民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「目が合った」だけで 橋本 治

2014年12月30日 00時22分04秒 | 古典
 「ハシモト式 古典入門」 橋本 治 1948年生まれ  ごま書房 1997年

 「目が合った」だけで「セックスをした」になってしまう時代 P-76(文庫)

 昔の女の人は、御簾(みす)の奥にいて、絶対に男に顔を見せないものでした。平安時代のお姫さまがそうでしたが、べつにこれは、平安時代に始まったことじゃありません。『古事記』の昔からそうで、身分の高い女の人なら、江戸時代になってもそうでした。「まともな女なら、絶対に人前に顔をさらして歩かない」という、イスラム原理主義のような常識が、長く日本を支配していたのです。だから、「まぐわう」という言葉も生まれます。

 「まぐわう」「まぐわい」という言葉を、知っている人なら知っています。これは「セックスする」「セックスすること」という意味です。「女へんの漢字」を使って「媾(まぐわ)う」と書くと、いかにもそれらしく見えますが、でも「まぐわう」の漢字は、本当は「目合(まぐわ)う」なんです。なんだか拍子抜けのするようなそっけなさですが、「まぐわう」の本当の意味は、この文字どおり、「視線を合わせる」だったんです。

 「男と女の目が合ったら、これはもうセックスをしたのと同じ」なんです。そういう昔には、新婚初夜の翌朝に男がこっそり自分の妻の顔を見て、「ああよかった、どうやらボクの奥さんは美人らしい」などとつぶやいたりすることも起こります。結婚してたって、「女というものはそうそうあからさまに男に顔を見せないもの」という常識がありましたから、男が自分の奥さんの顔を見るのだって、「こっそり」になるし、晴れて結婚式が終わらなければ、男はまったく女の顔を見ることなんかできなかったんです。

「説話文学」は、 橋本 治

2014年12月28日 00時51分37秒 | 古典
 「ハシモト式 古典入門」 橋本 治 1948年生まれ  ごま書房 1997年

 「説話文学」は、インテリの文学 P-89

 「説話文学」というのがあります。各地に伝わる伝説や物語を文字にしたものです。もとは「民間伝承」なんですから、話がぶっ飛んでシュールになることはあっても、そんなにむずかしいもんじゃありません。「おとぎ話も説話文学の一つ」と言えば、そのことはかんたんにわかるでしょう。「説話文学はわかりやすいもの」ではありますが、でもこれを書くのは民衆ではありません。民衆は、これを話すだけで、「字で書いて本にする」なんてことはしません。それを書き留めるのは、字を知っていて文章の書けるインテリだけです。子供向けのグリム童話だって、「グリム兄弟」というインテリが田舎に行って、字が書けないオジサンやオバサンの話を聞いて本にしたんですから、「説話」は民衆のものであっても、「説話文学」はインテリのものなんです。

 日本で最も有名な「説話文学」は、平安時代の終わり頃にできた『今昔物語』ですが、これを見れば、「説話文学はインテリのもの」というのがよくわかります。なぜかと言うと、この文章は、「漢字の書き下(くだ)し文」だからです。漢文を読むのは男のインテリだけですから、そういう文章で書かれたものの「作者」や「編者」や「読者」がどういう人たちかは、かんたんにわかるでしょう。

平安時代を歪めたのは、 橋本 治

2014年12月26日 00時33分33秒 | 古典
 「ハシモト式 古典入門」 橋本 治 1948年生まれ  ごま書房 1997年

 平安時代を歪めたのは、明治政府の事大主義 P-131

 明治以後、日本の首都は東京になりました。「新しい西洋の文化」や「新しい近代の考え」は、この東京を中心にして全国に広がって行きました。明治の東京は、もう一度「都が一番えらい」を復活させてしまたのです。もちろん、「東京」になる前から、徳川幕府の中心地である江戸は、「将軍様のお膝元」という形で”日本の中心”にはなっていましたが、でも江戸時代は、「お国自慢」という形で、日本全国が自分のところの特色を競っていた時代でもあるのです。

 今の日本各地に残っている郷土の名産とか郷土自慢の多くは、江戸時代に作られたものです。江戸時代の江戸っ子は、「お江戸が一番」といばっていましたが、徳川家康が開発して作った江戸という町は、日本の中では「とても歴史の浅い町」なんです。江戸に比べれば「古い歴史」を誇る場所は、各地にありました。しかも、その各地の大名が、自分の支配地に「産業を興(おこ)す」ということをしました。
江戸は政治の中心地で、後には「文化の中心地の一つ」にもなりますが、「永田町で誇れるのは国会議事堂だけ」というのに近いものはあります。江戸時代には、日本各地が「自分の土地」を誇れた――そうでなければ、「お国自慢」というものは生まれないのです。

 その江戸時代が終わって、明治維新がやってきます。明治維新のことを「王政復古」とも言うのをご存じでしょうか?「武士の時代」は終わって、天皇=王を中心とする政治が始まった――復活したから、「王政復古」なんですね。つまり、明治時代になって、日本は「武士の時代以前」に戻ろうとしたんです。「武士の時代以前」――つまり、平安時代ですね。それまではすたれていた「宮中行事」も、明治時代になると復活します。長い間の「武家支配」で、京都の朝廷は貧乏になっていましたから、「宮中行事」の中には復活のしようがないものはいくらでもありました。それを「復活させる」ということは「作り直す」ということで、明治時代になって作られた「平安時代のもの」いくらでもあります。つまり、新しい近代日本は、「平安時代の衣装を着て出てきた」というところもあるんですね。「平安時代のもの」が異様にえらくなってしまったのは、この明治時代のせいなんですね。

 なにしろそれは、「新しい国家体制の根本を作る衣装」です。へんにわかりやすかったり親しみやすかったり、困るじゃないですか。明治時代は、「国家はえらい」ということを国民の間に定着させて行く時代なんですから、その国家の中心をなす平安時代は、「えらくて重々しくて難解なもの」でなければならなかったのです。古典を難解にして平安時代を妙にえらそーなものにしてしまったのは、明治時代からなんです。だから、「古典はわからない」という考え方なんか、早く捨ててしまった方がいいんです。「古典は普通の人間にはわからないむずかしいものである」というのは、古い明治の考え方で、今の我々に必要なのは、「わかるものはわかる」でしかないからですね。

「書き下し文」がなかったら、 橋本 治

2014年12月24日 00時03分12秒 | 古典
 「ハシモト式 古典入門」 橋本 治 1948年生まれ  ごま書房 1997年

 「書き下し文」がなかったら、おじさんは随筆が書けなかっただろう

 平安時代の日本の貴族が書いた「日記」は漢文で、読むのが厄介です。でも、清少納言の始めた「随筆」は、「ひらがな」だったんです。「日記は構えて書かなくちゃいけないが、随筆は楽に書ける」という常識を、清少納言という女性は、作ってくれたんですね。それで、日本は楽になりました。つまり、「男の日記はちゃんとした漢文で書かなくちゃ恥ずかしいが、随筆ならそんなに構えて書かなくてもいいんじゃないのか?」という雰囲気が生まれたということです。漢字だけの中国にはないカタカナを使う、「カタカナの入ったわかりやすい書き下し文」が随筆の主流になれたのは、そのためでしょう。

 鴨長明は「漢字+カタカナ」でしたが、兼好法師以来、「漢字+ひらがな」がおじさん達の文章の主流になります。でもまァ、カタカナが「ひらがな」になっても、昔の日本のおじさん達の書いた「随筆」は、そんなに読みやすいものではありません。説教臭かったり、むずかしい漢文口調がいたるところに残っています。「昔」だけじゃなくて、今になっても「おじさんの書く文章」の多くはそうです。でもそれは、「今となっては」なんです。おじさん達が「漢文」で文章を書かなかったことに、感謝をした方がいいでしょう。「おじさんの書く文章」が説教臭くて、濃厚に漢文口調を残しているのは、そのおじさん達の文章のルーツが、「漢文にカタカナをまじえた、わかりやすい書き下し文」だったからなんです。今となっては「堅苦しいおじさんの文章」も、昔は、「リラックスして書かれたわかりやすい文章」だったんです。おじさん達は、とってもリラックスして「随筆」というものを書いていたし、リラックスしたいからこそ、「随筆」というものを書いたのですね。

 「和漢混交文の最初」が、『方丈記』や『徒然草』という「随筆」だったのは、これを書く人達が、「漢文の教養」を持っていて、それを「あんまり堅苦しくなく、自由に書いてみよう」とおもったことに由来するんだと思いますよ。

日本は「随筆の国」 橋本 治 

2014年12月22日 00時29分12秒 | 古典
 「ハシモト式 古典入門」 橋本 治 1948年生まれ  ごま書房 1997年

 日本は「随筆の国」

 日本には、「日記」がいっぱいあります。なにしろ、「男が漢文で日記を書いている」という状況があれば、女も「してみむ」と思って、「ひらがなの日記」を書いちゃう――「そういう女がいてもいいだろう」と男が思って、わざわざ「女になって日記を書く」ということまでします。イギリスの映画監督は、「我が国が”野蛮人の国”だった時代に、日本にはとんでもなく自由な文章を書く女性がいた」と、やっぱり日本をうらやましがります。日本には、「日記」ばかりでなく、「随筆」というものもやたらと多いのです。

 清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』、兼好法師の『徒然草』からはじまって、もうず-っと日本のおじさんたちは随筆を書いています。「随筆の最初」は、清少納言という女性なんですが、その後の時代に、「随筆」というものは、もっぱら「おじさんの書くもの」です。江戸時代になったら、もうそういうものがゴマンとあります。「メモ」とか「走り書き」とかも含めた「身辺雑記」のたぐいや、自分で勝手に考えた「歴史の考証」とか、「オタク文化のルーツはここにあり」と言いたいようなもんですが、なんでそんなに日本には「随筆」が多いんでしょうか?