武弘・Takehiroの部屋

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海外に“ワイフ・ビーター”として紹介された佐藤栄作元首相(でも、佐藤さんは日本でただ一人、ノーベル平和賞を受賞したんだぞ!)

2024年06月15日 01時59分41秒 | エッセイ・私事など

<以下の記事を復刻しますが、場合によっては削除します。>

今日は女性に叱られることを覚悟の上で、話をしたい。ワイフ・ビーター(Wife beater)とは「妻を殴る夫」のことである。こんな言葉は今や死語だろうが、昔、佐藤栄作さんという総理大臣がいた。7年8カ月の長期政権と沖縄返還の実現、ノーベル平和賞受賞などで有名だが、実は佐藤氏は総理に就任した直後、アメリカなど外国に「ワイフ・ビーター」として知れ渡ってしまった。
 これは芳しいことではない。日本の首相は妻を殴るのかということだが、逆に言えば、佐藤さんご夫妻は正直に告白したということだ。明治生まれれの日本男児は妻をよく殴った。私の父も佐藤さんより少し年上だが、母をよく殴っていたようだ。まあ、亭主関白を示す行為だろうが、もちろん良いわけではない。
 佐藤氏の次男・信二氏がある週刊誌に載せた記事を読んだことがあるが、若い頃の佐藤さんと妻の寛子(ひろこ)さんの夫婦喧嘩の凄まじさに笑ってしまったことがある。双方とも激しくて、物がどんどん壊れていくのだ。まあ、そういう話は止めておこう(笑)
 とにかく、佐藤栄作氏は癇癪持ちで短気だったようだ。大変なギョロ目で“政界団十郎”とも呼ばれ、威圧感があったので睨まれると誰もが委縮したそうだ。あの田中角栄氏も、まずい話をする時は睨まれると怖いので、壁に向かって言い放っていたと述懐していた。
 
すっかり佐藤栄作氏の話になってしまったが、実は私も若い頃はワイフ・ビーターであった。“自己弁護”するために、わざわざ佐藤栄作元首相の話を持ち出したようなものだが、それで私の「非」が許されるわけでもない。私も短気で癇癪持ちだったから、妻が生意気なことを言おうものなら、つい手が出てしまったようだ。
 それに、口喧嘩になると女の方が男より達者である。女の方が理屈、屁理屈を問わずベラベラとまくし立てるのだ。女は1時間でも2時間でも平気でしゃべる癖があるから、口ではたいていの男は敵わない。しかも、喧嘩になると女は男の過去の「非」を洗いざらいぶちまけるのだ。「あの時、あなたはこうだった」「その時、あなたは冷たかった」などと、過去のことを何もかも持ち出してくる。これには敵わない。そうなると、ついカッとして手が出てしまう。
 
私が結婚した直後、親しい某先輩がアドバイスをしてくれた。「女はずるいからな。何かあるとすぐに泣くもんだ。涙は女の武器だからな。それに騙されるなよ」
 この忠告は今でもよく覚えている。そこで新婚当時から、妻が生意気なことを言うとガツンとやっていたが、やはり妻は顔をゆがめて泣いたりしていた。少し乱暴だったかと反省したりしたが、ワイフ・ビートは止めなかった。
 ところが、少し卵巣機能不全でなかなか子供が出来なかった妻が、2年余りしてめでたく懐妊した。もちろん嬉しかったが、その頃何かのことで夫婦喧嘩になった。私は例によって殴ろうと拳を上げたのだが、妻のお腹に赤ちゃんがいると思った瞬間、殴れなくなった。あれは不思議な体験だ。妻を殴ることは赤ちゃんまで殴ることになると感じたのか、拳を下ろしてしまった。殴れなかったのである。
 あれは男親の本能と言うものだろう。妻が女というより“母体”に見えたに違いない。結局、赤ん坊が誕生するまで私は妻を殴ることはなかった。
 
殴るというのは野蛮な行為である。これは好ましいことではない。しかし、男が結婚して家庭を持つと、それは「家長」になるということではないか。昔はたいていの男がそう考えた。だからワイフ・ビーターになっても良いということではないが、最近の男どもを見ていると、どうも軟弱で優し過ぎるような感じがしてならない。逆に、妻に罵倒され殴られているのではと疑ってしまうほどだ。これも時代の変化なのだろう。今の若い男たちは結婚して「家長」になるという意識、自覚があるのだろうか。
 どうも“古い人間”の話になったようだが、昔は、たとえ吉永小百合さんのような女性を妻にしても、夫は妻を殴ったと思う。そういう時代だったのだ。
 最近、1984年の中国映画『黄色い大地』をDVDで見ていたら、陝西省の俗謡に「嫁は殴れ、麺はこねろ」という歌詞があったので思わず笑ってしまった。映画はこうした封建的な風習を改めさせようと、中国共産党が努力するという自画自賛のストーリーだったが、たしかに“ワイフ・ビーター”は古い風習の一つかもしれない。 今日は女性の読者から反発を買いそうだが、お手柔らかにお願いしたい。(2010年8月11日)

<追記> 
佐藤さんがノーベル平和賞を受賞したのは昭和49年(1974年)だったが、その時、取材で駆けつけたことは今でも忘れられない。 当時、私は首相官邸詰めの記者だったが、たしか早朝にFテレビから電話連絡が入り、東京・世田谷の佐藤邸に取材に行ってくれと言われた。
そこですぐにタクシーを拾い佐藤邸に駆けつけたが、客間には自民党の前副総裁の西村英一氏(当時の国土庁長官)がいたのを思い出す。西村氏は戦前の鉄道省で佐藤氏の先輩に当たり、以後、政治家になっても佐藤氏を支え続けた人だ。
やがて暫くして、自民党の石原慎太郎氏ら数人がお祝いに駆けつけ佐藤さんと歓談していた。そうした模様を原稿にまとめ上げ昼ニュース用に送稿したが、佐藤さんはもちろん上機嫌な様子だった。奥さんの寛子(ひろこ)さんが客の接待でいろいろ気を遣っていたのを思い出す。
大した話ではないが、ノーベル平和賞の受賞が決まった時の佐藤邸の模様を思い出したので追記しておく。(2022年4月27日)


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