八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

本を読もうぜ!

2020-03-10 15:57:35 | 思うこと、考えること!
 毎日、メディアは〝コロナ〟一色。
 コメンティターだの専門家だの、いっぱしの知識人ぶった芸人だのが、根拠に乏しい、あーでもない、こーでもないと、あちらこちらをつついて批判し、悲憤慷慨風にコメントを寄せる。すこし飽きてきたなぁ。

 ここ数日、街歩きをしてみると、ドラッグストアで、なにが不満か、とにかく大声で店員を怒鳴っている老人がいる。手持ち無沙汰に公園で、もてあまし気味に携帯をいじりながら屯している中学生高校生がいる。なかには手をつなぎ合ってじっと見つめ合っている少年少女のカップルがいる。〝濃厚接触?〟 小学生が、パパ、ママに手をつないでもらって、いつもは学校に行っている時間に、スーパーでお買い物している。これは楽しそうだ。
 でも、マスクを大量にネットで売った政治家がいる。ご丁寧に、とあるテレビ番組に嘘の情報をTwitterで流して、圧をかけた厚労省の役人がいる。〝非常事態だ!〟と力んで見せる首相がいる。初動の失敗を取り戻す。〝日本を取り戻す!〟 宣言好きなんですね。
 なんか荒んでいる。この国の人びとが悪くなってきている。もともとだったかもだけど・・・。

 そんなとき、いつもよりずっと乗客のすいた電車の中で、ひとり、文庫本を静かに、そして真剣に読んでいた紳士がいた。ブックカヴァーがかかっていて、どんな本を読んでいるのかは、外目からはわからなかったが、ふと覗いてみると、その本のページはびっちりと活字で埋められていて、スカスカな本が多いなかで、かなり硬派の本だと見た。
 紳士は、本のなかの文章に食い入るように目を動かし、ページのあちこちには、すでに多くの付箋が施されていた。その余裕が、他の乗客のマスク越しに見える怯えた目のなかで、別次元のように見えた。いいものを見た感じがした。

 江戸時代のそこそこ財をなした町人は、自分たちの子どもに手厚い教育を施したという。
 それはいまどきの「受験」のために塾通いをさせる、学歴資本をつけることで経済資本につなげるといった功利的なありようとまったく違う教育。
 それら町人たちは、自分の子らに一見商売などとは無関係、むしろ実利から離れた漢学や儒学を学ばせた。いまも知られている学校として、京都堀川の古義堂、大坂の懐徳堂、豊後日田の咸宜園、岡山の閑谷学校などがあげられようか。
 いや、もっと近場で知られている先生、あるいは学塾。彼らの子どもたちはそうした塾で学んだ。いうまでもなく、そこでの学問は、読書からはじまるものである。

 読書をすることは、とりもなおさず知性を磨くことにつながる。彼ら町人たちは、そのことに本能的に気がついていた。もちろん知性と知識はちがう。物知りは知識を生かす術を磨いていないからかえって害をなす。本を読んでも要点だけを切り貼りする処理能力が高い人間は、立ち止まって思考することを軽蔑するから、他者への眼差しに温がない。
 知性とは徳を磨くもの。人格を陶冶するもの。そんなふうに町人らは考えて、彼らの子弟を学ばせた。そして読書を勧めた。

 そんなことをふりかえってみると、いまの〝コロナ〟騒ぎのなか、人心はちっとも落ち着きを見せていない。つまり〝徳〟がない。
 だから、どうだろうか。この際、読書からはじめてみては。まずは世の中にあって、落ち着きこそが大事だろう。そして本を読むならば、その本は誰かに勧められたとかではなく、できれば自分で本探しをしてみたい。

 良い本を探すのには、いくつかの作法がある。
 ひとつに平積みの本でも、棚差しの本でも、本の題名をじっくり眺めること。題名は、いわば表札のようなものであるから、表札の意匠を含め、できれば品格のある題名が良い。もちろん自分の興味を引くもののなかで、まずは題名に品格を求めたい。
 つぎに「まえがき」、ならびに小説などは冒頭の一節を読む。筆者ならびに版元が、この本はどんな本なのかの紹介がここに集まっている。問題意識もここにある。できれば、やたらに〝新しい〟と宣伝しているまえがきは避けたい。ほとんどの場合、そんなことはないからだ。
 そして、ここが一番肝心なのだけど、「あとがき」を必ず読むこと。これまで本を書いたことのある人はよくわかっているだろうが、あとがきには筆者の本音が唯一述べられているケースが多い。あとがきの面白い本。あとがきが魅力的な本は、ほとんど内容もハズレがない。反対にあとがきに自身の自慢話ややたら誰それのおかげで、という内容ばかりの本は、著者が何らかのたくらみをもっていて、世間に迎合しようと満々な場合が多く、どんな有名人の本であっても選択しない方がいい。

 そんなふうにしてできるだけ自分で魅力的な一書を見つける。これは賭けでもあり、楽しみでもある。そして、本を決めたら、一心不乱に読んでしまう。

 いまの3月4月の時期は、移転や移動、新しい環境に馴染んでいかなければならない時期である。そして慌ただしい時期でもあるし、〝コロナ〟だし・・・。そんなときだから落ちつきたいし、じっくり自分を確認したい時期でもあるだろう。
 だからこそ本を読もう!

 もちろん読書だけでは、不十分。福澤諭吉は、知性を磨くには、まずは読書する。そしたら、つぎには、そこで得たものを発表し、人に聞いてもらうこと。ただし、聞いてもらうだけではダメで、それによって他者と「対話」することが大事だといっている。
 「対話」は大事である。室町の時代には「対話」を〝雑談(ぞうだん)〟といったそうだけど、いろんな角度から自己の話しを検証することまでいかないと思想は熟していかない。しかし、その一歩目は「読書」からである。こんな〝コロナ騒ぎ〟であるなら、ある分だけ、暇をもてあましているのなら、その時間を使って、まずは読書する!

 ちなみに、いまわたしの読んでいる本。金子光晴の『どくろ杯』『マレー蘭印紀行』『ねむれ巴里』などの三部作。茨木のり子詩集。これらは魯迅の作品とならんで、なんどもよく読んだ本だけど、いつも読みたくなる。
 一度読んだ本を再読するのも、かなりありだと思う。



 
 

 
 

 




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