Shirakuのモノローグ

矢坂芝楽の日々あれこれを綴ります

銭形平次の町(東京 御茶ノ水)

2015-07-26 22:37:11 | 旅日記(県外)
東京へは観劇の為に行ったわけであるが、その合間を縫って今回訪ねた町が、JR中央線の御茶ノ水駅を降り立った神田。

かつて町人たちが多く暮らし、時代劇の銭形平次でも知られる町である。
また、それだけでなく、近代学問発祥の町でもあり、江戸時代に旗本や藩士の子弟が学び、やがて明治になって東京大学へと発展してゆく昌平坂学問所もこの地にあった。

駅を降りると直ぐに目に入るのが、江戸時代にその学問のシンボル的存在である湯島聖堂である。


初代尾張藩主徳川義直が朱子学の先駆者である林羅山に作らせ、元は上野にあったが火事で焼失し、それを五代将軍徳川綱吉が今の地に移して再建している。

朱子学とは、儒教を取り入れた当時の武士が学んだ学問である。

現在の建物は、関東大震災によって再び焼失したものを昭和10年にコンクリート造りによって再建したものである。

門を潜れば巨大な孔子の像が迎えてくれる。


そして更に奥へと入ってゆくと、また大きな門を1つ2つと潜り、正殿である大成殿がある。

大成殿もその庭もかなりの大きさであり、大成殿の中にも孔子の像が座っている。


この湯島聖堂に来ただけで、何となく賢くなった様な気分に陥ってしまった。

その後、大成殿の横から外に出て大通りを渡ると、下町の江戸っ子に愛された神田神社の鳥居があり、そこから神田神社へ向かった。


神田神社は天平時代の創建で歴史も古く、現在の建物は関東大震災で焼失したものをコンクリート造りで再建したものであり、大平洋戦争の際の東京大空襲の折りにも難を逃れている。


また、この神社の祭りである神田祭は、東京三大祭りの1つに数えられ、2年に一度盛大に執り行われている。

この神田神社…
元は現在の大手町にある将門塚にあった事から、平将門とも縁が深い。


この日は湯島聖堂と神田神社…
近代的な大都会の中にも古き良いものを今に伝えている東京…

僕はやはり、そんな東京が好きである。

朝鮮人街道をゆく3(高宮口御門~鳥居本)

2015-07-26 01:33:58 | 旅日記(県内)
今日はSUZUMARUの劇団員5人で東京へ来ているわけだが、出発するにあたり、鳥居本が集合場所であった。
そこで、どうせならと思い、僕は芝居小屋にバイクを置き、鳥居本まで歩く事にした。

歩く街道は彦根道と呼ばれる、鳥居本から彦根を通る朝鮮人街道の一部だ。

今回の起点となるのは宗安寺からほど近い、かつて高宮口御門があった場所である。

彦根道は、現在中央町の商店街を真っ直ぐ北へ向かう。

先ず中央町では、路地へ入ると長松院という寺がある。

この長松院は、彦根初代藩主井伊直政公が関ヶ原の合戦で負った傷がもとで亡くなった際、荼毘に伏せられた場所に建てられた寺であり、井伊家とは縁が深い。

また、すぐ近くには蓮華寺という大きな寺もある。


その後、立花町を越えると、1年ほど前に一度お世話になったFMひこねのスタジオがある。


更にそのまま真っ直ぐ行き、国道8号線に合流する大通りの手前で右に折れる。
この辺りは古き町並みを今に残している。

やがて旧街道は一旦途切れ、陸橋を渡る事となる。


陸橋を渡り終えると、古沢町から再び旧街道へと入ってゆく。
この道は、今では地元の人しか通らぬであろう、忘れ去られた街道の様相を呈していた。
地元の集会所となっている古沢寺も、その名を刻む石柱が立っているだけである。


しかしながら辻堂がある事で、そこが街道である事も示していた。


佐和山トンネルに差し掛かるところで街道はまた途切れ、佐和山トンネルを越えて再び合流する。

そして鳥居本に入り、山と田園に囲まれたのどかな風景を眺めながら中山道に合流した。


忘れ去られた街道でありながらも、その歴史は今にもしっかりと残している。

東京へ出発する前に汗だくとなってしまったが、これで朝鮮人街道も残すは安土から草津まで。

どうやらこの街道が一番に完歩しそうである。