etceterakoの勝手にエトセトラ

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雪組「エリザベートー愛と死の輪舞ー」Ⅰ

2007年05月19日 | 宝塚歌劇

 すいません、また2本・・・。
 トートとか、雪エリザがどーだったか、という具体的な話は、2本目に出てきます。前半はいつものクドい語りなので、興味ない方は遠慮なく飛ばしてⅡ(ココ)だけどうぞ。

引用文献
 「『少女小説』の使用法」(斎藤美奈子/雑誌「文学界」2001年6月号掲載)
 「少女小説から世界が見える ペリーヌはなぜ英語が話せたか」(川端有子/河出書房新社)→ココ

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●いったい、エリザってのはどーゆー話なの?
 ・・・新雪エリザは、ひとことで言うとシリアスでしたねえ。
 でもって、どこまでも芝居でありました。さすが「芝居の雪組」・・・。ミュージカルである前に芝居、タカラヅカである前に芝居なんですよねえ。そのココロはというと、「物語を伝える」ことに力点が置かれている、とゆーことなんですよ。こういう、定番モノとゆーか、再演が繰り返される大作は、ホントに組カラーがハッキリ見えますねえー。面白いですねえー。

 エリザベートというストーリーが、どーゆー話なのか、わたしはわかってるようでわかってなかったんだなあ、と思いましたねえ。

 わたしねえ、エリザって「死神と皇帝がシシィを取り合いするロマンティック・ストーリー」だと思ってたんですよ。シシィの抑圧とか孤独を描いたミュージカルだっていうことは、もちろんアタマではわかってた(つもり)でしたけど、実際客席にいるときには、「最後のダンスは俺のものー♪」って強引に迫るトートにきゃーきゃーし、フランツとトートのあいだで揺れるシシィをウットリ見ていた気がします。孤独や死さえも、ラブストーリーを引き立てる甘美なる背景として消費していた気がする・・・。

 ちかちゃんトート&雪組が描いた新雪エリザは、甘ったるいラブストーリーの部分を徹底的に控えめにして、「シシィの人生、どーだったか!」「ハプスブルクだって大変なんだぞ!」っていう部分に、真正面から取り組んでいるんですよ。見ごたえがあります。

 では、水夏希トート礼賛&組FANバカぶりは、後半に発揮するとして、まずはエリザベートの物語を、すこしわたしなりの視点で見てみましょー。

●貴重な「ヒロインが悩む」作品
 本当のエリザ・・・ウィーン版エリザが、どんな意図をもって書かれた物語なのか、わたしは知りません。こないだ、関西で上演してましたけど、高~いチケット代+関西への交通費は、わたしの収入では予算オーバーだったので見てないんですよねえ。

 宝塚のエリザは、シシィの物語です。
 いくらトートが男役トップっつっても、トートに感情移入するヒトはすくないよね。トートは、感情移入の対象にはならんのですよ。
 宝塚歌劇・・・まあ、昔は知らんよ。昔はどーゆー演目かけてたか知らんけど、現代宝塚の演目は、基本的にあらゆる面で男役(ヒーロー)が主人公なんですよね。恋をするのも、悩むのも、冒険するのも、打ちひしがれるのも、すべて男役(ヒーロー)の役割です。娘役は、物語の筋においてさえ、男役の冒険を補助したり、彩る存在でしかないんです。景子先生の描く「少女趣味」な物語は、ほんらい「少女文学」「少女漫画」であれば、ヒロインが担うべき役割・・・悩みや冒険を、すべて男役に振ってしまいます。描かれる悩みの内容は、ずっと少女文学が追求してきたものであっても、それを担うのが「男(ヒーロー)」という一点で、景子先生は少女趣味のド真中はハズしている、とわたしは思っています。(詳しくは昔書いたパレルモ、堕天使の感想文を見てくだされ。ブログ内検索で出てきます。)

 エリザベートは、シシィが悩んで冒険する物語で、宝塚では希少なる、正真正銘の「ヒロインが主人公の」物語なんですよね。厳密にいえば、ベルばらのオスカルや、風と共に去りぬのスカーレットも、ちゃんと冒険・悩みを振られたヒロインです。が、それらのヒロインは、ことごとく男役に当てられています。宝塚では、「能動的な」役は、女性の役であっても男役に振っちまうんですよね。シシィだって、まかり間違えば男役がやる役になっていたかもしれないと思います。初演が、いろんな意味で別格の花ちゃんだったからこそ、「娘役の大役」として残ったんじゃないかな。

 歌劇団様が、どーやら「エリザの二匹目のドジョウ」と目論んでいたファントムは、大作ではありますが、エリザベートほどのヒットには至りませんでした。それはたぶん、ファントムでは怪人・・・男役(ヒーロー)が主人公だからですよ。一番深い悩みを負って、劇的に物語のなかで変遷していくのは、ヒーローたるファントムですから。そーゆー意味で、ファントムは宝塚歌劇としては「フツー」、何も珍しくないんですよ。宝塚オリジナルで描かれる物語と、そう差はないんですね。

 エリザはやっぱり、宝塚歌劇としては、いろんな意味で異色だと思います。それから、ベルばらも異色だと思う。エリザとベルばらが、他の宝塚作品と一線を画するのは、ヒロインが「女性として」悩む様子を主軸に据えている点だと思う。で、それは、演じ手も観客も女性ばかりの宝塚に、すばらしく似合うテーマだと思います。
 なんてったって、宝塚の観客は、圧倒的に女性が多いんですから、女性のココロに響くテーマを扱うのって、大事なことじゃないのかなーと、わたしなんか思うんだけどねえ。宝塚をよく知らない世間の人々は、「女性ばっかり」「女性のための」「女性にあこがれる」とか、宝塚を女性の天国みたいに思ってそーですけど、実際は真逆ですからね。男性演出家のオトコ的価値観と、保守的な女性観がガチッと固定された、ものっすごくフツ~な社会ですよねえ。わたし、宝塚ってすっごく「普通」だと思うの。よく言われるような特殊性なんて、何にもないと思うー。「宝塚普通論」を唱えたいぐらいです。ま、この件はいずれ機会をあらためてクドクド語るとして・・・。

 えーと、あまり長くなってはいけないっ(自戒)。サクサク進めなければっ。
 悩みの話ですね。ヒロインが女性として悩む、という話。

 さー、わたしの得意分野(?)がやってきました。
 女性の悩みと抑圧を、女性のために描いた物語の一群が、この世には存在します。「少女文学」と「少女漫画」です。
 今回は「エリザベート」の物語を、少女文学・少女漫画など、読者がほぼ女性に固定された一連の物語に照らして見てみることにします。

●少女文学(少女漫画)の特色
 斎藤美奈子『「少女小説」の使用法』は、30ページ足らずの短い文章ですけど、非常~にわかりやすく、重要なことをまとめてあります。ここで語られる「少女小説」とは、特に翻訳少女小説・・・赤毛のアンとか、あしながおじさんとか・・・あの辺を取り上げて語っているんですね。
 斎藤は(とりあげる)少女小説の条件を、「①少女を主人公にした」「②翻訳小説」で、「③魔法なしの糞リアリズム小説であること」としています。

 しかし、いや、だからこそ、少女小説は「糞リアリズム」である必要があるのだ、とあえて考えたい。少女小説にとっては「魔法が通用しないこと」こそが重要なのだ。夢の中で生きていられた幸せな子ども時代から、世の中の真実を知りたいと考えはじめる十代への移行期。もうどんなに困っても、魔法使いは助けにきてくれない。「子どもだまし」の魔法が効かなくなった世界に、いよいよ自分も船出しなくてはならない。そんな現実に漠然と気づくころ、糞リアリズム小説の出番はくる。

 少女小説の主人公についても、スルドい指摘がバシバシ出てくるんですけども、うまく引用できないので、別の本から引いときましょう。川端有子の「少女小説から世界が見える」です。

 まず、彼女たちは何らかの形で孤児であったり、孤児に近い存在であったりする。また、何らかの形でジェンダー的に曖昧であるーーーつまりおてんばだったり、「女だてらに」頭脳明晰だったり、男の子のような容姿をもっていたりして、いわゆる典型的美少女ではなく、どちらかというと型破りなタイプである。
 ところが、必ず主人公のかたわらには、その変わり者ぶりを引き立てるように、きわめて「女らしい」姉妹や女友だちがいる。(もっともこの比較の結果、主人公のユニークな持ち味のほうが勝ちを収めるのはいうまでもない)。また、彼女たちは孤児であろうとなかろうと、家庭への執着が強い。因習的なおとなたちの無理解に悩みつつ、独自の価値観で周囲に挑戦する。想像力/創造力に富み、読むことや書くことにこだわりを示し、自己表現を目指す。
 これらの意味は個々の作品分析で詳細に論じたいと思うが、こういった共通点が明らかにしていることを要約すれば、世間一般の枠からはみ出していると自覚する少女が、さまざまな経験と葛藤の末、枠にはまるように成長していく話だといえる。

 川端が書いたこの文章、「参考文献」リストに、前掲の斎藤美奈子の文章タイトルがあります。斎藤が詳細かつ具体的に論じたことを、ぐっと要約したのが上記の文ですな。川端の本はねえ、あんまりオススメできない(あんまり面白くない)ので、キョーミのある方は斎藤美奈子のほうをどうぞ。単行本未収録(だと思う・・・)の文ですので、文学界のバックナンバーでどーぞー。

 わたしはエリザをはじめてみたときから、「あ。これは少女文学(少女漫画)だ」と思ってたんですよ。川端が要約した斎藤の指摘を使ってエリザを見てみると・・・

①孤児である
 うーん。これはエリザには、当てはまらんな。
②ジェンダー的に曖昧である
 シシィの「おてんば」ぶり、ハンガリーを救った機知などは、シシィが「女らしさ」を越えていることを示すエピソードと言えましょう。
③変わり者ぶりを引き立てるように、近くに「女らしい」人物がいる。
 姉のヘレネだよね。ヘレネは、シシィを引き立てるためのキャラクターでしょ。で、見合いでヘレネに勝ちをおさめる、と。
④家庭への執着が強い
 「パパみたいに」とか、あのへんはシシィの家庭への憧憬でしょう。息子の教育を自分で・・・とか言い出すのも、シシィに独自の家庭観があることを示しています。
⑤想像力/創造力にたける
 ギリシア詩?だか何だかに凝ったり、シシィって表現欲のあるヒトだとおもう。ミュージカルのエリザでは、そこはあんまり突っ込んでないけど、シシィってそういう人だったんでしょ?

 ほーらー。
 もうもう、今すぐ少女小説を執筆できそうな要素がもりもりじゃないですか??
 こーゆーヒロインね、宝塚歌劇には、いそうでいないんですよ。植田しんじヒロインなんか、論外でしょう。植田景子ヒロインにも無いです。
 小池先生や斉藤先生のヒロインには、片鱗はあります。片鱗だけどね。

 エリザは曲もいいし、トート(死)を実体化したアイデアもイケてるんですが、日本で大爆発(?)を起こしたのは、やっぱり筋書きが少女小説だからだと思うよ。

●少女漫画の先には。
 少女小説や少女漫画において、恋愛のアガリは「結婚」です。紆余曲折を経て、ふたりは結婚することになりましたー!めでたしめでたし・・・とは、少女漫画の黄金パターンです。
 結婚まで行かなくてもいいや。
 少女漫画で一番重要な要素は「恋愛」ですね。少女漫画の多くが、ヒーローとヒロインが「両思い」になるハッピー、または両思いになれない切なさを描きます。ここでは、両思いになること・・・要はホレたハレたの末、くっつく・・・ステディな付き合いをすることになる!のが最終目標で、物語においては、ゴールである!という意味で、「結婚」も「両思い」も似たよーなもんです。

 エリザベートは、少女小説の筋書きだ、とわたしは申し述べました。
 しかしながら、少女小説(少女漫画)というのは、読んで字の如く、基本的に少女期の人間に向けて書かれるもので、わたしのよーな一部愛好家をのぞいて、たいていの人が「卒業」します。いくら「赤毛のアン」が名作でも、大人になってから読んでも、100%の共感は無いんじゃないかな。昔読んでたモノに対する、ノスタルジーのほうが勝るんじゃないですか。

 エリザベートは、ただの少女小説じゃないんだよね。
 エリザが「少女小説(少女漫画)」ちっくなのは、実は一幕のお見合い・・・「嵐も怖くない」までだと思うんですよ。
・おてんばな田舎娘が、
・花嫁修業ばっちりの姉の見合いについていき、
・姉を差し置いて王子様に見初められる
 「メルヒェンのよーう♪」って、結婚式の歌詞にもあるもんねえ。まさにメルヒェン、御伽噺ですよ。
 「嵐も怖くない」を歌うのは第7場です。エリザの舞台は、一幕二幕あわせて全32場(フィナーレのぞく)あります。32場もある物語なのに、7場で早くも(少女文化的)クライマックスを迎えているんですね。少女漫画なら、この「嵐も怖くない」が最終回ですよ。
 エリザベートという物語の個性は、残り25場にあります。第7場で少女小説として最高のエンディングに到達したエリザベートの物語は、残り25場をかけて、「少女小説(少女漫画)のその後」を描くんです。エリザの魅力は、まさにそこにあるとわたしは思うんです。

 「めでたしめでたし」のその先を、描いた少女漫画が、無いとはいいません。あります、あります。でも、メジャーじゃないよね。
 若草物語にも、赤毛のアンにも続編があるけど、読者はそう多くないもんね。
 若草は・・・たしか第2若草までしか読んでないんだよね。赤毛のアンは、わたし全部読んだぞ。全十巻なんて、今思えばよく読んだもんだ・・・。ヒマだったんだな、子供時代のわたし。
 やっぱり、アンが若いほうがおもしろいですよ。「アンの青春」あたりの巻は、けっこう面白くて、子供心に憧れながら読んだよーな記憶があるけど、結婚後の話はねえ。最後の「アンの友達」あたりなんて、渋いのなんの・・・。少女文学が、

世間一般の枠からはみ出していると自覚する少女が、さまざまな経験と葛藤の末、枠にはまるように成長していく話

 だとすると、少女文学の続編は、それなりに「枠にはまった」姿しか出てきませんからね。なんてゆーか、けっきょく「めでたしめでたし、の続き」ってカンジで、ぬる~いんだよね。アガってしまえば(結婚してしまえば)、それなりに幸せそう、みたいな。

 でも、実際には「めでたしめでたし」の向こうには、ぬるい幸福があるだけじゃないでしょ。艱難辛苦があるかもしれないし、想像以上の幸福があるかもしれないし、それはもう、わかんないもんねえ。
 世間一般の枠からはみ出していると自覚する少女が・・・成長しても、枠にはまりきることができなかったら、どんなことになるのか。エリザベートの物語は、シビアにそれを教えてくれます。
 ジェンダーだけじゃないです。大人になるということは、ある程度世間の規範を受け入れて、社会のルールで生きることを覚えるということです。そこにはトーゼン「枠」や「型」がある。大人になって生きていくとゆーのは、そういうことです。その「枠」を意識せずに暮らせるようになれば立派ですが、まあ誰でもそうじゃない部分はあるんじゃないですか。型を窮屈に思う感情というのは、どうしてもあるよね。

 外国の社会なんか知らないから、ホントかどうか知らんが、日本はそーゆー世間の規範、世間の目による縛りがキツイと言われますね。

 エリザベートは、日本でヒットするべくしてヒットしたんだと思いますよ。
 個性が大事とマスコミがきれいごとを叫んだところで、「型にはまれない」というのは孤独や不幸を伴う、リスキーなものでしかない、という、わたしたちが知ってはいても口に出さない不安を、ズバリ描いた物語だもんね。これはけっこう誰でも思い当たるところのあるテーマだと思うんだけど。(まったく思いあたらない人には、ミュージカル観劇とかの文化活動はあんまり必要ない気がする。)

 「型にはまるための葛藤」「自分の居場所」というテーマを、少女文学や少女漫画は、大人に向かう不安な少女たちに向けて、ずっと発信してきました。エリザはそのテーマを踏襲したうえで、少女漫画のように希望を説かず、シビアな現実を映して見せます。わたしのように、少女文学&少女漫画で育った人間には、見知ったテーマが、見知らぬ結末を迎える衝撃、ありますよねえ。「そうだ。赤毛のアンみたいなハッピーエンドなんか現実にはない。なかった!」って、思いません? 大人になったところで、「型にはまるための葛藤」や「居場所探し」は、社会との妥協のうしろに隠れてはいても、消えることはないですからね。少女期に見ていたぬるい夢想と、大人の「わたし」が見るリアルがリンクするのが、エリザベートの舞台の人気の秘密だと思います。

 余談ですが、ウチの母は、エリザはあまりお好みではない(笑)
 わたしの母は万年少女みたいな性格なので、リアルの部分が見えてないんだよねえ。だからエリザベートを見ても、「悲惨な話ね。いやだわ」で終わりなんだよねえ。

●小池先生はよく知っている!
 エリザが上演されるたびに、「初演はこんな暗い話をやるのかと心配されて・・・」みたいな話が出てきますね。
 あのエピソードが、わたしは不思議でたまらんのですよ。上にクドクド語ってきたように、これ、ものすっごい少女文学ちっくでしょー?世間では「少女文化」といえば、宝塚が筆頭じゃんか。エリザ、どっからどう見ても「少女漫画みたい!」だもん。こりゃ宝塚でやるっきゃないでしょ。

 小池先生が少女漫画のファンかどうかは知らんですが(小池先生は文庫版「ポーの一族」で解説文書いてたけど、熱狂的少女漫画FANとは思えないですね。あのころの文化人は、飛ぶ鳥落とすイキオイだった24年組の少女漫画ぐらい、あたりまえに読んでいるだろうし)、小池先生は少女文化の本質というのを、直感的に正しく理解してるんだなあ、とよく思います。
 でもって、生真面目な小池先生は、宝塚歌劇のファンに女性が多いことを考慮に入れて、「タカラヅカは女性ファン向けに、ちょっと少女趣味テイスト(フリルやレースっていうディテールじゃなくて、テーマの話ね)を入れることにしよう」と思っているフシがあると思う。実際のトコロ、ほかの演出家はそんなこと考えてるヒトほとんどいなくって、オトコのナルシシズム全開の芝居を書いてて、それを我々は違和感なくキャーキャーやっているワケですけども、小池先生はそーゆー宝塚文化の「ねじれ」に気づいてないとゆーか、興味がないというか・・・。小池先生は、生真面目なぶん、損してるなあ、といつも思うんだけど、そのおかげで「エリザ」があるのも確かです。

 小池先生でなきゃ、これ宝塚にもってこないですよ。
 だって、ほとんどの演出家は「少女漫画的」ということの意味を、本質を取り違えてますから。(ま、べつにそれはいいんだけど。宝塚は小林一三の思想が強いからだよね。一三は当時相応の男尊女卑のヒトだったみたいだから)
 エリザの「私だけに」を聞いて、「あ、こりゃ女性にウケるわ。宮廷モノだし、ちょうどイイじゃん!」と思える劇団関係者が、何人いるのかって話ですよ。
 反対意見や不安視する意見があったとしたら、劇団内部じゃないんですか?劇団のオジサマから見ると、まず「ヒロイン娘役が主張しすぎる」のが、不安だったんじゃないかな。「宝塚娘役としてどーなのか」って。娘役が主人公だから不安、なんじゃなくて、シシィが自己主張するキャラクターなのが、ひっかかってたんじゃないですかねえ。(でも、タカラヅカってけっこうエライよね。ハズレもあるけど、保守的な中で、きちっと新しい感性を模索しているのは、わかるもんね。)

 すいません。またもやⅡ(ココ)に続く・・・。長すぎです、すいませんすいません。


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2 コメント

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Unknown (雪乃)
2007-05-20 08:47:35
今回の雪組版、重くて暗い物語の中に、宝塚らしい官能の香りがあって、ああ「愛と死の輪舞」だ!って思いました。これは星組のときに感じた感覚と似てるんです。
おっしゃるとおり、暗くて重くてドライな話に少女趣味を持ち込んだところが宝塚版のツボで、初演はその少女趣味があまり立たずに緊迫感のある重厚な仕上がりでした。当時、私はそこが物足りなくて、大絶賛の嵐のなかハマリきれないでいたのです。オリジナルの重さと少女趣味がガチっとハマった宝塚のエリザベートがはじめてできたのは星組再演からだと思います。

エリザベートも再演を重ねて、見るひとによっていろいろな感想がきかれるようになって面白いなーと思いながら、Kさまの感想を興味深く拝見しています^^
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雪乃さまへ♪ (なまいきむすめK)
2007-05-23 20:14:43
>初演はその少女趣味があまり立たずに緊迫感のある重厚な仕上がりでした。

ええーっ。そうだったんですかー。
何しろわたし、生で見たのが花組からで、花組のエリザは「これぞ宝塚!」っていう華やかロマンティックエリザで。最初に見たモノって、すっごく刷りこまれちゃうので、わたしのなかでは花組の超ロマンティックエリザが基準になってて、あんまり「重厚」のイメージがなかったんですよねー。
そうなんですか。初演は重厚だったんですか。雪組の芝居は、もともと重~いですしね。なるほどです。

>オリジナルの重さと少女趣味がガチっとハマった宝塚のエリザベートがはじめてできたのは星組再演からだと思います。

星組版は、映像ですら見たことないんです。
宝塚版はロマンティックだって、よく言われますけど、小池先生がどれぐらい「ロマンティック」を注入したのか、ほんとのところは、ウィーン版見なきゃわかんないのかもしれませんねー。雪乃さんは、ウィーン版をごらんになっているんですよね??

ちょっと無理してでも、行けばよかったかも~と、いまさら思ってみたり・・・。「一万円を超えるチケットは買わない!(買えない)」っていう、貧乏くさいマイルールがあって、見向きもしなかったんですけど・・・。

大作の再演て、面白いですよね。ベルばらは再演のたび微妙に脚本変わりますけど、エリザはひとつも変わらないのに、再演されるごとに受ける印象がぜんぜん違いますもんね~!
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