠が倒れ幼児が下敷きになって死亡したからである。
もちろん、博美の責任ではなかったのだが、その時、ぷっつり心の糸が切れてしまった。

 武寿、博美の兄弟は、猿芸を史上まれにみる高度な水準に引き上げておきながら、
世の冷たさによって転職をよぎなくされ、どれだけ辛かったに違いない。
兄弟は、私が考えていたより、追い詰められていた。
猿まわしは、街頭や広場に沢山人を集めて芸を見せ、
雨あられのように投げ銭を投げて貰うところにだいご味がある。

 ところが、高度経済成長期にはいると、車優先の社会になり、猿まわしは街頭から追ぅ放らわれた。
武寿、博美の兄弟が、もっともいい商売になる東京を引き揚げたのは、街頭から追われたからである。
警察官による迫害、暴力団、香具師との抗争で追い詰められた。
芸能プロダクションに入る以外は道が閉ざされた。
月給で、バーやキャバレーのアトラクションに出た。
酔客が、千円、一万円と、チップをくれる。
ところが、そのチップもプロダクションの収入として取り上げられた。
嫌気が差した。
いくら月給がよくても、我慢がならないことである。
(中略)
 幾年かのち、博美は、建設現場の足場の上から地上に転落して死亡した。
あっけない死であり、かけがえのない命が、かけがえのない調教法と共に完全に消滅した。(P-9~P-28)


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