散歩と俳句。ときどき料理と映画。

多摩境へ 田端環状積石遺構2

田端環状積石遺構は縄文時代中期中葉から後期前葉には集落があり、
後期中葉には土壙墓25基、周石墓7基からなる集団墓地として利用され、
さらに、後期中葉から晩期中葉には墓地の上に約900個の石を9×7mの
環状に積み上げた環状積石遺構と呼ばれるストーンサークルがつくられ、
土地利用の移り変わりがたどれる遺跡である

発掘された周石墓。長軸2m。

発掘されたストーンサークル。このままの状態で埋め戻された。

縄文時代中期中葉から晩期中葉とはいったい何年間なのだろうか。
中期が約1050年間、後期が約1200年間、晩期が1000年間である。
中期と晩期をそれぞれ半分として計算すると
525年+1200年+500年=2225年間となる。
2000年以上連続してここで人々の暮らしが営まれていたことになる。

3号住居跡(堀之内式期)。

もちろんここでの生活は富士山の爆発的噴火により
弥生時代初期まで中断されるのだが。

前述のように田端環状積石遺構のストーンサークルは
東西に9mの長軸、南北に7mの短軸の楕円形である。

案内板には
この遺構の長軸上に富士山を望む〉というから、
噴煙を上げていただろう富士山がこの地区の縄文人にとって
宗教的な意味をもっていたのだろうと推測できる。

またこのストーンサークルが
冬至に丹沢山系の最高峰・蛭ヶ岳(1673m)の山頂に太陽が沈む場所に位置する
場所にあるのは、冬の訪れを知る(共有する)装置であったのかもしれない。

また案内板の次のような解説
〈積石の内部からは石棒、刻線文石、大珠、玉類、土偶、耳飾、スタンプ型土製品、注口土器、埋甕など日常用具以外の特殊な遺物が多数発見されており、本地域一帯に居住する集団の宗教的な場であったと考えられる〉
もおもしろく読んだ。

発掘された土偶の一部。

注口土器正面(堀之内式、高さ13cm)。

注口土器側面。

つまり
〈冬至を太陽の死とし、墓地をそれにダブらせ、丹沢のピークを介して一直線に並ぶ位置にストーンサークルは作られた。太陽は再び光を増し、夏至に向かって日没の位置は移動する。これが縄文人にとっての『死と再生』のサイクルだろう。そのような宗教的観念を持った集団が中空土偶などを使用して、祭祀を執り行っていたのではないか〉
という町田市教育委員会生涯学習部の学芸員・川口正幸氏の話が腑に落ちる。

出土した〈中空土偶〉。

この地域から出土した遺物に堀之内式土器がある。
またこの様式の土器を内包する住居跡を〈堀之内式期住居跡〉と呼ぶ。
ワタシはてっきりここから京王線で三つ目の堀之内のことだろうと考えていた。
というのも7ヶ月住んだ堀之内は縄文時代の遺跡が多い地域だからだ。
じつはこの堀之内式とは〈千葉県市川市の堀之内貝塚出土土器を標式とする〉。
特徴としては
〈器種は深鉢、鉢、浅鉢、注口土器から成る〉とのことだ。

堀之内貝塚の土器。

この様式の土器の写真をみると、
ワタシが持っている縄文土器の欠片の紋様とは確かに違う。


ワタシが骨董市で300円で買った縄文土器の欠片。かなり分厚い。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「散歩」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事