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和のこころ 

「和」のイベントを手がけるOLの日記

日本人はいつから?どこから?の続き

2010-07-06 21:48:09 | 古事記
前回は縄文の頃までのことをおさらい。

みんな知ってるかもしれないけれど、フツーの私がわかる(わかった)歴史のはなし。

ところで、縄文時代にもイネはあったとか。
焼畑農業だったり、穴のくぼみにたまった水にできた稲をとっていたよう。

大陸から農耕、「稲作」が入ってくる。弥生時代です。
自然をある程度コントロールできるので、縄文時代の稲とは違い、収穫量が増えました。

・収穫量が増える→余剰ができる→人口が増える→耕地の拡大→格差ができる→戦いがはじまる

または、人口が増えた後、冷害などで作物が打撃が受けた場合、
・食べ物がなくなる→戦いがはじまる

など、農耕の導入とともに「戦い」も導入されることになった。

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縄文は自然からの豊穣を祈るような、また命の共存をもっとも尊ぶ世界観。

弥生は自然や人をコントロール。それを妨げるものには激しい敵愾心をもち、利益を追求するという考え。

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中国では春秋戦国時代。国土は荒れ、戦乱を逃れて日本列島へ渡った人々もいた。

農耕の技術をもって。

それまでの縄文の人々は、土地をゆずったもの、また農耕文化を受け入れたものといるよう。
どんどん、弥生人は人口が増えていく。
この受け入れるという選択により、日本列島は農耕だけでなく、戦いや抑圧という人が人を支配するということも受け入れていく。

縄文と弥生。ここのあたりから、日本人という根っこができてきたようです。




日本人はいつから?どこから?

2010-06-30 23:37:58 | 古事記
古事記勉強しています。1。 2。
古事記の背景には、日本列島の自然環境と人の動きがおおきく関係があります。そこまでさかのぼらないと、見えないこともありそうです。

わかりやすくいえば、縄文人と弥生人。
稲の文化がはじまるまでの、日本列島の自然環境と人の動きをおさらい。

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【 1期 】 日本列島全域で人類の生活の痕跡が明確になるのは、約三万年前。
氷河期で北海道は大陸と陸続き。列島にはナウマンゾウなどがきて、狩猟を主な生活手段とする。
【 2期 】 18000年~10000年前 地球は温暖化。列島と大陸の分断。
狩猟生活はいきづまり、温暖な環境に適した新しい生活様式、縄文文化がはじまる。
土器の使用がはじまり、広葉樹林の拡大により増加した木の実などの植物食が発達。
狩猟は鹿・イノシシなど小型のものへ。列島の生態系や人々の生活が大陸とは異なった
独自性を示した転換期。
【 3期 】
一時的な寒の戻りを経て、10000年前には温暖化が再開。
西日本には照葉樹林、東日本には温帯落葉樹林が拡大。縄文海進で、列島各地に内湾ができ、海洋資源利用もはじまる。
【 4期 】6000年~4000年前
気温は最温暖期を迎え、列島は変動から安定の時代へ。漁業も発達。
定住集落も。

・青森三内丸山遺跡 合理的な集落作り 火焔土器、クリ栽培

この時期は人と自然の相互作用のもと、バランスのとれた生態系が形成されていた。
【 5期 】4000年~2000年前
温暖な安定期から冷涼な不安定期に。三内丸山のような、人為的な生態系は衰退。変わってとちの実の利用。わずかだが、海面の低下もすすみ、内湾や干潟の縮小で貝塚もしだいに衰退。
やがて、縄文晩期後半に北九州に伝わった、水田稲作は弥生時代に入ると各地に普及。

人口の増加、耕地の開拓など大規模な環境の変化の時代を迎えることになる。


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自然環境の変化により、生態系を壊さずに自然の中で生かされてきた縄文人。
農耕の出現により、自然をコントロールしていく弥生人。

続きはまた書きます。

たけのこが届きました。~古事記 2~

2010-04-21 23:43:38 | 古事記
季節のものです。

筍が届きました。今からあわてて、あく抜きしているとこです。

たけのこは「古事記」にも登場しているようで、日本ではずいぶん昔から食べられていたんですね。

古事記の話・・・・

古事記のできたころの時代背景は、いろんな国や族がいた複合国家でした。壬申の乱の後、天武天皇の命で古事記は書かれようとしていました。しかし天武天皇の時代ではできずに、元明天皇の時代に完成します。
シャーマン、かんなぎの一族の稗田阿礼が各地をまわって聞いた話などを声でだし、それを
太安万侶が書き取ったというものです。

古事記に入る前に、まず歴史ってなんでしょう?

「自分の存在が正義であり、残していきたい」というものです。
(歴史は勝者の歴史ですもんね。教科書だって、そうだし・・・)。

歴史書は3つの本がそろって初めて成り立つものだそうです。

1.紀 ← 帝紀、天皇の帝紀
2.志 ← 地理
3.伝 ← 伝承・神話・風族の伝承

歴史はこの3つがそろい、しっかりとした文化として残っていくもの。
そして、歴史と文化のない国は滅びてしまうそうです。


天武天皇が歴史の重要性を考え、紀・志・伝 を書かせようとしました。
ですが、書かれたのは 日本書 の 紀 つまり、日本書紀しかできませんでした。

1、律令
2、日本書

この2本立てが強みと考え、聖徳太子が律令に手をつけ、天武天皇が実現しようと試みたわけです。

さて、古事記とは?古事記の役割とは?

また書きます。

たけのこ、そろそろいいかな~♪



古事記のこと ~1~

2010-04-13 22:19:42 | 古事記
昨年、古事記を研究している人に会うために

とある先生に「古事記の概略教えてください」と失礼なことをいったことからはじまった
古事記の勉強会。

そろそろ一年たちます。

ほんとに何も知らなかったんですよ。学んだこと、少しずつ書いていきます。

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古事記は712年、日本書紀は720年に書かれています。
同時期に書かれていますが、役割が違いました。

古事記は和漢文でかかれ、国内用のプロバガンダとして
日本書紀は純正の漢文でかかれ、対外用、海外にむけて書かれたものでした。
どちらも日本の王朝は天皇家が正規の王朝という概念のもと書かれたものです。


日本書紀は正史として、「書」として残す。古事記は語りべとして、全国に広まったものだそうです。そのお話を語ったのが、稗田阿礼。それを表記として完成させたのが、太安万侶。



古事記は

上 天孫降臨の最後のはなしなど神話

中 天皇家の説明、系図 神武天皇から応仁天皇までのはなし

下 仁徳天皇から推古天皇までのはなし

という構成になっています。

古事記が書かれた頃の時代背景が大事です。
日本は奈良時代まで複合国家で国際都市でした。そういった背景の中で書かれたことに
大きな意味がありました。

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今日はここまで。