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プロレス史で際立つ吉原氏の功績

2015-12-25 07:00:54 | 日記
力道山に鍛えられた男

 毎週金曜日は「甦れ!金曜8時の昭和のプロレス」をお届けしています。
このテーマでは年内最後の今日は、レスラーでは無いあの方の思い出を語りましょう。
 題して「甦れ!水曜7時・国際プロレスの吉原氏」です。

 本日の主役は力道山全盛時の日本プロレスで軽量級レスラーとして活躍した
吉原功氏です。
早稲田大学レスリング部で活躍し、相撲界からの移籍組が主だった日本プロレスに
アマレスをバックボーンとする異色の存在として入門。
 レスラー引退後「理想のプロレス」を目指して、1966年に日本プロレスを
退社し国際プロレスを立ち上げました。
 
 その後の氏の歴史は国際プロレスの歴史その物であり、ライバル団体との戦いの
連続でもありました。
それは一言で言ってしまえば「敗北の歴史」でした。
 TBSテレビを背景にした華々しい旗揚も、日本プロレスの強烈な妨害を受け
苦しい船出。
その後も契約外人選手を奪われるなど数々の嫌がらせを受け続け、興行成績を
伸ばせない状態が最後まで続きました。

 日本人人気レスラーの育成に情熱を傾けましたが馬場、猪木の巨大な壁は
超えられません。
 ラグビー界の実力者・グレート草津は全国放送の第一戦で惨めに敗北、東京
オリンピック代表・サンダー杉山は丸形体型で人気が出ず、ボディビル出身・
ストロング小林はライバル団体に移籍、その後もマイティ井上、阿修羅原
(命名は先日ご逝去された野坂昭如氏)などを輩出するも願いは叶いません。
 デスマッチ路線の主役・ラッシャー木村は独特の戦いぶりで一部に熱狂的なファンを
作り出しましたが、全国区の人気者にはなり得ませんでした。
 団体の運営、スターの輩出、全てに氏は敗れ国際プロレスは1981年その幕を下ろしました。

レスラーの安定した暮らしが一番

 ところで吉原氏が掲げた理想のプロレスとは一体どんな物だったのでしょうか。
設立当時は本場アメリカの有名選手を招聘、次はヨーロッパから華麗なテクニックを
持つ実力者を次々と招き、更にAWAと提携して再びアメリカマットの人気者を
主役に据え、最後は流血のデスマッチを売り物としていきました。
 この流れには脈絡が無く、目指した物が分かりません。
しかし目線を変えると何かが見える気がします。

 国プロ卒業生が何時までも氏を敬愛していたエピソードには事欠きません。
ひょっとしたら目指したのはマットの上の物では無く、「レスラーが安心して
働ける会社」だったのかもしれません。

 レスラーは現役時代には旅から旅で休む間も無く巡業を続けます。
人気を得る為に自分の体を鍛え、時には文字通りそれを切り刻む事も厭いません。
しかし現役を退くとなかなか潰しの効かない職業。
人生の後半に苦難を抱えたレスラーも数多く存在しました。

 氏は引退したレスラーも含めて、この業界に携わった全ての人々が安心して働ける
会社作りを目指していたのではないでしょうか。
 そして夢半ば、1981年9月30日、55歳の若さで永眠されました。
吉原氏の死が今の私より5歳も若い時だったと今回知り、その無念さの一端に触れた思いがします。
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