肺がん余命宣告されてからの日々

母が肺がんになり余命を宣告された日からぼちぼちと記して行きたいと思います。

2012-01-20 19:29:21 | 肺癌

夜になって父に電話をしました。
2日続けて泊まったので今日は帰らないとと叔母と途中まで帰ったそうです。
母に帰るよと伝えたら、えっ?と言われたらしいですがちゃんと話をして看護師さんにも頼んで来たのに
2本目の電車に乗る時になって荷物が1つ無い事に気がついたみたいです。
駅に行くのも違う駅の方にいったりとか父も動揺していたみたいです。
いよいよ覚悟なのか、先生は2,3日とか週単位なんて怖い事いうし。。
一昨日はパパがご飯食べさせたんだよ、昨日は眠ってしまい危ないので看護師さんが食べさせたのに、
今日は朝にちょっと食べた位でずっと寝たりでお昼ご飯も食べずにいて帰って来たと言っていました。

看護師さんには食べる事が出来る用なら肉じゃがの汁だけでも食べさせてやって欲しいと
伝えてくれました。
食べれて美味しいと感じてくれたら。
母の記憶に残るでしょうか?
年末からお正月に帰った時に食べたいと言っていたおせち、お雑煮、年末のステーキ、ふぐちりなど。
病気が末期になると食べれなくなる方が沢山います。
中には食べたいのに体の為に控えていて食べれずに逝かれてしまった知り合いもいます。
その中で食べたい物を食べて満足出来た母は幸せだったのではないでしょうか。
そしてその時に一緒に食卓を囲んだ家族の事を覚えてくれているでしょうか。

苦しさはもういりません。
辛さももういりません。
ただただ穏やかにいてさえいてくれれば。

叔母が母から聞いていた事が分かりました。
気に入ってる着物を1着だけ取っておいたと。
それが最後の洋服なのかもしれません。
病気が分かってから本当に沢山の物を処分していました。
これも捨てるの?と思う物まで自分が死んだ後の事をいつも頭の中にありせっせと片づけ大事な事は
大学ノートに1冊分記してあるそうです。
そんな事ばかり心配しているから病気が進んだんじゃないの?
後に残される父の事を特に気にして、たまには顔を出してねとか旅行が好きだから連れて行ってやってね
とか兄が居ない時に電話してみてねとか言っていました。
ノートにはもっともっと重い思いが綴られているのでしょう。
怖くてみれません。
自分のしてきた親不孝で胸が潰されるかもしれません。
母の愛が溢れすぎていて読むのが辛くなるかもしれません。

でもいつも私は何とかなる感じで生きてきました。
母が居なくなった後の私はやはり何となく生きて行くのでしょうか。
病気で苦しんでいる母を置いて出かけたりしていた自分をどこまで許せるでしょうか。
実は薄情な人間の自分に向き合えるでしょうか。
母を大好きで大好きでその母が居なくなった時にしばらく会わない時と同じ感じで何ともなくなるのでしょうか。
買い物に行くのも一緒、旅行も一緒、病院にも付いて行ったり、散歩しに行ったり月に2,3回は独身の時から実家に会いに行ったりしていました。
子供を難産で苦しんでいる時に一番心配してくれずっと手を繋いでくれていたのも母です。
その手が私には最高の安心でした。完全看護の病院で居なくなた母を随分淋しく感じました。
仕事の終わりに電話して飲みに誘ったりとかなりの母親っこでした。 もう贈り物も出来ないなんて考えられません。
もう一度笑って欲しいです。そしてもう一度話をしたいです。

母の様子

2012-01-20 15:16:56 | 肺癌

朝から冷たい雪が降っていました。
少し大きめの不揃いな雪が風に揺られながら沢山落ちてきます。
母はこの雪にきがついたかしらと準備をしながら思います。

病院の入口に着くと胸が苦しくなります。
ギュッと心臓を掴まれた様な息苦しさです。
大丈夫だろうか、どうしているだろうかと会いたい半分会うのが怖くもありました。
行くとお風呂から上がってしばらくしてからの様で吸引をしていました。
苦しいようで手で止めてと上にあげます。
辛そうで可愛そうで。
余り無理をしたら苦しいからと止めにしました。
その後で舌下の液体を入れて抑えました。

お薬が効いたのか行った時には苦しそうに手を伸ばし救いを求める様な姿で横を向こうとしたりでしたが
しばらくしたら上を向いて寝ました。
しばらく寝ていたと思います。
後から叔母も来ました。
父が叔母に先日言われた話をしに外に出て行きました。
戻ってきた叔母の目は赤くなっていました。
母に声を掛けたら薄く目を開けましたがまたすぅっと目を閉じてしまいました。 

その後は何度か目を開きぼーと遠くを見る様に開きますが睡魔が訪れるらしくゆっくりと目を閉じます。
目を開けてはいますが私達の姿は見えていない様に思えました。
母の目には何が映っているのでしょうか。
ただ声を掛けると軽くうなずいたりして返事をしてくれました。

父の話だと一昨日は尿管になれないせいで10分置きにトイレと言い父はそのままで大丈夫なんだと言うのですが
それでもまた時間が経つとトイレと言い朝まで続いたそうです。
便の方も2度程看護師さんに手伝って貰いしたそうです。
尿も便も沢山たまっていた様で辛かったね、すっきりしたねと看護師さんに言われました。
一昨日は薬の調整だったので少なめだったから何度も起きたようですが昨日はしっかり朝まで寝たみたいです。
昨日はまだ食事を看護師さんにして貰ったのですが途中で寝てしまうので誤飲しない様に大変です。
母は父に起こしてと言ったそうです。
ベットから足を下ろさないと倒れてしまうので脇に足を下ろして座椅子に座らせたのですが今度は立つと言って
父の首元に手を回し精一杯力を入れて立ったそうです。
立てたね。と母は喜んでいたそうです。
その時の事を思うと胸が張り裂けそうになりました。
叔母が母の名前を呼び元気になろうねと言うと頷き、外泊して家に帰ろうねと言うと頷きます。
そうして目を閉じます。
生きようとする頑張っている母の姿が目に焼きつきます。

今日は外泊をする予定の日でした。
家に帰ったら美味しい肉じゃがが食べたいと言っていたので昨日の夜に作りました。
食べれるだろうかと心配でしたが今日の様子だと大丈夫か分かりません。
でも汁を口に含ませるだけでもして味を楽しんでと父に伝えておきました。
食べたかった肉じゃがが食べれますように。。。
母の様子を見ると涙が波の様にひいたと思ったらまた出てきてきりがありません。
こんなに沢山の涙を流しても干からびないのです。

先生からの話

2012-01-20 01:09:24 | ホスピス

昨日の事もあり母の状態を心配しながら向かいました。
母は酸素を付けてうつろな目をしていました。
酸素は93になっていました。
モルヒネも少し量を増やしたようで朦朧としていますが足が痛いとか痰が出ないとかは
自分の口で話します。
でも痰が辛いようで吸引をしましたが苦しすぎて断念。
舌の下でじっくり効く薬を飲ませて貰いました。

朝からお腹
お腹が空いたと言っていたのに誤飲があるかもと食事を貰っていませんでした。
お昼になる前にヨーグルト食べると言うので食べさせました。
小さいスプーンで一口づつ口に入れました。
カップの半分位になったら突然眠ってしまいました。
5~10分したら目を覚まし残りの半分をわずかに残したものの食べました。
しばらくしたら看護師さんが来てお昼ご飯をどうしようかと聞きに来ました。
母に聞いたらお腹は空いていないと言い結局食べませんでした。

母がウトウトしていたら看護師さんが呼びに来ました。
外に出ると先生が居て談話室でお話をしました。
この数日で急激に悪化している事、肺の癌が何倍にもなり気管を押して苦しい事、
進むと溺れる位の苦しさが出るのでぐっすりと寝れる薬を出していって良いか、
そうするとコンタクトは取れなくなる事。
母の状態はとても悪く早ければこの2,3日の間から週単位であり月単位では無いと言われました。

週末には外泊をしようかなんて話していたのに本当の事なのか今でも信じられません。
呼吸の症状が出ると進行はとても速いそうです。
会わせておきたい人には連絡をしたほうが良いとも言われました。
そして好きな洋服を用意しておいて欲しいとも。
患者さんはだいたいこれを着せてくれと皆さん言うそうです。
今までに若いころに着たウエディングドレスなどの人もいたり着物を着たりなど。
母も父に好きな洋服を着せてと以前に言っていたそうです。
でもどの洋服か聞いていなかったみたいでどれか分かりません。
帰りに実家に寄り母が良く来ていた洋服を見つけてまとめました。
ただこれが本当に好きだった洋服だったのかは分かりませんが。

病室に父と戻ったら母は目を開けていました。
二人で居なかったので不安になったでしょうか。
何を考えていたのか心配です。
私は目を真っ赤にして赤い鼻をしていたのですぐに帰ると言いコートを着ました。
また来るねと母の顔を見たので母の目がこの時ばかりは見えていませんようにと願うばかりでした。