ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

「ふたたびの〈戦前〉ー軍隊体験者の反省とこれから」をもう一度読む(20210620)

2021年06月20日 | 本の紹介・書評

 石田雄さんが、2021年6月2日亡くなった(1923年生まれ)。彼はベ平連に関係していたし、私は何冊ものご著書を読んできた。最近では2015年5月に「ふたたびの〈戦前〉ー軍隊体験者の反省とこれから」(青灯社 2015年刊)を読んでいた。これを今回再び読んだ。

 少し紹介してみたい。第1章「愛国少年へのゆるやかな歩み」、第2章「戦争に向かう空気のあやうさ」、第3章「軍国青年の誕生と軍隊経験」と個人的な体験と史実を取り混ぜながら教訓化している。濃密な20年余りの歴史を約80頁で書くことは不可能だろうが、研究者だからか淡泊な書き方になっている。教育、思想・言論、同調圧力、弾圧法、「東洋平和」論など多面的に描いている。ただ彼の父親が時代の要職に就いていたからか、農民兵のことや植民地支配のことを語っていない。アジア侵略についても正面から語っていない。幼少時の経験など、少しでも掘り下げてみれば、頭に浮かんでくるだろうことがでてこないのだ。これは恣意的なのか、彼が戦後研究を始めた丸山(真男)政治学のせいなのか、ないのだ。

   日本の近現代史を考え直す以上、アジア侵略を近代化論にオブラートに包んできたことや、「内地」と「外地」の区別・差別を見なければなるまい。彼ら(世代)が幼少期を含めて、台湾、朝鮮(人々)をどうみてきたのかは、避けて通ることはできない問題のはずだ。

 私は、今こう反省している。私の小学生時代(1960年代)、地域の右翼高校生と朝鮮高校生の出入があったときいていた。私の学生時代(1970年代)には、近くに国士舘大学という右翼学校があり(当時)、付近にも右翼学生が徘徊していた。彼らに追いかけ回されたこともある。小学・中学時代の私は、どちらに肩入れすることもなかったが、明らかに退いていた(こわい)事は否めない。こうしたことが原因となって、私は在日朝鮮人・韓国人の問題から距離を置くことになってしまった。

 第4章「戦後の『短い春』から集団的自衛権容認までー戦後研究者としての反省」に、「戦争の惨禍」を問題にしながらアジア侵略を忘れたことを彼も記している。50年の朝鮮戦争から再軍備が始まっていく。天皇制、内灘、砂川、ビキニなどの問題に言及しながら、60年安保反対にふれている。

 その後のベトナム反戦でも加害の問題に触れながら、「悪魔の島」といわれた沖縄問題に言及が少なかったと反省しているが、「戦後日本国家」は、米国が沖縄を占領支配したことから始まったことにまで触れていない。平和の政治学を語ることは良いと思うが、安保による従属を、そこに深入りした議論を欠いていたのだ。

 80年代の戦後政治の総決算から「『平和』の両義性」を語り、日清戦争後の「東洋平和論」に誤魔化されたことを想起している。ヨーロッパではドイツで東西分裂が起きたが、アジアでは朝鮮半島の南北分断が起きながら、これが見過ごされてきたことに注意を喚起している。ただ、この問題は地理的にやや離れた場所だから、鈍くなったばかりか、米国による「保護」=従属=共犯関係とともに論じなければならないはずだ。

 紙幅の関係があるにしろ、もう少し言及しなければならないはずだ。私は日本のベトナム反戦運動が日本の侵略史批判とダブらせながら、深堀する努力が足りなかったことを自己批判するべきだと考えている。

 次に「冷戦終結から新自由主義によるグローバル化」で戦後補償の問題が起ち上がってきたが、ここでも「社会科学再考」を著した(1995年)というが、村山談話と女性基金に集約してしまい、同時に政治史の大転換点となる94年の小選挙区制から村山連立政権を巡る批判を政治学の視点から検証することが重要なはずだ。

 彼は新自由主義を問題にし、こうした流れが社会進化論と相まって、軍事的支配を正当化していくと語っている。日本でもこれが浸透してきて、権力者から民衆までもが「国民」にひとくくりにされ、物質的欲望に煽られているのではないか。

 ここで私たちが総括すべき事は、人間は不完全な生き物だということだ。また、生きるということが自明ではなく、自死したり人を殺しうる。Lifeを命と暮らしに別々に考えるのではなく、命の営みだと捉え、「新自由主義」というあたかも没価値的なイデオロギーに欺されない考える力が問われている。生存競争ー弱肉強食を是とするありかたは、根本的に人間の生存基盤をぶっ潰していくのだ。これは軍事力による破壊の圧倒的な強化や、気候変動にも現れている。

 第5章は「また戦争に向かうのかー戦前と今日の状況の共通点と違う点」。彼は言葉について、丁寧に論じている。そこは多としたいのだが、生存条件を獲得することと結びつかないと、人心誘導に流されやすい。そこをどうするのか。

 大変状況は厳しいが、「未来世代と、日本だけでなく世界の平和という広い視野から見て、果たすべき責任の重大さを意識することだ」という指摘は、ナショナリズムを超えるばかりか、人間の生存条件が具体的にぎりぎりになってきていることを考えれば、戦争などやっている場合じゃないことはいうまでもない。しかし、こうした冷静な判断が有効ならば、問題ないが、これがヤバイのが現状だ。冷静な判断を求めるためには、各自の足元を見直す必要がある。頭が抽象的にずっこけていれば、妄動していくばかりだろう。

 結語は対話力となっているようだが、そういうことなのでしょう。戦前の轍を踏まないことが対話力だとすれば、対話力を喚起する取り組みこそが重大だと思う。個々人の発意にお任せしていたら間に合うまい。 

 

 

 

 

 



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