おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

海岸水門~将監の鼻~環七。(江戸川区・葛西海岸堤防跡をたどる。その2。)

2013-05-31 20:21:43 | 歴史・痕跡
 陸地側にぐっと入り込んだところに「海岸水門」がありました。かつての「左近川」河口。東京湾最奥、「海岸堤防」のおへそのような位置?
旧堤防(現・都道450号線)からの「海岸水門」。
「海岸水門」。右方向が「新左近川親水公園」。
来た道(旧海岸堤防)を振り返る。
「海岸水門」。往時を偲ぶ遺構。
コンクリート製の頑丈なつくり。ゼロメートル地帯の高潮・水害を防ぐ機能を持っていた。
道路をはさんだ「左近川」側に残る「海岸水門橋」の遺構の一部。
水門越しには埋め立て地に建てられた建物群。
広い道路を渡って遊歩道は右手奥に続く。
右手の小高い道が「葛西海岸堤防」跡。
海岸堤防があった頃と同じに、海に突き出すように道は左にカーブ。
「将監の鼻」の碑。「都道」側に旧堤防の一部が保存されている。
「旧海岸堤防」。
碑の正面。
由来と潮干狩りの写真。
 《碑文》
 昔、この地は、”将監の鼻”と呼ばれ、海の玄関口として知られていました。
 葛西海岸は遠浅の海岸をなし、海の宝庫として、沖にはのりひびが立ち並び、あさりや、しじみを採る舟が舳を競い、春には汐干狩、夏には海水浴など、レクリエ-ションの場としても親しまれていました。
 この堤防は、昭和22年のカスリーン台風、続く昭和24年のキティー台風による被害を経て、昭和26年に高潮から内陸部を守る目的で建設に着手され、約4.5kmに及ぶ工事が昭和32年に完成しました。
 以来、幾多の自然の試練からこの土地を守ってきました。
 しかし、一方では先祖伝来の土地を海の中に追いやってしまうというつらい役割も担って来ました。昭和47年からの東京都の埋立て事業ねにより、見事に陸地として甦り、新たな堤防の築造により無事にその役割を終えました。
 海と親しみ、海と共に生きてきた先人達の姿を永く記憶にとどめるため、堤防の一部を残し記念とします。
 昭和61年8月 江戸川区長中里喜一

「海岸水門」方向。右に直角に曲がっている。
「環七」方向。
かつての海側。当然、海を望むべくもない。
のところ。
 このあたりがかつては岬で、「将監の鼻」と呼ばれたとのこと。向井忠勝の官位である左近衛「将監」に由来しているようです。

 「将監(しょうげん)」。
 近衛府の将官名。四等官の判官(ジョウ)に相当し、六位上の官位に相当。現場指揮官で護衛、警護の体制を組み立てる役目。近衛将監は六位蔵人・式部丞・民部丞・外記・史・衛門尉などと同様に正月の叙位で叙爵枠があり、毎年1名ずつ従五位下に叙された(巡爵)。五位でこの官職に就くと、左近大夫(さこんたいふ)将監あるいは右近大夫(うこんたいふ)将監。将監を略して、左近大夫あるいは右近大夫と称された。 

このあたりは、一直線の海岸線。
のところ。
堤防面は、けっこうな高さがある。
下の道路を見下ろしたところ。
自転車もすいすい進む。
「環七」との交差点を渡る。
「環七」葛西臨海公園方向を望む。
「堀江団地」交差点。右側の広い道路が「環七」。 
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清砂大橋~江戸川区球場~海岸水門。(江戸川区・葛西海岸堤防跡をたどる。その1。)

2013-05-30 21:16:23 | 歴史・痕跡
 江戸川区の最南端。かつての海岸線(「葛西海岸堤防」)沿いを自転車で。この道は、以前は幅広い堤防上の道。今はサイクリングロード、ジョギングコースとしてよく整備されています。清新町から左近川親水公園、旧海岸堤防を通って舞浜大橋へ向かうルート。なお、旧堤防に沿って「都道450号線」が続いています。約4.5㎞の道のり。
赤い線がかつての海岸堤防線。明治以来の海岸線に沿って堤防がつくられたようです(「左近川」河口付近を除いて)。
(1917年~24年)明治以来の海岸線にほとんど変化がない。東京湾のこの水域は浅瀬が広がっていました。
(1965年~68年)。西南側に陸地が造成されていく。
 以上の地図は、すべて「今昔マップ」より拝借しました。(この「今昔マップ」は痕跡追求者にとっては最高に利用価値があり、すばらしい。感謝します。)
 この堤防。1947(昭和22)のカスリーン台風や1949(昭和24)年のキティ台風のとき高潮で大きな被害を受けたため、水害(高潮被害)防止のために、1951(昭和26)年に着工、1957(昭和32)年に完成しました。延長4.4㌔、地面(もともと海抜0メートル地帯)からの高さ4~5㍍で堤防の幅も広く、昭和38年の航空写真でも海岸沿いには自動車も通れる立派なコンクリート道路として写っています。
旧葛西海岸堤防(昭和30年代 撮影者E.Saitou氏)「エドルネ日記」(写真で振り返る我が街の歴史~昭和30年代の写真をみながら)より拝借しました。立っている人の姿から堤防上ははかなり幅が広かったことがうかがわれます。

 その後、東京湾最北東部の埋め立て、干拓、宅地化もどんどん進み、1972(昭和47)年からは、堤防の外側の埋め立てが始まり、「海岸水門」と二カ所に堤防の一部が保存されていること、遊歩道、旧堤防に沿って続く都道が曲がりくねっていること以外、かつてここが堤防(海岸線)だったという面影はありません。

 ここで、おさらい。

 太日川(江戸川の古名)の広大な三角州だったこの地は、江戸期までに現在の旧江戸川を挟んで隣接する現・浦安地域を中心とした堀江新田の一部として開発された。
 入植した村民による私設の海岸堤防が築かれて「葛西海岸」と呼ばれるようになり、堤防の内側は田畑がつくられた。その外側には三枚洲や蜆島(しじみじま)などの干潟や湿地帯が広がり、貝類や海苔、葦などの採集が行われ、人口の流入を促していた。
 1871年(明治4年)の廃藩置県で、印旛県葛飾郡堀江村の飛地となっていたが、大字堀江のうち江戸川右岸が東京都に編入され、南葛飾郡葛西村の大字となる。
 1957年(昭和32年)には、「葛西海岸堤防」が整備されたが、江戸川の氾濫や高潮によってたびたび浸水被害を受けていた。高度経済成長期に地下水汲み上げによる地盤沈下にともなって塩害や土地の水没が深刻化して農地は耕作不能となり、1958年(昭和33年)には「黒い水事件」が発生して沿岸漁業も衰退、放棄地には産業廃棄物の処理業者が集まり、ゴミの不法投棄なども行われ公害も深刻化した。
 このため、1970年(昭和45年)、江戸川区は海岸水門で道路を封鎖して産廃業者を締め出し、1972年(昭和47年)には、東京都が葛西沖開発事業を開始した。この埋め立て事業で隣接して臨海町や清新町が誕生したが、かつての海岸堤防があった場所は都道450号線として遺され、護岸の一部も保存されている(かつて葛西海岸の岬だった「将監の鼻」付近)。
 1975年(昭和50年)7月、日本化学工業小松川工場が約8万トンの六価クロムを堀江町に不法投棄していた事が発覚し、住民主導で除染にむけた地域活動が行われた。1979年(昭和54年)11月、住居表示が実施され、従来の堀江町は南葛西一〜七丁目となり、旧江戸川河川敷が旧町名のまま住居表示未実施の無人町となって残されている。( 以上、「Wikipedia」より)
 
 と、戦後の高度経済成長にあわせ、様々な変遷・課題を体現してきたようなところでもあったのです。
 さっそくたどってみましょう。スタートは清砂大橋東詰。
「清砂大橋」。荒川・中川に架かり、江東区砂町と江戸川区清新を結ぶ橋。この地点は、首都高・中央環状線「清新町」ランプ、東京メトロ線、清砂大橋と三つの橋脚が並ぶところ(見えているのは、首都高とメトロ線の橋脚)。その橋脚の北側たもと。
北葛西・「八幡神社」前の道。このあたりが荒川河口と海岸線の接点。この神社は昔からここに位置しています。
の地点。
 なお、この地図は昭和40年代前半のものですが、注目すべきは、「堀江地区」。この地域は、それまで長く田畑としての表記があったが、何の記号もない土地(荒れ地?)になってしまっています。上述の「地盤沈下にともなって塩害や土地の水没が深刻化して農地は耕作不能となり、1958年(昭和33年)には『黒い水事件』が発生して沿岸漁業も衰退、放棄地には産業廃棄物の処理業者が集まり、ゴミの不法投棄なども行われ公害も深刻化した。このため、1970年(昭和45年)、江戸川区は海岸水門で道路を封鎖して産廃業者を締め出し・・・」という記事に関連していると思われます。
で囲った地域。
右奥に見えるのが「旧葛西海岸堤防」。
保存されている「旧葛西海岸堤防」。すぐそばにも別に一部が保存されています。
「AP5.3m S32完成」と記されています。「AP」は海水面からの高さ、「S32完成」は、昭和32年(1957年)完成したことを意味する。

 旧葛西海岸堤防については、葛西沖の埋立開発事業に伴い本来の役割を終え、清砂大橋の工事により撤去する予定でした。しかし、水害から都民を守り、かつての東京湾の海岸線をしのばせるこの堤防の一部を、葛西沖で漁をしていた地元住民等からの「高潮から守ってくれた堤防を残して」との要望をうけて、江戸川区西葛西の清砂大橋取付部の脇に保存しました。
 平成17年3月19日(土曜日)に地元住民の主催により、旧葛西海岸堤防及び江戸川区により設置された記念碑の除幕式が行われました。除幕式には、江戸川区長、東京都第五建設事務所長も参列しました。(「東京都第5建設事務所」HPより)

記念碑。

当時の堤防は現在の首都高沿いに東方向に向かっています。その先は、道路整備などで元の堤防(海岸線)の位置は定かではありません。橋脚は東京メトロ。右は、首都高。
「江戸川区球場」の西側からかつての堤防を整備した緑道が続きます。
そこから見た「江戸川区球場」。
 「江戸川区球場」。1984(昭和59)年に完成。ここでは、夏の甲子園予選東東京大会、東京都東部の高校野球各種大会など、主としてアマチュア野球の試合に頻繁に利用されています。以前は、プロ野球のイースタン・リーグ公式戦(主にヤクルトスワローズ主催)も開催されていたそうです。23区内の、都と区が管理する野球場の中で、硬式野球が可能な貴重な球場です。
スコアボールドも電光掲示板で本格的。この日は、どこかの企業内対抗戦を行っていました。
かつての堤防の西側には学校や住宅地が広がっています。埋め立てをした際、「海岸堤防」を残して、ニュータウン(清新町地域)が出来ました。
周囲より一段と小高くなった堤防跡の遊歩道。整備にもそうとうの費用がかかったようです。
「新長島川親水公園」。南に向かうと「新左近川親水公園」へ。ここは、堤防があった頃までは区内の北東から流れたきた「長島川」の河口だったところ。 
海岸堤防跡の道路から見た「新左近川親水公園」。かつては、ここは、東京湾の最奥部。現在は、入り江風になって水辺も広々として、木々に囲まれた水辺の公園らしい雰囲気。 
「中左近橋」から西を望む。かつては、このあたりは、遠浅の海。
「中左近橋」の南。今は、遠くまで市街地が続く。
東を望む。遠く奥の方に「海岸水門」(下部の鉄製のしきり扉が赤く塗られている)が見える。かつての海岸線の位置。

 本来の左近川は旧江戸川から江戸川区臨海町の海岸水門までで、周囲から中小河川の水を集めて東京湾に流れ込む一級河川でした。農業用水としてだけでなく河港としても利用され、漁業やノリ養殖業を行う「べか舟」がたくさん停泊していました。
(明治中期の頃のようす。「歴史的農業環境閲覧システム」より。)青い流れが「左近川」。現在保存されている「海岸水門」の遺構よりももっと奥深くて幅広く浅瀬が広がっていた。
 明治時代頃より、東京湾の漁業は活発になり、葛西地区でも1903年(明治36年)に「葛西浦漁業組合」が組織されました。さらに、1951年(昭和26年)には都営の第二種漁港である葛西漁港が作られ、東京湾(奥)唯一の漁業根拠地と言われました。
 しかし、1950年代の東京湾では東京ガス大森工場の重油流出や江戸川漁業被害などの海洋汚染が頻発し、「葛西海岸堤防」などの海岸堤防の建設も進められて、しだいに漁業には適さない海になってきました。結局、1964年(昭和39年)に漁業権を放棄して、葛西漁港も廃止されました。1972年(昭和47年)には東京都が葛西沖開発事業を始めて、清新町や臨海町の埋立地が造成され、左近川は荒川(西)と旧江戸川(東)を結ぶようになりました。また、海岸水門から荒川までの人工水路は新左近川(しんさこんがわ)と呼ばれ、流域は新左近川親水公園として整備されています。
 左近川の名前は、江戸幕府の舟手奉行だった向井忠勝の官位である左近衛将監(しょうげん)に由来すると言われています。左近川に近い行徳塩田は戦国時代から戦略物資の「塩」を生産する重要な土地で、江戸時代には江戸城への補給路として新川が作られました。これらを防衛するために忠勝の陣屋が下総国葛飾郡堀江(現在の千葉県浦安市)に置かれていたようです。堀江は旧江戸川河口の右岸と左岸に広がっており、右岸は1895年(明治28年)に葛西村に編入されました。左近川周辺には忠勝の名前が残っており、例えば葛西海岸の中央の岬は「将監の鼻」と名づけられて、埋め立て後の今も地名として残っています。(以上、「Wikipedia」参照)

 べか舟(旧江戸川対岸の市川市のHPより―写真も―)
 
 海苔の養殖、貝漁などに使われるべか舟と呼ばれる木製の舟は、行徳の風物であった。山本周五郎の「青べか物語」でも、このべか舟がおもしろく描かれている。水が進入しないように、ぴったり木を張り合わせて、手作業で行うべか舟づくりは、家を建てることよりも数倍むずかしく、船大工たちの職人芸であった。
 行徳や浦安では、明治時代、主に海苔採りなどに使われる目的で、手づくりの木造船が登場し、これがその後「べか舟」と呼ばれるようになった。戦後は、貝漁、魚漁、農舟(運搬用)、釣りなどに使われ、行徳の風景のひとつとなっていた。小さいながら、帆を張ることもできる。
やがてプラスチック舟にとって変わられ、姿を消していたが、今は、市立市川歴史博物館などで、当時の姿を見ることができる。
舟溜り(昭和32年 境川)
ノリ採取 (昭和47年代)
『青べか物語』(山本周五郎)新潮文庫
 昭和35年、作家の山本周五郎は『青べか物語』を発表した。
 彼は、昭和3年から昭和4年にかけて、浦安・行徳地域に滞在し、その体験をもとに、この地域の自然・人情・風俗を生き生きと描いた。楽天的でたくましく、時にはこっけいさを持ち合わせながらも、素朴で純情に生きる当時の人々のようすが、作品の中で描写されている。
 "青べか"という小説のタイトルは、冒頭で主人公が青ペンキで塗られたくたくたのべか舟を買うところからきている。そのべか舟は、通常もよりも胴がぶっくらふくれて、不格好なしろものであった。

かつての海岸堤防跡の道から「海岸水門」を望む。「左近川」の河口に位置していました。
のところ。

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朝市。酒ばやし。飛騨さしこ。・・・。(40年ぶりの飛騨高山。その5。)

2013-04-26 20:37:31 | 歴史・痕跡
 毎日開かれている高山名物「朝市」。陣屋前と宮川沿い。
「陣屋朝市」。
陣屋門前の広場にテントが立ち並び、地元の野菜などが売られています。買い物客には地元の方々も多く、会話が進んでいました。
「宮川朝市」。こちらの方が規模が大きいようです。宮川沿いに長くテントが並び、野菜や果物、特産品などが並んでいます。道路をはさんで向かいの店先にもお土産や軽食などがたくさん。外国人もいっぱいそぞろ歩きで買い物を楽しんでいます。サクラの花も満開。
その外れ近くの地酒屋さん。さまざまな高山の地酒がたくさん販売されています。
「奥飛騨 春のにごり酒」。小さなものを一つ。さっそく飲んでみました。お酒の濃さを何より堪能。
ついでに広告を。通好みのお酒が多い感じ。都内で扱っている店があるのでしょうか?


杉の葉を玉にした「酒林(さかばやし」が軒先に下がっている「造り酒屋・山車」

 
 酒林(さかばやし)。スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造り物で、「杉玉」とも。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の大きな杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たしているそうです。「搾りを始めました」という意味が込められている、とのこと。
 吊るされたばかりの酒林(杉玉)はまだ蒼々としているが、やがて枯れて茶色がかってくる。この色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を知らせる働きをする、らしい。
 元々は酒の神様に感謝を捧げるものであったとされています。起源は、酒神大神神社(かつて、各地の酒樽が神前に見上げるほどの高さで積み上げられているを見たことがあります。ご神体は三輪山自体とか。)の三輪山のスギにあやかったという。スギの葉は酒の腐敗をなおすからスギの葉をつるすという説もあるらしいです。
 
 ここは、工場も見学でき、一合升の利き酒も販売中。他にも何軒か大きな造り酒屋さんがありました。
「本舗飛騨さしこ」のお店。
 独特の佇まいの職人芸の店。さらっとしか店内を見ただけ。HPを見て改めてその趣の深さに驚きました。じっくり見学して何かお土産に買ってくればよかった、と。
 
 そこで、「飛騨刺し子本舗」のHPより。

ひと針、ひと針。
一目ずつ数えながら、丁寧な手仕事で。
昔ながらの手仕事文化を丁寧に守りながら、小京都と呼ばれる飛騨高山で刺し子作品を制作し続けている職人集団が本舗飛騨さしこです。
ITには疎いお母さん、おばあちゃんの会社。
それでも一人でも多くの方に刺し子を知ってもらい、興味を持ってもらって、また好きで頂ける様に、このウェブサイトを運営しております。
このサイトでは刺し子には不可欠な専門糸や針等の道具のご紹介や販売、また私達が制作している作品のご紹介や販売を行っております。
もっともっと刺し子の技術や文化を知って頂けたらと、私たちの歴史やテクニックも紹介しております。
刺し子という手仕事、また伝承工芸。
大量生産大量消費の世の中で、この慈しむべき文化を後世に残したいと思っています。
私たちの一番伝えたいメッセージは作品の中に詰まっています。それは手仕事の温かさです。本店にお立ち寄り頂き、実物を手に取って見て頂く事。刺し子の息吹を感じて頂く事が何よりもシンプルで力強い私たちのメッセージです。
と同時に、飛騨高山までお越し頂けない遠方の方の為に、また一度お越し頂いた後も私たち飛騨さしこを応援頂ける方々の為に、ウェブサイトでの情報発信も常に更新していく所存です。
実店舗では伝えきれない想いや刺し子の文化もあります。
是非、ごゆっくりと刺し子について、また私たち飛騨さしこについてご覧頂けましたら幸いです。

この方が店の奥で手作業中でした。
ついでに作品をHPより。



暮れなずむ街並み。
そぞろ歩きの人で賑やかな「観光通り」からちょっと北にむかったところ。落ち着いた古い街並み。古い家々に営まれる生活が感じられます。
下二之町大新町地区。日下部民藝館、吉島家住宅など。ここで、時間切れ。高山駅まで戻らねば・・・。では、また来られる日まで。 

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御蔵。御一新。柿葺き。・・・。(40年ぶりの飛騨高山。その4。)

2013-04-25 23:32:38 | 歴史・痕跡
 「御蔵」。年貢米の蔵。高山の歴史資料館にもなっていて、展示品も数多くあります。
左側に見える建物。一番蔵から12番蔵まで(手前の空地に4つの蔵があった)、8つ残されています。
軒下。全国でも最古・最大級の米蔵、らしい。元禄8年(1695年)に高山城三之丸から移築されました。
雪深い土地柄故、軒の長さ・傾斜などに工夫あり。
鬼板。屋根の上部に取り付けたもの。
柿(こけら)葺き。
柿という漢字を書いて「こけら」といいます。板葺きの一種で、「こけら=薄い木片」を重ねて敷き詰めた屋根のこと。
 この写真のように、小さな薄い板を上下左右に何枚も重ね合わせて屋根を葺くことにより、雨水の浸透を防ぎます。(修復用にでしょうか、この薄い板が土間のところにたくさん重ねて置いてありました。)歴史は古く、奈良時代から既に屋根材として用いられていたようです。
 ちなみに劇場の初興行を「こけら落とし」といいますが、この「こけら」と柿葺きの「こけら」は同じ意味で木屑または木片を指し、新築や改装の工事の最後に、屋根などの「こけら」を払い落としたことから、完成後の初めての興行を「こけら落とし」と言うようになりました。
「杮(こけら)」という字は「柿(かき)」と同じに見えるが、「(かき)」は「木部五画(旁が「亠+巾」)」なのに対し、「(こけら)」は「木部四画(縦棒が繋がる)」。
 しかし、両者は明確には区別されておらず、両方とも「柿(木部五画)」とするものや、両字は同じ字の別字体と説明するものもあるようです。JIS規格では「柿(木部五画)」が両方の字を包摂するものとしています。これに対し、字義を考えれば「こけら」は「(木部四画)」で書くべきとする説も。

屋敷の遠望。手前に、桃の木が見えます。
南側の軒先。かなり大きく長い蔵になっています。
御一新後の「御触書」の高札。他にも、一揆(騒動)の顛末や遠島・死罪になった人の覚え書き、遺書などや幕藩体制下の政治・経済の仕組みなどのさまざまな展示品があります。興味深いものが多々。
旧「高山町役場」の建物。古い町並みの中に歴史・民俗関係の資料館が点在しています。一日まして半日ではとうてい見学できません。


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高山陣屋。御白洲。阿倍仲麻呂。・・・。(40年ぶりの飛騨高山。その3。)

2013-04-24 20:44:01 | 歴史・痕跡
「高山陣屋」。

 高山城主金森氏の下屋敷の一つでした。金森氏が上ノ山(山形県)へ移されてからは、徳川幕府の直轄地となり、江戸から代官や郡代がきて、ここに役所をおき飛騨の政治をとりました。
 役所を「高山陣屋」とよび、おふれを出したり年貢の取立てなどをしました。直轄地時代は、明治まで25代177年間続きました。クレ葺屋根の門の扉に残るしみは梅村騒動で農民に殺された門番の血痕といわれています。
玄関を入った正面壁には、郡代の格式を示す(青海波)模様があります。内部には、御役所、御用場、大広間、役宅、吟味所、白州などのほか裏手には、高山城三の丸から移した御蔵(米藏)8戸前(藏は戸前とかぞえる)も昔のまま残されています。かつて年貢米を保管した藏で天領時代の歴史を物語る資料が展示されています。大原騒動で打ち首となった本郷村(現在高山市上宝町)の農民善九郎が妻に送った遺言状の文面には胸をうたれます。
 明治に入ってからは、県庁、郡役所、支庁、県事務所など代々、地方の役所として使われてきました。郡代役所の建物が残っているのは全国でも高山だけです。(以上、高山市観光課HPより)
掲示板「史跡 高山陣屋跡」。
正面入り口。ボランティアの方々が清掃や案内など行っているようです。さすが幕府直轄地。葵のご紋です。
広い敷地内に表屋敷、米蔵などの建物があります。左の建物が吟味所・御白洲。この内部に興味深い展示。手前が井戸。
梅の古木。
刑事事件の取り調べを行ったところ。拷問用の重たい「抱石」や鋭い三角の「責石」など展示されています。窓からの日差しが明るい分、かつて行われていただろう検分・取り調べの凄さが・・・。珍しいものを見学。英語の説明版もあり。
「仮牢屋跡」もともとは「薪炭小屋」天保年間に「仮牢屋」留置場として使用された。その奥が「御白洲」。幕府の直轄地が故の犯罪者への厳しい取り調べも。騒動の首謀者として(東京の)新島に送られた人も。その記録が「蔵」の掲示室にありました。ここで新島が登場するとは意外でした。
御役所、御用場の濡れ縁。建物の中は、下足を脱ぎ、見学します。けっこうぐるぐる見て回る。広大な敷地に用途別の建物・部屋の数々。
複雑な配置になっています。
庭。
土間。
明かり窓。
嵐山の間(郡代が生活した場所)の床の間の掛け軸。中国に渡った阿倍仲麻呂が帰国途中に難破して亡くなったと伝えられた時に李白が作った追悼の七言絶句「哭晁卿衡」が懸けられていました。

「日本晁卿辞帝都」
日本の晁卿(ちょうけい)帝都を辞し=日本の晁衡卿は帝都(長安)を辞去し

「征帆一片遶蓬壷」
征帆一片(せいはんいっぺん)蓬壷(ほうこ)を遶(めぐ)る=帆を張った舟は蓬莱山をめぐって行った。

「明月不帰沈碧海」
明月は帰らず碧海(へきかい)に沈み=明月のような君は青い海に沈んで帰らず

「白雲愁色満蒼梧」
白雲愁色蒼梧(そうご)に満つ=白雲がうかび、愁いが蒼梧に満ちている

※「晁卿」=阿部仲麻呂。「蓬壷」=蓬萊山。蓬莱は、古代中国で東の海上にある仙人が住むといわれていた仙境の一つ。「蒼梧」=諸説あるが、晁衡の乗った難破船がたどり着いたのが現在のベトナムであることから、前漢から唐時代に置かれた交趾郡にある蒼梧県(ベトナム北部紅河中下流域地域、中華人民共和国広西チワン族自治区梧州市)を指すと考えられている。

そこで、「阿倍仲麻呂」について。

 文武天皇2年(698年)、阿倍船守の長男として大和国に生まれ若くして学才を謳われた。霊亀3年・養老元年(717年)、第9次遣唐使に同行して唐の都・長安に留学します。同期の留学生には吉備真備や玄がいました。
 唐の難関だった官吏登用試験「科挙」に合格し、唐の玄宗に仕えることになります。仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから李白・王維ら多くの唐の詩人と親交がありました。
 天平勝宝4年(752年)衛尉少卿に昇進。この年、第12次遣唐使一行が来唐。すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は、翌年秘書監・衛尉卿を授けられた上で帰国することになります。この時、王維は「秘書晁監(「秘書監の晁衡」の意)の日本国へ還るを送る」という別離の詩を詠んでいます。
 しかし、仲麻呂の乗船した船は暴風雨に遭って南方へ流されてしまいます。このとき、李白は彼が遭難死したという誤報を伝え聞き、上記の「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼みました。
 実際には仲麻呂は死んでおらず、船は漂流して安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着。結局、仲麻呂一行は天平勝宝7年(755年)には長安に帰着しました。この年、「安禄山の乱」が起こったことから、身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来するものの、唐朝は行路が危険である事を理由に帰国を認めませんでした。
 仲麻呂は帰国を断念し、唐で再び官吏の途に就き、天平宝字4年(760年)には鎮南都護・安南節度使として再びベトナムに赴き総督を務めました。天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年)まで6年間、ハノイの安南都護府に在任し、天平神護2年(766年)安南節度使を授けられました。結局、日本への帰国は叶えられることなく、宝亀元年(770年)1月に73歳の生涯を閉じました。数奇な人生を送った人物の一人。

 阿倍仲麻呂の歌として有名なのは『小倉百人一首』にも採られた「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」これも、望郷の歌。

大広間。奥の掛け軸は「忠」「孝」。
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福岡赤煉瓦文化館

2013-03-18 23:22:18 | 歴史・痕跡
 久々に福岡(博多)に出かけました。年に一度の盛大なお祝いの席のようなもの。久々に懐かしい友人たち(といっても年上の先輩が多かった)と会って旧交を温め、時間を忘れて語らい、、そして(ついでに)所用も済ませ、中洲の繁華街・地下鉄空港線「中洲川端」駅近くのビジネスホテルで一泊。疲れていて、特に外出するわけでもなく(ホテルの周囲は、実に賑やかな飲み屋街でした)・・・。
 夕飯までの少しの時間、ちょっと気になって行って見たかったところへ。幸いにホテルから歩いてすぐそこ。
 「赤煉瓦」の建物。
 明治時代の我が国を代表する建築家・辰野金吾と片岡安の設計により、日本生命保険株式会社九州支店として明治42年(1909)2月に竣工。
 赤煉瓦と白い花崗岩の外壁は、19世紀末の英国様式を応用したもので、ドームや小塔、屋根窓を配した銅板葺きの屋根など、変化に富んで見飽きません。
白と赤のコントラストが見事。
 資料によれば、昭和44年(1969)3月に国の重要文化財に指定されたのを機に福岡市に譲渡され、平成2年(1990)まで市歴史資料館として使用された後、平成6年(1994)2月、有料の会議室等を備えた「赤煉瓦文化館」としてオープン。さらに、平成14年(2002)5月からは、1階の一部が「福岡市文学館」として使用され、文学に関するさまざまな情報を収集・提供することになった、とのこと。
 辰野片岡建築事務所(辰野金吾・片岡安)の設計といえば、このほどかつての面影を取り戻した東京駅舎などで知られています。
「東京駅丸の内側駅舎」。そういえば、何となく雰囲気が似ています。

 場所は、昭和通り、那珂川に架かる「西中島橋」のたもとに位置しています。
「西中島橋」からの眺め。右手の橋詰に建物がある。
 館内には、時間がなくて入りませんでしたが、福岡市の文学の歴史、とくに近代以降の文学グループや作家の雑誌、作品などの情報を展示している、とのことでした。
「福岡市文学館」の表札。
外壁。東京駅舎は戦災で焼け落ちたが、ここはしっかり残っています。

 夜になって、飲みついでに結局、外出。せっかく来たので、とんこつラーメンを。そこで、「一蘭」に。すだれをはさんで、カウンター越しでの店員とのやり取りは面白い。「天然」の味もよし、「秘伝の赤だれ」もよかった。でも、これでまたコレステロールが上がったのでは・・・。そんなこと、ないか。そこで、お店の宣伝文句。

 
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読書「廃墟大全」(谷川渥編)中公文庫

2013-03-15 21:53:42 | 歴史・痕跡
 2年前の3月11日。大災害によって廃墟と化した街並み。整然と片付けられた地域は、一部を除いてその災害の痕跡は失われつつある。しかし、福島原発事故によって無人化し、直前までの生活の匂いがそのままに、突然、人の気配が全く途絶え、廃墟の街になったフクシマの映像や写真が流される。
 これまでの長い人類の栄枯盛衰という歴史の中、際限なく繰り返される栄光、繁栄、一方で戦争や災害、征服、絶滅、破壊などによって、世界中に廃墟が(今もなお)再生産されていく。生と死。いわば死の遺産でもある「廃墟」。それを見る人に触れる人に、郷愁や無常観を誘う、意識的な存在として風化することを拒絶してそこに(その下に)「ある」。
 映画、写真、建築、美術、文学などに登場する無数の廃墟群を16人の気鋭の研究者が徹底検証した書。1997年に発刊された『廃墟大全』を2003年に文庫化するに当たって一部、加筆・修正して再構成された。
 かなり刺激的な内容。「時空を超えて怪しい魅力を放って已まない廃墟の本質に迫った」(後書き)異色の評論集。写真家や画家の個人的な廃墟に対する思惑・思念がけっして個に止まらず、時代や民族や文化に色濃く反映され(影響され)ていることを明らかにしていく。中国のとらえ方。ローマでは。そして日本では・・・。民族の自然観、死生観にも考察が進んでいく。廃墟の持つ本質を鋭く捉えた書としてはジャンルを超えた「問題提起」「論戦」の場として、格別の出来合い。
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渋沢栄一・佐久間象山

2013-02-25 22:21:11 | 歴史・痕跡
 「旧大島川西支流」にかかる永代通り・福島橋の手前に、「渋沢栄一宅跡」(永代2-37)、橋を渡った所には「佐久間象山砲術塾跡」(永代1-14)の説明板があった。二つとも同じ時期に設置されたようだ。

説明板。
江東区登録史跡 
渋沢栄一宅跡
 渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保11年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。25歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治6年(1873)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力をそそぎました。晩年は社会工業事業に貢献し、昭和6年(1931)92歳で没しました。
 渋沢栄一は、明治9年(1876)に深川福住町(永代2)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。明治21年(1888)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。
 渋沢栄一と江東区との関係は深く、明治22年(1889)から明治37年(1904)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のたまに尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治30年(1897)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正5年(1916)、実業界を引退するまでに500余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。
 平成21年(2009)3月 江東区教育委員会

・ 渋沢栄一は1840(天保11)年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれました。
・ 家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問 の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学びます。
・ 「尊王攘夷」思想の影響を受けた栄一や従兄たちは、高崎城乗っ取りの計画を立てましたが中止し、京都へ向かいます。
・ 郷里を離れた栄一は一橋慶喜に仕えることになり、一橋家の家政の改善などに実力を発揮し、次第に認められていきます。
・ 栄一は27歳の時、15代将軍となった徳川慶喜の実弟・後の水戸藩主、徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学するほか欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通ずることができました。
・ 明治維新となり欧州から帰国した栄一は、「商法会所」を静岡に設立、その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わります。
・ 1873(明治6)年に大蔵省を辞した後、栄一は一民間経済人として活動しました。そのスタートは「第一国立銀行」の総監役(後に頭取)でした。
・ 栄一は第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わったといわれています。
・ 栄一は、約600の教育機関 ・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し、多くの人々に惜しまれながら1931(昭和6)年11月11日、91歳の生涯を閉じました。(「渋沢栄一記念財団」HPより。)

 北側に「渋沢シティプレイス永代」「渋沢永代ビル」の大きな建物がありました。



江東区登録史跡
佐久間象山砲術塾跡
 この地は、佐久間象山が西洋砲術塾を開いた信濃国(長野県)松代藩下屋敷があった場所です。象山は松代藩士で、幕末の兵学者・思想家として著名です。文化8年(1811)松代城下で生まれ、名は啓、通称は修理、雅号は「ぞうざん」と称したともいわれています。天保4年(1833)江戸へ出て佐藤一斎に朱子学を学び、天保13年(1842)、藩主真田幸貫より海外事情の調査を命じられました。おりしも、イギリス・清国間で勃発したアヘン戦争(1840~1842)に衝撃を受け、おもに海防問題に取組み、9月には江川太郎左衛門(英龍・坦庵)に入門して西洋砲術を学びました。
 嘉永3年(1850)7月、深川小松町(永代1)の下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教え、このころ、勝海舟も入門しました。嘉永3年(1850)12月、いったん松代へ帰藩しますが、翌嘉永4年(1851)再び江戸へ出て、木挽町(中央区)に砲術塾を開きました。門下には、吉田松陰・阪本龍馬・加藤弘之など多彩な人物がいました。
 安政元年(1854)、ペリー来航に際し、吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座して松代に幽閉されました。元治元年(1864)に赦され、幕府に招かれて京都に上りましたが、7月11日、尊王攘夷派浪士に暗殺され、54歳の生涯を閉じました。
 平成21年(2009)3月  江東区教育委員会

 象山は、当時の日本における洋学の第一人者。嘉永2年(1849年)に日本初の指示電信機による電信を行ったほか、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、更には牛痘種の導入も企図していた。嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航した時も、象山は視察として浦賀の地を訪れている。
 彼の門弟には吉田松陰をはじめ、小林虎三郎や勝海舟、河井継之助、橋本左内、岡見清熙、加藤弘之、坂本龍馬など、後の日本を担う人物が多数おり、幕末の動乱期に多大な影響を与えた。
 元治元年(1864年)、象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に「公武合体論」と「開国論」を説いた。しかし、当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、7月11日、三条木屋町で暗殺される。享年54。
 勝の妹、順が嘉永5年(1852年)に象山に嫁いだので勝は義兄となった。象山暗殺の報を聞いたときは「蓋世の英雄」と評価し、その死を悼んだ、という。

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「元弾正橋(八幡橋)」あれこれ。その2

2013-02-24 22:27:11 | 歴史・痕跡
 そこで・・・。
以下の内容(鉄橋の構造その他)は、
「わが国最初の国産鉄の構造物 八幡橋(元弾正橋)」(財)建材試験センター 木村麗
によるところ、大です。

①弾正橋の命名の由来は。
 『弾正橋(だんじょうばし)』 は、江戸城馬場先門と本所・深川方面を結ぶ重要な交通路(皇居の二重橋前から八丁堀方面に向う、現「鍛冶橋通り」)にあり、(中央区)京橋と八丁堀との間・楓川に架けられた橋。
 橋の名の由来は、橋の東側(八丁堀側)に江戸時代初期に町奉行を勤めた島田弾正の屋敷があったことから。
 橋が架けられたのは、江戸時代の初期、寛永年間 (1624~1643) と伝えられ、その頃の『弾正橋』(「元弾正橋」)は、現在の「鍛冶橋通り」よりも少し下流(南側。一説では、現在の『弾正橋』の50~60m下流)に架かっていた。
 楓川は、江戸時代にこの近辺の土地が造成・整備され、その際に出来た人工の堀。日本橋川の兜町付近(現在の江戸橋ジャンクション付近)から南へ分流し、京橋川・桜川合流地点(現在の京橋ジャンクション付近)に至る約1.2kmの人口の堀。現在は首都高速都心環状線がその跡を通る。特に日本橋川から江戸市中に物資を運びやすい楓川周辺には商人や職人が多く住み、川岸には河岸や蔵が並び、経済の中心として栄えた。
 なお、新馬橋より弾正橋までの部分は、楓川の跡を利用した高速道路なので、地上を通る道路の下を通る構造となっている。そのため、新場橋、久安橋、宝橋、松幡橋、弾正橋は残されている。また、永代通りに架かる千代田橋は、その上を高速道路が通っているにもかかわらず、欄干、橋柱などが当時のまま残され、海運橋は橋柱のみ保存されている。

②廃橋はいつの時点か。橋名は「旧」なのか「元」なのか。
 大正2年(1913 年)、新しい弾正橋が現在の鍛冶橋通りにある位置に架けられたため、当初の弾正橋は「元弾正橋」と改称された。その後、大正12年(1923年)関東大震災後の帝都復興計画で、大正15 年(1926 年)に「鍛冶橋通り」が拡幅され、現在の弾正橋に架け替えられ、元弾正橋は廃橋となった。元弾正橋は、鍛冶橋通りにある現在の弾正橋より下流(南側)に位置したことから、道路の拡幅工事によって廃橋になった、と考えられる。ただ、①の一説(50~60㍍南側)だと違うようだが。いずれにせよ、いきさつからみて「旧弾正橋」と称したことはなく、「元」弾正橋と称するのが正しいようだ。(江戸期の「(木橋としての)弾正橋」→明治期の「元弾正橋」→大正期の「旧弾正橋」→「現弾正橋」という経過をたどった、と。)

③日本製の鉄を初めて使用したのか。
 わが国の鉄骨構造の最初のものは、明治元年(1968 年)に、長崎市の中島川に架けられた銕橋(くろがねばし)通称「てつばし」、明治2年(1969 年)に横浜市にかけられた吉田橋で、いずれも橋長20m、錬鉄製で、材料・設計とも輸入品であった。そのため、わが国最初の国産鉄を用いた構造物は、明治11 年(1878 年)に製作された元弾正橋といわれている。
 なお、どこの製鉄所(例えば釜石などにはあったが)で作られたかは不明なようで、当時ではまだ満足な反射炉もないため、鉄鉱石からではなく、伝統的な製鉄法(たたら)で、砂鉄から製造したとも考えられる、とのこと。
 また、八幡橋(元弾正橋)の引張材の留付けには、現在、ナットが用いられているが、このナットの形状は、当時のものではないようにも見受けられる。
 江東区に保管されている、昭和4 年に現在の地に移設された際の震災復興橋梁図面「八幡橋 一般構造圖、橋台構造圖、縦横断面圖。江東区昭和3 年4 月」によると、補修工事等の際に、ナットは交換された可能性もある、とのこと。
 八幡橋(元弾正橋)が架けられた頃、例えば、同志社クラーク記念館では推定明治25年製のボルト・ナットを、唐招提寺では明治期の修復において類似のボルト・ナットを使用されていたことが発見されたりしている。いずれも輸入錬鉄鋼材のようである。
 八幡橋(元弾正橋)が当時からナット形式であったか明確ではないが、ナット形式の場合、引張材の錬鉄やナットは輸入のものである可能性も考えられる。(上記資料による)

④工部省赤羽製作所はどこにあったのか。
 八幡橋(元弾正橋)を製作した赤羽製作所は、現在の東京都港区三田一丁目付近にあった、工部省管轄の官営工場の一つ。明治4年に工部省内に開設された製鉄寮に製鉄所が創られ、明治6年に製作寮に移り「赤羽製作所」が設置された。明治10年に工作局が置かれると、これに属し赤羽工作分局となった。元弾正橋の他、「高橋」(深川)や「浅草橋」(どちらも当時の橋は、現存していない)も製作している。当初の様子は、以下の記事から伺える。

「工部省製鐵所 赤羽に建設 竿鐵・平鐵も出来る (明治四年九月 新聞雑誌一三)」
 今般東京芝赤羽元久留米藩邸ニ於テ、工部省製鐵所ヲ設ケラルルヨシ、竿鐵、平鐵等ノ如キ我邦ニテ未ダ見ザル品モ容易ク得ルニ至ルベシ、其器械衆目ヲ驚カス機關ナリト云。」

⑤今ある鉄橋では最古に属するとは。
 現存する最古の鉄橋は、大阪・心斎橋らしい。「心斎橋」は、もともと長堀川に架かっていた橋。それまであった木橋が1873年(明治6年)、本木昌造の設計によって鉄橋に生まれ変わった。ただし、ドイツ製で、大阪で2番目、日本で5番目の鉄橋だった。廃橋後、いくつかの場所に移設されたが、鶴見緑地公園の緑地西橋として現存し、日本現存最古の鉄橋と言われている、とのこと。すると、「元弾正橋」は、現存する道路橋としては2番目に古いものとなるらしい。

⑥ウィップル形トラス橋とは。
 ボーストリング形ともいう。ウイップル形トラス橋は、米国人スクワイアー・ウイップル氏の特許が基本となっている。

⑦鋳鉄、錬鉄の違いとは。
 銑鉄(鋳鉄)は融けやすいので鋳造により各種の構造物の製造に用いられた。しかし、脆くて大きな橋などの材料としては用いることができなかった。
 銑鉄の炭素含有量を減らすことができれば純鉄に近い炭素量の少ない鉄ができる。炭素が抜けると、鉄の融点は上昇し粘りけが強くなる。  高温の「反射炉」の側面から取り出したものが錬鉄。初期の錬鉄は純度の低いものであったが、反射炉の構造と規模が改良されて、純度の高い物が得られるようになった。
 錬鉄の赤熱塊を蒸気動力で圧延して錬鉄材を作り構造材が作られた。1889年完成のパリのエッフェル塔は錬鉄製であり、当時の橋、鉄道レールなども錬鉄製のものが多かった。現在は、より強度があって、加工もしやすい鋼鉄に。
 「元弾正橋」については、アーチ部には鋳鉄(ちゅうてつ) 製の5本の直材を繋ぎ、その他の引張材には錬鉄(れんてつ) が使われた、鋳錬混合の橋で、明治・大正期に数多く架設される 「錬鉄トラス橋」 の基となる橋であった。近代橋梁史上や技術史上においても非常に価値の高い橋である。

⑧今の「弾正橋」は。
 
 現在の『弾正橋』 は、大正15年(1926年)、「鍛冶橋通り」 の拡幅開通に伴って架設されたもので、関東大震災の復興事業による橋梁の一つ。その時に、「元弾正橋」は、廃橋となった。
 その後、東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)に、「楓川」が埋め立てられ、その跡に首都高速道路が開通したため、その上を通るように架けられている。それに合わせて、橋の両側(北・南)に公園が設置されるなどの改修工事、さらに、平成 5年(1993)には再整備された。
「楓川弾正橋公園」。
 北側の公園には 『元弾正橋』のモニュメントや川筋のモニュメントが設けられ、現在は、サラリーマンなどの喫煙スペースに。
小さなモニュメント。元の橋を縮尺してあるように見える(橋のたもとの記念碑では「象徴的に復元」とある)。
遠景。
「弾正橋」。
橋上の首都高。

⑨「元弾正橋」の架橋時と現在の構造上の相違は。
架橋時:橋長 8 間2 尺(約15.2㍍)、橋幅 5 間(約9.1㍍)。
現在:橋長 15.2㍍、橋幅2㍍。
 長さは変わらないが、幅が狭くなっている。これも、資料によってもともと(元)弾正橋として架橋されたときから橋幅は2㍍だった、という説もあるが、現在の実際の幅から考えてみて、かつてはもっと幅が広かったと考えるのが、妥当ではないか。
 なお、現在の「元弾正橋」は、赤く塗られているが(「富岡八幡宮」との関連あり?)、架橋当時は何色だったのか? モニュメントでは黒っぽい色をしているが。
 「廃橋となった元弾正橋は、東京市最古の鉄橋を記念するため、昭和4 年(1929 年)深川区(現江東区)油堀川支川に移し、再用された(昭和3 年12 月3 日起工、昭和4 年5 月1 日竣工)。富岡八幡宮の東隣であるため、橋名は八幡橋と改められた。この時、橋幅は2m ほどに狭まり、床版の前面打換えが行なわれたとの記録がある。」(上記資料より)
 

⑩「三ツ橋」とは。
 かつて、北東から楓川、北西から京橋川、東へ流れる桜川、南西へ流れる三十間堀が交差しており、この交差点に近い楓川に弾正橋、京橋川に白魚橋、三十間堀に真福寺橋が架かり、この三橋を三つ橋と総称していた、とある。江戸名所図会にも「三ツ橋」として紹介されており、『弾正橋』(楓川)、『白魚橋』(京橋川)、『真福寺橋』(三十間堀) は、三橋合わせて 俗に『三ツ橋』 と呼ばれ、その眺めのよさから江戸の名所の一つとなっていたようだ。
 現在、これらの川は全て埋め立てられ、これらの橋もすべて廃橋になり、現在は『弾正橋』 だけが残っている。
「楓川」跡の首都高。「弾正橋」。
「弾正橋」にあった標識。「白魚橋駐車場」とある。「白魚橋」は駐車場名として残っている。

 一ツ所に橋を三所架せし故にしか呼べり。北八町堀より本材木町八丁目へ渡るを弾正橋と呼び、(寛永の頃今の松屋町の角に、島田弾正少弼やしきありし故といふ。)本材木町より白魚屋鋪(やしき)へ渡るを牛の草橋(注:後の白魚橋)といふ。又白魚屋鋪より南八町堀へ架する橋を、真福寺橋と号くるなり。
記念碑にある「三ツ橋」の図。江戸期。
「八幡堀緑道公園」内にある「東京名所図会(正しくは「新撰東京名所図会」か?)。左奥に見える橋が鉄橋になった「弾正橋」。手前の橋は、「白魚橋」。ここでは、二つの橋しか描かれていない。
それよりも前・明治中期のようす。四方に橋が架かっているように見える。

⑪「八幡橋」の下の緑道は
『元弾正橋』 が移設された江東区の 「富岡八幡宮」 の東隣には、当時は「油堀川支川(八幡堀)」 が流れており、当初はれっきとした堀に架かる橋であった。昭和51年(1976 年)には堀も埋め立てられ、「八幡堀緑道公園」となり、『八幡橋』 は緑道公園を跨ぐ歩行者専用橋となっている。
 「油堀川」(下之橋から木場に至る運河。元禄年間に掘られた運河で物資の運搬が盛んだった。現在の佐賀町、福住町の両岸には特に油問屋が多く、緑橋の南西には油商人会所もあり、油堀河岸とか油堀と称された)は、昭和50年(1975年)に埋め立てられ、そのあとに首都高速9号深川線が建設された。「油堀川支川(八幡堀)」は、「富岡八幡」「深川不動」「深川公園」を取り囲むように流れていた。
「油堀川」埋め立て後の首都高深川線。
「八幡堀緑道公園」のようす。
公園の入り口付近にある旧大島川(大横川)に架かっていた橋「新田(にった)橋」。
説明板。
 かつて、この付近は水路が縦横に走っていた。埋め立てられて橋なども消失したが、まだまだその痕跡は多くあるようだ。
明治中期のようす。中央付近が「富岡八幡宮」。周囲の堀が「油堀川支川(八幡堀)」。この少し南側は海岸線だった。

⑫芭蕉の句について
「三ツ橋」。弾正橋の橋のたもとにある記念碑と同じ絵柄。左が「真福寺橋」中央奥が「牛の草橋(白魚橋)」手前が「弾正橋」。
 『江戸名所図会』(三ツ橋)の挿絵に『風羅袖日記』「八町堀にて」として載っている芭蕉の句。
『風羅袖日記』 八丁堀にて
   菊の花さくや石屋の石の間
                      芭蕉
(きくのはな さくやいしやの いしのあい)
元禄6年秋の作。
 注:江戸時代、「八丁堀」付近には石屋が多かった。船での運搬に便利だったためである。

寛政11年(1799年)10月発刊。
文化元年(1804年)、『芭蕉袖日記』として再刊。860句余りが収録されているが、そのうち存疑95句、誤伝21句、とのこと。この句を芭蕉が作ったことは、間違いないらしい。

素綾自序
 其いつ歟、芭蕉袖日記といへる発句集を師より伝はりて、陀袋にこめをきし事年あり。其句数七百五十有余なりし、予また十余り九とせばかり前の頃、牛路鯨浜にさすらひて、蕉翁のツエを曳れしふる道をしたひ、都鄙に間々書おかれたる色紙、短冊の句々を写し得て、武蔵野、野ざらし、鹿島、よし野、更料(科)、奥の細道等の紀行に洩たるを加へ、都て八百六十余句とはなれりける。
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「元(旧)弾正橋」(八幡橋)あれこれ。その1

2013-02-23 21:07:59 | 歴史・痕跡
 とても由緒ある橋。そのせいか、説明用のプレートがいくつも存在。

その1
橋の東詰めにある「説明版」。

国指定重要文化財(建造物)
旧弾正橋(八幡橋)
 富岡一-一九―富岡二-七
 昭和五二年六月二七日指定
 八幡橋は、明治十一年東京府の依頼により、工部省赤羽製作所が製作した長さ十五・二メートルの単径間アーチ形式の鉄橋である。もと京橋楓川(中央区)にかけられ弾正橋と称したが、大正二年(一九一三)市区改正事業により新しい弾正橋がかけられたので元弾正橋と改称した。大正十二年関東大震災の帝都復興計画により、元弾正橋は廃橋となり、東京市は昭和四年(一九二九)五月現在地に移して保存し、富岡八幡宮の東隣であるので八幡橋と称した。アーチを鋳鉄製とし、引張材は錬鉄製の鋳錬鉄混合の橋であり、かつ独特の構造手法で施工している。この橋は鋳鉄橋から錬鉄橋にいたる過渡期の鉄橋として近代橋梁技術史上価値の高い橋である。
江東区教育委員会

その2
八幡堀緑道公園にある「説明版」。
(重複する部分は避けて)

 八幡橋は東京市で最初に架けられた鉄橋である。(・・・)現存する鉄橋としては最古に属するものであり、また菊の紋章のある橋としても有名である。(・・・)独特の構造手法を用いて施工してあり、技術史の上でも価値の高い橋である。

その3
人力車をモチーフにしたブロンズ像にある「説明版」。上部に「東京名所図会」の絵柄が刻まれている。

 八幡橋は明治11年(1789年)に京橋区楓川に架けられ、島田弾正屋敷が近くにあったことから弾正橋と呼ばれていました。
 現在の中央区宝町3丁目付近に位置します。弾正橋は馬場先門から本所深川とを結ぶ重要街路の一つで文明開化のシンボルとして架橋されましたが、その後関東大震災の復興事業により廃橋となってしまいました。
 しかし昭和4年(1929年)には、その由緒を惜しみ現在地に移設され、八幡橋と名前も改められました。現在では江東区が大切に保存しています。
 この東京名所図会(三ツ橋の現況)には明治34年(1901年)頃の弾正橋(左奥)が描かれており、当時の情景が偲ばれます。弾正橋、白魚橋、真福寺橋とをあわせて三ッ橋と呼ばれ、古くから人々に親しまれていました。

その4
米国土木学会からの「土木学会栄誉賞」記念碑の銘文。

 八幡橋は明治11年(1878)我が国において最初に日本製の鉄を使って造られた鉄橋で、国の重要文化財や東京の著名橋になっています。橋の形(ウィップル形トラス)は、米国人スクワイアー・ウィップル(SQUIRE・WHIPPLE)氏の特許が基本となっています。
 ウィップル形トラス橋の名誉と日本の歴史的土木建造物「八幡橋」の優れた製作技術に対して平成元年(1989)米国土木学会より「土木学会栄誉賞」が送られました。

 このように記念碑があって、それぞれ興味深い表現がありました。大枠では相違点はありませんが、それでもいくつかの疑問・興味がわき出てきました。
 
①弾正橋の命名の由来は。
②廃橋はいつの時点か。橋名は「旧」なのか「元」なのか。
③「三ツ橋」とは。
④日本製の鉄を初めて使用したのか。
⑤工部省赤羽製作所はどこにあったのか。
⑥現鉄橋では最古に属するとは。
⑦ウィップル形トラス橋とは。
⑧鋳鉄、錬鉄の違いとは。
⑨今の「弾正橋」は。
⑩元の橋と現在の橋との構造上の違いは。
⑪「八幡橋」の下にはかつて堀があった。・・・
 けっこう気になる点が出てきました。

朱塗りの橋。現在は歩道橋として利用。菊の紋が見える。
東側。階段が付けられ、人の通行のみ。
近所の小学校。「区立数矢小学校」の下校風景。校名は、江戸時代、この地にあった三十三間堂での弓術競技「通し矢」(通称「大矢数」)に由来している(「矢数」ではなくて「数矢」とひっくりかえっているのが、おもしろい)。
大勢の子ども達が渡っていく。
橋の下からのようす。
いささか無骨な印象が、またいい風情。
緑道公園の南側から望む。


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名取市閖上(ゆりあげ)浜。大震災の爪痕。その3。

2013-02-20 19:01:21 | 歴史・痕跡
名取市閖上(ゆりあげ)浜
 名取川河口にある浜の名前です。河をはさんで北側は仙台市になります。
 宮城県の地名でも難読とされる閖上(ゆりあげ)ですが、今回の震災で甚大な被害を受けました。
 名物朝市の場所も流されました。朝市は日曜日・祝日に開催され、なんども足を運んだ場所です。秋には秋刀魚祭りがあって、気仙沼で水揚げされた秋刀魚の振る舞いがあり、その場で焼いて食べることができました。
 朝市は名取市内で再開されています。いつの日か閖上で朝市を開きたいとの願いのもと、月1回程度開かれるようです。
 閖上の地名の由来については、以下のとおりとなっています。
閖上公民館トップページ
"名取川河口にある閖上浜は,昔「名取の浦」と呼ばれていた。
清和天皇の貞観(しょうかん)13年,この海岸に霊験あらたかななる十一面観音像が,波に"ゆり上げ"られたのを漁師がみつけた。それ以来この浜を「ゆりあげ浜」とよんだ。
現在高舘山の那智神社に安置されている那智観音像がそれであると伝えられている。
「ゆりあげ浜」の文字を「閖上」と書いたのは,いつ頃か定かではないが,次のような話が伝えられている。
昔,仙台藩主が大年寺山を参拝したおり,山門内からはるか東に波打つ浜を見て「あれはなんというところか」と家来にたずねた。
「ゆりあげ浜と申します」と答えたところ,重ねて「文字はどのように書くのか」たずねた。「文字はありません」と答えると,藩主は「門の内側から水が見えたので,これからは門の中に水をかいて『閖上』とよぶように」といわれた。
それから「閖」の文字ができたと言い伝えられている。"
閖上の地名の由来
"昔、何代目かの殿様が大年寺の参拝を終わって、石段を降りかけると、惣門内から遥かに名取川が生みにそそぐ河口付近の水が光って見えたので、近侍の者に「あれは何処か」と訊ねた。近侍の者が「ゆり上げで浜でございます」と答えると、殿様は即座に「門の中に水が見えたのであるから、これからは門の中に水を書いて『閖上』とするように」と命ぜられたことに始まったといわれている。また、地元では承応年中(一六五二~一六五五)に火災が頻発したので、この地の水門神社(湊明神)の神託を乞うたところ、神名を地名にすれば永く火災を除くといわれ、神名{水門」を一字に合成し「閖」と作字して地名にあてたという。"
 最初は、「水が光って見えた」というところから、門構えに「光」をいれて書き、後に「水」に変わったという話をどこかで聞いた気がしているのですが、勘違いかもしれません

(以上、「SendaiGumbos 仙台ガンボス: 閖上浜 doraneko-festival.blogspot.com/2011/03/blog-post_31.html」より引用させてもらいました。)

 翌日、ここを案内してもらった。途中、あそこの信号のところには何十体もの遺体が流れ着いて折り重なっていた、田んぼの用水路の中にもあった、白服の人たちが取り囲んでいるのを見ると、また遺体が見つかったんだな、と。
 まったく何もない地域が広がる。ここは住宅がたくさん建ち並んでいた場所。友人の家も失われた。車を運転しながらのつぶやきが切実だった。
はるか遠くの白雪の山並みは蔵王連山。仙台空港が遠くに見える。
一面何もない。ここの地域は土台からすっかり津波にさらわれてしまったのか。住宅地なのか田んぼなのかの区別もつかないほど。
冬の太陽の光がまばゆいほど。
送電線がかつてここで人びとの暮らしがあったこと、そしてこれからの再建の道の遠さを物語る。
一隅にあった卒塔婆。一周忌法要。まもなく「3回忌」を営む日がやってくる。
ほとんどの船が破損したり、流されたりした中で、奇跡的に残った知人の船。こうして今も無傷で停泊している。
 娘の名を付けて、「ASUKA」と。これからの希望を明日に託して。
 二日間、案内してくれた知人、その関係者の方々に感謝、感謝。また来ます。

 人に話せるほどの苦しみ、悩みや望みは、まだまだ軽いもの。人に語れない苦悩、そして願いは、ぐっと心の奥に秘めたまま。
 今回の震災。本当に「難儀だった」ことを思う。厳しい現実・過去を受け入れ、黙して語らない(語れない)深い思いは、未来への深い祈りに通じる。そんな人びとのあるがままの生き様をしっかり受け止めなければ、と。
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JR気仙沼線。南三陸町防災対策庁舎。大震災の爪痕。その2

2013-02-19 20:56:44 | 歴史・痕跡
 海岸沿いを走る「気仙沼線」。リアス式海岸に沿って、風光明媚で、漁港や海水浴場など見所満載だった路線。
かつての気仙沼線。

 東日本大震災で、線路や駅、鉄橋などが崩壊し、全線が不通となった。特に、大津波で多くの駅が流失、津谷川橋(気仙沼市本吉町:陸前小泉 - 本吉間)が落橋、各所で路盤・築堤が流失(消失)するなど、沿岸部を通る陸前戸倉 - 南気仙沼間は壊滅してしまった。復旧には自治体の復興計画による路線の変更も想定できるため、全く見通しがつかない状態に。
 そこで、2012(平成24)年5月21日より、年内のバスによる輸送開始を目指し、線路を撤去して舗装してバスが通れるようにし、また並行して走る一般道路も活用する仮復旧計画が実現。こうして、不通区間のBRT(Bus Rapid Transit・バス高速輸送システム)による運行が始まった。同年8月20日よりバス代行運転扱いとして運行を開始。BRT用の車両はJR東日本が用意し、「ミヤコ―バス」に運行を委託していたが、12月22日より、JR東日本がバス事業者となりBRTの本格運行を開始した(実際は、引き続きミヤコ―バスが行っている)。
バス。
「陸前階上」駅(バス路線)。
プラットホームはそのまま(「YouTube」より)。
この区間は、線路を撤去して舗装道路に。
橋桁や柱が崩壊し、すでに線路は撤去されている。本吉町下宿付近。
震災直後のようす。(「写真集」より)
気仙沼線。二度と見ることが出来ない鉄橋を走る気動車。
すっかり線路のなくなった築堤。(「陸前小泉」駅付近?
橋脚のみ残っている。
左奥が海。
中央奥にトンネル。
現在の鉄橋のようす。
遠く、小さな入り江(清水浜付近)に架けられた鉄橋も半分以上が崩壊。手前右は自動車の残骸の山、山。長浜街道内井田付近。
逃げ遅れ車の中に閉じ込められたまま、亡くなった方も多かったという。
南三陸町・防災対策庁舎。
すっかり何もなくなった街並みに残されている。このあたりの地名として、「塩入」「塩見」がある。もともと津波が襲いやすい地域。そのための庁舎でもあったのだが。
多くの方々が犠牲になった。献花台が置かれ、訪れる人も多い。本吉街道沿い。
すぐ脇にあった倒れたままの電柱。雑草が生い茂り、2年という年月を感じる。大震災前、周囲にはたくさんの家々が立ち並んでいた。
JR・古川駅構内。
色とりどり。
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気仙沼。大震災の爪痕。その1。

2013-02-18 23:12:08 | 歴史・痕跡
 東日本大震災。3月11日で丸2年。震災での犠牲者の3回忌法要も行われる。この2年、早いと感じるのか、長く感じるのか。やっと機会を得て、初めて知人の案内で気仙沼、南三陸町、仙台市閖上浜などを二日がかりで行って来た。
 東北新幹線で「古川」まで。途中、仙台付近は雪。そこから気仙沼まで車で約2時間30分。古川駅に降り立ったとき、すぐに感じたのは肌を刺す寒さ。車の表示・外気温マイナス3℃。あの日は、みぞれから雪に変わって寒さに、押し寄せてくるどす黒い大津波による海水が加わって・・・。映像では実感出来ない寒さを。
 同乗の方。仕事先で出くわしたとのこと。電気も水道も止まり、足下は冷たい海水に浸かる、凍えるような寒さの中、室内の燃やせる物はすべて燃やして、皆で寒さをしのいだ、まだまだ不幸中の幸いだった、と。そう出来なかった人びとのうちで、低体温などで亡くなった方も多かった、と。
 震災の直後、山形の知人の元に行ったときの話でも、電気が止まり、こたつ、ファンヒーターなどの暖房器具が使用できない、幸い物置に昔ながらの古いストーブがあったので助かった、ないところは大変だった、と。それを思い出す。電化製品どっぷりの生活、都会でも同様になるはず。
 内陸部をしばらく東に向かい、それから北上。ふと海が見えはじめて、「海が見えますね」とつぶやくと、びっしり道の向こうは建物があってまったく海は見ることが出来なかった、と。言われてみると、すっかり視野が開けたあたりは、雑草がちらほらある空地だらけ。不明を恥じる。
 お寺に立ち寄ることにしたが、震災後、街道沿いから左に曲がって上っていく、その角が分からくなり、道に迷ったこともあった、と。目印の建物がすっかり津波で流され、跡形もなくなっていたので・・・。今、土台も片付けられ、更地のまま。そこはお店をやっていたが、一家3人とも皆、犠牲になった、と。
 お寺はその家の裏手、ちょっとした高台にある。どうして裏手の方に逃げなかったのかな? 津波の情報が正確に伝わっていない、電気が止まってラジオを聞けず、携帯も電池切れ、そういう方が多かった。それに二日前にもあった大きい揺れの時、津波の予報よりも低かった、だから今度もたいしたことがない、と。結果、その付近はすべて全滅! 死者・行方不明者も、大勢。かえって東京などの方がTV情報が的確だった、現地はまったくの無情報状態だった、と。
 そういえば、福島原発事故でも同じような状況が。的確な情報も伝わらないまま、高濃度の放射能汚染に晒された・・・。
お寺のある高台から。すっかり更地に。直後の映像、写真ではびっしり建物、船が流され、散乱していた場所。気仙沼線「松岩駅」西方。線路も完全に消失している。
右奥の崖の中腹まで津波が押し寄せた。
左奥遠くが、気仙沼湾。内陸の奥まで遡上してきたことが知れる。
お寺のご住職からいただいた当時の記録写真集。
震災直後の松岩地区(「写真集」より)。
気仙沼港。衝撃で曲がったままの鉄柱。遊覧船の船着き場付近。
(「写真集」より)
魚市場。その当時のまま、衝撃の大きさを物語る。
まだまだ手つかずの状態。
魚市場のようす。
土台のコンクリートを残すのみ。
仮設の建物がちらほらあるだけ。我が家のの近所でこうした土台があると、いよいよここに家が建つ。ここが玄関で、このあたりが風呂場か、などと夢がある。しかし、ここではそうした生活の跡しか残っていない。この落差・衝撃は大きい。

大きな施設があったのだろう、更地になっていた。
頑丈な汐留め用の扉が根こそぎ奪われ、支柱が曲がったまま。

注:冒頭の写真。奥に見えるのが「大島」。港から船で30分かかるとのこと。ここの出身の方とも話を聞く機会があった。

 
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足立区立郷土博物館

2013-01-08 18:44:21 | 歴史・痕跡
 葛西用水(曳舟川)。その親水公園(緑道)に沿って、葛飾区には「葛飾区郷土と天文の博物館」があります。そこから上流にたどって常磐線のガードをくぐりしばらく進むと、「足立区立郷土博物館」。二つの郷土資料館が古くから農業用、物流などで活躍した「用水路」沿いにあるというのも意義深いものがあります。
 「足立区立郷土博物館」は、東京都足立区の歴史、生活文化に関する資料を収集・保管するとともに、展示等による事業活動を実施している博物館。昭和61(1986)年に開館。平成21(2009)年、展示内容を一新してリニューアルオープン。新テーマは「江戸東京の東郊」。
 足立区内の古文書、民具などを収蔵、全国的に知られる資料も次の通り収蔵、公開しています。
・綾瀬金子家文書 - 慶応4年3月13日から4月1日に設営された新選組の五兵衛新田屯所に関する古文書。寄託資料。
・下山事件資料 - 昭和24年7月5日に発生した下山事件に関する同時代資料。
・浮世絵コレクション - もとの松方三郎コレクションを中心に約1060点。
・地口絵紙コレクション - 地口絵紙とは地口(一種の駄洒落)と滑稽な絵で構成される絵で行灯にして飾る。現在、東京で製作される地口絵 紙をコレクション。

 今回は、外回り編。
建物南側(庭先)には、「道標」や「石臼」などが展示されています。
芭蕉の句碑。「春も漸けしきととのふ月と梅」。文久3(1863)年建立。千住3丁目氷川神社境内にあったもの。
「富士講・一心講」碑。昭和13年建立。富士山信仰のよすがとして。民有地から移設された。
「力石」。いくつも置かれています。

 (以下、「wikipedia」による)
 力石(ちからいし)は、力試しに用いられる大きな石。江戸時代から明治時代まで力石を用いた力試しが盛んに行われた。伝説的な人物が投げたと言い伝えられる力石も各地にある。
 力石の存在が確証されるのは、16世紀に作られた「上杉本洛中洛外図屏風」で、弁慶石の銘を持つ力石が描かれている。また、1603年の日葡辞書に力石の項があり、「力試しをする石」とされている。江戸時代の連歌に「文治二年の力石もつ」という句があり、おそらく文治二年(1186年)の銘か言い伝えがある力石があったのであろう。現存する力石に刻まれた年としては、寛永9年(1632年)が知られているかぎりもっとも古い。
 江戸時代から明治時代にかけては力石を用いた力試しが日本全国の村や町でごく普通に行われていた。個人が体を鍛えるために行ったり、集団で互いの力を競いあったりした。神社の祭りで出し物の一つとして力試しがなされることもあった。
 20世紀後半に力試しの習俗は廃れ、かつてあった力石のほとんどは行方不明になった。一部では住民が喪失を惜しんで力石を神社に奉納、境内に安置した。また後には自治体の民俗文化資料館に置かれたり、看板を立てて所在と由来を示したりして残された。21世紀初めまでに高島愼助が調査して報告した数は約14000、市町村が有形文化財とした力石は約350個、無形文化財に指定された力持ち(力試し)は1ある。また、18の力持ちの大会が神社の祭りや非宗教的大会として開催されている。
 石の形は表面が滑らかな楕円形が多い。滑らかな石は持ち上げにくいが、体に傷をつけずにすむ。ほとんどの力石は60キログラムより重い。米俵より軽くてはわざわざ石を用意する意味がないという事であるらしい。上限は様々で、中には300キロに達するものもある。あまりに重い石は一人で持ち上げることは不可能だが、それはそれで別の挑戦方法がある。
 人々は、山や川原で手ごろな大きさの石を見つけて村に持ち帰り、力石とした。重さが異なる石を複数用意することが多かった。置き場所は神社や寺社、空き地、道端、民家の庭など様々であったが、若者が集まるのに都合が良い場所であった。
 石に文字を刻むことも盛んに行われた。力石という普通名詞としての名のほか、石に与えられた固有名を刻んだものがある。また、持ち上げた人の名と年月日を記念に刻んだものもある。しかし大半は無銘で、慣習と記憶が薄れるとただの大きな石と区別がつかなくなる。
 力石を持ち上げることを、力持ち、力試し、石抱え、担ぎ上げ、盤持ち(ばんもち)などという。典型的には石を抱えて持ち上げる。持ち上げ方は、胸まで、肩まで、頭上まで、体に付けずに、など様々である。また持ち上げてから担いで歩いたり、体の周りを回したりすることもある。石に縄をかけて持ちやすくしたり、非常に重いものでは石が地面を離れればよしとしたり、倒れている石を引き起こせば良いとするなど、石の重さと個人の体力に応じて様々な条件と目標があった。
 力試しに挑戦するのは、村の若い男であった。娯楽が少なく力仕事が多い時代には、力持ちは若者のスポーツの一種であった。通過儀礼的に、力石を持ち上げられると一人前とみなされた村もある。しかし過去に一、二の人しか持ち上げられなかったという石もあり、力試しの位置づけもまた多様である。
 伝説上の人物が持ち上げたり放り投げたりしたと伝えられる力石が、やはり全国各地にある。たいていは一人では持ち上げられそうにない巨石である。

 それにしてもよく集めたものです。初めて実物を見ました。
「道標」。
「水戸海道・道標」。千住4丁目の角にあって、日光街道との分岐点にあったものを移設。「海」という表示に注目。
現在、その場所にある新しい「道標」。
「旧千住新橋」。
 1912(明治45)年から1926(大正15)年にかけて荒川放水路(現在の名称は「荒川」)を開削した際、分断される日光街道に1924年6月20日に架けられた。橋名は、隅田川に架かる「千住大橋」との対比のため。1972(昭和47)年から架け替えを行い、1983(昭和58)年に新しい橋が完成。その時の旧橋梁の親柱を移設。
かなりごつい感じの柱。
現在の「千住新橋」。上下線で二つの橋に分かれている。
「裏門堰」の柱。これも荒川放水路開削の際、不要になったものを移設したらしい。ただし、どこにあったものなのか何の説明もなく、放置されたまま(通りかかった職員に聞いても要領を得なかった)。
「東渕江庭園」。建物の西側は池を中心とした日本庭園になっています。
「バクチノキ」。絶えず古い樹皮が長さ数10cm程度のうろこ状に剥がれ落ち、黄赤色の幹肌を顕す。木の名の由来は、これを博打に負けて衣を剥がれるのにたとえた、とのこと。
「枯れ尾花」。冬の日差しの中で、静かな池の畔。
池越しに見る郷土博物館の建物。
 昭和40年代前半まではこの付近、田んぼや畑が多く、近郊農業の盛んな農村地帯でした。広い道路は「葛西用水」沿いの南北の道くらいで、あとはあぜ道。都市化に伴って急速な土地開発・整理が行われ住宅地に変貌しました。
昭和7年度当時のようす。「東渕江村大谷田」地区。中央右の南北の用水が「葛西用水」。その東が「八か村落し」用水。周囲は、「佐野新田」などの新田の地名が確認できます。
館前の「東渕江橋」からの「葛西用水」。
少し下流・かっぱ橋にある河童のモニュメント。
入り口正面にあるモニュメント。土地区画整理事業の完成を記念してのもの。
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墨田区・北斎通り(その2)。

2012-12-14 20:07:56 | 歴史・痕跡
 このあたりから清澄通り(「江戸博」)との出会いまで随所に北斎の浮世絵が。また、由緒ある史跡なども多くあります。

「深川万年橋」。北斎の生きた時代と変わらぬ橋名や名所は今も。
 通り沿いには古めかしい建物も。この屋号は「青桺傳動機店」。今も営業しているのかどうか。
「百人一首うばがゑとき 持統天皇」。「春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣干すてふ天の香具山」を絵解きしたもの。
「新版浮絵忠臣蔵 初段鶴ヶ岡」。
「北斎漫画 相撲」。
 北斎は題材は多種多様。枕絵から子供向けのものまで次々と出版。ただ引っ越しを93回も繰り返し(その大半は現在の墨田区内)、金銭感覚もうとく、終生貧乏暮らしだったようです。終焉の地は浅草聖天町・遍照院境内仮宅。
「北斎生誕の地」。通り沿いの北側。とある店先に掲示されている。
「野見宿禰(のみのすくね)神社」。「北斎生誕の地」の掲示板と四つ角をはさんでほぼ南側にある神社。かつて東側に高砂部屋があった。明治18(1885)年親方の高砂浦五郎が津軽藩上屋敷跡地であったこの地に相撲の神様・野見宿禰を祀ったのが、この神社の始まり、という。石柱には力士や相撲関係者の名前が刻まれている。また、境内には歴代横綱の名を記した石碑がある。
 野見宿禰。
 能見宿天穂日命の14世の子孫であると伝えられる出雲国の勇士で、垂仁天皇の命により当麻蹴速と角力(相撲)をとるために出雲国より召喚され、蹴速に勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられるとともに、以後、垂仁天皇に仕えたという。また、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる「埴輪の制」を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなった、という。
「緑町公園」にある説明板。「津軽藩上屋敷跡」この屋敷の火の見櫓。一般では板木で火災を知らせたが、この屋敷の火の見櫓には太鼓が下がっていて、その太鼓で火事を知らせていたという。
その説明板に載っていた江戸時代の切絵図。矢印が現在地。上が南の方角。中央の水路が「南割下水」。右側が現在の「江戸博」付近。上部(南)の用水路は「竪川」。現在、上には首都高が走る。
緑町公園。「津軽家上屋敷」跡地。この公園の敷地南側に「すみだ北斎美術館」を建設中(平成27年開館予定)。
 《区の解説文》
 世界的な画家として評価の高い「葛飾北斎」は、本所割下水(現在の墨田区亀沢付近)で生まれたと言われており、90年の生涯のほとんどを区内で過ごしながら、多くの作品を残しました。区では、この郷土の偉大な芸術家を区民の誇りとして永く顕彰するとともに、観光や産業などの地域活性化の拠点ともなる施設「すみだ北斎美術館」の開設準備を進めています。「すみだ北斎美術館」では、作品の展示はもとより、収集保存、情報提供、教育普及など、北斎生誕の地の美術館にふさわしい事業を幅広く展開していきます
「観光案内地図」。公園内に設置されている。
「東都駿台」。植木の中に埋もれているのも風情がある。
「江戸遊」。しゃれた雰囲気の銭湯スパ。
HPから。
「江戸博」。
「フユサクラ」。ちらほら花が。
「従千住花街眺望ノ富士」。

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