ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

「1969 新宿西口地下広場」を読んで(20200826)

2020年08月26日 | 本の紹介・書評
 唐突ですが、「1969新宿西口地下広場」大木晴子+鈴木一誌編著(新宿書房2014年6月刊)を読み直しました。また付録にあるDVD『1969春~秋 地下広場』(製作:広場の一味 製作・監督:大内田圭弥)を初めて見ました。
 時は無慈悲に経つ。あれから51年が経ち、今がどうなのか? 私には「夜明けは近い」どころか「夜明けは遠かった」としか思えません。しかし今私が言う「夜明けは遠かった」は、負けた事だけを意味しません。
 本を開けば、時代を物語る写真が多数出てきます。こんなだったんだ、と思います。私は晴子さんより3つ下。1969年の私は高校生でした。新宿西口でフォークゲリラが華々しくやっているとの報道を見ていました。そのうち機動隊が出てきて、追い出されていくことも知っていました。当時の私はまだ反戦運動とか高校生運動とかに興味半分、おっかなびっくりでした。また当時の私の街の灯りは渋谷であって、新宿にはほぼ縁が無かったことも私をためらわせたのかもしれません。これは当時の私の住まいの関係であって、他意はない。
 今改めて読み、見てみると、当時の熱を感じます。混沌とした中でもアクテブティを感じます。他人に向き合う、他人と議論するこのエネルギーは、花は何処へ行ったのでしょうか? フォーク・ゲリラには、歌いかける気概がにじみ出ています。多くの聴衆が呼応する形が西口広場にみなぎっていたようです。フォークソングを共有し、反戦を思考する共有の場ができていたようです。それは権力にとっては、最大の脅威です。これを潰せとなったのでしょう。フォークゲリラは69年2月から7月まで持続。
 不幸だったのは、新宿西口交番に投石した事件が起きたことです。これを口実に機動隊が本格的に介入してきました。この投石をやった中に、実は公安がまざっていたとの指摘が出てきます。その公安が突然、他の投石者をぱくっていく。あなおそろしや。同じシーンを私は1972年の相模原戦車搬出入阻止闘争で経験しています。暗闇ですからますます区別がつきにくい。こういう技を権力は蓄積していたのです。
 もっと不幸だったのは、平和的(非暴力)な表現行為が、当時の反体制運動の中で、暴力的な運動諸潮流とごちゃまぜになってしまったのです。機動隊殲滅に向かったり、爆弾や銃撃戦という手段の過激化です。この道は官僚統制を強め、上意下達の軍団化を進めていきます。
 非暴力の闘いのみならず、暴力的な激しい闘いも、反戦を課題にしているように見えながら、明らかな別物です。これがあたかも革命的であるかに見えた時代だったのです。権力の圧倒的な弾圧の中でも、これを明確に区別して歩む自覚が思想が足りなかったのだと思います。余りにも性急にラディカルにという焦りと俺が俺がという前衛党・党派主義が全てをダメにしていきました。権力はそういうことを百も承知の上で襲いかかってきたのです。
【補足 もうひとつ本筋ではありませんが、何人かの執筆者が当時の音楽のメジャーシーンで、時代の気分として藤圭子に惚れ惚れしていたことをさらっと書かれています。実は私も当時、藤圭子の大ファンだったので、同罪です。だから自己批判しておきます。藤圭子らは、男についていく女の叙情を唄い上げて居ました。差別丸出しだったのです。反戦・反権力でも差別は貫かれているのです。こいつは手強い。こうした問題は今もあり、男は常に問われています。】
 70年代に入り私も反戦運動に参加していきますが、こうしたことを全然分かっていなかった。それでも反戦と言いながら仲間殺しはありえません。内ゲバの正当化もおかしいと気づきます。しかしこうしている間に反戦の看板が汚れ傷ついていきました。反戦や反体制の熱は急速に冷めていったのです。時代が変わったのです。
 市民運動とは、あくまでも個人の自発性に基づく、無償労働です。もどかしいことがあまたあります。時代状況が来なければ、大きな勢いになることはありません。否、この時代状況をつくりあげるためにも、歌は有効でしょう。なによりも広場が有効なはずです。この広場を権力は、押しつぶし、ズタズタにしたのです。西口地下広場もそうでした。
 しかし晴子さんたちは2003年2月のイラク戦争前からこの西口地下通路で表現物を持つスタンディングを始めます。今日まで17年間。ささやかでも、通行人に届かなくても諦めない。中には話しかけてきたり、縁をつくり、立ちに来る人もでています。
 広場は形は変われども、私たちが諦めたら、雲散霧消してしまいます。これを手放さない悪戦苦闘を持続し、またその場に応じた可能な広場を作り出したいものです。お互いのコミュニケーション能力が問われているのです。

 本書はこの51年の時代の様変わりと、だからこその可能性を裏側で提示してくれています。東京と沖縄との関わりにも示唆するものがあります。
 健康に留意されて、ともに歩みましょう。


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