武弘・Takehiroの部屋

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<小説> 世紀の大誤報か・・・天皇狙撃!

2024年06月30日 09時51分58秒 | 文学・小説・戯曲・エッセイなど

その日は秋晴れの清々しい一日だった(1971年10月のある日)。 山村秀樹は結婚ホヤホヤの新妻に車で送られ、いつものように国鉄(今のJR)の北浦和駅から国電に乗り込んだ。通勤・通学のラッシュ時よりやや遅めであったが、電車の中は通勤客などでまだかなり混んでいた。
秀樹は某民放テレビ・Fテレビの政治記者をしていたので、いつも本社には行かず、取材先の国会の「野党クラブ」へ直接通っていた。野党クラブというのは社会党、公明党、共産党、民社党など野党各党を取材するもので、先輩の大場誠司記者と2人だけで担当していたから、仕事はけっこう忙しかった。まあ、若くなければ勤まらないだろう。今じゃとても無理だ(笑)。
10月下旬のその日、大場先輩と秀樹はいつものように手分けをして、野党各党の国会対策委員長らの記者会見に出席した。その日は国連の中国代表権問題の話題しか大したニュースがなかったと思う。
「北京の方がかなり優勢だと聞いているが・・・」 社会党の恰幅の良い楯(たて)国対委員長がそう言った。
「台湾は負けそうですね」 A新聞の年配のキャップが合いの手を入れたが、要するに今の中国政府と台湾政府が国連で“中国代表権”を争っていたのだ。
「歴史は変わるね~。そうそう、これは成田委員長の声明を発表するということだな。どの党も党首声明を出すだろう」 
「北京が勝てばまさに歴史的ですからね。党首声明が当然でしょう」
幹事社のK通信のキャップが念を押すように言ったので、社会党は“党首声明”を出すことになった。
「今日はテレビ各局は“特番”だそうだな。熱が入るね。まあ、頑張っていただこう。ウワハッハッハッハ」 楯国対委員長は上機嫌でそう言うと席を立った。中国代表権問題で北京政府を推してきた社会党は、台湾に勝ちそうな情勢なので気を良くしていたのだろう。
他の野党も党首声明を出すことには異論がなく、中国代表権問題は政治関係者の関心の的になった。それは良いとしても、Fテレビの特番を報道の部屋から直接やると大場先輩から聞いて、秀樹は一瞬、大丈夫かなと思ったのである。

 この当時は、報道の部屋から直接 特別番組をするというのは異例のことだった。大事件や大ニュースがあればやらないことはなかったが、ごく稀なことである。特番も普通は、スタジオから放送したものである。それだけ国連の中国代表権問題が歴史的で、皆の注目を集めていたかが分かるだろう。しかも代表権問題が、劇的な節目を迎えていたことが何となく予感されていたのである。
秀樹はこの日も野党クラブの仕事などに忙殺され、ゆっくりテレビを見る時間はなかった。仕事の合間に記者クラブの共用テレビを覗き見する程度である。しかし、中国代表権問題で北京政府が優位に立ち、台湾政府が苦しい立場に追い込まれたことは分かった。たまに見るテレビ画面で、各局の特番は国連総会で「北京有利」の実況中継を流していたからである。
そして、いつ頃だったろうか・・・ 野党クラブのある記者が叫んだ。
「おい、Fテレビの特番で、天皇が撃たれたという報道があったぞ!」
えっ、それは一大事だ! あわてて、自社席の小型テレビでFテレビのチャンネルに合わせる。そんな報道はしていない。第一報だったのか・・・? 

実はその頃、Fテレビの報道局は大変だったようだ。秀樹が後で聞いた話だが、たしかに「未確認情報ですが、和歌山国体にご出席の天皇陛下が狙撃されたようです」との第一報を流したらしい。

昭和天皇

この和歌山国体は別名“黒潮国体”と言って、当時は国民体育大会と言うと天皇陛下(昭和天皇)が必ずお出ましになった国民的な行事なのである。それに出席された天皇陛下が撃たれるとは、一大事ではないか!
秀樹は先輩の大場記者と共に、自社席の小さなテレビにかじり付いて、続報を待ったのである。天皇が撃たれたら中国代表権問題どころではない。特番自体が全面“差し替え”になるだろう。
その頃、Fテレビ報道ニュースキャスターの奥山太郎は、アナウンス室で“天皇狙撃”の第一報を聞き、飛び上がらんばかりに驚いた。奥山はメインニュースのキャスターを務めていたが、今回の特番の担当ではなかったのだ。 びっくりした彼は取るものも取りあえず報道の部屋に駆けつけ、部員に尋ねたのである。
「天皇陛下が撃たれたのは本当か!?」

「いま、確認中です。待ってください!」
応対した報道部員は忙しそうに答えた。奥山は待つしかなかったが、嫌な予感がしたのである。何人かの報道部員が手分けをして、警察庁や和歌山県庁、和歌山県警や和歌山市役所などに問い合わせをしている。それとは別に、天皇狙撃のニュースにびっくりした視聴者から、数多くの電話がかかってきたらしい。他の報道部員と電話交換手らとの間で、どうなっているのかとか、いま調べているといったやり取りが行なわれていた。
奥山はじりじりとした気持で待っていたが、確認が取れないところを見ると、どうやら“誤報”の可能性が高いのではと思われた。現場の報道部員に聞くと、まずJ通信社から「天皇陛下が狙撃されたらしい」という一報が入ったようだ。
しかし、J通信はその頃“早とちり”の通信社として有名だったから、もちろん慎重に確認作業をする必要がある。報道部員らは当然そうしていたが、その直後に出先の運輸省記者クラブから、天皇陛下狙撃の情報と、パ~ンという破裂音が聞こえたとの連絡が入った。
報道部員はいやが上にも確認作業に追われたが、その最中に、報道のAが「こういう情報も入ってますよ」と、J通信の先の一報をBキャスターに伝えた。伝えたというのは、J通信から入ったファックスをそのまま渡したのである。
Aの行為は明らかに不注意、うっかりミスである。他の報道部員らは確認作業に全力を挙げていたのだ! また、ファックスを受け取ったBキャスターも、事の重大性と「未確認情報」なら一報を伝えるべきではなかった。BもAも日頃から仲の良い友達同士なので、気安い雰囲気だったのだろうか。
おまけに、当日は中国代表権問題で報道の部屋から中継特番が行なわれていた。キャスターと報道部員が“すぐ側”にいたのである。何でも伝わる、何でも伝えようという気分になっていた。これが通常どおり、スタジオから特番が放送されていれば“アクシデント”は起きなかっただろう。
それを言ってももう遅いが、未確認情報とはいえ天皇狙撃のニュースが全国に伝わったのだ。そして、確認作業をしたところ天皇狙撃は誤報であり、先ほどの「パ~ンという破裂音」は、車のタイヤが破裂した音だったらしいことが分かった。
タイヤの破裂音が、ピストルか何かの発射音に間違われ、流言飛語・デマとして広がったのだろう。

  天皇狙撃の報道が全くデタラメと分かると、Fテレビは中継特番を通じて何度も誤報の訂正を行なった。皮肉なものだが、これも「特番」だから簡単にできる。報道の現場からいつでも迅速に伝える態勢が、かえってアダになったのか。事が事だけに、寄せられる声は問い合わせよりも抗議や非難が多かったようだ。
肝心の国連中国代表権問題は、北京政府を安保理常任理事国に迎え入れ、台湾政府を追放するというアルバニア決議案が賛成多数で採択された。まことに歴史的な日となったが、Fテレビはそれどころではなかったのである。
特に右翼や民族派の人たちの怒りは凄まじかった。それはそうだろう。天皇陛下が狙撃されたという誤報を流したのだから。右翼の抗議は当日からあったが、翌日以降も某右翼団体がFテレビに押しかけてくる騒ぎになった。
秀樹は先輩の大場記者からだいたいの事情を聞いた。出先の記者クラブではキャップクラスのベテラン記者が情報をまとめ、社としての意思統一を図ったのである。そうすれば部外者から事の成り行きを聞かれても、理路整然と答えることができるからだ。
案の定、翌日になると他社の記者が何人も事情を聞いてきた。興味本位に質問してくる者もいるが、マスコミの不祥事を未然に防ごうという真面目な趣旨で聞いてくる者もいる。秀樹はだいたいのことを説明したが、そうしているうちにだんだんと“抗弁”したくなった。
「狙撃は未確認情報だと言ってるんですよね。未確認情報なら、完全に誤報とは言えないのでは・・・」
そう抗弁しながらも、秀樹はそれが“屁理屈”だと自分でもすぐに分かった。未確認情報なら伝えないことが一番だ! どんな情報でも、確認を取った上で伝えるのが基本である。まして、天皇狙撃という重大情報なら尚更ではないか。
自分の抗弁に空しさを感じながらも、彼は顔見知りの記者たちに説明した。彼らも秀樹のことをよく知っているので特に追及はせず、誤報の怖さを改めて思い知らされたようである。
一方、Fテレビでは責任者が関係各方面に謝罪するなど、後始末に追われていた。

  宮内庁などに謝罪に行ったCニュース部長(報道部長)は結局、責任を取る形で部長を辞職し配置転換となった。また、A報道部員とBニュースキャスターも誤報の直接の責任を取り、それぞれ業務停止などの処分を受けた。ただ、2人の処分は、C部長の引責辞職に比べれば軽かったと思う。 
S社長肝いりのエリート部長Cさんの辞職は、多くの報道部員に衝撃を与えた。秀樹もショックを受けたのである。Fテレビとしてはこれで“誤報騒動”に何とかケジメを付けたわけだ。
こうして騒ぎは収束するが、この誤報事故は各テレビ局に大きな影響を与えたようだ。一番気になるのがテレビの同時性、生放送の重要性である。 中継の技術が発達していくと生放送が増えてくる。また、生放送は視聴者から歓迎されやすい。しかし、何かアクシデントがあると天皇狙撃の誤報ではないが、瞬時にして視聴者に伝わってしまう。恐ろしいものだ。各局はFテレビの事故を“他山の石”とし、以後、厳重なチェック態勢を取るようになった。

 秀樹の個人的感想によれば、テレビは後発のため通信社などに頼り過ぎていたと思う。だから、早とちりのJ通信が「狙撃?」の一報を流すと、簡単にそれに飛びついてしまったのだ。それになんと言っても、報道の現場から国連中国代表権問題の“生放送”をしていたのが運が悪かった。
後日談だが、Fテレビが開局50周年の社史を編集した時、秀樹は1971年(昭和46年)のところに天皇狙撃誤報の件を記すようアンケート調査で主張したが、取り上げられなかった。社史なんて“おめでたい”話ばかり出てくるものだが、時には、自分を戒めるためにもそういうミスを取り上げた方がいい。徳川家康は、三方原の戦いで惨敗した時の自分の無様な絵姿を、自戒のために末永く保存していたというではないか。
あれから何十年・・・関係者以外にはとっくに忘れられた放送事故だが、若いころ報道に命をかけた秀樹には、決して忘れられない話なのである。(完) 


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