肺がん余命宣告されてからの日々

母が肺がんになり余命を宣告された日からぼちぼちと記して行きたいと思います。

最近の事

2012-02-28 19:47:44 | 日記

三七日です。
母が亡くなり3週間目。
叔母が‘さんなのか’と教えてくれ花束を買っていました。

あれから父とホスピスに母が好きだった抱き枕のわんこを忘れたので取に行き先生や看護師さんにも
挨拶に行きました。
担当の看護師さんにも会えました。
母の話しをすると涙がすぐに出てきてしまい現実に戻されます。

でも毎日過ごしていると母が居なくなったという実感がなくて実家や病院などに行けば居るのではないかと
思ってしまっています。
夢にも出てきてくれます。
母はいつも私の側に居ます。そして私は触れる~と喜んでいます。
お通夜の日に歯が掛けてしまったのを夢で母に説明しようとしたらその時の事は言ってはいけないと思い
友達のうちで歯が掛けたのよとごまかしていました。
どこかで母は居なくなっていると分かっているんだと思います。
でもこうやっていつでも会えるから居なくなったなんて分からなくなるんだよねと夢の中で考えています。

夢から覚めてあぁ、やっぱり夢の中でしか会えないのだなと淋しくもなります。
父や叔母に会う時がやはり一番辛くなります。
どうしても母の生前の話しになりどうしてこうなっちゃたんだろうとか早すぎたとかそんな事が話題になり
足も遠のきがちになってしまいます。

3月3日ひなまつり。
母の誕生日は土曜日なので実家に泊まりに行きお祝いをします。
ずっと食べたいと言っていた岡山のばら寿司を作ろうと思います。
母が喜んで食べてくれますように。


人それぞれの道

2012-02-19 16:58:41 | 日記

私は普通の生活をしてます。
母が居なくなる前は今の現実を想像して淋しくて不安であり得ない話の様でした。

でも朝起きて子供を学校に行かせ旦那が会社に行き掃除や洗濯、買い物や病院。
それなりに毎日何か用事があったりして何気に過ごして過ぎて行くのです。

母の最期の時は辛くなるので思い出しません。
それでも時には悲しくなります。

昨日、何だか気持ちが落ち気味でぼっとしていてカレンダーを見たら18日。
そうか、母が最期の食事をした日だったのです。
デパ地下で買ったお惣菜とデザートを食べさせていました。
美味しいと言ってくれました。
この時は崩れそうになりながらも座り話しもしてくれていました。
この日の夜に体調を壊し一切食べず飲まずで話しも無く21日間過ごしました。

時々、私のブログにコメントを下さっていた方のお父様が18日に亡くなったそうです。
同じ様な状だったのでとても気になっていました。
ご家族に囲まれた最後だった様で心からご冥福を申し上げます。
お疲れ様でした。

今日、母の夢を見ました。
父と二人で古民家でお店をしていました。
初めての事で手が回らず大変でしたが叔母が来て話しをしました。
その時に叔母と「ママがいたらパパを置いて女三人で出かけちゃうのにね!」なんて会話をしていました。
すると母が現れました。
ママ~と声を掛けて近寄ると腕を触れました。
腕を組みながら触れるよ~と喜んで話していました。
私は夢の中でもう母は触れない存在なんだと自覚しているのです。

普段の暮らしに戻ると実家に行けば母が居るんじゃないかと思い居ないとは実感出来ていません。
一番辛いのは実家にいる父だと思います。
来週の水曜にはホスピスに行って診断書を貰いに行きます。
大事にしていた犬のぬいぐるみも置いて来てしまったし主治医の先生や担当の看護師さんにも会えていないので挨拶もしてくる予定です。

お別れの日

2012-02-16 16:50:10 | 日記

母が8日に亡くなりお通夜は11日、告別式は12日に行われました。
10日に息子がインフルエンザになった為に旦那と二人で留守番して貰いました。
親戚と実家は葬儀場に泊まりました。
旦那が会社を早退してバトンタッチで私だけ葬儀場に行きました。

夕方に行くともう皆そろっていて同じ部屋に母もいました。
父に実家を出る時に母をリビングに移して窓からの景色を見せていた写真を見せて貰いました。
それを見ると涙が出て止まりませんでした。
そして変わらずに綺麗な母を見てまた涙が出ます。
夜になり皆で食事をしました。
家に残っている二人にも食事を家に運んで頂き美味しく食べたようです。

食事の後は部屋で話しをしたりしていましたが11時頃に皆が寝る事になり私と兄は別室で朝の4時頃まで
お酒を付き合って貰いながら色んな話しをしました。
昔の話から今までの話し、母の事、父の事沢山話しました。

次の朝に兄は皆の朝食のサンドイッチとスープを作ってくれていました。
それを食べ終わりお昼前になったら母との最期のお別れ式が行われました。
大きな3つの箱に沢山の花が用意してありました。
息子達も来て皆で沢山のお花で周りを囲みました。
最後にブーケを持たせて棺の上にも大きなブーケを置いて出棺です。
とても綺麗でまるでお嫁さんのようでした。
ここが母の顔を見る最後の時でした。

火葬場に行きましたが余りに多くの棺があり怖くなりました。
火葬の場所は横並びに10台ありすでに焼かれていた方もあったりふたが開いていて骨が見えていたりと
そこに母が入るなんて考えただけで寒気がしました。
それぞれに写真とお花が飾ってあり皆さん、お年寄りばかりでした。
何故なんだろう、何故ここに母がという思いばかりでした。
代表三人だけがまず確認をしにいきます。
まだ熱を帯びた棺の後には母の変わり果てた姿がありました。
父は○ちゃん、こんなになってと嘆き泣きました。
こんなにちいちゃかったの?と思う位に小さかったです。

確認が終わると待合室に戻りました。
皆で骨を拾う時には姿では無くて2つの箱に全ての骨が収められていました。
何だかすごく変な感じでした。
昔、骨を拾った時には姿の形のままで一つづつ拾った覚えがありました。
今回、骨を拾うのも1回だけでした。
その後は担当の方が骨の場所を教えてくれながら骨壷に入れてくれました。
最初に足から始まり最後に頭という順番で土葬と同じそうです。
金属の歯が4本だけ上下の顎に2本づつ残っていました。
ピンクと薄い緑の可愛らしい骨壷に収められた母を自宅まで一緒に連れて帰りました。

その日は親戚が夕方まで残り皆で兄が作っていた食事を食べてから帰りました。
家には大きなユリとカーネーションや沢山の白と薄い黄色とかすみ草の花束がありました。
同じマンションで仲良しだった方も一年前位に癌でなくなり同じホスピスに居て入って2日間で亡くなった方です。
その奥様から送られて来たものだったそうです。
マンションの中でもその方だけに知らせていたそうです。
同じ癌の闘病を側で見ている側の奥様と闘病をしていながら頑張って明るく生きていたご主人達に対して
一緒に話しを良くしていた両親でした。

その日も私だけ実家に泊まりました。
息子は学校に行かす為に旦那と二人で家に帰りました。
次の日に学校が終わるころに家に帰りましたが息子の熱がまた上げっていました。
先生から夕方に電話があり事情を話し次の日は休みにしました。
病み上がりのうちに色々とあり疲れたのでしょう。
治りが遅くなってしまいました。

母が亡くなり家で父と沢山の話しをしました。
今までの事いっぱい謝りました。
病院を替えてしまったから治療が遅くなった事、無理にタルセバを長く頑張らせた事、昔に嘘をついた事、
たまに面倒がって家でだらだらとした事、話しだしたらきりがありませんでした。
父はもう良いからと気にするなと言っていましたがいくら後悔しても母は帰って来ません。
これは私がこれから先にずっと忘れる事が出来ない事です。
もし行き先が一緒ならその時に直接母に謝れたら良いと思います。

母が心配したから夢に出てきてくれて優しくしてくれたのかもしれません。
ありがとう。ママ。


母の夢

2012-02-14 11:21:39 | 日記

母の夢を見ました。
2回目です。
一度目はお葬式が終わった次の日の昼です。
顔の産毛を剃っていたら急に母の手が私の手を掴みびっくりして目が覚めました。
なんだかとても怖かったです。

そして今日は幸せな夢を見ました。
場所は架空の場所でした。
最後のお別れで母の側に家族だけいました。
すると母が大きなため息というか息を大きく吐き出しました。
生き返った!と思い様子を見たら本当に目を覚ましたのです。
そしてその時に作っていた蒸し野菜やチキンのソテーやサラダなど食べさせたのです。
母は自分でも食べる様になり良かったね、随分食べていなかったよねと話ながら食べました。
不思議な場所でした。
急に部屋の中になったりワンダーランドの様になったり街になったりと景色が動き出し美しく素敵でした。
空も雲が流れたり海の様子になったり変化します。
母は歩けました。
二人で夢の様な素敵な場所に感動しながら歩きましたし走りだしたりしました。
母に歩けるようになったんだね、もう苦しみも痛みも無く元気な体に戻ったんだね、良かったねと
話しました。本当に嬉しかった。

母は洋服やさんに入り私に寒いからとコートを買おうとしていました。
私は以前に持っていたからいらないよと言います。
そして店を出て歩きだします。
兄がバスに乗ってどこかにトレッキングに行こうとしていた所に私達が通りかかりました。
兄はそのまま私達と一緒に歩きだします。

野原にテーブルがありそこでデザートを食べます。
買っておいたケーキを走って取りに行き母に渡します。
一緒に一口食べた頃になると母は青い砂時計を持っていました。
お別れを意味した言葉を言っていました。
本当に最後の時に電話が鳴ります。
私が代わったら、もう時間です。と女性の声が聞こえました。
その後はお店にある扉の中に入って行きました。
最後の最後まで隙間がある限り母はにっこり笑ってくれていました。
母は旅だったのだと思いました。
今は痛みも苦しみも無く不思議な場所で素敵に過ごしているのでしょう。
元気になり食事も出来て歩いたり走ったり出来た母を見れて本当に良かったです。

お通夜の準備

2012-02-11 09:39:20 | 日記

9日に葬儀社の方が実家に来ました。
決める事は沢山ありました。
家族葬にする事以外に色んな死亡届などの書類、花、お料理、お返し、骨壷の種類、カバーの種類、
棺桶の種類、そのカバーの種類、分骨の種類、泊まりの部屋の事、とにかく沢山の事を決めました。
火葬場も込み合っており当日の夜に葬儀社の方が取れたのは4日後の事でした。
毎日、母の所に行く途中に見たお葬式の看板はたまたまでは無くて本当に毎日、身近な場所で誰かが
亡くなっているのだと感じました。

母はお花が大好きでした。
なので沢山のお花に囲まれる様に盆に花の部分だけが入ったものがあってそれを母の周りに置く物を
たっぷりと頼みました。
送り花と言うそうです。
洋花で季節の物にしました。
好きなピンクが入っていると良いです。

骨壷も花の柄が入った物にして名前を入れて貰いました。
父はどうしても母を側に置いて置きたいと言い分骨の小さな壺も頼む事にしました。
いつも言葉が帰ってきた人の骨に向かって話す父を想像したら何て淋しく辛い事なんだと母のいない事の
現実を見せつけられる思いです。

4日間の間、実家に居るつもりが息子のインフルの為に次の日から自宅に戻っています。
先ほど、父から母の迎えの事や料理の事で改めて電話があり打ち合わせしました。
旦那と息子はインフルが皆に移ると困るので自宅に居て貰う事になりました。
お料理は自宅に運んで貰える事になり二人で母の事を思い出しながら食べて欲しいです。
母の見送りは父と兄だけになり母にとっても父にとっても淋しい事だと思います。
一緒に4日間いてあげたかった。
今日で最後なんだなと父が言っていました。
亡くなっていても顔も変わらず側にいたから話掛けたり触れたり出来たのにこれからはその体が
無くなってしまい心のよりどころが無くなってしまいます。
蝋人形の様にずっと側に居て欲しいです。
体が無くなるという事って本当に心が壊れてしまいそうになる程悲しいものですね。

今日は夕方に葬儀社に行き6時くらいからお食事をしながら母を守ります。
明日の13時には本当のお別れが来ます。
耐えられるか心配です。