玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

あの武勇伝は怪しい

2019-09-25 13:49:02 | 近現代史

なぜ、吉田茂は、サンフランシスコ講和条約調印の晴れ舞台の後に、たった一人で安保条約の署名に行ったのであろうか。あの自己顕示欲の強い吉田茂が?差別的な条約を調印する屈辱は一人で受けるという潔さかと思いもしました。それが奇妙にも思えた。

渡米する前に、吉田は西村熊雄条約局長に首席全権を拒否していた。時の首相・兼外相がなんと無責任なことか。結局は行くのであるが、その顛末がたった一人の安保条約署名だった。

【ブログ内、「近現代史」2018年10月18日「どうも武勇伝ではない」の続編】

メリカに「望むだけの軍隊を望む期間だけ駐留させる権利」を保障したのが『安保条約』である、しかも日本側から懇願した形で、ということは、アメリカが恩恵として基地駐留を認めた、屈辱的な条約の骨を拾うことを吉田のプライドが拒んだはずなのだが、現実は違った。

なぜ、そうなったのかは、今もって、明確にはわからない。それは、外務省筋が肝腎な部分の文書を公開しないからである。常に、一貫してこの国の官吏はそういうやり方である。

当時は朝鮮戦争勃発のまじかで、むしろ日本は、基地提供を米国に恩を着せられる外交カードを切る優位な立場に居たと言われている。吉田は、何の日本側の利を得ずして、ダレス国務長官の言うが侭に安保条約を締結してしまった。

豊下楢彦氏の仮説の要約引用であるが、天皇、およびその周囲の者たちが、ソ連や中国の共産主義が日本に浸透して、天皇制が、彼らの言う国体が壊されると心底から危惧していた。

昭和天皇にとって「国家」とは「天皇制」のことである。その天皇制を守るために、何が何でもアメリカ軍の駐留を願ったのである。あえて言うが、天皇は国民を守るのではなく、国家を、天皇制を守るのである。

ここからは、自説であるが、天皇制を守るために、治外法権すら認めるような屈辱的な安保条約を締結させられたのだから、そりゃ情けない恥さらしのワンマン首相だということになる。

だから、年甲斐もなく、全権で行きたくないとごねたのである。吉田は国民の顔を見ず、ただ天皇の顔色しか見ていない、まさに天皇に額づいた「臣茂」なのである。

なんとも不思議なことである。既に安保条約締結の三年前には、天皇は、憲法上は「象徴」として政治的行為は行わないことになっていたのではないか。

実は、天皇への内奏・下問による政治介入は行われていたのである。少なくとも1973年の増原恵吉防衛庁長官の失言事件までは天皇のご意向を閣僚は聞いていたのである。

結局、この国は、影の君主制の国だったのである。事実上の政治の中で昭和天皇の意向で政府が動けば、それは何なのだろう。国民主権なんて、真っ赤なウソッパチなのである。

【参考文献:豊下楢彦『安保条約の成立』岩波新書1997年/孫崎享『戦後史の正体』創元社2012年/小森陽一『天皇の玉音放送』五月書房2003年/H・ビックス『昭和天皇(下)』講談社学術文庫2006年】   


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1 コメント

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Unknown (横浜市磯子区Y)
2019-09-25 17:22:18
驚愕の歴史ですね。
軍備をどの程度にするのかという議論はともかく、外国軍隊が大きな顔して国土の主要部分を占拠していることだけは無くしたい。「恥」そのものです。
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