武弘・Takehiroの部屋

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司法は「犯罪者」の味方か? 江戸時代の方がずっとマシだ!

2024年06月30日 14時12分12秒 | 社会・事件・事故

<以下の記事は2002年3月22日に書いたものですが、一部修正して復刻します。 なお、ここに出てくる「光市母子殺人事件」の被告は後日 死刑が確定し、現在 広島拘置所に収監されています。>

1) 1999年4月14日の午後、山口県光市の会社員宅に、強姦目的で侵入してきた18歳の少年が、会社員の妻(当時23歳)と長女(当時11ヵ月)を、暴行した上で惨殺した。 いわゆる「光市母子殺人事件」である。3月14日、広島高裁の控訴審判決では、一審と同様に、被告に対して「無期懲役」の判決が言い渡された。 
私は刑法のことはよく分からないが、どうしても納得できない。極めて凶悪な事件なので、検察側は当然「死刑」を求刑していたが、却下された。判決では、被告は「更生の可能性がないとは言い難い」としている。判決とは、相変わらず持って回った言い方をするものだ。
この判決について、被害者の夫である本村洋さんは「(殺された)二人の命の重大性をくみ取ってもらえれば、極刑になるはずだ」と、記者会見で無念さを表わしていた。遺族の心情、無念さを思うと、ますます犯人に対する“憎しみ”が込み上げてきた。『バカヤロー!』と叫びたくなった。一体、この判決は正当なものと言えるのだろうか。

2) 専門の裁判官が出した判決なのだから、正しいのかもしれない。“量刑相場”というものがあるそうだ。それから見ると、判決は妥当(?)なのだろう。私のような素人が出る幕ではないかもしれない。しかし、私にはどうしても納得できない。
判決には、「殺害は事前に計画されたとは認められない」とある。それなら、発作的に犯す殺人は罪が軽いということだ。刑法とはそんなものかと思ってしまう。人と口論していて、ついカッとなって相手を殺してしまったら、それは計画性がないので、罪が軽くなるということか。
冗談ではない! それならば、自分はいっそのこと、加害者になってやりたいくらいの気持になってしまう。 勿論、殺人は犯したくないし、殺されたくもない。計画性があろうとなかろうと、人の命は最も尊いものだ。正当防衛を除いて「殺人は殺人」である。「結果責任」を取る(取らせる)という姿勢が、今の刑法には欠けているのではないか。

3) 判決には、先程も述べたように「(被告は)更生の可能性がないとは言い難い」とある。 この言い方では事実上、更生の可能性がほとんど期待できない、とも受け取れる。それならば、「更生の可能性が十分に期待できる」と、なぜ裁判長は言えないのか。そう言えば、私のような素人でも、今回の判決にはまだしも納得できる。
私は、日本語の意味するとおりに、判決を検証しているつもりだ。 更生の可能性が1%(100分に1)でもあれば、罪は軽減されるということか。それが司法の判断なのか。 勿論、被告が将来、本当に更生するかどうかは誰にも分からない。もっと悪くなる可能性だってある。要は、本人の自覚と努力しだいである。 しかし、「更生の可能性」というのは、100人が100人、誰でも持っているものだ。 もう一度言う。裁判長は「更生の可能性が十分に期待できる」と、なぜ言えなかったのか。 更生の可能性が1%でもあれば、凶悪な殺人犯でも罪が軽くなるということなのか。
次に、判決には、「(被告には)時折悔悟の気持もうかがえる」とあった。しかし、報道によれば、検察側の陳述の中に、一審判決で無期懲役だったことについて「被告は“本村さんに勝った。本村さんは、表に出過ぎた”・・・」という、友人宛の手紙があったそうである。どこに悔悟の気持があるというのか!
インターネットで調べたら、被告は一審公判の前半では、まったく反省の様子がなかったという。しかも、本村さんに対して、なんの謝罪もしなかったそうだ。 一審公判の後半から、ようやく反省の様子を見せたということだ。こういう経緯を見ると、弁護士に言われて、さも反省しているように見せかけた可能性が高い。
もう一つ、言いたい。 被告の母親は、息子の犯行以前に自殺した。これは誠に不幸な出来事だが、判決では、これも情状酌量の大きな要因になったらしい。 しかし、母親だけでなく、両親が自殺したり事故死したのに、健気に正しく成長していった少年少女は、この世にいくらでもいる。母親が自殺したからといって、母子2人殺害の罪が軽くなって良いものだろうか。

4) こういう凶悪な殺人犯でも、無期懲役になった場合、最短で7年たつと仮出獄できると聞いて、私は驚いた。普段、刑法にはお世話になっていない人間だから、不勉強をお許し願いたい。 私は、唖然としてしまった。仮出獄してきて、また凶悪な犯罪を起こした例は、いくらでもあるではないか。また、この殺人犯は、犯行当時18歳ということで、名前も顔も分からないではないか。
死刑と無期懲役の間には、天と地ほどの差がある。 従って、終身刑、つまり「仮出獄できない無期懲役刑」の導入が、真剣に検討されていると聞く。私は、これには大賛成だ。国会で、一日も早く成案を作っていただきたい。 ただし、終身刑がなくとも、アメリカのように、例えば「懲役99年」というものがあってもいい、と思っている。
この国は、犯罪の加害者を優遇しているのだろうか。それならば、加害者になってやろうという人間も増えてくるだろう。 最近の凶悪犯罪を見ていると、加害者がいかに狡猾で、悪賢いかよく分かる。刑法のことなどは、我々普通の人間よりもはるかによく勉強し、知っている者が多いという。 「精神鑑定」のことも、実によく勉強しているようだ。だから、今回の犯人のように「本村さんに勝った」などと言えるのだ。

5) 獣(けだもの)や悪魔のような人間が、この世にはウヨウヨしている。善良な市民をいつ襲おうかと、虎視眈々とうかがっている(最近、特にそう感じる)。 そうでなければ、凶悪犯罪など起きるわけがない。
「人権」というのは、この世で最も大切なものであろう。加害者側にも人権があるように、被害者側にも当然、人権はある。 ところが、最近ようやく分かってきたのは、被害者側の人権が、極めて“おろそか”になっていることだ。あまりに酷いので、「犯罪被害者の会」ができたり、マスコミもやっと動き出した。
前述した本村さんも、「犯罪被害者の会」で積極的に行動されている。これが、テレビ、新聞等でよく取り上げられたので、かの凶悪犯人に「本村さんは、表に出過ぎた」と言わしめたのだろう。 ということは、被害者側の積極的な行動が、かえって司法当局に悪い印象を与えたというのだろうか。なぜなら、極悪人は「本村さんに勝った」と言っているのだ。
私は、司法の厳正公平を信じたい。そうでなければ、馬鹿々々しくてやっていられない。しかし、私は今回の判決で、ますます裁判の“常識”を疑いたくなった。 よく言われているが、「永田町の常識は、社会の非常識」というのがある。「裁判所の常識も、社会の非常識」になってはいないのか。もし、量刑相場だけから、判決が出されてくるとしたら、進歩もなければ光明もない。

6) 「精神鑑定」というものがある。刑事責任能力については、刑法39条で「心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」とある。 精神鑑定をして、心神喪失が認められれば被疑者は起訴されないし、裁判中に分かれば、無罪判決となる。
つまり、精神機能の障害で、善悪の判断ができないとか、判断ができても自分の行動をコントロールできない犯罪者は、罰せられないのである。これには当然、異論もあるだろう。 しかし、精神医学の発達で、刑法がそう規定してしまったのではないのか。
問題は、例えば「連続幼女誘拐殺人事件」を起こした、宮崎勤のような場合である。彼の場合、公判審理中に2回、精神鑑定が行われ、1回目は「完全責任能力」が認められ、2回目は「心神喪失」という結論が出た。 どちらの鑑定を採用するかは、裁判所の判断である。 私が言いたいのは、同じ精神鑑定で、どうして、こんなに天と地ほど差のある結論が出てくるのか、ということである。
これによって、罰せられないか死刑になるか、“天国と地獄”ほどの差がある。 数学なら答えは一つだが、精神鑑定では、まったく正反対の答えが出てくるのだ! 精神鑑定とは、一体なんなんだと言いたくなる。 精神鑑定というのは、科学ではないのか?
ここに一つ、興味深い事実がある。 1980年8月19日、東京・新宿駅西口で、京王帝都バスの中に、火のついた新聞紙とガソリンが投げ込まれ、6人が死亡、14人が重軽傷を負うという大事件が起きた。 
丸山博文という犯人が逮捕され、東京地裁で裁判が行われたが、丸山は精神鑑定に付された。 読売新聞の3月21日朝刊の『裁く』によれば、二人の大学教授が丸山の精神鑑定を行った。 その内、東大教授の逸見武光氏は後日、読売の記者に対して次のように述べたという。「ズバリ言って、最終結論が死刑でない限り、どんな鑑定意見が採用されても構わなかった。丸山君への同情があった側面も、今となっては否定できない」(記事をそのまま引用)
私は、この記事を読んでがく然とした。「精神鑑定」というのは立派な科学ではないのか!? 科学であるなら当然“厳正”でなければならない。犯人に対して、憎悪や同情という恣意が入ってはならないはずだ。それが科学というものだ。 ところが、この鑑定人には同情という“恣意”が入った。こんなことは、口が割けても言うべきではない! これでは、「精神鑑定」の信ぴょう性がまったく失われてしまうではないか。

7) 精神医学というのは、まだ完全に確立されていないようだ。それを元に正反対の結論が出てくるのは、実に恐ろしいし不条理である。 被告の運命は、まったく“天国か地獄”かということになる。現代の裁判は、正に“まか不思議”と言う他はない。
話は逸れるが、江戸時代には勿論、「精神鑑定」などというものはない。科学が発達していなかったからだ。心神喪失だとか、心神耗弱だとか調べる必要もない。 勿論、それが良いと言っているわけではない。科学が発達している現代の方が、良いはずである。
しかし、精神医学の発達で、裁判自体がものすごく複雑になり、“まか不思議”になってきたのである。一方で、凶悪犯人が、いとも簡単に仮出獄してくる。そして又、凶悪犯罪を繰り返している。善良な市民は、たまったものではない。
一体、今の刑法は犯罪を許し、それを助長しようとしているのだろうか。勿論、そんな馬鹿なことはないはずだ。 しかし、「光市母子殺人事件」の判決や、まったく正反対の結論が出てくる「精神鑑定」を見ていると、とてもこのままで良いとは思えない。
犯罪者にとって、住みやすい世の中になってはいないのか。 加害者が優遇されて、被害者の方が冷遇されるという、とんでもない事態になっているのではないのか。極悪人が図々しく生き延び、善良な市民は、ますます戦々恐々とした状況に追い込まれてはいないのか。

8) 昨年6月、大阪・池田市の小学校に宅間という男が侵入し、児童をメッタ切りにして、8人が殺害され、10数人が重軽傷を負うという大事件が起きた。 この男は、精神病院への入院歴があり、退院後も暴行や傷害事件を繰り返していたという。そして、“児童大虐殺”の事件を引き起こした。
このような男にも、勿論「精神鑑定」が行われた。幸いというか(?)、宅間には人格障害はあったが、善悪を判断して行動する能力はあった、という診断結果が出た。もし、宅間が「心神喪失者」と認定されて起訴されなかったら、どうなるか。 無罪となり、世論は激昂しただろう。
江戸時代だったら、こんな男は、裁判もしないうちに、直ちに“はりつけ”や“さらし首”になっていただろう。「精神鑑定」などというものは、なかったからだ。 一体、科学の進歩というのは、人々の幸福や平和のためにあるのだろうか。現代の刑法では、悪人のためにあると言ってよいのではないか。

9) 平和で楽しい家庭に、突如侵入してきた18歳の“少年”が、若い母親を絞め殺して屍姦しただけでも、大犯罪だ。“少年”は更にその上に、泣き叫んで母親にすがりつく11ヵ月の幼女を、床に叩き付けて絞め殺し、財布を奪って逃走した。正に“鬼畜”の仕業である。 こんな男が、早くて7年後に出獄してくるとは、一体、この国はどうなっているんだと言いたい。“罪のつぐない”は、一体どこに消えてしまったのか。 
検察側が、この“鬼畜”に死刑を求刑したのは当然である。しかし、広島高裁の重吉孝一郎裁判長は、「更生の可能性がないとは言い難い」として、一審判決を支持し、無期懲役を言い渡した。まったく、社会常識に背く判決である。何百回でも、私はこの判決に『バカヤロー!』と叫びたい。 「裁判長! あなたの肉親がそういう悲惨な目にあったら、あなたはどう感じるのか」と言ってやりたい。「結果責任」を取らせるという姿勢が、まったく見えないではないか。 
私は今、やや冷静さを失っているようだ。怒りと憎しみと、悲しみで一杯だ。実に不愉快である。 しかし、はっきり言う。こんなに犯罪者を優遇している現代日本なら、善良な人々にとっては、江戸時代に生まれてきた方がよっぽど幸せだった、と。 名奉行と言われた大岡越前守でも、遠山の金さんでも、間違いなく、この“鬼畜”をすぐに死刑(極刑)にしただろう。それによって、江戸の善良な人々の生活と安全、社会の秩序を守ったであろう。
私は、間違ったことを言っているとは思わない。もし、「人権団体」なるものが私に抗議したいなら、勝手にしたまえ! そうしたら、私は怒鳴り返してやる。「君等の言う人権とは、犯罪加害者の人権だけだ!」と。 

(後記・・・この文章を書くに当たり、読売新聞の記事と、朝日現代用語「知恵蔵」、インターネットを参考にさせてもらった。有難うございました。 ただし、非常な苦渋を感じながら、この文章を書いた。 もう二度と、こんなものは書きたくない。 しかし、人間の“罪と罰”は、永遠の課題である。 ドストエフスキー的な“苦悩の森”にさまよい込みそうになっても、再び書くことになるかもしれない。 私はやや乱暴な言い方をしたと思うが、そうでもなければ、怒りが治まらなかったからだ。ご了承願いたい。 2002年3月22日

(追記・・・現代の刑法には、なぜ「結果責任」を取らせるという姿勢が欠如しているのか。実に不思議である。 情状酌量や犯罪に至る過程を重視する余り、結果責任を軽視するきらいがある。 一般社会では、このような姿勢はほとんど認められない。例えば政治家や経営者が、政治や企業の運営で大失敗したら、どのような情状や弁解があろうとも、責任を取らされるのが普通である。従って「裁判所の常識は、社会の非常識」と言われかねないのだ。 2002年7月23日) 

罪と罰を考えよ! それが人間の生きる道だ!

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