ギャラリー酔いどれ

売れない絵描きの世迷い言&作品紹介

一雨ごとに

2014-10-21 11:17:44 | Weblog
 画は 歌川 廣重 (安藤 廣重)

 寛政9年(1797年) ~ 安政5年(1858年)

 号は 一立齋(いちりゅうさい)               作


  「東海道廿三 五十三次 藤枝」です。


☆曇。

一雨ごとに寒さが募ります。

まずは、戦中からの病弊=間諜=SPY=スパイ、

◆http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/
こんな世界はもう終わりにしよう 2014/10/21
下げ相場の上げは倍下げ


より抜粋、  


http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/575.html
こんな世界はもう終わりにしよう 2013/8/25
日本の中のCIAエージェント」  

日本の政界、財界、マスコミ、学者、評論家、右翼・暴力団など
あらゆる分野に張り巡らされたCIAのスパイ・エージェントの数は
一体どのくらいになるのであろうか

日本で活動する実行部隊(オペレーション担当)は工作員指揮官として、
まず3人の現地工作員の指揮に当たる。
そして、工作員はそれぞれ3人の配下(協力者)を抱え、
3人の配下もさらに3人の部下を抱える。

つまり、1人の指揮官が3×3×3=27人の工作要員を指揮して情報収集などに当たっている。
CIAエージェントとされる中には、本人が意識せずにCIAに対して情報提供をする者も含まれる。

外交官や軍人に偽装するOCS(Official Covers)と
民間人に偽装するNOCS(Non Official Covers)とに分かれ、
それぞれ活動しているというが、最近はNOCSを増やしつつあると分析されている。

その理由は、2001年9月11日、米国で起きた同時多発テロが関係する。

要するに、通常総勢、数百人もの工作要員が活動しているというのである。

それが東日本大災害による福島原発の破壊に伴うデーター収集や、
混乱に乗じたる各国のスパイの増員により、CIAも当然増員されているものと思われる。

ようするに、スパイ防止法すらない日本はまさにスパイ天国というわけである。


吉田茂

幼児に横浜の富裕な貿易商、吉田健一の養子となり、
東京帝国大学政治科を卒業後、外務省に入省した。
大久保利通の次男、牧野伸顕伯爵の長女、雪子と結婚。

http://kingendaikeizu.net/yosidakenzou.htm

天津総領事、奉天総領事、イタリア大使、イギリス大使を歴任した。

吉田茂は取り巻く人間を通して、ロスチャイルドの影響を受けていた。

太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941年9月6日の
「帝国国策遂行要領」に関する
所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、
日本最大の売国スパイ=暗号名ヨハンセンとは吉田茂


『上海にいたサッスーン、ジャーデイン・マデイソンという
ロスチャイルド財閥から援助され財をなした吉田健一は、
ある長崎の女郎が生んだ子供を養子にする。吉田茂その人である。
その子が長じて東大法科に裏口入学し、牧野伸顕の娘雪子と結婚する
(管理人注:その女郎の父親はおそらく吉田健一であろう。)。
満州利権を守るため、
田布施の一族(管理人注:田布施とは朝鮮人のこと)と血の契りを結ぶ。
のちにヨハンセン・グループを作り、
天皇の承認のもとに、アメリカ大使のジョセフ・グルーに極秘情報を流し続ける
。』

元自民党総裁=麻生太郎の祖父。


岸信介 (1896年11月13日 - 1987年8月7日)

言わずもがなスパイ。
岸の系譜の政治家は、CIAのスパイである。
政治的に岸は日本の歴代首相のだれよりも右寄りだった。
岸は、APACL(アジア人民反共連盟)、MRA(道徳再武装運動)、
統一教会など、右翼組織やCIAのフロント組織に深く関わっていた。

首相をしりぞいた二年後の1962年9月には、東京で5日間にわたって開催された
APACLの会合で基調演説を行なっている。
また、日本郷友連盟や祖国防衛同士会など、
民主主義の粉砕と天皇の政権復帰を擁護する極右団体の顧問もつとめた。

岸は首相在任中に、日本を訪れたMRAの代表達に次のように挨拶している。
「諸君は全世界に対して道徳的バックボーンを与えるようにしておられる。
私はMRAが6週間にわたって(1960年5月から6月までの期間)
我が国に与えた圧倒的な影響力に対して感謝の気持ちを表明したい」
時あたかも、岸打倒を叫ぶ運動がピークに達しており、
MRA代表団の訪日のタイミングのよさには目を見張るものがあった。

岸は日本でもっとも反動的な首相だった。
1957年から60年までの短い首相在任中に、
岸内閣は史上まれに見る反進歩的な法案を提出した。
一つは1958年、警察官の権限を拡大強化する警職法(警察官職務執行法)改正案であり、
もう一つは1948年に廃止された紀元節の復活であった。

統一教会といえば、CIAの命によりKCIA(韓国中央情報局)が組織し、
操る宗教団体であることが後に明らかになった。
岸と教会との密接な関係を示す一例として1974年5月、東京の帝国ホテルで開かれた
『希望の日』実行委員会主宰の大晩餐会がある。
『希望の日』とは、教会の世界的宣伝キャンペーンの一環の集会名だが、
同実行委員長が岸信介だった。(『週刊新潮』1974年5月23日号より)>


正力松太郎 (1885年4月11日 - 1969年10月9日)

コードネーム「PODAM」

読売新聞、日本テレビ、プロ野球・読売巨人軍の、
コードネーム・スパイ組織暗号名は、「ポハイク POHIKE」

ペンタゴンの資金提供で、日本テレビは創立される。

読売新聞と日本テレビはフル稼働で原子力のイメージアップに努め、
CIAは原子力に対する日本の世論を転換させたのは正力の功績だと認めている


日本の警察官僚、実業家、政治家。元読売新聞社社主。
従二位勲一等。富山県高岡市名誉市民。京成電鉄OB。
長期わたって、CIAエージェント。
正力松太郎や、読売ジャイアンツとの関係で、野球は警察利権。CIAの管轄下にある。

マスコミ操作を通じアメリカが常にであると日本の市民を洗脳し、
アメリカを批判する言論をマスコミに
登場させない


アメリカ映画、音楽を大量に流し、
アメリカが
すばらしい国だと連日宣伝することが目的だ

アメリカ国立公文書館 米国政府の心理戦争局の内部文書に書かれている。


東久邇稔彦 (1887年12月3日 - 1990年1月20日)

旧皇族、陸軍軍人、陸軍大将。
位階は従二位。勲等は大勲位。功級は功一級。
皇籍離脱後は東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)を名乗った。

第二次世界大戦後、敗戦処理内閣として憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣した。
連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を行い、
一億総懺悔を唱え国内の混乱を収めようとしたが、
歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した。


有末精三 (1895年5月22日 - 1992年2月14日)

元陸軍中将 駐留米軍顧問 日本郷友連盟会長
CIAの記録によると有末とその部下は
在日中国共産党員に情報を売っていたとされている。
戦時中から、アメリカと中国共産党の二重スパイか。


中曽根康弘

ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、
中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から米政府に
「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があったと報告する
公文書が米国で見つかった。
裏金を受け取った政府高官の名が表に出ると
「自民党が選挙で完敗し、日米安全保障の枠組みが壊される恐れがある」という理由。
三木武夫首相(当時)は事件の真相解明を言明していたが、
裏では早期の幕引きを図る動きがあったことになる。
中曽根事務所は「ノーコメント」としている。

この文書は76年2月20日にジェームズ・ホジソン駐日米大使(当時)から
国務省に届いた公電の写し。米国立公文書館の分館である
フォード大統領図書館に保管され、2008年8月に秘密指定が解除された。

ロッキード事件は76年2月4日に米議会で暴露されたが、
ロ社の裏金が渡った日本政府高官の名前は伏せられた。

与野党いずれも政府に真相解明を要求。
三木首相は2月18日、「高官名を含むあらゆる資料の提供」を米政府に要請すると決めた。

文書によると、中曽根氏はその日の晩、米国大使館の関係者に接触し、
自民党幹事長としてのメッセージを米政府に伝えるよう依頼した。
中曽根氏は三木首相の方針を「苦しい政策」と評し、
「もし高官名リストが現時点で公表されると、日本の政治は大変な混乱に投げ込まれる」
「できるだけ公表を遅らせるのが最良」と言ったとされる。

さらに中曽根氏は翌19日の朝、
要請内容を「もみ消すことを希望する」に変更したとされる。
文書には、中曽根氏の言葉としてローマ字で「MOMIKESU」と書いてある。
中曽根氏はその際、「田中」と現職閣僚の2人が
事件に関与しているとの情報を得たと明かした上で、
「三木首相の判断によれば、もしこれが公表されると、三木内閣の崩壊、
選挙での自民党の完全な敗北、
場合によっては日米安保の枠組みの破壊につながる恐れがある」と指摘したとされる。

文書中、依然として秘密扱いの部分が2カ所あり、大使館関係者の名前は不明だ。

結果的に、事件の資料は、原則として公表しないことを条件に日本の検察に提供された。


佐藤栄作

2007年に公開された日本占領中のマッカーサーの諜報活動を詳述している
CIA文書など5万点に上る機密解除文書には、
岸信介の弟である佐藤栄作元総理大臣が米国に対し
「共産主義と戦うためにアメリカからの財政援助を願い出ていた」ことが書かれている。

また、佐藤栄作大臣(岸政権下の大蔵大臣)が当時の米国駐日大使館
S.S.カーペンター大使館一等書記官と東京グランドホテルで秘密裏に会談し、
資金援助を要請したことがS.S.カーペンター大使館一等書記官作成の覚書の中に書かれている。

米国のエージェントであった岸信介総理大臣が日本国民の反対運動を弾圧して調印した
1960年の「日米安保条約」および
米国のエージェントの佐藤栄作総理大臣が国民の反対運動を弾圧して調印した1970年
日米安保条約」は、
調印した二人の日本国総理大臣が米国に買収されていたエージェントであった事実が
暴露された時点で法的根拠を失い無効となるのは当然
である



東京地検特捜部

東京地検特捜部の歴代トップは、全員CIAに留学し、
CIAの対日工作員としての徹底的教育を受け、日本に帰国する。

この教育を受けた者でなければ、東京地検特捜部、
そして日本の警察機構の中で、上層部に出世する事は出来ない。

時には、防衛省の守屋事務次官の事件のように、
米国CIAから東京地検への直通ファックスによる「摘発指令」が来ることもある。

なぜなら外国に買収された一国の総理大臣が
買収した外国との間で調印した条約は無効となる
からである。


統一教会

CIAが文鮮明(ムン・ソンミョン)に作らせた教団。
公明党が出来てからは創価学会に代わって自民党に政治資金を流すと同時に、
統一教会の資金で各国会議員に秘書を提供している。
秘書と言ってもCIAの情報網であり議員の監視役である。



管理人注

『『占領日本を支配したダグラス・マッカーサー元帥は,
CIAをその草創のころから嫌い,信用していなかった。
1947年から50年まで,東京のCIA支局を極力小さく弱体にして,活動の自由も制限していた。
元帥には同時のスパイ網があったのだ。
広島、長崎に原爆を投下した直後から構築し始めたものだった。
CIAはこのスパイ網を,元帥から受け継ぐことになったが,
これはいわば毒の盛られた遺贈品だった。

マッカーサーを軍事諜報面で補佐していたのはチャールズ・ウイロビー少将だった。
ウイロビーの政治的立場は,米陸軍の将官の間では最も右よりであった。
ウイロビーは1945年9月,最初の日本人スパイをリクルートすることで,
敗戦国日本の諜報機関を牛耳ることになった。

この日本人スパイは,戦争終結時に参謀本部第二部長で諜報責任者だった有末精三である。
有末陸軍中将は1945年の夏,戦勝国に提出するための諜報関係資料を秘密裏に集めていた。

それが,敗戦後自分自身の身を守ることになると考えていた。
多くの高位にある軍人同輩と同じように,戦争犯罪者として起訴される可能性もあった。
が,有末はかつての敵の秘密工作員となることを自ら申し出たのである。

それはドイツのラインハルト・ゲーレン将軍がたどったのと同じ道だった。
ウイロビーの最初の指示は,日本の共産主義者に対する隠密工作を計画し,
実施せよというものだった。

有末はこれを受けて,参謀次長の河辺虎四朗に協力を求め,
河辺は高級指揮官のチーム編成にとりかかった。

1948年,アメリカの政治戦争の生みの親であるジョージ・ケナンは,
日本については政治の改革よりは経済の復興の方がより重要であり,
実際問題としても,実現が容易であると主張していた。

日本の産業界を解体し,解体した機材を戦争保障のために中国に送る,
共産主義者が今にも中国を制覇しようとしているときに,
そうした措置をとることにどういう理屈があるのか,とケナンは問いかけた。

ケナンの力によって,アメリカの対日政策は1948年までに急転換を遂げた。
日本の当局者に対する戦争犯罪訴追の脅威と占領の懲罰的な性格は,緩和され始めた。

これでウイロビー指揮下の日本人スパイにとっては仕事がやりやすくなった。

ウイロビーはその年の冬,暗号名「タケマツ」という正式な計画を発足させた。

この計画は二つの部分に分かれていた。

「タケ」は海外の情報収集を目的とするもの,

「マツ」は日本国内の共産主義者が対象
だった。

河辺はウイロビーにおよそ一千万円を要求し,それを手にした。

スパイを北朝鮮,満州,サハリン,千島に潜入させること,
中国,朝鮮,ロシアの軍事通信を傍受すること,
それに中国本土に侵攻して制覇したいという中国国民党の夢を支持し,
台湾に日本人の有志を送り込むこと,などを約束した............

CIAはその実体を知り,驚愕する。

日本人スパイは諜報網などというものではなく,右翼団体の復活を狙う政治活動であり,
同時に金儲けのためのもの
,というのが結論だった。

「地下に潜った右翼の指導者」は諜報活動を「価値ある食いぶち」とみなしていた,
とCIA報告は当時の状況を要約している。

アメリカの諜報機関が日本で行った「お粗末な仕事のやり方」の古典的な見本は,
政治的マフィア児玉誉士夫との関係だった。

児玉は1911年生まれ,21歳の誕生日を迎える前に,
帝国議会議員に対して殺害の脅迫をしたかどで五ヶ月間,投獄された。
21歳のとき,暴力団・右翼反動派の集まりである「天行会」とともに
政治家と政府当局者に対する暗殺を計画したが発覚,投獄されたが,
四年と経たないうちに釈放されて極右青年運動に着手,
これが戦前の日本の有力な保守派の指導者の支持を得た。

戦時中は上海に足場を置き,
五年間にわたって戦時の最大規模の一つと言われる闇市を取り仕切った。

占領中の中国を舞台に数千人の工作員が,戦略金属から阿片に至るまで,
日本の戦争遂行機関が必要とするあらゆるものを買い付け,盗み取った。

戦争が終結したとき,児玉の個人財産はおよそ一億七千五百万ドルに上った........

児玉は1948年,アメリカ占領下の拘置所から釈放され,
日本の政治の行く末に重要な役割を果たすことになる.......

アメリカがその狙いを達成するのを助ける,真に強力な日本人工作員を雇い入れるまでには,
さらに数年を要することになる。

その任務はまさに,アメリカの国益に資する日本の指導者を選ぶことに尽きていた。

CIAには政治戦争を進めるうえで,並外れた巧みさで使いこなせる武器があった。

それは現ナマだった。

CIAは1948年以降,外国の政治家を金で買収し続けていた。

しかし世界の有力国で,将来の指導者をCIAが選んだ最初の国は日本だった』。

<LEGACY OF ASHESより一部転載(文芸春秋発行:CIA秘録)


ウイロビー回顧録

☆http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/709.html



自公政権は、CIAエージェントどもによる「不正選挙」で簒奪した政権ですから。

権力の「正当根拠」がそもそも無い、のだ。




廣重、二枚目、



「東海道五拾三次之内 岡部」です。



ここが攻め時、

◆http://toshiaki.exblog.jp/
古川利明の同時代ウォッチング
◎2014年 10月 10日


より抜粋、

#やっぱ、ジケンのスジ的に超オモロイのは、
ポスト(10・11発売)が「字」にしておった、
厚労ダイジンになった塩崎恭久のヒショが、
地元・松山市に特別養護老人ホームの建設認可に関して、
厚労ショウの担当課に「口利き」しておった
っていうハナシだわなあ。

当初は、松山市は申請を蹴っておったんだが、その塩崎ヒショの口利きによって、
一転、GOサインが出たってんだな。「いかにも」だわなあ。

こんなもんは、間違いなく、100%の確率で、カネが動いておるから、
このとき、塩崎の役職は何だったんだよ? 
直接の職務権限がのうても、あっせん収賄でピャーッとイケるのはもちろんだが、
ぬあんと、今、塩崎は、その舞台である「厚労ショウ」のダイジンだからな。

むしろ、この塩崎を徹底的に締め上げたら、国怪空転はもちろんだが、クビが取れる。
っていうか、コレだけのチョー濃厚なギワクが出ておって、塩崎のクビも取れんようでは、
野党は無能の極みとしか、言いようがない。


#えっ、今日(=10・20)、通産ダイジンの小渕優子に続いて、
「うちわ配布モンダイ」の法務ダイジンの松島みどりも、
アベに辞表を出して、受理されたのかあ(**)。コイツは、
今度のナイカク改造の目玉である「オンナ閣僚」の、W辞任かよ!

今回のダイジン辞任で、小渕の方は、いろんな前打ち報道で、
「辞任不可避」の状況だったんだが、松島については、そんな素振りは全くなかったからなあ。
仮に、今後、野党から国怪で追及を受けて、最終的にクビを差し出すにしてもだな、
やっぱ、踏ん張らんと、だわなあ。
小渕はともかく、松島については、「うわっ、ウソだろ!」としか言いようがねえよなあ。

悪いけど、もっと早くに辞任すべきは、「上」で書いた、
地元ヒショの「特別養護老人ホーム建設許認可にかかる、口利き」のモンダイが
燃え上がっておる、厚労ダイジンの塩崎恭久だからなあ。

しかし、松島みどりは、死刑のシッコーを1件もせんまま、
ダイジンのクビを差し出しちゃったんだなあ。コイツは、
永田町に一気に乱気流が襲ってきて、視界不良になってきたなあ


#で、今朝(=10・20)の毎日の世論チョーさで、消費税率10%への増税に、
73%が反対、賛成は25%と出ておって、
共同のチョーさでも、反対65.9%、賛成31.0%だったんだよな。

ナイカク支持率は毎日47%、共同48.1%と、まだ横ばい状況だが、
今回のオンナ閣僚のW辞任を受けて、どれぐらい数字を落とすか、だな。

アベのナイカク支持率は、こんなふうに、いまだに異様に高い数字が出ておるんだが、
ワシの皮膚感覚では、40%を割り込むぐらいのところじゃねえかって、気がするんだな。
「1党多弱」でインポ状態の野党だが、あー、でも、
共産は「10%阻止ホウアンを出す」と言っておるのかあ。

だったら、合わせ一本で、「生活必需品は、5%の軽減税率適用ホウアン」も出すべきだ

だから、「厚労ダイジン・塩崎恭久のクビ取り政局」の中で、ガンガンと突きつけんと、だ。



廣重、三枚目、



「冨士三十六景 甲斐犬目峠」です。




続きです、

◆http://takedanet.com/2014/10/post_a762.html
武田邦彦 (平成26年10月17日)
神の思し召し? 命をつなぐもの(2) いつか来た道


☆http://takedanet.com/files/kami2__20141019645.mp3

人という生物が生き物全体の命を救おうとしている。それは間違いない

かつて空気中にあり、生命を保ってきた二酸化炭素が
少しずつ地中に溜まって石油や石炭になってきた。

そしてもう少しで空気中の二酸化炭素がなくなって、地球の全ての命の終わりがきそうな時に、
人間が登場して地下から石油や石炭を掘り、二酸化炭素に戻して、
今、再びいのち輝く地球を取り戻そうとしている


かつて95%もあった空気中の二酸化炭素は、0.04%に減ってしまったけれど、
これを1%ぐらいまでは増やしたいものだ


その時、なにか地球に変化が起こるだろうか? 

人によっては地球の気温が上がるというけれど、
二酸化炭素が減る方は未知のことだから心配だけれど、
増える方は「いつか来た道」だから過去を調べればわかる。

温暖化を心配する人の試算では二酸化炭素は、
今後の100年間で0.01%増えて、0.05%になるという。

大雑把に見ると、恐竜が栄えていたころ、地球はまことに正常で生物が繁栄していたが、
その頃の二酸化炭素は1%から数%とされているので、
0.01%ぐらい増えても特に変化はないだろう。

もう少し精密に見ると、0.05%ぐらいだったのは今から40万年ほど前で、
もちろん人類は誕生していて、気温も現在とほとんど変化はない。

未知のことなら心配もしなければならないけれど、「いつか来た道」なので、
二酸化炭素が少しぐらい変化しても 命に良いことはあっても悪いことはないはずである。




「炭素ガス排出権取引」w  阿呆らしさの極み。




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