チホーの生活の知恵

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居座るハンニバルと割れるローマ政界の言論(同⑧)

2007-05-03 10:10:14 | Weblog
紀元前206年冬、スキピオは4年ぶりに帰国した。
しかし、ハンニバル軍は相変わらずイタリアの南部に居座っていた。

これに対するスキピオの意見の要旨は次の通りである。
「これからはローマがカルタゴに戦いをする。
ハンニバルがイタリアでやってきたことと同じことを、ローマ人がアフリカでやるのです。
敵の本拠地を攻撃するのがいかに有効であるかは、ハンニバルが実証してくれたからです」

これに対してローマの元老院の第一人者である70歳のファビウスはこう言った。
「お若いの、まずやるべきことはイタリアに平和を取り戻すこと。アフリカに行って戦うのは、その後のことだ」と。

元老院の議場の賛同の空気は五分五分であった。
高齢者はファビウスに賛同し、若い議員はスキピオに賛同した。
結果、折衷的な妥協が成立した。

スキピオの任地はローマの属州である、シチリア島に決まった。(映画「ゴッドファーザー」の故郷)
そして、次年度であればアフリカに向かう権利も認められた。
但し、これはスキピオの個人的な権利であり、正式な官職=執政官(参謀長クラス?)の権利は与えられなかった。
普通の司令官の職であった
(費用は与えるので傭兵を雇って勝手にアフリカに行っても良いが、責任は元老院にはない、という意味)
紀元前205年、30歳になった「お若い人」はシチリア島に発った。


[追記]

シチリア島は思ったより大きな島ですね。
日本の四国より大きいですね。
シチリア 面積 約25700平方キロ  現在の人口 約509万人
四国   面積 約18800平方キロ  人口  約400万人

また、当時は現在の様に乾燥しておらず、肥沃な土地であり小麦の出荷量が多かったと記録されています。






ローマ軍 スペインに侵攻 (同 ⑦)

2007-05-03 10:09:22 | Weblog
「攻撃は最大の防御である」とはよく言ったものである。

仮にイタリア地内にてハンニバル軍・カルタゴ軍に勝ったとしても、これはあくまでも本土防衛戦に成功したということにしかならない。
その防衛すらままならないローマ連合にとって、カルタゴの植民地であるスペインにおける戦線が差し詰まってきた。
というのは、前に書いたイタリアに侵攻したハンニバルの弟のハシュドゥバルが前207年に戦死したことを受けて、スペインのカルタゴ軍は総力をあげて反撃に出ることを決意した。
スペインにおけるカルタゴの戦力は総勢7万4千からなる大軍であった。(現地の傭兵含む)

これに対しローマ軍の司令官は29歳の天才的な武将「プブリウス・コルネリウス・スキピオ」であった。
総勢4万8千の兵力(歩兵4万5千・騎兵3千)で、南フランスの海岸沿いに西に向けてゆっくりと進攻した。

[イリパの会戦]

カルタゴ兵全線戦で正面に突き進む。
ローマ軍は主力の重装歩兵団は敵の両翼の歩兵を攻撃す。
カルタゴ軍の象はローマ軍の放つ矢を浴びて、怒り狂って敵に向かうどころか味方の騎兵に乱入。
ローマ軍騎兵がカルタゴ軍の騎兵に向けて攻撃。
徐々にカルタゴ兵疲労す。
カルタゴ軍の傭兵の逃走始まる。
カルタゴ軍総崩れとなり、敗走しはじめる。
逃げ切れたカルタゴ兵はたかだか6千であった。

紀元前206年の冬、スペインはカルタゴの植民地から解放されローマ連合国の支配下となった。
(後年、スペインもローマ連合の同盟国となる)



ハンニバルの援軍壊滅す!(同 ⑥)

2007-05-03 07:39:31 | Weblog
紀元前207年春、スペインの司令官だったハンニバルの弟のハシュドゥルバルがガリアの傭兵3万を加えて総勢5万の兵にて北イタリアに入った。
この時、ハンニバルは40歳になり、弟は30代であった。
ハンニバルの戦隊は南イタリアで一進一退の状況であった。

北よりイタリアに入ったハシュドゥルバルは南イタリアの兄と合流の必要性があった。
兄のハンニバルは「いずれ弟の戦隊が北から到着する」ことは知っていたが、当時は携帯電話などない時代である。
情報は手紙しかない。
弟はポー河付近にて兄に手紙を送った。
6人の騎士に持たせた手紙には合流予定地が記載されていた。

ところが6人はローマ側に捕らえられ、手紙はイタリア南部司令官のネオに届けられた。
(まるで、明智光秀の毛利軍宛の手紙が秀吉に渡った状況と似ていますね)
ネオは精兵7千を率いて、夜間にひっそりと北上し、北部方面司令官リヴィウス率いる3万の戦隊と合流した。
(合計3万7千)

[メタウロ会戦]

戦場は崖に挟まれた狭い一帯である。
数ではカルタゴ軍が優っていたが、地形がローマ軍に有利に働いた。
前線では五分五分であったが、これを見たネオ司令官率いる7千の精兵は戦線を離れ、味方の背後を迂回して敵の右翼を突いた。
これがきっかけでまずガリア兵が総崩れとなり、スペインから従えて来た3万の兵が全滅した。
ハシュドゥバル自身も戦死した。

ハンニバルが全てを知ったのは、敵兵より投げ込まれた包みによってであった。
包みの中から弟の生首が現れた。
以後、ハンニバルは南イタリアの「長靴の先端」にこもったきり、2年間出てこなかった。

[当時、スペインはカルタゴの植民地であった]
[カルタゴとはフェニキア人が築いた都市国家である。]
[フェニキア人とは、現在のレバノン付近に住んでいた人種であるがはっきりしない。レバノン人の祖先か? ]
[ガリア人とは今のフランス人の祖先と考えて良いと思います]

5月1日にリセット



ハンニバル将軍 VS ラオウ(同 ⑤)

2007-05-03 07:37:36 | Weblog
[閑話休題]

ハンニバル将軍の外貌は写真が残っている訳ではありませんので、詳しいことは分かりません。

でも、イメージとして書かれた挿絵なんかを見ますと「北斗の拳」の「ラオウ」にどことなく似ています。
ラオウほどゴッツイ感じではなく、少しスリムにした感じです。
そして、少し悲しんでいるようなイメージで描かれています。

そう言えば、ラオウも闘争の鬼神でしたね。
ハンニバル将軍は軍の司令官としても天才であり、軍略家でもありました。
また政治家としても卓越していたと歴史家は言っているようです。

一寸戻りますが、紀元前216年の「カンネの会戦」は陸軍士官学校ならば世界中どこでも学習します。
もちろん、イラク戦争に参戦した参加国の司令官クラスは誰でも知っているはずです。





ハンニバル軍2万6千 VS ローマ連合軍75万 (同④)

2007-05-01 07:31:33 | Weblog
これが歴史にいう「第二次ポエニ戦争」です。
(紀元前218年~202年)

ローマ連合軍は何度戦っても勝利を収めることができなかった。
数がモノをいう陸戦において、ハンニバル軍団は死地に赴いたも同然であったはず。
ローマ人たちにしてみれば、
「こんな馬鹿な!」
と思ったに違いありません。

この長期戦争を要領よくコンパクトに記述することは不可能です。

しかし、個別的に有名な「カンネの戦い」は次の通りです。(紀元前216年)

ローマ連合軍8万7千 
VS
ハンンバル軍2万6千+ガリア傭兵2万4千=5万

結果 ローマ側犠牲者(戦死者)7万、 ハンニバル側死者5千5百(三分の二はガリア兵)

以後、ローマ軍は正面戦ではハンニバル軍には勝てないと判断し、ゲリラ戦に移行していった。
(なんか反対みたいな感じですけれど。)
以後、戦線はイタリアのみならず、スペイン、アフリカまで拡大し、歴史家によっては「史上最初の世界戦争」と呼ぶ人もある。

5月1日にリセット