島田市の焼却場は最新設備でなんでも燃せるらしいコンクリートまでも燃えるとか
容量も大きくまだ十分の余裕があるらしい
東北大震災の瓦礫(地元の人にとっては家財だが)を受け入れる余地も十分ある
その為に市長は 大槌町と山田町の瓦礫受け入れを表明した
口先だけで「頑張ろう」ではなく実行に移す勇気は良いと思う
何とか事態が良い方向に進み 少しでも被災地の役に立てばうれしい
釜石のhanaさんの家は危うく津波の被害は免れた
そのhanaさんが今年を振り返って当時のことをブログに載せた
それを読むと切なくなるがこれが現実だそれを多くの人に知ってもらいたい
字数の関係で行間を詰めさせてもらった お許しを
『一年を振り返ると・・・』
『 経験した事の無い別世界のような年 』
私の今年はこの言葉しかありません (@_@。
3月3日の雛祭りに娘が2人目の孫を出産
3:11まではどこにも見られる普通の幸せそうな家族だったのに・・・
この日を境に娘家族の生活は一変しました
家はかろうじて津波の被害から逃れたものの
婿さん、お舅、お姑さんの収入がたたれました
無収入となった娘家族に残されたのは
家のローン、月々の返済15万円 (>_<)婿殿の以前の仕事は漁業関係
若いながらも家を建て親を引き取り・・・
無口だけど真面目な働き者
家があるだけで公的援助は一切無し(;一_一)
職を探すもあの状況の中では不可能状態
それでも生活するために
きつい瓦礫撤去の仕事しながら職を探し
一時は家を売り他県に移住も考えたけど
家を売ってもそれでもローン返済は残ります・・・
色々な選択を考えながらも
家族で働いて今の家で暮らす事に・・・
瓦礫撤去の仕事が終わる頃に
やっとで就職が決まるも
収入は以前の半分・・・
それでも否応なしに税金、保険の請求は来ます
お舅さんも60歳を目の前にして慣れない仕事に付き
娘も年子の乳飲み子をお姑さんに預け
働きだしました
家族団結して頑張ってます
お正月中も婿殿は生活のために休み返上して働きます
一生懸命頑張ってる姿を見るにつけ・・・
今回の震災の対応の不公平さを強く感じます(;一_一)
あの日、娘家族と連絡が途絶えた1週間
もう駄目なんじゃないか?
震災直前に産まれた孫に対しては完全に諦めてた・・・
あの時の想いを考えると・・・
生きててくれてた事に感謝だったけど・・・
でも・・・それから生きて行く上での苦悩もあり・・・
生きてたって事で
今は贅沢は言えないです
*****
娘は経験のない歯医者さんで働きだしました
経験者のみの採用を抑えて娘を雇ってくれた歯医者さんに感謝 m(__)m
そして現金支給のお給料を封を切らず
舅、お姑に渡してるって聞いてビックリ!!
孫2人を見てくれてるお姑さんに感謝なのだそうです
私達の娘と思えない娘です(・。・)
これからが大変だけど・・・
今の苦労がきっと肥しになると信じて・・・
そして頑張ってる姿が孫たちへの一番の教育だと思ってます
今年の出来事は書き切れないほどたくさんあります
記録として残さなければ・・・
書き残す事で私の気持ちの区切りをつけられそうな気がします
どこまで綴られるか分からないけど・・・
時間が許す程度に綴って行きたいです
『地獄に仏』
実際に津波を見てない私・・・
家も無事
でも、実家と娘家族、市内の友人の安否が取れない
繋がる気配の無い携帯をながめるだけの日が続き
日に日に不安だけが押し寄せて来ます
震災から2日目で家でジッとしてる事が苦しくて
市内の友人を探しに被害にあった町へと
自転車を走らせました
被害があった町の入り口より先は
立ち入り禁止
他県からの応援の警察官がたちふさいでます
私達の前に居た数台の車は
立ち入り禁止の立て看板を無視し
立て看板にぶつかりながらも
町へと侵入
一台のトラックの運転手は
止める警察官に怒りをぶつけ
応援に来てる警察官はなだめるように・・・
言葉使いにも優しさがあり・・・
そんな中で怒鳴られ怒られてる警察官が気の毒に思ったけど
血相抱えて怒鳴ってる運転手の気持ちも良く分かるし・・・
きっと家族や知人を探しに行くのだなぁって・・・
友人の安否は気になるけど
私達が町に入る事で捜索の妨げになっちゃいけないと思い
その日はいったん戻りました
次の日 津波警報が解除になるなり実家の安否確認に・・・
実家の大槌町まで17キロ!!
町は通れないので
旧道を越えて行く事に
旧道まで行くには警察官のいない
山道を登るしかなくて・・・
背中に背負ったリュックが重くて
リュックの中にはおにぎりを2食分と飲み物
妹と母の着替えなどなど
リュックに詰めれるだけ詰め
坂道を息を切らして登るも
連日の寝不足、食欲がなくほとんど食べてないのがたたり
半分も行かないうちにダウン状態
ここから戻ろうかと・・・
先を歩く主人に怒られ怒られながらも
やっとで旧道の上にたどり着き
「ここで戻る・・」って・・・ここはまだ釜石の入り口。情けない自分でした
そんな会話してる所に
震災関係者の車が止まって私達を乗せてくれた
地獄に仏と思いました
その車も途中まで・・・それでも2キロ助かりました
そこから先は歩こうと・・・
歩きだし始めると
トラックが止まってくれました
荷台で良かったら乗ってくださいって
またまた地獄に仏
荷台に人が乗るのは違反なんだけど
震災からしばらくは警察も黙認状態
釜石から大槌までの道路は震災1週間前に
新しいバイパスが開通したばかり
この道路があったお陰で今回の震災は助かりました
そのバイパスを通るのはこの日が皮肉にも初めてでした
トラックの荷台から見た景色に・・・・
変わり果てた町並みにただただ号泣
線路があった所に線路は無く家がすっぽりのっかてたり
あれだけあった家がなくなり
今まで建物で見えなかった海が直ぐそこに見えたりと
驚愕の世界・・・戦後は見てないけど
爆弾でも落ちたかと思うような世界がそこに・・・
大槌町の入り口で私達はトラックから降り
運転手にお礼を言い
名前を?と聞いたけど
運転手 30代くらいの人だったけど
「名前はいいです。俺は津波の時に波に追いかけられながら
トラックで逃げてた。その時に横に小学生くらいの男の子が2人走ってて
助けようと思うもすぐ後ろから波が押し寄せ・・・助けてあげれなかった。
それが頭から離れない・・・
ここで誰かを助ける事で俺もどこかで助けてもらえるから』・・・って
私も主人も涙が止まりませんでした
トラックの運転手に別れを告げ
実家まで歩いて15分位かな?
実家がある町は津波の被害を受けたものの
家は流されず浸水だけなので家並みは壊れているものの
形があるだけまだましな方でした
実家まであと少しの所で
町の防災無線から
津波警報がなり・・・
ここで津波警報とは・・・
一瞬背筋が寒くなり
山手に逃げるも山は山火事
どこに逃げればいいんだろう(オロオロ)
地震で死を感じ、この時が2度目の死を感じた瞬間でした
リュックを背負った人達の避難する列にならび
バチバチ音を立ててる火を横目に川上にそって逃げ
山火事と反対の山手に
避難するも津波が来る気配がない
津波が到来するのを待ちながらもそこでおにぎりをほおばる
ここでお腹を満たしておかなければと・・・
1時間経っても津波は来ない
戻ろうかどうしようかと・・・
今から家に歩いて帰るには明るいうちにと
バイパスに向けて歩き始めると
手前から消防署の車が・・・
『 直ぐに高台に避難してください 。波が引いてます 』って・・・
今来た道を戻り始めると
一台の車が止まり
50代くらいの男性の方が
「乗ってください」
ここでも地獄に仏
車に乗せてもらい津波から逃れるように奥へと
そこから遠野へ抜けれるけど・・・
ガソリンが足りなくて・・・おまけに峠を超えるには凍結道路
50代の男性は海辺にある介護施設に勤めてる
息子さんの安否確認に来てた人で
息子さんには会えなかったけど生きてる情報を知っての帰り道でした
奇遇にもその方の家は我が家から1キロほどの所に住んでると・・・
このまま釜石まで乗せてくれるって・・・
まさに地獄に仏でした
いっこうに津波が来る気配も無く
されど津波警報が解除にならず
帰ろうとバイパスに向けて車走らせたけど
バイパス手前で通行止め
通行止めをそこで2時間くらい待ったかなぁ~?
そこで妹とバッタリ出会う事に
実家近くで津波警報なりながらも
実家に行き玄関に無事である貼り紙と
避難先が書いてあるのに安堵してた
避難先に訪ねて行くには無理なので
安否だけ確認出来たので
そのまま帰ろうと思ってただけに
ここで妹に会えたのはラッキーでした
お互いの無事を確認しそのままそこで別れました
バイパスの通行止めはまだ・・・
私達の前には軽トラックがいて
軽トラの荷台には家財道具を詰め込んだ20代の
今時の若者が荷台に乗ってました
外は夕暮、3月半ばとはいえ寒い
着の身着のままで逃げたのか
若者は薄着のまま
私達を乗せてくれてる50代の男性が
自分のおにぎりをその若者に差し入れしてあげてた
すると若者は自分が持ってるタバコ数箱を持って来てくれた
この時点では食料、タバコは貴重品でした
窓の外は自衛隊の車、消防自動車がズラーっと並び
遺体捜索がなされてる物々しい光景
車で待ってる間にも側で何体かの遺体が見つかり・・・
そんな中に居ると人は人と人が寄り添い
見知らぬ人なんだけど
優しくなれるんですね
やがて通行止めが解除になり無事家にたどり着いたのは夜
あとで息子、姉から二次災害になる所だったって
おとがめがあったのは当然の事(汗)
私達が実家の安否に出掛けてる頃。。。
千葉に居る姉のもとに1本の電話が・・・
実家の母と妹が無事であることを
電話の通じる内陸まで行き
電話の通じる姉に連絡してくれてました
それが誰なのかいまだに分かりません
この場をお借りしてお礼申し上げます
『怒りと疑問』
震災当初は
これまでの私は死んじゃったと思いました
地震で家の中がめちゃくちゃとなり・・・
皆の安否が分かるまで手を付ける気になれなかった
ここの家に住みたくないって真剣に思いました
1週間家に戻る事出来ず
本家でお世話になってました
皆の安否が分かり始め
被災した母と妹
ライフラインが途絶えてる娘家族を迎い入れるために
家の片づけを始めたけど
何日掛かったんだろう~
どうにか寝るスペースと生活スペースを作り
6人を迎い入れました
職を失った娘家族、被災した実家の修理代など考えると
食費や生活費はもらう気にもなれず
でも、8人家族となると・・・
食費、光熱費半端無い数字(><)
でもその時は無我夢中でそんな事言ってられなかったけどね
ある日、仮役所に用事があって行くと
外にテントを張って支援物資が配られてました
テントの前には
『 被災者もしくは被災者を受け入れてる家庭の方 』
あっ!!我が家ももらえるって思い嬉しくなりました
ボランティアの方から快く
ミルク、紙おむつ、お米を分けて頂きました
ボランティアの方は『またもらいに来てくださいね!!』って笑顔で・・・
この時は嬉しかったです~♪
我が家に世話になってるとはいえ娘はなおの事喜んでました
数日してまた物資をもらいに行くと
別の担当者(職員)・・・・つっけんどんに
『住所書いてください。 え!!その地区は被害にあってないからダメ!!』
私・・・『被災者を受け入れてる家庭って貼り紙に書いてますよ。我が家に6人避難して来てます』
担当者は嫌な顔しながら
しぶしぶ渡してくれたけど・・・
それ以来二度と行く気にはなれませんでした
山になってるお米、野菜は誰のもとに?
被災者は避難所で3食出てるしね~((+_+))
その後 支援物資は罹災証明書のあるかたのみになり・・・
我が家も一部損壊で罹災証明書がでました。支援や義援金は無いけど
物資はもらいに行けるんだよね~
でもやっぱり家がある事で行けません(><)
妹はやがて避難所にと移りました
一般家庭に避難してると
情報も支援も分からずなので・・・
母は高齢で避難所生活は無理で家に残る事に・・・
災害にあった時は体力が許すなら避難所生活が一番かも(汗)
なんとも複雑な思いをしましたです(@_@。