武弘・Takehiroの部屋

われ反省す 故に われ在り

ベートーヴェンへの感謝 ・Durch Leiden Freude!

2024年06月15日 14時08分20秒 | 芸術・文化・教育

<2002年11月に書いた以下の文を復刻します。>

ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン

1) 音楽に関心がない人も、ベートーヴェンの名前は知っている。 この不世出の大作曲家については、余りに多くのことが語られ、余りに多くのことが伝えられている。 ほとんどの人が、この“楽聖”の断片的なことを知っているだろう。
  フランスの文豪であるロマン・ロランは、一方では偉大な音楽評論家であったが、ベートーヴェンへの感謝の言葉を残している。 その内容を逐一紹介することは控えるが、多くの人がこの大作曲家に感謝の念を抱いているのではなかろうか。
  ベートーヴェンの音楽には、人を魅了すると同時に、「生きること」への何らかの啓示が発現されている気がしてならない。 喜びも苦悩も、悲哀も勇気も、慰みも激情も全ての「生命」が込められているようだ。
  どのような音楽にも、そうした「生命」が込められているはずだが、ベートーヴェンのそれは非常に劇的で深く、人の心を揺さぶる何かが込められていると思えてならない。 どうしてそうなのだろうか。どうして彼の音楽は、人々の魂を揺さぶるのだろうか。
  この人はもとより音楽の天才なのだろうが、それ以上に、人間としての感性の深さ、精神の偉大さを兼ね備えていたのだろうか。 聴く人それぞれによって、それをどう理解するかは自由である。そのことについて論じるのは止めよう。 あくまでも個人個人が、自分の心に聞けばよいことである。
 
2) ベートーヴェンへの感謝は各人によって違う。私の場合は19歳の時に訪れた。 革命運動への挫折と破局、絶望感がなかったなら、この人の音楽に感謝する機会はなかっただろう。 その頃、過激な学生運動から脱落し、全ての目標を失い、絶望のどん底に呻吟していた自分にとって、感性的に唯一の救いとなったものだ。
  19歳の冬のある日、憔悴し切っていた私は、当て所もなく大学(高田馬場)の近くをさまよっていた。 狭い路地をふらついていた時、どこからともなく、メロディーを口ずさむ男性(多分、男子大学生だったろう)の声が聞こえてきた。
  そのメロディーは緩やかにおおらかに、朗々として伝わってきた。どこかで聞いたことのある曲のようだった。しかし、何の曲なのかは分からない。 ただ、そのメロディーを聞いていると、絶望感に打ちひしがれていた自分の心が、何故か和んでくるような気がしてならなかった。
  その歌声を聞いているうちに、私は次第に解放感を覚えるような気持になった。男性がメロディーを口ずさむ間、私は路地裏でずっと聞き耳を立てていた。 彼の歌声が終わった時、不思議にも「救われた」ような気持になった。
  一体、あの曲は何なのだろうか・・・もう一度、是非聴きたい! いや、何度でも聴きたい!! それから数日経ったと思うが、そのメロディーがベートーヴェンの交響曲第6番「田園」の一節だということが分かった。
 
3)「田園」の最後の第5楽章は、“牧人の歌”と言うものだ。 第4楽章の激しい“嵐”の後に奏でられる、穏やかで平和に満ちた、ほのぼのとしたメロディーである。 牧人達が嵐の過ぎ去った後、美しい田園の中にたたずみながら、天上の神に感謝する敬虔な祈りにも似た一節なのである。
  私はその後、当時のレコードプレーヤーで、LP版の「田園」を何回も何十回も聴いていった。 そして“牧人の歌”でその都度「救われる」思いを新たにした。 それは理屈ではない。ただただ感性の問題である。
  激烈だった60年安保闘争(昭和35年)、そして挫折、混迷、絶望感・・・それは、まるで“嵐”のメロディーと同じであった。 その後の「救い」を“牧人の歌”が与えてくれたような感じがした。そして、どうにか「生きること」への希望の光に照らされたような気がした。 私は「田園」を何十回聴いたことだろう。
  それからというもの、私はベートーヴェンの“虜”になった。 屈辱や苦悩を感じた時は、よく「運命」を聴いた。それを聴いて耐えた後に、解放感にひたるのだ。 喜びと幸福感に満ちた時はよく「合唱」を聴いた。愉悦を広げたくなるからだ。 心がもやもやしてくると「英雄」や「エグモント」をよく聴いた。何十回、何百回聴いたことだろう。
  ベートーヴェンについては、もうあれこれ言うのは止めよう。 この偉大な人間から、“福音”のように何を得られるかということだけである。我々人類に何を与え給うかということだけである。
 
4) Durch Leiden Freude!(苦悩をつき抜けて歓喜へ!)、これが彼の信条であった。 25歳を過ぎてから耳の病いに冒され、30歳の頃にはほとんど聴覚を失ってしまった。 これは音楽家にとって致命的なことである。
  ベートーヴェンは、どれほど自分の運命を呪ったことだろう。「自分をこの世で神が創った最も惨めな人間だと感じる」日々・・・そして絶望の果てに、弟達にあの「ハイリゲンシュタットの遺書」を書く。彼は一度死んだのだ。
  そこから、この人間は甦る。そこから、この人間は人類史上最も偉大な作品を次々と生み出していく。奇跡と言う他はない。 ベートーヴェンの奇跡について、我々はどれほど多くのことを古人から聞かされてきたことか。
 「生命」の尊さを、これほど体現した芸術家が今までにいただろうか。 自らの苦悩をつき抜けて、これほど歓喜を与えてくれる音楽家が他にいただろうか。我々はただ、彼に感謝するのみである。
  臨終の時、彼は「喜劇は終わった」と言ったが、それは「悲劇が終わった」というのが本当だろう。 私自身も死ぬ時、ベートーヴェンの音楽を聴いてから、あの世へ行ければ本望というものだ。(2002年11月17日)

ベートーヴェン「田園」第5楽章(フィラデルフィア管弦楽団)


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