八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

5月25日(木)開講の<クール・ジャパンを問い直す!>講座のお知らせ

2017-05-12 12:11:02 | お知らせです!

 5月25日(木曜日)から開講の〝夜ゼミ〟『文芸から見る!日本「精神史」再考』の講座案内が『週刊金曜日』の<掲示板>に掲載されました。

 この講座は、いま2020年東京オリンピックを前にして、「日本人はすごい!日本の技術や文化は素晴らしい!」 なんか恥ずかしくなるくらいの〝ニッポンブンカ〟礼賛の声が上がっていることにたいして、では「日本文化」って何だろう? ということを考えてみようという講座です。

 この講座で中心に据える岡倉天心の『茶の本』には、
 He was wont to regard Japan as barbarous while she indulged in the gentle arts of peace:he calls her civilised since she began to commit whole-sale slaughter on Manchrian battlefields・・・Fain would we remain barbarians,if our claim to civilisation were to be baced on the gruesome glory of war.

 「he」つまり西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかし満州の戦場で大々的に殺戮をおこない始めてから文明国と呼んでいる。・・・もしわれわれが文明国になるために血なまぐさい戦争の名誉に依らなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。

 とあります。

 そもそも、文明とは普遍性をもつものであり、文化とはその固有の風土や民族の習俗や情趣を意味するものです。岡倉天心は、〝大東亜共栄圏〟が呼号されるなかで、国粋主義・軍国主義にうまく利用された人物でした。ただし、天心にとって日本の文化のありようとは、けっして文明といった普遍性、つまり戦時中、愚かな軍事権力がはしゃぎまくって〝Japanization〟といった意識を盛りに盛った狂騒とは、まさに一線を画すものと見ていたと言えます。

 また、日本の文化に浮かび上がる〝侘び〟〝寂び〟〝幽玄〟といったものとは、そもそも篤く「死を観ずる」ことに意味をなすものです。〝文化の飾り〟としてあるのではなく、深い精神性を宿したものです。

 この講座では、軽薄な〝ニッポン!チャチャチャ!〟ではなく、日本という島嶼国が、これまで折に触れ大切にしてきた〝文化〟の多様な意味を、受講生の皆さんと考えていきたいと思っています。


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