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緊急事態宣言23日目 安倍首相、腹を括ったか?カミュの「ペスト」と絡めて

2020年04月30日 | 日記

安倍首相、緊急事態宣言の延長を決断したみたいですね!   
AFPニュースによると五輪の中止も覚悟したようである。ここをどうぞ
「完全な形で」実施などというやや異常な表現を使ったときから、中止が念頭にあったものと推測する。
3週目のブログで引用しておいたが、森喜朗五輪大会組織委員長は28日にパンデミックが制御されなければ中止になるとコメントしていた。
安倍首相も新型コロナを抑制することが最優先課題だと公に認めたということだ。
遅きに失したきらいはあるが、やるしかない。やらなきゃ日本は完全に沈没だ。

カミュの「ペスト」、大学時代に読んだに違いない。当時はサルトルやカミュは真の大学生になるための通過儀式のようなものだった。
新型コロナ・パンデミックの今、お薦めトップのようなので、読むことにした。
キンドル版を購入した。ワンクリックで即アイパッドに届く。どういうわけか眼鏡は必要ないがそれでも文庫本は老人には読みにくい。そういう不便もない。

ペストの読み方は人それぞれだ。
年齢的にはもとより、この新型コロナ危機時代の真っただ中にあるものとして、関心は、集団・社会的な観点である。
2、3感想を述べたい。
1 「(194*年)4月16日の朝、医師ベルナール・リウーは診察室から出かけようとして、階段口のまん中で一匹の死んだ鼠につまずいた」ことからはじまった。
 そう、緊急事態宣言が全国に拡大されたのは2020年4月16日だった。この一事だけで運命の出会いを感じた。(単純というしかないが・・)
2 引き続き「咄嗟に、気にもとめず押しのけて、階段を降りた。しかし、通りまで出て、その鼠が普段いそうもない場所にいたという考えがふと浮かび、引っ返して門番に注意した。ミッシェル老人の反発にぶつかって、自分の発見に異様なものがあることが一層はっきり感じられた。」
 大事件のきっかけというものは、こういう些細なことについての鋭敏な観察者の気づきから始まるものだ。
 これはあらゆることに通ずる法則なのである。弁護士業でも同じである。誰もが見逃しそうなことが、決定的に重要なことであり、それが依頼者を助けることになる。依頼者すら気づいていないのである。
3 「鼠の事件ではあれほど饒舌であった新聞も、もう何もいわなくなっていた。鼠は街頭で死に、人は室内で死ぬからである。・・・医者たちがめいめい二、三件以上の症例を知らないでいた間は、誰も動き出そうと考えるものはいなかった。しかし、要するに、誰かが合計することを思いつきさえすればよかったのである。」「合計は驚倒すべきものだった。」「わずか数日の間に、死亡例は累増し、この奇怪な病を手がけている人々にとっては、それがまぎれもない流行病であることは明白となった。
 おそらく、政権内部(医師会を含む)で起こっていたことだと思う。国民にはおかしいと感じることはあっても正確にはわからない。政府にはあらゆるところから情報が入ってくる。合計すればすぐわかることだ。わずか数日のうちに大変動は起こるものなのだと思う。だからこそ「迅速」な対応が必須なのだと思う。
4 そして愛している者との交流について、「結局「コチラブジ アンジテイル ゲンキデ」というような常套句の定期的な交換に急速に転化していった」とか「そして最後には、この得るところのない執拗な独白、この無味乾燥な壁との対話よりは、電報の紋切型の呼びかけのほうがまだしもだとおもわれたのであった。」
 気持ちはいっぱいだけれど、結局、出てくる言葉は、紋切型の電報文というのは、良く経験することである。もどかしくも切ない気持ちが良く表現されている。現実というものはそういうものなのである。とはいうものの心の奥底にある個々人の愛や苦悩や疎外感といった感情を忘れてはならない。
5 「知事が言った。『つまり、たといこれがペストでなくても、ペストの際に指定される予防措置をやはり適用すべきだと、いうわけですね。』」、「つまりわれわれはこの病があたかもペストであるがごとくにふるまうという責任を負わねばならぬわけです」、「この言いまわしは熱烈な賛意をもって迎えられた」であった。
 読みながらついニヤニヤしてしまった。
 緊急事態宣言の延長やオリンピックについての首相の発言から、この段階は差し当たり卒業したのではないかと推測する。
6 作者の代弁者である医師リウーの最後の告白「一種の犯罪のようなことに際して証言を求められたのであるから、彼は善意の証言者にふさわしいような、ある種の控え目さを守った。しかし、同時にまた、公明な心の掟に従って、彼は断固として犠牲者の側にくみし、人々、同じ市民たる人々と一体となって、彼らが共通に持っている唯一の確実なもの、すなわち愛と苦痛と追放を味わおうとした。」がカミユの書きたかったことであろう。
 

 新型コロナのような未曽有のそして理不尽とおもわれるような危機にたいしては、為政者は断固として犠牲者にくみする責務があると思う。犠牲者というのは普通の国民のことである。まずは感染を抑えることである。
 首相は、最高責任者として危機を真正面から受け止め(あたかもふるまうのではなく)、国民と一体となって、緊急事態を乗り越えることである。

カミユの「ペスト」をそのように読んだ。